第41話 遠い星の声

葵ねぇの手を引き、小走りで夜道を駆ける。蒸れた夏の空気と、等間隔に並ぶ街灯を流しながら、喧騒けんそうから遠い場所を目指した。

「し、俊ちゃん、ちょっと速いかも」

「あ、ごめんっ」

思い出したように立ち止まる。

「謝る必要なんてないわ。王子様に連れ去られているみたいでロマンチックだし。ただ、突然のことでちょっと驚いちゃって」

葵ねぇが、赤らめた頬に手を添える。

「俊ちゃん、『星を見に行こう』って、言ってくれたんだよね」

「うん」

「その……期待しちゃって、いいのかな。お姉ちゃんの夢を、叶えてくれるって」

葵ねぇが上目遣いでこちらに尋ねる。あどけない表情が、なんとなく葵ねぇを幼く映した。

「うん。約束を果たそう」


俺たちは、引き付けられるようにして河川敷に足を運んでいた。葵ねぇが快復かいふくして間もない頃は、ここで星を見るのが日課だったから、当然といえば当然なのかもしれない。

「今日は空が綺麗ね。星がはっきりと見て取れるわ」

街灯も遮蔽物も月明かりもない夜空のスクリーンでは、星たちが美しい光を放っていた。

「お姉ちゃん、とっても嬉しいな。俊ちゃんがあの約束のことを覚えていてくれて」

「あ、あぁ、そうだね」

「なに、そのぎこちない反応。まさか俊ちゃん、忘れてたなんてことないわよね?」

「いや、覚えてたって、もちろん。ただちょっと、無計画だったというか」

約束自体は覚えていた。みどりちゃんの別荘に遊びに行ったときに思い出したから。だがまさか今日がその日だったなんて、紅に言われるまで知らなかった。

「でもいいわ。こういう突発的なのも、ドラマチックだから」

葵ねぇが、握ったままの手に指を絡めてきた。

「いつ、始まるかな」

「もうすぐだよ、きっと」

二人で夜空に思いを馳せる。間もなく訪れるであろうその瞬間に、胸が高鳴る。

「一緒に見ようね。一緒に、だよ」

葵ねぇと目が合う。彼女の瞳は、8月の夜空にも負けないくらい、澄んでいた。

「うん」


──あ、光った!


瞬間、誰かが叫んだ。

慌てて空に目を移す。

「……っ!」

目の前の光景に、息を呑んだ。

濃紺の夜空で、小さな星々が呼吸をするみたいにまたたく。点々と光る彼らが、しかし実際は夜空を滑るように移動しているのだと知ったとき、これが流星群なのかと感動を覚えた。星が尾を引いて空を彩る。静かな夜に、星々の演奏がこだまする。ひとつ、またひとつと星が流れるたび、心が浄化されていくような感覚さえした。ペルセウス座流星群──これは、美しいな。

「俊ちゃん……俊ちゃん俊ちゃん俊ちゃん!!!」

葵ねぇが、握った手をぷらぷらさせる。

「流星群……すっごく綺麗だよ!」

はしゃいだ声で葵ねぇが言う。

「うん、そうだね……!」

葵ねぇらしくない無邪気な声が、俺は嬉しかった。子どもの頃に聞けなかった、子どものような声が、俺を形容し難い喜びで満たす。

「こんなに綺麗な光景、観たことないよ。まるで大自然の映画館にいるみたいで……あっ、願い事しなくちゃ!」

「ははっ、忙しいね」

葵ねぇが目を閉じる。左手でペンダントを握りしめながら。

「俊ちゃんと、ずっっっっっと一緒にいられますように」

葵ねぇの声に応えるかのように、星が瞬いた気がした。っていうのはさすがに思い上がりか。

願い事か……。俺の願いって、なんだろう?

