お喋り傘と雨上がりの日々
西秋 進穂
猫が顔を洗うと雨
「アンももうちょい小さかったらなあ」
太一の右手に握られている
「でもアンは大きすぎるよ」
「閉じていればスリムだろう」
「それでも重いんだよ」ほら、と閉じられた状態のアンを上下に揺する。
「おいやめろ。気持ち悪くなるだろう。そもそもだな、昔の傘なんて……」
太一は『また始まった』と思った。
かれこれ丸一年間はこの奇妙な傘――アン・ブレラ――と過ごしている。
真っ黒で無駄に大きく、そして――喋る。口もついていないのに喋り続ける。
出会ったときは驚愕した。腰を抜かした。立てなくなった。
さすがに一年経った現在は慣れてきたが。
日課である早朝トレーニングが終わり、練習場から出てすぐの大通りを歩いている。
さすがに真夏だけあって気温が高い。少し歩くだけで額に汗が浮かぶ。
「おい、聞いているのか。お前はいつもそうだ。聞く耳をもたない。努力が足りない」アンはない
「はいはい、聞いていますよ。努力が足りないんですよね、俺は」
「そうだ。もっと精進せい。あとたった四年しかないだろうが」
太一は
これでもかってくらい練習しているのに、と太一は思う。
だけれどアンの言うことも本当だった。
結果が出ていないということはなにかが足りないのだろう。
四年後にはこの国で世界的なスポーツ大会が執り行われる。
あと一歩のところまで来ている。その実感はあった。
どうしても出場したかった。
「お前今年で幾つだ?」
「二十二。焦るよ、本当に」もうチャンスは余り残されていない。
「何を言っている。ワシなんてな」
「ずっと昔から生きているんでしょ」
「ふむ、わかっているならいい」
アンは今まで多くの人と共に過ごしてきたらしい。
――誰かの元へ
もし居なくなることがあればそれには必ず理由がある。だから絶対に探すな。
こう太一に語り、約束したことがある。
「ところで太一、カサとはどのような漢字を書くか知っているか」ポンポン話題を変えるのはアンの悪い癖だ。
「なんだよ、急に。当たり前でしょ。こう……か・さだ」空中に指でなぞる。
「さよう。つまり傘という漢字には人が四人、入っておる」
「そういえば。……でもだからなに?」
「さあな、あとは自分で考えるのだ」
「なんだそれ」
アンは「良い言葉ふう」なことを言うのが好きだ。
傘のくせに、と思う。
どうせ大した意味はない。
「まあ四年後まで見守ってやる。約束だ。だからせいぜい一生懸命やってみるのだな」
「はいはい、ありがとうございま――あ、ちょうどだ」
通りの右手を見ると店員が看板を「OPEN」に変えたところだった。
靴の量販店。太一は帰り道ついでに寄るつもりでいた。
だが欲しい物は靴ではない。防水スプレーだった。
アンは防水スプレーをかけてやると大いに喜ぶ。
餌に群がる鯉みたいに喜ぶ。
だからそのストックを買っておこうと考えていた。
靴屋の自動ドア横に立つ。「アン、ちょっと待ってて」
「まるで犬みたいだな」
「犬は基本的に喋らないんだ」
「ふん。もう慣れたからいいが……どうして人間の店に傘は入れないのだ。今日は濡れていないのに」
「すぐだから」
そう言って店外の傘立てにアンを置いていった。
店内に入るとお目当てのものをすぐに見つける。
いくつか種類があるなかで一番高いものを手に取りレジへ。
アンはこれが好きなのだ。まったく贅沢な傘である。
レジを済まして店を出る。
たぶん三分もかかってなかったはずだ。
だから太一は驚いた。
そして焦った。
「あれ?」
アンが――いない。
周囲を見渡す。
どうみてもあの大きくて目立つ無骨な傘が近くにない。
見当たらない。
どこにいった。
もしかして盗まれたのだろうか?
体を三百六十度回転させてもう一度キョロキョロとする。
やはり、いない。
傘立てに視線を戻す。
そのときふと、太一は思いだした。
――ワシはそういう自由な傘だ。
もし居なくなることがあればそれには必ず理由がある。だから絶対に探すな。
それはアンとの約束。あのふざけたお喋りの傘と交わした唯一の約束。
太一は強張っていた肩をスッと降ろした。「はあ……まったく。本当に自由なやつだな」
そしてなんだか笑えてきた。
空を見上げる。
するとある考えが浮かんだ。
――もし近くで見守られなかったとしても。
太一は頬をぺちぺちと小気味よく叩く。
「四年後、見ていろよ。どこにいても中継されるんだからな」
視線を降ろす。
路肩では猫が顔を洗っていた。
「こりゃあ、一雨降るかもな」
しかし太一の手元にもう傘はない。
そして一瞬だけ考えると誰に向けてでもなくひとりで頷いた。
「……雨宿りついでにもうちょい練習してきますかね」
太一はそのままくるりと方向転換し、練習場へと向かった。
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