第40話 何度目の日常
もぞもぞ。
なんだか上半身に感触が。って、夢の中の錯覚か。
「ほら俊ちゃん、お薬飲んで」
「俊ちゃんが眠るまで、お姉ちゃんが頭を撫でてあげるからね」
「俊ちゃんのことは、お姉ちゃんが守り続けるから。永遠に」
ほら、中学校の制服に身を包んだ葵ねぇが目の前にいる。だからこれは夢だ。このもぞもぞも、きっと夢の中のイメージに違いない。
「しゅんちゃん」
あれ、今度は小学生時代の葵ねぇだ。ずいぶんと小さく感じる。
「──だよ、しゅんちゃん」
え?
「──、しゅんちゃん」
なんて言ってるか、聞こえないぞ。
「しゅんちゃん──」
そこで夢が終わった。疲労を感じながら目を開ける。
見慣れた天井、絶えず運転するクーラーの音、そして上半身の違和感。
「うふふ、俊ちゃ~ん♪」
葵ねぇが、ベッドの中で俺を抱き枕にしていた。
「あら俊ちゃん、目を覚ましたのね。おはよう」
「……どうして俺のベッドにいる?」
「こら俊ちゃん、『おはよう』は?」
「そんなことよりも目の前の状況が気になって仕方ないんだけど」
「『そんなこと』じゃありません。挨拶は大事なイベントです」
葵ねぇに両の頬を握られる。
「俊ちゃん、おはよう」
「おほよう、おおいれぇ(おはよう、葵ねぇ)」
「はい、上手にできました♪ 偉いね俊ちゃん」
頭を撫でられる。さっきの夢と一緒だ。
「で、どうして俺の部屋およびベッドに侵入してるの?」
「そんなの、今に始まったことじゃないじゃない」
「開き直らないでそれ言われたらなにも言い返せなくなるから!」
「弟の寝顔に始まり弟の寝顔に終わる。それが姉という生き物の一日よ」
「弟の迷惑も考えて」
「迷惑だなんて人聞きの悪い。お姉ちゃんは俊ちゃんを起こしに来たんだから」
「なら普通に起こすべし」
「これがお姉ちゃんにとっての愛のスタンダードよ♪」
「そうですか」
俺が呆れた顔で抗議している間も、葵ねぇは決して俺から離れようとしなかった。むしろ、俺の胸に「ほっぺすりすり」したり、俺の手足に「からみつく」を繰り出したりする始末だ。
「ふふっ、俊ちゃんは本当にかわいいなぁ。ずっと密着していたい気分」
「俺は愛玩動物じゃない」
「そういえば俊ちゃん、寝てる間ニヤニヤしてたけど、楽しい夢でも見ていたの?」
「え、ニヤニヤしてた?」
葵ねぇがこくりとうなずく。
「マジか、ちょっと恥ずかしいな」
「もしかして、お姉ちゃんと幸せな家庭を築き上げる夢?」
「違う。でも葵ねぇが登場した」
「え!? それって、お姉ちゃんの存在が俊ちゃんの深層心理に刻み込まれてるっていう証拠だよね!? 夢の中でもお姉ちゃんを愛してくれるんだね俊ちゃん!!!」
「はいそこ話を逸らさない」
「それで、どんな夢だったの?」
葵ねぇが目を輝かせる。
「なんか、小中学生時代の葵ねぇが登場した」
「それで?」
「懐かしいなぁと思った」
「それで?」
「それだけ」
「……それだけ?」
「それだけ、かな」
「なーんだ、お姉ちゃんとイチャラブする夢じゃないんだ」
「そんなに落ち込まなくても。俺は、昔の葵ねぇに会えてちょっと嬉しかったし」
「うーん……昔の自分って、ちょっと複雑なのよね。特に小学生の頃の私は」
葵ねぇが苦笑を浮かべる。
「そうなの?」
「あの頃のお姉ちゃんは、お姉ちゃんじゃなかったから」
葵ねぇの笑みが、今度は弱々しい微笑みに変わる。なんというか、ちょっと作り物みたいだ。
「葵ねぇは、ずっと葵ねぇだよ」
「俊ちゃん……」
「さてと、そろそろ起きようかな」
「お姉ちゃんとしては、このまま俊ちゃんと密着していたい気分なんだけど」
「自堕落な生活なんて、葵ねぇらしくないよ」
「それもそうね。さあ俊ちゃん、朝ご飯、一緒に食べましょう」
掛け布団をめくり、身体を起こす。
「ねえ待って葵ねぇ」
「うん? どうしたの俊ちゃん?」
「なぜこんな朝っぱらから家の中で学校の水着を着ている???」
「夏だし、俊ちゃんの目を釘付けにしたかったし、これなら肌と肌が触れて俊ちゃんも喜んでくれるかなって♪」
「理解不能だから!」
顔を洗いリビングに向かうと、香ばしい匂いが。
「うおっ、今朝はまたいつになく豪華だね」
「俊ちゃんとゆっくり朝ご飯を食べるの久々だから、奮発しちゃった」