「あ……もうすぐ終わっちゃいそう。素敵な時間は、過ぎるのがあっという間ね」

「だからこそ特別なんだよ、きっと」

「ふふっ、キザな俊ちゃんもカッコいいわ」

やがて、星々の遊戯が幕を閉じた。一瞬だったような気もするし、途方もなく壮大な時間だった気もする。ただ確実に言えることは、人生初の流星群は、俺の心に鮮やかな色を残したということだ。

「俊ちゃん」

「葵ねぇ?」

突然、葵ねぇが俺の胸に飛び込んできた。

「ありがとう、俊ちゃん。夢を叶えてくれて……約束を守ってくれて。お姉ちゃん、人生で一番、幸せな時間だった」

胸のあたりに生温かさを覚える。それが葵ねぇの涙だと気づくのに、数秒もかからなかった。

「葵ねぇ……」

「ありがとう、本当にありがとう。大好きよ、俊ちゃん」

葵ねぇの心中がひしひしと伝わってくる。子どもの頃に交わした些細な約束は、葵ねぇにとってなによりも大事な夢だったんだ。それを叶えてあげられて、少し誇らしい気持ちになる。

「待たせてごめんね、葵ねぇ」

そっと、葵ねぇの頭を撫でる。俺が葵ねぇの頭を撫でるなんて、珍しい。

「えへへ、俊ちゃんに頭撫でてもらっちゃった。嬉しいな」

子どもの頃、他人に満足に甘えることができなかった葵ねぇは、やはり無邪気な笑みを浮かべた。

「座ろっか、葵ねぇ」

しばらく葵ねぇをなだめた後、河川敷の階段に腰を下ろした。

「ごめんね、俊ちゃん。Tシャツ濡らしちゃった」

「平気だよ。ちょっと涼しくなったから」

「んもう、俊ちゃんは優しいね♪」

葵ねぇが腕に抱きついてきた。ほっぺすりすりまでされる。その光景を間近にして、「やっぱりな」と思う。

俺はこれから、彼女に残酷なことを告げなければならない。でも、言わなきゃなにも変わらない。このままずるずると、甘ったるい日々が続くだけ。最悪、またあの悲劇が再来してしまうかもしれない。だから、言うんだ。俺も、葵ねぇも、変わるために。

「葵ねぇ、もう終わりにしよう」

「……え?」

葵ねぇの丸い目が、俺を直視する。

「し、俊ちゃん、それ、どういうこと? あ、『もう帰ろう』って意味かな? それなら、お姉ちゃんと一緒に──」

「違う。この関係を終わりにしようって意味」

「え……」

葵ねぇの瞳が、さらに大きく丸くなる。

「そ、それって、姉弟きょうだいの関係を切るってこと……!? 俊ちゃん、お姉ちゃんのこと嫌いになっちゃった? だ、ダメだよそんなの。お姉ちゃん、なんでもするから、だからお願い、捨てないで!」

「いや違う、そういう意味でもない! ごめん、俺の言い方が悪かった」

取り乱す葵ねぇを落ち着かせる。でも彼女の肩は完全に冷え切っていた。

「そうじゃなくてさ……互いに依存するのはもう終わりにしようって、そういう意味なんだ」

「い、ぞん……?」

震える声で葵ねぇが繰り返す。

「葵ねぇ、俺に依存するのはもうおしまいだ」

そんな彼女を突き放すように言い切る。

「葵ねぇは毎日、俺の世話を買って出るけど、最近になって気づいたんだ。それって同時に、葵ねぇが俺に依存していることでもあるんだって。俺から離れるのが嫌だから、俺にべったりくっつきたいから、俺の世話に乗り出した」

「ち、違うよっ。お姉ちゃんはただ、俊ちゃんに恩返しがしたかったの! 子どもの頃、お姉ちゃんを救ってくれたのは俊ちゃんだったから、だから、そのお返しに、俊ちゃんを支えようって!」

