雨降って地固まる
「だから嫌だって言ったの」
「だから言ったじゃない。そういうところだよ」
「そういうところってどういうところだよ」
「それがわからないからダメって言っているの」
「言わなきゃわかんないだろうが」
二人は一歩も譲らない。
見かねた
「俺は――私は――悪くない!」
――ずっとこんな調子である。
アンはもう嫌気がさしていた。……なんで傘のワシがこんなことを――
この奇妙な傘――アン・ブレラ――はケンカの仲裁をしていた。
真っ黒で無駄に大きく、そして――喋る。口もついていないのに喋り続ける。
理科と伸は会社で知り合った新人同士のカップルだ。二人とも二十代前半。
付き合ってから半年といったところ。
互いに運動好きで気が合った。
この国で行われる予定になっている国際的なスポーツ大会のチケットもすでに予約してある。
そんな仲の良い二人だったのだが。
今は飲食店にて昼食を済ませたあと駅へと向かう道中で、二人は歩いている。真夏で気温が高く、加えて曇っており湿度も高い。
そんな不快指数マックスの午後、ひょんなことから言い争いが始まった。
アンは伸の右手に握られ、無限ループするかのような二人のどうでもいい会話を聞き続けている。耳にタコができそうだった。
「アンはどっちなのよ」いつもより歩幅を大きくして理科は歩く。いかにも機嫌が悪そうだ。
「いやーそれはだな」
伸は右手を持ち上げるようにして話しかける。「アンはどう思うんだ」
「ええと、ワシとしてはどっちでも……」
「だってさ、優しくないでしょ。私は
「いやいや、そんなこと言ってなかったよな。なんでもいいって」
「なんでもいいけど辛いのはダメなの」
伸は眉を吊り上げる。「先に言えよ先に」
「だから言ったじゃない。聞いてなかったの?」
そして二人は同時にアンに視線を送る。
どうなの、アンと。
もう何度目のやりとりだろうか――アンはもう限界だった。ずっと同じだ。
答えなんて見つかるはずがない。
それでも一応意見は言ってみる。
「……ワシはこう思う。優しさとは一歩引いてみることなんじゃないか。自分のこだわりを捨てて相手に――」
「もういい」理科が冷たくきっぱりと断ち切った。
「ええ……」
理不尽だ。
アンにはもうどうしようもなかった。
――そんなやりとりが続いたあるとき。
なにかが理科の鼻先にあたった。
「あら?」上空を見上げる。
ぽつ、ぽつ――と。冷たい感触。これは……
「雨……だな」伸は手のひらを空に向けるポーズをした。
と、数秒後には大量の雨粒が激しく音を立てて地面に降り注ぐ。
雨足はかなり強い。いわゆるゲリラ豪雨である。
アンは『待ってました』と心の中でスタンバイした。
二人は他に傘を持っていない。
正真正銘、
案の定というべきか伸はアンを振りかざすとそれを開く。
アンの身体がバスン、と勢いよく膨れ上がった。
伸びをするかのようでアンにとってはとても気持ちがいい。
伸はそっぽを向きながら、
「ほら入れよ」
「……うん」一瞬だけ
「もういいって言ったくせに」アンはごく小さく呟いた。
「何か言った?」と理科。
「いえ、なんでもないです」アンは黙って雨を防ぐことに専念した。
二人は並んで歩く。
理科が左で伸が右。なぜだかいつもこうだ。
そして雨音が二人を一時休戦させる。
しばらく無言の時間が続いた。
辺りは夏の雨特有の匂いがする。懐かしい匂いだ。
激しい雨が、二人と周りの世界を分断している、そんな気さえしてきた。
そうやってただ雨音を聞いて歩いていたらびゅうっと強い風が吹いた。
アンがよろける。アンの持ち手を握っていた伸がぎゅっと力を込めた。
「おい、アンしっかりしてくれ」伸は視線を上にやった。
アンはなぜだか黙ったままだ。
「おいってば。聞いているのか?」
理科がふと、抗議している伸の方を覗いた。そしてはっと気がついた。
「……伸。右肩が濡れちゃってる」
「ん? ああ、傘が小さいんだ」
アンは十分に大きい。むしろ大きすぎる。一人用に設計されているだけだ。
「それじゃ風邪引いちゃうでしょ」
「え?」
「だから、もうちょっとこっち来なよ」
理科はアンの持ち手をぐっと自分に寄せた。
「……ありがとう」
「うん」理科は明後日の方向へ視線をやった。
触れ合う肩。
並んで動く歩幅の違う足。
傘の下の、二人の世界。
それだけで二人の心を満たすには充分だった。
「……さっきはごめん。俺が悪かった。」
「……いいえ、私こそごめんなさい」
二人は目を合わせると恥ずかし気に笑いあった。
アンはちょっぴりだけ複雑な気持ちになった。
あれほどワシが何を言ってもダメだったのに、と。
でもまあ。
――これが本当の雨降って地固まる、だな。
二人のおじゃま虫とならないように、アンは心の中で呟いた。
二人は駅に着く。
その途端に雨は止んでしまった。
「なんだよ、ついてなかったな」伸はそう零した。
理科は口に手をあて笑う。「そうでもないかもよ?」
もし、雨がなかったならば。
「……だな」伸もつられて笑った。
そしてずぶ濡れになったアンを閉じた。
伸は理科に断りを入れると、ひとり券売機の方へ向かう。
券売機の前に立つとその横にアンを立て掛けた。
お金を入れてパネルを操作する。
ケンカしたまま理科と別れなくてよかった。と伸は思う。
もし雨が降らなかったならば、もし傘がなかったならば。
つまりはこの結末もお喋りな一本の傘のおかげかもしれない。
今日はなんだか口数が少なかったが――。
そこまで考えて、伸は微笑みながらアンに話しかけた。
「アンさっきはありがとうな、アンがいなきゃ――あれ?」
アンが――いない。
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