私服に着替えた葵ねぇが楽しそうに言う。
「俊ちゃんったら最近は無断で他の女の家に寝泊まりしたり他の女と軽率に外出したりするんだもんお姉ちゃん寂しかったわ」
「笑顔で毒を吐かないで……!」
「さあ俊ちゃん、一緒に食べましょう。隣に座って一緒に、だよ」
葵ねぇに促されるままに着席する。
「それじゃあ両手を合わせて、いただきます」
「いただきます」
「はーい俊ちゃん、『葵ねぇの愛情たっぷりらぶらぶハンバーグ』よ。あーん♪」
「ノータイムで来たな。いつものことだけど」
「俊ちゃん、『あーん』ってしてごらん? こうやって、お姉ちゃんみたいにお口を開けるんだよ」
「さすがに口の開け方はわかるから!」
「難しいようだったら、お姉ちゃんが手伝ってあげるよ。ゆっくり、お口を開いてあげるからね」
「自力で開けられるって!」
「ぐすん……俊ちゃん、お姉ちゃんの手料理嫌いになっちゃったのかな。だから最近はお姉ちゃんと一緒にご飯を食べないのかな。お姉ちゃん、もう用済みなのかな」
「口を開けなかっただけでネガティブにならないで」
「だって俊ちゃんが『あーん』してくれないから。俊ちゃんにとっては些細なことでも、お姉ちゃんにとっては生死に関わることなんだよ」
「いや、この歳になって他人に食べさせてもらうのが恥ずかしいんだって。俺だってもう、自立できるんだし」
「……自立なんか、しなくていいのに」
「え?」
なんて言ってるか聞こえなかった。
「俊ちゃんは、街中で『あーん』してるカップルを見て、『幼いな』って思うの?」
「……いや、そうは思わないけど」
「なら、俊ちゃんが引け目を感じる必要なんてまったくないわ。他に誰もいないんだし、恥ずかしいと感じる必要もない」
「うっ……」
「お姉ちゃんに『あーん』されるのって、そんなに嫌かな?」
葵ねぇに上目遣いで覗かれる。
「俊ちゃんがどうしてもどうしてもどうしても嫌だというのなら、お姉ちゃん諦めるけど……俊ちゃんにとって、お姉ちゃんとの時間って苦痛なのかな?」
「……わかった、食べる」
観念したように息を吐く。これで断ったら、俺のほうが罪悪感を覚えてしまう。
「ありがとう、俊ちゃん。表面上はツンツンでも、心の底ではデレデレな俊ちゃんが大好きよ♪」
俺はツンデレじゃないぞ。
「はい、あーん♪」
葵ねぇが差し出してきた箸を、大人しく迎え入れる。
「うん、上手よ俊ちゃん。そのままゆっくりと、もぐもぐしましょうね」
葵ねぇが「もぐもぐ」のリズムに合わせて手を開いたり閉じたりする。
「もぐもぐが終わったら、ごっくんしてごらん。そう。そしたら、お口を開けて」
言われた通り、口を開ける。
「うん、ちゃんとごっくんできたね。偉いよ俊ちゃん♪」
葵ねぇに頭を撫でられた。
「美味しかったかな、お姉ちゃんの特製ハンバーグ?」
「美味しいけど俺を幼児扱いするな!!!」
これじゃあまるで「はじめて食事に挑戦する子どもとその母親」じゃないか。
「俊ちゃんは、いくつになっても私のかわいい弟よ。あ、口元にソース付いてる。拭いてあげるね」
「それも自分でむぐんぅふがっ」
「牛乳減ってるね。お姉ちゃんが足してあげる。っと、スープ危ないからこっちに移動させちゃうね。ふふっ、俊ちゃんは
「だから俺は幼児か!!!」
これはもう過保護を通り越して介護とか育児の領域だ。葵ねぇ、ここ最近になってますます拍車が掛かってきたな。
「ふふっ、俊ちゃん大好きだよ♪」
でも、この笑顔を向けられると反論しづらい。俺がどんなに渋ったって、謎の理屈とこの笑顔に丸め込まれて、結局彼女に世話される。
結局なにも、変わっていないんだ。
「ねえ俊ちゃん、耳掃除してあげる」
朝食から一時間後、葵ねぇが唐突に言い出した。
「耳掃除? なんでまた」
「俊ちゃん、しきりにお耳を気にしてたから。かゆいんじゃない?」
図星を指されて顔をしかめる。
「俊ちゃんのことなんて、なんでもお見通しなんだからね」
葵ねぇはそう言うと、自分の膝をポンポンした。まあ、耳掃除ってなったら、膝枕だよな。
「おいで、俊ちゃん」
どうせ抵抗したところで、結果は変わらないのだろう。なら、諦めて従うか。
ソファーの上で横になり、葵ねぇの膝に頭を乗せる。