「世話そのものは、別に悪いことじゃない。葵ねぇの気持ちも嬉しい。でも依存はダメだ。抜け出せなくなるから」

「依存……俊ちゃんに、依存」

自分をかえりみるように葵ねぇがつぶやく。

「それって、俊ちゃんに甘えるなってこと……?」

俺は首を横に振る。

「甘えるのと、依存するのとは違う。依存は執着だ。一度依存すれば、自立するのが難しくなる。俺はもう、互いに自立すべき時期だと思ってる」

「お互いに……?」

「うん。葵ねぇが俺に依存するのをやめるように、俺も、葵ねぇに依存するのをやめる」

「……ど、どういうこと?」

「俺は、葵ねぇの世話にずっと頼りっ放しだった。それじゃダメだと理解しておきながら、ゆるゆると楽な道を進んでいた。だから、ここで断ち切る」

「そんな……そんなそんなそんな! 俊ちゃんはそのままでいいの! ずっとお姉ちゃんに甘える俊ちゃんでいいの! お姉ちゃんが、たくさん甘やかしてあげるから!」

「葵ねぇは、俺を甘やかすのと同時に、俺に甘えてるんだよ。それだと互いに堕落するだけで、いつまで経っても自立できない」

「自立ってなに!? 自立するのがそんなに偉いことなの? 人間はみんな、自立しなきゃいけないの?」

「そうだよ。だって俺たちは、いつまでも一緒に暮らすわけじゃないんだから」

「……!!!」

葵ねぇが悲しみに顔を歪める。彼女が涙を流すほど、俺の心もしわくちゃになる。さっきまであれほどキラキラした笑顔を浮かべていたのに──そう思うと、ますます胸が痛む。

「なんで……なんでそんな、残酷なことを言うの。お姉ちゃんは、ただ俊ちゃんと一緒にいられるだけで……それだけで、満足なのに」

「残酷だけど、それが未来なんだと思う。学園を卒業すれば、いろんな事情で家を離れる。俺たちに限った話じゃない」

「俊ちゃんと一緒じゃない人生なんて、考えられない……。それが大人になるってことなら、俊ちゃんは一生、子どもでいい」

「俺の人生は俺が決める。だから、葵ねぇの人生は葵ねぇ自身が決めるんだ」

弱々しい力で、腕を握られる。流星群を見上げていたときとは、別人のような体温だった。

「私の人生は、私が決める……」

葵ねぇの低い声が、妙に身体に響いた感覚がした。

金属音が一回。葵ねぇがペンダントを握ったのだと、すぐにわかった。

「ならお姉ちゃんは、俊ちゃんのお嫁さんになりたい!」

「へ?」

予想外すぎる言葉に間抜けな声が出た。

「お姉ちゃんは、俊ちゃんのお嫁さんになる人生を歩みたい!」

「いや、うん、え?」

困惑が頭の中でスパイラルする。

「葵ねぇ、急にそんな、どうして?」

「急なんかじゃないよ。お姉ちゃん、ずっと昔から、俊ちゃんのことが好きだったんだもん。それくらいは、さすがに俊ちゃんだって気づいてたでしょ?」

言葉が詰まる。それはすなわち肯定を意味する。

「病気で苦しんでいたお姉ちゃんを救ってくれたのは俊ちゃんだった。孤独でふさいでいたお姉ちゃんに手を差し伸べてくれたのは、俊ちゃんだけだった。お姉ちゃんね、本当に本当に本当に返しきれないくらいの感謝を、俊ちゃんに抱いてるんだよ」

葵ねぇに顔を覗かれる。さっきまで悲観していたのとは違う、まっすぐな表情だった。

「そんなの、俊ちゃんのことを好きになるに、決まってるよ。家族愛とか、姉弟愛とは違う、正真正銘の恋愛感情。お姉ちゃんね、俊ちゃんに恋をしてるんだよ。俊ちゃんのこと、愛してるんだよ。俊ちゃんに愛されたいって、ずっとずっと、心の底から思ってるんだよ」

葵ねぇが、両手でペンダントを握る。出遅れた流れ星が、視界の隅で瞬いたような気がした。


「俊ちゃん……お姉ちゃんを、俊ちゃんの恋人にしてください」


葵ねぇが頭を下げる。もしかしたら、目を伏せているのかもしれない。声も、言葉も、その態度も、疑う余地もなく告白だ。人間が、好きな異性にする告白。葵ねぇは本気なんだ。

だったら俺も、真剣に答えなきゃいけない。

「葵ねぇとは、恋人になれない」

葵ねぇの身体が大きく振動した。俺は続ける。

「葵ねぇは、俺のお姉ちゃんだから」

「……お姉ちゃんは、弟の恋人になることは、不可能なの?」

「ああ」

「……それは、世界がそう決めたから?」

「そう、なのかもしれない。姉弟は結婚できないから」

「そんなルール、なくなっちゃえばいいのに。どうして、姉弟は結婚できないのよ……」

葵ねぇは顔を上げない。ただ雨に濡れたように、地面を向いているだけだ。

「でもさ、葵ねぇ。俺は思うんだ。家族の繋がりは、そんなヤワなものじゃないって」

「え……」

「たいていのカップルは、いつか別れる。でも姉弟は──少なくとも俺と葵ねぇは、バラバラになんかならない。血の繋がりっていうのは、恋愛感情なんかよりずっと太くて、長くて、強いものなんだよ。だから」

