第39話 メルト

真っ暗な天井に、街灯の光がぼんやりとにじむ。秒針の音さえ存在しない静寂。

「センパイ、起きてますか?」

「寝てる」

「じゃあもっと抱きついちゃお!」

「いま起きた」

寝返りを打つと、背中に香澄の平らな胸がぴたりと貼り付いた。

「やめろ、暑苦しいだろ」

「しょうがないじゃないですか。布団はひとつしかないんですから、ぎゅってしないと寝れません」

「なら掛け布団を譲ってやる。だからこっちに近寄るな」

「それじゃあセンパイが病気になっちゃいますよ。って、センパイはもう恋の病を発症済みでしたね。あっははは!」

「やかましい」

究極的に薄い敷き布団がごわごわと音を立てる。やはり、コイツと一緒の布団で寝るのは至難の業だ。一秒たりとも睡魔が襲ってこないなんて、人生初の事件だぞ。

俺は結局、香澄の家に泊まることにした。決して快適な住環境とは言えないが、こんな場所で10年近くを過ごしてきた香澄のことを思えば、屁でもないだろう。それになにより、彼女が変わるきっかけに繋がるかもしれない。

「センパイ、こっち向いてくださいよ」

「断る」

「センパイ、こっち向きましょう」

「断る」

「センパイ、こっちを向くとボクがいますよ」

「断る」

「センパイ、こっち向かなくてもいいですよ」

「わかった」

「どうしてそこは『断る』じゃないんですか!」

「いやどんだけ振り向かせたいんだよ!?」

「だってだって、せっかくの同衾どうきんですよ。相手の顔を鑑賞しながら眠りたいじゃないですか」

「じゃあ枕に俺の顔写真でも貼っとけ」

「それ名案ですね。これから一生、実践します」

「墓穴を掘ったか」

「写真といえば、今日のデートで撮った写真……」

「安心しろ。今度プリントアウトして、香澄に渡すよ」

「さすがセンパイ、ボクのことを知り尽くしてますね! 好き!」

「わかったからベタベタするな」

「断る♪」

「あっはっはっは!」

「あっははははははは!」

「ダメだこりゃ寝れん」

「ところでセンパイ、いつになったらこっちを向いてくれるんですか?」

「明日の朝」

「むう、寂しいですよ。一緒にアツい夜を過ごしましょうよツンツン」

「もう十分に暑い」

「センパイがその気なら、どんな手を使ってでも振り向かせてみせますからね」

香澄がそう宣言した直後、首筋を悪寒が伝った。

「ぺろっ……センパイ、これ寝汗ですか? ぺろり」

「なっ……なんで俺の首を舐めてるんだ!」

「センパイの味、欲しいなと思って。れろっ……やっぱり美味しいですね、センパイの体液」

「妙な言い方をするな!」

「ぶーぶー、これでも振り向いてくれないんですか?」

「お前とは長い付き合いだからな。安直な策略など手に取るようにわかる」

「これも、ボクたちの愛が為せる業で──ッッッ!」

瞬間、香澄がうめき声のようなものを上げる。

「おい、大丈夫か?」

咄嗟に俺は振り返った。

「へへっ。センパイ、やっとこっちを向いてくれましたね」

「なっ……」

そこには、すこぶる健康な香澄の笑顔があった。

だましたな」

「どんな手を使ってでも振り向かせるって、言ったじゃないですか。優しい&ボクのことが大好きなセンパイなら、絶対に振り向いてくれると確信していましたから」

「他人の良心を利用するなんて立派な詐欺師だ」

「センパイのハートなら、いくらでも盗んじゃいますよ!」

抵抗したところで、またベタベタされるのがオチだろう。なら、ここらで妥協するのが得策か。どうせもう眠れないだろうし。

「センパイ、もっと近寄っていいですか」

「ダメだ」

「じゃあ、密着しちゃいますね」

香澄との距離が縮まる。熱気が加速度的に増幅する。

「うふふ、センパイあったかいです」

「俺は暑くて仕方がない」

「ボクたちの恋路はこんなもんじゃないですよ。これからもっともっとヒートアップしていきますから」

「熱中症になりそうだ」

「……これが、このあたたかさが欲しかった。ずっと」

ぽつりとこぼす香澄。肌が汗で湿っているのが、細い腕から見て取れた。

「手、繋いでもいいですか」

「なんで」

「そのほうが、あったかいじゃないですか」

「もう十分、温かいだろ」

「心の話ですよ。それに、熱いほうがボクらにはお似合いです」

