雨の降る日は天気が悪い
「どうして着替えている?」リビングで寝転んでいる
「ここには『服装自由』と書いてあるぞ」
「就活においてのそれはスーツって意味なんです」
この奇妙な傘――アン・ブレラ――は一人暮らしの小さな家に住み着いていた。
真っ黒で無駄に大きく、そして――喋る。口もついていないのに喋り続ける。
真希は大学四年生。就職活動中である。
戦績と言えば十連敗から先は数えていない。
そろそろ内定を奪取し、親を安心させたかった。
それに今は真夏である。炎天下のスーツはとてもキツイ。
「自由なのにスーツか?」
真希は切り過ぎた前髪を摘まんで整える。「人間には行間を読むって文化があるの」
「行間を読む? なんだそれは」
「説明している時間はございません」
「ふん、いつもはお前から話しかけてくるくせに」
その通りだった。真希はアンに負けず劣らずお喋りが好きなのだ。
友人の前でも真希は一番喋る。面接だって苦手ではない、と思っていた。
「二時間後には面接がある。だから私は急ぐ。理解できますか?」
アンはその抗議を一ミリも受け入れない。「ワシは長いこと人間を観察してきたがな。お前らは当たり前だとか、そういうものだとして考えなしに行動する節がある。ワシには不思議だ。だいたい本当に自由な服装で行ったことはあるのか?」
真希は手を止めてリビングの方に行く。「……なんだよう。いきなりだな。今はそれどころじゃないんだってば」
「いいから答えてみろ」
「ないよ。お祈りされちゃうもん」呆れたように言った。
「それはスーツでも同じではないか」
真希のまん丸の目が弱い眼差しで睨む。「……痛いところ突くなあ」
アンの主張は終わらない。
「そのお祈りとやらもよくわからん。お前は神社にだって寺にだって、クリスマスだってお祈りをする。それでは神様も困ってしまうだろう」
それはお祈り違いだ。
「そんなの知らないよ。当たり前のことを私はしているだけ」真希は肩を竦めた。
「ふむ……雨の降る日は天気が悪い、だな」アンは語気を強めて言った。「そういう前へ倣えの精神だから内定がもらえないのだ」
その言葉は真希にぐさりと刺さる。「それ、今言わないでよ……」
いま鏡を見ればきっと浮かない顔が浮かぶだろうと真希は思った。
大学生が就職活動をするのは当然のことだ。
真希だって好きでお祈りされているのではない。
――でも確かにちょっぴり悩んでもいた。
この会社には全然行きたくもなければ真希にとって魅力的でもなんでもない。
ただ内定のチャンスを逃したくもない。それだけだった。
「私だって大変なの。大学の友達だってとっくに内定は決まっているし、家族は不安がっている」
「気持ちはわからないでもない」アンは一呼吸置くと続けた。「ほかと違うというのは怖いことだ」
「傘にも人間の気持ちがわかるんだ」
「茶化すでない。……ただ、真希。お前はいつも周りのことを考えている。それは美点だ。お前の長所だ。――だがもっと自分のことも考えてみたらどうなのだ?」
真希はきょとんとした。「私のこと?」
「うむ、お前のことだ」
そんなのとっくに考えている。
考えているから就職活動しているのだ――。と思考してからふと疑問が浮かんだ。
……果たして本当にそうなのだろうか?
アンの言葉は屋台にある綿あめみたいに、真希の中でぐるぐると回った。
――そういえばなんでこの会社に応募したんだっけ。
――やりたいことってなんだ。
――そもそも就職活動を始めた理由は?
ほとんど泣きそうだった。考えるほどにわからなくなる。
「……私だってわかんないよ、でも」もうパンクしそうだった。
「なら一度落ち着いて考えてみるといい。今から行く会社は大して入りたくもないのだろう?」
真希は静かに頷く。「確かにそうだけれど……」
考えてみる時間なんかないし、そうしたところで解決するだろうかと真希は思った。
……でもひとつだけはっきりしていることがある。
アンの言う通りこの会社にはなんの思い入れもない。
それだけは確かだった。
「まあワシには雨から守ることしか出来ないわけだがな」アンは自信たっぷりに言った。
なにを急に、と真希は思う。「そりゃ傘だからね」
「さよう。そしてお前は人間だ。選択肢がたくさんある。悩むのも仕事だ。……ただワシは傘であることを誇りに思っているがな」アンはピシッと胸を張った。
真希はアンの調子になんだか破顔する。「なんだそれ」その拍子に溜まっていた涙が一筋だけ零れた。「ああ、もう最悪。なんで私は傘なんかに泣かされているんだろう」
「まあ経験豊富なワシだからこそだな」
「人間がいないと何もできないくせに」
奇妙な傘がいる。それにお説教されているバカな自分がいる。
そう考えるとなんだか可笑しくなってきた。
真希はもう、面接などどうでもよくなっていた。
「あーあーあーあーもう。わかったよ。……とりあえず今日の面接は断りの電話を入れる。どうせこんな顔じゃもう行けないしね。それで浮いた時間考えてみるよ。それでいいでしょ?」
言いながらスーツを脱いていく。
ブラウスやストッキングを脱ぐごとに、どんどん身軽になる。
なんだか本当の自分に戻った気がした。
そして不意に――お喋り傘と会話したせいでこんな考えが浮かぶ。
「ねえ、アン。私ってさ、話すの好きじゃない? だから、アナウンサーにでもなってみようかな。……なーんて、あんな狭き門、無理に決まっているか」
アンからの返答はない。
「ちょっと聞いているの? 面接をドタキャンさせた責任はちゃんととってもらうんだからね――ってあれ?」
アンが――いない。
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