朝雨に傘いらず

「ところで暇だな」レジのそばに立てかけられているアンはそう言った。

相沢貴大あいざわたかひろは煙草の補充やホットスナック類の管理表を整理している。「深夜だからねえ」

「楽しくないな」

「楽しいバイトがあるとしたらそれはバイトじゃない」



この奇妙な傘――アン・ブレラ――はコンビニで貴大のアルバイトを見守っていた。

真っ黒で無駄に大きく、そして――喋る。口もついていないのに喋り続ける。



時刻は深夜三時。あと二時間もすれば夜勤は明けるが、それにしても暇だった。

客はゼロ。

掃除や在庫出しなどの業務は終わり、店長は奥に引っ込んでしまっている。


暇に耐えかねてアンが言う。「しりとりでもするか」

「……傘が何言ってんの」

「じゃあなにがいいんだ」

「新聞でも読んでいれば」貴大は売り物である新聞の方を見た。

「なにか面白い記事でもあるのか」

「例の国際スポーツ大会なんか話題だよ。なんせこの国でやるからね」


とそのとき。

自動ドアが開く。同時にお決まりの来店音が鳴り響いた。

貴大は店員モードに切り替える。「いらっしゃいませー」


客はひとり。四十代くらいの男性。よれよれのTシャツに短パン、サンダル。近所から歩いて来たようだ。

見たことがない客だったが、それよりも。


「なあ貴大。あれは変じゃないか?」

「やっぱり?」貴大もそう思っていたところだった。

「だいぶふらついているな。ワシが思うにあれは……」

「完全に酔っぱらいだね」

アンは首肯した。いや首などないのだが。


客はカゴを手に取り、商品を何個か放り込んでいる。


「気をつけろよ」

「うん」

「お客様は神様だと思うな。酔っ払いは敵だ」

「……以前になにかあったの?」アンの過去が気になるところだった。


「来るぞ」

貴大が正面を向く。客がレジにどさっとカゴを置いた。「いらっしゃいませ」営業スマイルは忘れない。


カゴの中は酒とおつまみ数点。どうやら飲み足りなかったらしい。

ピッピッ、とバーコードを読み取りレジをこなしていく。「864円です」

客は無言で千円を置いた。

「では……136円のお釣りです」小銭を手渡す。

なにごともなく終わった。


貴大はアンの方に目配せをする。

無事終わったよ、と。

アンは当たり前だ、視線で返す。


――その貴大が目を離した一瞬のことだった。

チャリン、と小銭が落ちる音が聞こえた。



「……おい」

「はい?」

「十円足らないだろうが」客が鋭い眼光で貴大を睨んだ。

「え、いま確かに――」

手のひらの小銭を見せる。「ほら、足らねえよ。俺が間違っているって言うのか?」

「いえ……」

「ほら早く十円寄越せよ」


貴大は客の目を見つめ、ほんの一瞬考えるような表情をした。

「どうした? ほら早くしろよ」客は声を荒げている。


そしてすぐに貴大の表情が店員モードに戻った。

「はい、申し訳ございませんでした」レジから十円を取り出す。

「――ったく。気をつけろ」

客は去っていった。


ふう、と貴大は肩を降ろす。

「おい、貴大」

貴大はレジから出た。「なに」

「なんでいま渡したんだ。あの音、ぜったいに客が落としただけだろう」

「うん、そうだね」

「ならなんで」アンの声はちょっと怒っているようだった。


「僕にも音が聞こえたよ。――でも拾った様子はなかった。だからあとで僕が探せばいいと思ったんだ」実際に貴大はもう探し始めていた。

アンは納得がいかない。「でもそれでは収まりがつかないだろう」

「なんの?」

「貴大の」


アンは人間の感情を気にしている。傘なのに。

貴大はそれが可笑しくてたまらなかった。

「どうして笑う」

「ごめんごめん……ええと、僕の収まりなんてどうでもいいよ」

「それはあれか、また人間特有の、社会の中で生きているから個人は我慢しないと、とかっていうアレか?」くだらない、とアンは言う。


「そうじゃないよ」貴大はきっぱりと言った。

「傘と違って人間は面倒な生き物だな」

「そうじゃないって」貴大は一呼吸おいて続ける。「いい? 人間はね、選択できるんだ。どちらにするか。どちらがいいか。ケンカなら動物でも出来る。この瞬間の僕の目的はね、相手を言い負かすことじゃないんだ。業務を遂行することだよ」


アンの気持ちは収まらない。「でもむかつくだろう、ああいうの」

「まあそうだけれど」

「ほらそうだろう。だから――」

「雨が降るから傘を差す。それじゃあ芸がないからね」


アンはその言葉の意味を考えた。雨が降ったからと言って反射的に傘を差す必要はない。朝雨に傘いらず、という言葉もある。


「……もし十円見つからなかったらどうする」

「そのときは勉強代として僕の財布から十円払うさ」

「ふん。ならば好きにするがいい」

アンはこれ以上、なにも言わなかった。



帰り道。早朝だというのに暑い。真夏なのだから当たり前だが。

「十円、見つかって良かったな」

「うん。それよりも……喉が渇いた。コンビニで買っておけばよかった」

アンはそのゴツゴツした持ち手を貴大に握られている。「人間は不便だな。傘は喉が渇かない」

「そう? でも傘と違ってたくさん出来ることがあるよ」

「まあ……確かにそのようだな」

「なに、いやに素直だね」

こういうアンはとても珍しい。


貴大は自動販売機を見つけた。

アンを一度置いて小銭を取り出すと、コーヒーを買った。ブラックだ。


「ほら、不便なだけじゃないよ。例えば人間にはこういう味わう喜びもある――ってあれ?」


アンが――いない。

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