sideA ほしのおうじさま

お夕飯を食べ終え、ひとり食後の休憩にく。俊ちゃんはくーちゃんに呼び出されて家にいない。口に含んだ紅茶が、ちょっと酸っぱく感じる。せっかくの二人暮らしなんだから、お姉ちゃんとの時間も大切にしてほしいな、なんて思ってしまう。お姉ちゃんは、俊ちゃんが側にいないだけで、どうしようもなく切なくなるというのに。

ペンダントを握る。

不安なとき、なにかに押し潰されてしまいそうなとき、それに俊ちゃんがいなくて心細いときは、いつもこうやって乗り越えてきた。ペンダントを握るだけで、心に火が灯ったような感覚になれる。胸の芯がぽかぽかになって、勇気と優しさに包まれる、私にとって大切なおまじない。

鮮明に思い出せる。このペンダントが私のお守りになったときのことを。


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「げほっ、げほげほっ!」

せきが頭蓋をがんがん揺らす。今日は体調が悪い日だ。痛みの強さとか、咳の頻度でわかる。先週は少し落ち着いていたのに。

痛みがしずまると、楽になりたくて上を向いた。天井の木目を、私はいったい何度数えてきただろうか。その数も、配置も、正確に記憶している。それが永遠に不変であることも、私は身をもって理解していた。

毎日毎分、変わらぬ景色が目に入る。未使用同然の両足は、指で弾けば簡単に折れてしまいそうなほどに細かった。視界の端で、赤いランドセルがピカピカな光沢を放っている。自分が小学生になったなんて実感、まったくない。まだ学校に一度も足を踏み入れていないのだから。

私は、先天性の重い病気をわずらっていた。まだ小さく、身体が弱かった頃は、油断できない状態にあった。

窓の外から、春の音が聞こえてくる。それ以外に、私を取り巻く音はない。ただひたすら、ベッドの中で孤独を噛み締める日々。手を伸ばせば届く距離に、私を認識している者などいないのだ。

時々──いや、毎日のように思う。「私はいつまで生きられるのだろうか」と。春の日差しが部屋いっぱいを照らせども、私はその先に未来を見出すことができなかった。友達などおらず、子どもらしく遊ぶこともできず、歩くことも食べることも満足にこなせない毎日の中で、私の心は確実に擦り切れていった。「生きている」という感覚がないから、「死」に目が行ってしまうのだろう。私がこうして「生かされている」意味はなんなのだろうと、幼いながらに考えていた。