葵ねぇの顔を上げる。驚きに丸くした彼女の目は、淡い銀河でいっぱいだった。

「俺は葵ねぇの弟に生まれてよかったって、心から言える」

「俊、ちゃん……」

銀河が星をこぼす。透明で、あたたかくて、切ない星だ。

「でも俊ちゃんは、自立するって……お姉ちゃんから離れるって言った! だったら、ずっと側に寄り添える関係のほうが、お姉ちゃんは……」

「離れてたって繋がっているのが家族だろう? たとえ互いが自立して、離れ離れになったとしても、バラバラになんかならない。それとも葵ねぇは、海の向こうにいる父さんと母さんを、家族だとは思わない?」

葵ねぇが首を振る。

「そうでしょ。だから、自立することを……離れることを、恐れる必要なんかないんだよ。俺たちは家族なんだから。俺たちは唯一無二の姉弟なんだから。心はずっと一緒だ」

「うっ、ぐすん……俊ちゃぁぁぁん!!!」

泣き叫ぶ葵ねぇを抱きしめる。なんだか子どもをあやしているみたいだが、今は存分に吐き出させてあげよう。弟として。

「ふられ、ちゃったな……ぐすっ。お姉ちゃんの、もうひとつの夢、叶わなかったよ……!」

頭を撫でてあげることしか、できなかった。恋愛っていうのは、つくづく意地悪だ。


しばらく経って、葵ねぇが落ち着きを取り戻した。

「ごめんね、俊ちゃん。Tシャツ、もうびしゃびしゃになっちゃったね」

「大丈夫だよ。後でちゃんと洗うから」

いつの間にか、すっかり夜も深くなっていた。あまりにも星が明るいから、なんだか夜が長くなったみたいだ。

「俊ちゃん、ごめんね」

葵ねぇが改まった声で言う。

「平気だって。Tシャツはたくさんあるし──」

「いっぱい傷つけて、苦しめて、つらい思いをさせて、ごめんね」

心がずしりと音を立てた。

「お姉ちゃんが不器用で、自分勝手で、非常識だから、俊ちゃんにたくさんの迷惑をかけた。許してほしいなんて、甘えたことは言わない。簡単につぐなえる罪じゃないけど……それでも、ごめんね」

「いいんだよ、葵ねぇ。俺はもう、納得してるから」

「よくないわ! 悪いのはお姉ちゃんで──」

「悪いのは葵ねぇだけじゃないさ。だって誰も、他人の愛し方なんて知らないんだから。間違いはあっても正解のない、意地悪な問題。それが恋愛なんだって、俺は納得したから。だからさ、葵ねぇは、これからゆっくりと変わればいいんだよ。自分を見つめ直せた葵ねぇなら、もうあんな間違いを犯すことなんてないさ」

「俊ちゃん……」

不意に、葵ねぇが微笑んだ。

「いつの間にか、すごく大人になってたのね」

「そうかな? まだまだ成長期だよ俺は」

「……ありがとう、俊ちゃん。お姉ちゃん、頑張るね」

「うん」

我ながらどんなタイミングだよ、というところで、腹が鳴った。

「うふふ、俊ちゃん、お腹空いちゃったの?」

「お、おかしいな。夕飯ちゃんと食べたのに」

「きっとたくさんカロリーを消費しちゃったのね。お姉ちゃんも、なんだか小腹が空いちゃった」

葵ねぇが手を差し出す。

「帰りましょう、俊ちゃん──って、こういうのがダメ、なんだよね」

葵ねぇが手を引っ込める。

それを俺は、ちょっと強引にすくいとった。

「……あっ」

「ちょっとずつ、大人になろう。二人で」

「俊ちゃん……!」

「お互いが独り立ちするまでは、葵ねぇが子どもの頃にできなかったことをたくさんしよう。旅行に行ったり、家族の時間を増やしたり、たまになら、甘えてくれてもいい」

葵ねぇの空白の時間を、取り戻そう。

「……やっぱりお姉ちゃんは、俊ちゃんが大好きよ」

さあ、一歩を踏み出そう。

ここからまた、新たな日常を始めるんだ。




──俊ちゃんのお姉ちゃんに生まれて、本当によかった。

──ありがとう、俊ちゃん。

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