雨垂れ石を穿つ

「ねえ今の見た? 何メートル飛んだんだろう!」朝日萌太あさひもえたはその小さな両手の拳をぎゅっと固く握りしめた。

アンも興奮気味に声をあげる。「ああ、凄いものだな。ワシは長いこと人間を見てきたがあんなのは見たことがない」

「どうしたらああいうふうに出来るんだろう」

「さあなぁ……」アンは優しく微笑んだ。



この奇妙な傘――アン・ブレラ――は陸上競技を観戦していた。

真っ黒で無駄に大きく、そして――喋る。口もついていないのに喋り続ける。



萌太は小学校で応募していたこの大会ボランティアの一員として、先ほどまでせかせかと小さいながらに働いていた。

今はその仕事を終えてこっそり連れてきたアンといざ観戦、というところだ。

保護者である父親も来ているのだが、お昼ご飯を買いにいったまま戻って来ない。



アンは食い入るようにトラックの方を見つめている。

その熱心な様子に萌太は興味を持った。


「どうしてアンは来たいだなんて言ったの?」

アンは競技場から目を離さずに言う。「傘が陸上を見たいと言ったらおかしいか?」

「おかしい……かな? まあツッコミどころはそこじゃない気がするけれど」

喋る時点でもうヘンテコなのだ。



わあ――、っと大歓声があがる。どうやら世界記録が出たらしい。

数分間おきにこうして競技場が丸ごと揺れる。どよめく。躍りだす。


それがこの大会の――世界的なスポーツ大会の雰囲気なのだった。



そんな熱気が籠る中でアンは静かに言う。「……をしたのだよ」

「え? なに?」

「約束をしたのだよ」

「約束? いつ? 誰と?」萌太は不思議だった。「だって最近は僕とずっと一緒にいたじゃない」



いつ、か。

――あれはいつだったか。

アンは思い出そうと空を見上げた。

高く、晴れ渡る青。

そういえばあの日もこんな空で、とても暑かった。



「そうだ――あれはもう、たしか四年も前か」


いろんな夏があった。





コンビニの中で人間というものを学んだ夏。

悩める女子大生の将来を考えた夏。

売れない小説家の生き様を見た夏。

仲が良いのにケンカしてしまう二人の傍にいた夏。






そして今年。

世界的なスポーツ大会がこの国で行われる、今年の夏。



「――ずいぶん前のことなんだね。四年前だと……僕がまだ五歳のときだ」萌太は両手の指を折って数えた。「それで誰との約束なの?」

「見ていればわかるよ」

萌太はその煮え切らない回答に不満顔だ。「見ていれば? どういうこと?」

「いいから見ていなさい」

「なにそれ意味がわからないよ」




またもや割れんばかりの歓声が鳴り響く。

今度はどんな記録が飛び出したのだろうか。


ひとつひとつ、努力の結晶が花を開いていく。

そしてそれは近づいていく、ということだ。




「――さあそろそろだ」アンは嬉しそうに言った。

「そろそろ?」

アンは超大型の電光掲示板をじっと見つめていた。

なんだろうと萌太もつられてその方向を見る。


競技や選手たちの情報が記載されている電光掲示板。

その電光掲示板の表示が次の選手たちの名前へと切り替わる。

アンはそれを見た。

誰よりも熱い気持ちで見ていた。



映し出された大きくて立派な文字。






  石破 太一  AGE26






その文字は――その栄光の名前は、なによりも輝いて見えた。




「……四年というのはあっという間なものだな」

「そう? 人間にとっては結構長いよ?」小学生の萌太に四年間は長いだろう。

「そういうものか」

「うん、とっても長い」

「そうか、長いか……ではアレだな――雨垂れ石を穿つ、だな」


「なあにそれ? 雨が、なに?」

萌太にはちょっと早かったようだ。



アンはその光景を焼き付けるように繰り返し見ると、そっと心の中に仕舞った。

おめでとう、と短い文章を添えて。










続いて選手紹介が始まる。

これだけの大舞台でも一選手一文の簡単なものだ。


――簡単もの、だったのだが。

「ねえ、アン。これはちょっと……」萌太が苦笑した。

「そうだな、少し、いやだいぶひどい」アンも同じ気持ちだった。

「カミカミだね」

「ああ、カミカミだ」



選手紹介を担当するアナウンサーはお世辞にも上手だとは言えなかった。

若い女性アナウンサー。

なんでも新人の大抜擢だったそうだ。



「こっちがハラハラしちゃうよ」

「あれだけお喋り好きだったくせに、まったく活かせてない」

「え? アン知り合いなの?」

「前にちょっと、な」




アンは知っている。

このアナウンサーが一生懸命悩んで、その仕事を選んだことを。

あの瞬間があったから今があることを。


「でもまあ……頑張っておるではないか」

萌太にも聞こえない声でそう呟いた。




そしてその瞬間はついにやってきた。

石破太一がスタート位置につく。

短いトラック競技だ。

四年間の、いやもっと長い間の積み重ねが、この数秒間に詰め込まれる。


その顔には緊張と覚悟、そして微笑み。

太一は合図を待っている。

ずっと待ち続けたそのスタート音を。



「ふん、誇らしげに笑いおって」

萌太はアンを見る。「アンも笑っているじゃない」

「傘が笑うものか」

「僕にはわかるけど」




乾いた音が鳴る。

太一は走った。短い距離をどこまでも走った。

走り続けた。





「――雨が上がったな」

そして歓声もまた上がる。





萌太の父親が戻ってくる。「ああ、間に合わなかった。あの選手見たかったのに」

萌太は拗ねたように言う。「遅いよお父さん」

「ごめん、ごめん。どうだった?」

「うん、アンと一緒に見ていたんだけれどね――ってあれ?」




アンが――いない。











こういうふうにして退屈でありきたりな日々は、ちょっぴり不安定な平衡感覚を育てながら、誰かのもとにあり続ける。

アンはそれと一緒に雨上がりを待ち続ける。

そうやって誰かの隣で喋り続ける。




またアンが喋る。

それに誰かが驚いた。


こうして世界はどうしようもなく続いていく。

どこまでも続いていく。



『Rainbow days with funny umbrella』 is the END!

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