「げほっ! げほ、んぐっ……!」

痛い。つらい。苦しい。どうしよう。このまま嘔吐すれば、少しは気が紛れるだろうか。それとも、無理やり目を閉じて眠ってしまったほうが楽なのか。どうしよう。

「あおいねぇ、ただいま!」

私が思考をぐちゃぐちゃにさせていると、部屋のドアが勢いよく開け放たれた。

「しゅ、しゅんちゃん……おかえりなさい」

なんとかして吐き気を抑え、平静をつくろう。まだ幼い俊ちゃんに、吐瀉物としゃぶつの処理などさせてはならない。

「あおいねぇ、たいちょうは?」

「げ、げんきよ。ごはんだって、ちゃんとたべたわ」

「えらい!」

昼食を完食しただけだというのに、俊ちゃんが褒めてくれた。

「あおいねぇ、もうだいじょうぶだからね。おれがカンビョーしてあげるから!」

私の療養費を準備するため、両親は朝から晩まで働いていた。だから、家にいない両親に代わって俊ちゃんが私の世話をしてくれた。してくれたんだけど……

「はい、あおいねぇ。おやつのリンゴだよ」

「あ、ありがとう……」

いびつな長方形のりんご。はじめて見た。

「あおいねぇ、ふく、ぬいで」

「え!? ど、どうして?」

「からだ、ふくの。ほら」

「し、しゅんちゃん、そこはダメよっ」

俊ちゃんに強引に服を脱がされそうになったり。

「あおいねぇ、ハミガキしてあげる!」

「ちょっ、しゅんちゃん、そんな、むりやりなんてうぐぐぐぐぐ」

お世辞にも、俊ちゃんの世話は上手とはいえなかった。というか下手だった。恐れと羞恥を知らない無垢な少年は、チャレンジ精神で満ちていた。だからといって、俊ちゃんの世話を不快に思ったことは一度もない。俊ちゃんが側にいるだけで、私は楽しかった。孤独が癒えた。ひとりぼっちのつらさを、俊ちゃんが吹き飛ばしてくれた。それに、毎日張り切って看病に取り組む俊ちゃんに、「やめて」なんて言えるわけがない。それほど前向きに、俊ちゃんは私と向き合ってくれていた。

だから、一方で私は罪悪感を抱いてもいた。こんな幼い俊ちゃんに、私の世話をさせていること。そして、健康な俊ちゃんの貴重な時間を奪ってしまっていること。それらが、私の中で黒い根となり、心の内側をむしばんでいった。

俊ちゃんの笑顔に触れて、こう思うことがあった。「俊ちゃんに迷惑をかけるくらいなら、死ぬべきなのではないか」と。罪悪感という名前を借りた絶望感で、私の目はにごっていった。

「ねえしゅんちゃん」

あるとき、訊いてみたことがあった。

「しゅんちゃんはどうして、おねえちゃんのかんびょうをしてくれるの?」

すると、驚くべきことに、俊ちゃんは嬉しそうな顔を浮かべたのである。まるで、「質問されて嬉しい」といった風に、目を輝かせて。

「そんなの、たいせつなきょうだいだからに、きまってるじゃん!」

もうちょっとだけ生きたいと、そう思った。


小学校中学年になると、持病が少しだけ落ち着いた。しかし、依然としてベッドで過ごす日々が続く。何度か学校に登校したこともあったが、居心地は微妙だった。クラスに馴染めるわけがなかったし、友達なんていなかったからだ。私の孤独を癒してくれたのは、たった一人だけだった。

「はい葵ねぇ、パジャマせんたくしておいたから」

「ありがとう俊ちゃん」

小学生になって友達と遊ぶ機会が増えても、俊ちゃんは変わらず私の面倒を見てくれた。

「タオル置いとくから、身体ふいてね」

「あ、そろそろねる時間だ。ハブラシ持ってくるね」

俊ちゃんの世話は、格段に上達していた。何年間も続けていれば自然と上達するものなのだろうが、陰ながら練習してくれていたことを、私は知っている。

「葵ねぇ、しょくよくある? おかゆ作った!」

「ありがとう。それじゃあ、少し食べようかな」

「じゃあ、おれが食べさせてあげるよ。はい、あーん!」

「し、俊ちゃん、お姉ちゃんもう一人で食べられるよ。だから自分で──」

「えんりょしないの。ほら」

俊ちゃんが満面の笑みでスプーンを差し出す。そんな表情を向けられたら、断るなんて無理だ。

「じゃ、じゃあ……あーん」

「ちゃんともぐもぐしてね」

口を小さく開け、おかゆを頬張る。当時は恥ずかしさでいっぱいだったが、いま思えばなんたる至福だったのだろう。

「どう?」

「とってもおいしいわ。俊ちゃん、また上手になったね」

「でしょー! おれ、ヒカゲンというやつを知ったからね」

食欲が人並みについたわけではないが、それでも俊ちゃんの料理は残さず食べた。どんなに失敗していても、私のために作ってくれたという事実がなによりも嬉しかったから。

この頃になると、運動能力を取り戻すために、少しずつリハビリのようなものを始めた。立って歩くことがこんなにも難しいとは夢にも思わなかった。少しずつ、本当に少しずつだが、私は“普通の生活”に近づきつつあった。それでも、絶望感が完全に消えたわけじゃない。「いま頑張ったとしても、またすぐに身体が悪くなるんじゃないか」とか、「俊ちゃんに迷惑をかけるくらいなら」とか、そういう気持ちは依然としてあった。