「俊ちゃんが素直にお世話させてくれるなんて。もう愛おしすぎて抱き壊しちゃいそう!」
「抱き壊すってなに」
「ところで俊ちゃん、どうしてこっちを向いて寝てくれないの」
「それはさすがに恥ずかしいから!」
「むう、ちょっぴり残念。でも、久々に俊ちゃんが耳掃除させてくれるから、お姉ちゃん張り切っちゃうよ」
葵ねぇの気合いが聞こえたかと思えば、そっと、綿棒が耳に挿入された。
「うおっ」
「俊ちゃん、痛かった?」
「いや、ちょっとくすぐったかっただけ」
葵ねぇは「俊ちゃんの大切なお耳を傷つけるわけにはいかないから」という理由で綿棒を使う。なので痛みはない。
「お姉ちゃんの声がちゃんと聞こえるように、お掃除しなくちゃね。お姉ちゃんの声しか聞こえないように、かいぞ……じゃなかった、せんの……じゃなくて、お掃除してあげてもいいんだけど」
「いま改造とか洗脳とか危険なワードを口に出そうとしてたよね?」
「俊ちゃんのお耳、柔らかくて大好きだわ。このコリコリって感触もたまらない。こうやって耳掃除してあげてると、俊ちゃんのお耳を独占してるっていう優越感に
「ちょいちょいグレーな発言するのやめて!」
「それじゃあ反対の耳もお掃除してあげるからね。そう、身体の向きを変えるの」
葵ねぇにたやすく身体の向きを変えられてしまう。葵ねぇのお腹が、すぐ目の前にある。恥ずかしい。
「こちょこちょ、かりかり、くるくる」
それでも、綿棒に優しく
「俊ちゃん、また大きくなったんじゃない? 肩もがっしりとして、背中が広くなった印象」
「成長期ですから(`・ω・´)」
「ふふっ、ますますたくましくなって、カッコいいわ♪」
葵ねぇが、
「この身体で、お姉ちゃんのことを支えてくれていたんだね……」
「葵ねぇ、どうかした?」
「ううん、なんでもない。俊ちゃんの頼もしい身体にメロメロだっただけよ」
「今この構図が、俺の頼りなさを物語っているような気がするけど」
「俊ちゃんはそれでいいの。お姉ちゃんをたくさん頼る俊ちゃんでいいんだよ。これからも、一生を懸けてお姉ちゃんがご奉仕してあげるからね」
何気ないその一言、聞き慣れたその言葉が、どうしてか俺の心にしこりを残した。
「ねえ俊ちゃん、たまにはお散歩に行かない? 二人で、のんびりと」
耳掃除が終わると、葵ねぇがそんなことを言い出した。特に断る理由もなかったので、俺は彼女に付いて行くことにした。
「う~ん、ここは涼しくて快適ね」
近所の河川敷で足を止め、葵ねぇが伸びをする。
「快適……かな?」
川辺に特有なむわっとした熱気が頬に触れる。
「俊ちゃんと一緒ならどこも楽園よ。ちょっと、一休みしない?」
「わかった」
葵ねぇと一緒に、河川敷の階段に腰を下ろす。眼下で、水の青と草木の青が鮮やかに交差している。
「なんか、懐かしく感じる。ここでこうして過ごすの」
目の前の景色を見て、ありのままの感想が口を衝いて出た。
「そうね。お姉ちゃんが中学生になったばかりの頃は、毎週のように来てたよね」
「飽きもせずにね」
「お互い忙しくなって時間が減っちゃったけど、お姉ちゃんは好きだな、ゆっくり過ごすの」
「そうだね。たまにはこういう時間を作ろうか」
「本当? お姉ちゃん、その言葉信じちゃうよ」
「まあ、善処します」
「約束だからね」
笑顔を浮かべる葵ねぇの額で、汗が少し
「葵ねぇ、そろそろ戻ったほうが」
「平気よ。お姉ちゃん、もうそんなにひ弱じゃないもの。せっかく外に出られるようになったんだから、この時間を堪能したいわ」
「そっか。しんどくなったら、すぐに言ってね」
「ふふっ、俊ちゃんも大概よね」
「なにが?」
「お姉ちゃんのこと、ものすごく心配してくれる。お姉ちゃんだって、もう立派に自立しているのに」
「うっ……」
特大ブーメランとはこのことか。ぐうの音も出ない。
「う~んっ、今日は快晴で空が綺麗ね。ほら俊ちゃん、あれがデネブ、アルタイル
、ベガよ」
「なんで昼間なのに星が見えるの!?」
「今夜はきっと、素敵な夜空になるわ」
葵ねぇが、首元に提げたペンダントを握り、空を眺める。
その光景に、なにか大切なことを思い出したような気がした。
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