でも私は、前を向けるようになった気がする。ちょっとだけ、明るい未来を想像できるようになった。ささやかな夢みたいなものもできた。こうやって私がポジティブになれたのも、全部俊ちゃんのおかげなんだということは、もうとっくに気が付いていた。だから──

「だー! 小数のかけ算とか無理!」

「ふつうのかけ算と、そんなに変わらないよ俊ちゃん」

「いやいや、どうして小数点が動くのさ! もうちょっとおとなしくできないのかなぁ」

「ふふっ、ならお姉ちゃんが教えてあげる」

小学生になって、俊ちゃんと一緒に宿題をやる機会が増えた。運動はできなかったが、そのぶん勉強は頑張っていたから、少しはお姉ちゃんらしく振舞えた。俊ちゃんは、あまり学校に通えない私にその日の出来事をたくさん話してくれた。楽しそうに語る俊ちゃんを見るのが大好きだったっけ。

「今日はね、中休みにサバイバルおにごっこしたんだ。サバおに」

「へえ、どんな遊びなの?」

「おにがふえるおにごっこ。それでおれ、さいごの二人まで残ったんだよ!」

「すごいね俊ちゃん! さすが、足が速いわ」

「でもさー、さいごのさいごにコケて、優勝はのがした」

「転んだの!? 大丈夫、ケガはないの?」

「へーき。クラスの女子にバンソーコーもらったから」

「そ、そっか、俊ちゃん、女の子の友達いるんだ……」

「ん? どうしたの葵ねぇ?」

「う、ううん、なんでもないっ」

私はこの当時から、俊ちゃんに対して特別な感情を抱いていた。姉弟という枠を超えた、世界にひとつだけの想い。それは、姉が弟に対して抱く感情ではないのかもしれない。でも私は、俊ちゃんのおかげで楽しい日々を送れている。俊ちゃんのおかげで生きていられる。俊ちゃんのおかげで、生きようと思えている。だったら、俊ちゃんを好きになるのは避けられない運命だったのだろう。

「今日ね、学校でリューセーグンっていうのをならったんだ」

あるとき、不意に俊ちゃんがそう切り出した。

「へえ、どんなものなの?」

「えっとね、ホシがチキューにおちてきて、バクハツするんだって」

「それは似て非なるもののような……」

「めっちゃキレイだったから、いつかいっしょにみにいこうね!」

「……!」

「どうしたの葵ねぇ?」

「え!? あ、ううん、なんでもないわっ。そうね、いつか……いつか、いっしょに……!」

嬉しかった。とても嬉しかった。俊ちゃんが、私との未来を想像してくれていたことが。俊ちゃんの未来に、私を入れてくれたことが。一般的には、ただ将来の約束を交わしただけなんだろうけど、先が真っ暗な私にとって、それは大きな希望だった。この瞬間から、俊ちゃんと流星群を見るのがひとつの夢になった。そしてこう思った。「絶対に生き抜いてみせる」と。


高学年になって、運命の日が訪れた。

「……葵ねぇ、明日だね」

「うん」

我が家は静かな空気で充満していた。家族の誰もが、重い雰囲気の中で口を開くことをなんとなくつつしんでいた。

明日は、手術の日だった。私の長きにわたる闘病生活を左右する、運命の日。

「体調はどう?」

「万全よ。手術に影響はないと思うわ」

「そっか」

この頃になると、寝たきりの日が続くことは少なかった。手術ができるようになったのも、身体が徐々に出来上がってきたからだ。でも今日は、どうにも心が落ち着かない。胸騒ぎが身体に伝播でんぱして、手足が勝手に震えてしまう。気が付けば下を向いてしまう。

怖い。手術が成功すれば、私の病は確実に快方に向かうだろう。でも失敗したら? そんな不安で思考が途切れ途切れになる。怖い。また、天井の木目を数える生活に戻ってしまうのではないか。怖い。また、俊ちゃんに迷惑をかける日々が続いてしまうのではないか。

「葵ねぇ」

俊ちゃんが、私の手を握る。

「俊、ちゃん……?」

「大丈夫。手術に失敗なんてないから。絶対に大丈夫」

俊ちゃんが、優しい眼差しで言ってくれる。

「そ、そう、だよね。うん、大丈夫、きっと……」

それでも私は、手の震えを鎮めることができなかった。俊ちゃんの手の中で、私の両手が泣いていた。

「葵ねぇ、これあげる」

不意に、俊ちゃんがなにかを取り出した。

「これは……ペンダント?」

「そう、図工の授業で作ったやつ。俺の力作」

片手ほどの大きさの、銀色のペンダントだった。小学生が作ったものだ、お世辞にも完璧とはいえなかった。でも、不思議と目を奪われる魅力があった。

「手が震えるなら、これを強く握ればいい」

俊ちゃんが、私の手の中にペンダントを押し込んだ。

「い、いいの? 本当にもらっちゃって」

「うん! だって葵ねぇのために作ったものだもん。葵ねぇの手術が成功しますようにって」

「……!」

さっきまで冷たかった心臓が、一瞬でぬくもりを取り戻したことを、はっきりと覚えている。不安な気落ちが、まるで最初からなかったみたいに、どこかへ消えていく。その代わりに、じんわりとした温かいなにかが、私の心に広がっていくんだ。

「……ありがとう、俊ちゃん。本当に、ありがとう!」

ペンダントを強く握った。

この瞬間から、このペンダントは私のお守りになった。


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「葵ねぇ、卒業おめでとう!」

クラッカーが鳴り響く。

「ありがとう、俊ちゃん」

「はいこれ、在校生からの花飾りみたいなやつ」

「あらら、しなしなになっちゃってるわね」

手術が成功し、私は無事、小学校を卒業することができた。体調はすこぶる良好、リハビリも頑張った甲斐あって、春から中学校に通えることになった。

「いやー、葵ねぇが無事に進学できて、よかったよかった」

「ふふっ、これも俊ちゃんのおかげね」

「え? 俺は別に、なにもしてないってば。病気と闘ったのも、それを乗り越えたのも、全部葵ねぇなんだから」

「ううん、私が病気と闘えたのも、つらい日々を乗り越えられたのも、全部全部全部、俊ちゃんのおかげなんだよ。だから俊ちゃん、本当に……本当に本当に本当に、ありがとう!!!!!」

「うわっ! 葵ねぇ、急に抱きついてきて、どうしたの!?」

「えへへ、俊ちゃん♪」

白状するまでもなく、私は俊ちゃんに恋心を抱いていた。俊ちゃんのことが世界で一番、大好きだった。だって当然でしょう? 男の子に尽くされたら、誰だって好きになってしまうもの。きっと私は、俊ちゃんを愛するために生まれてきたんだ。俊ちゃんと結ばれるために、俊ちゃんのお姉ちゃんになったんだ。俊ちゃんと私は、運命の赤い糸で繋がっているんだ。

私は俊ちゃんのおかげで生き延びることができた。俊ちゃんが世話をしてくれたから、俊ちゃんが尽くしてくれたから、俊ちゃんが片時も離れずにいてくれたから、今の私がある。

──なら今度は、私の番だ。

私が俊ちゃんのお世話をして、私が俊ちゃんに尽くして、私が俊ちゃんの側に寄り添い続けよう。俊ちゃんからもらったこの命が尽きるまで。これからの人生はすべて、俊ちゃんへの恩返しのために使おう。

そして願わくは、俊ちゃんのお嫁さんになって、一生を懸けて俊ちゃんを愛し抜きたい。俊ちゃんが生を全うする瞬間を、この目で看取みとってあげたい。

「──大大大好きだよ、俊ちゃん」

「うん? なんて?」

「大好きだよ、俊ちゃん♪」




紅茶の水面に、照明の白が反射する。その輝きに、夢と切なさを見出してしまう。

俊ちゃんはまだ帰ってこない。先にお風呂に入ってしまおうか。

「葵ねぇ!!!」

突然、リビングのドアが開け放たれた。

この一秒後、私は愛しの王子様に、ハートを射貫かれることになる。


「星を見に行こう!」

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