左手に、指が絡まる。

「こうやってちゃんと手を繋ぐの、いつぶりだろう。すごく、ぽかぽかします。手と手を合わせただけなのに」

香澄の握力が強くなる。

「ボクの気持ち、届いてますか? もっとぎゅうってすれば、もっとたくさん、伝わりますか? ボクの想い」

「ちゃんと届いてるよ。香澄の気持ち」

手を握り返す。

「……センパイのも、届きました」

痛みも、暑苦しさも、左手からは感じなかった。ただちょっと、くすぐったかった。

「ねえセンパイ、密着してもいいですか」

「もうしてるだろ」

「じゃあ、甘えてもいいですか?」

珍しく、弱気な声だった。いや、儚いというべきか。水に溶けそうな声で、探るように香澄が尋ねる。

「……好きにしろ」

「はい、好きにします」

香澄が、胸のあたりに顔をうずめてきた。彼女の息が、ちょうど心臓に当たるような位置。

「センパイの音が聞こえます。ドクンドクンって。なんかこれ、安心しますね」

乱雑に切られた短い髪が、少しだけチクチクと痛い。

「心地いいな。こうしているだけで、なにもかもを忘れてしまいそう。嫌だったことも、つらかったことも、苦しかったことも、寂しかったことも」

香澄の声が直接、胸に響いてくるみたいだ。

「でもどうしてだろう。知らないはずのことまで思い出すんです。ボクも昔は、誰かにこうしてもらってたんだろうとか。ボクはたぶん、これが好きだったんだろうとか。たぶんこれが、子どもの頃にもらった愛なんだろうとか」

左手が、さらに強く握られる。だから俺も、強く握り返す。

「センパイ、ボクのわがまま、聞いてもらってもいいですか?」

「俺はいつだって、お前のわがままに応えてきたつもりだが」

香澄が小さく笑う。

「……頭を、撫でてほしいです」

言った直後に、香澄が首を横に振った。

「ボクに、愛情をください。お父さんとお母さんが、子どもにするみたいに」

それが、香澄の望むものなら──俺に戸惑いはなかった。

そっと、頭を撫でる。上から下へ、ゆっくりと、音を立てないように。少しだけ汗ばんだ髪の毛が、てのひらに吸い付いてくる。

「センパイ、上手ですね」

「そうか?」

「はい。センパイの優しさが、すっと浸透してくるみたいで、すごく落ち着きます。それになにより、愛されてるって強く実感できます」

ガラスの人形を扱うみたいに、丁寧に、丁寧に頭を撫でてやる。それでも彼女はたやすく壊れてしまいそうで。俺がいま触れているのは、ガラス細工よりもずっと繊細で、脆くて、儚い存在だから。

「嬉しいな。嬉しいな」

香澄が、くぐもった声で言う。Tシャツの胸元が、いつの間にかぬるく湿っていた。

「センパイを知って。センパイを好きになって。センパイに憧れて同じ部活に入って。センパイと知り合って。センパイと一緒に走って。センパイをますます好きになって。センパイとたくさんの時間を過ごして。センパイからたくさんのものをもらって。センパイのことが大好きになって。センパイに恋をして。センパイのことが愛おしくて」

彼女の瞳が濡れているのは湿気のせいか、それとも──

「ボクにぬくもりをくれたのは、センパイだけだった。ボクを孤独から救ってくれたのは、他の誰でもなくセンパイだった」

香澄に見上げられる。互いの瞳の奥にあるなにかが、リンクしたような感覚。

「ボクはもう、寂しいのは嫌だ。暗いのも、苦しいのも嫌だ。ボクはずっと、センパイのぬくもりを、愛を、隣で感じていたい。だから──」

心臓が高鳴るのを自覚した。それは、彼女の言葉の続きがなんとなく伝わったからだ。


「センパイ、ボクと結婚してくれませんか?」


大それたセリフかもしれない。無謀な願望だとあざける人もいるかもしれない。

それでも。

すがるような眼差し。涙となってあふれた感情。

これは本気の告白だ。

だからこそ、俺も正直な気持ちで応えなきゃいけない。

「ごめん。結婚はできない」

「じゃあ、恋人でも──」

「付き合うのも、できない」

時間が冷たい。さっきまで、あんなに暑苦しかったのに。でも、この瞬間を置き去りにしちゃいけない。

「俺はたぶん、愛情を持って香澄に接していたんだと思う。香澄のことを大切に思っていたことだけは、確信できる。でも、その愛情っていうのは、恋愛感情とはまた違うものなんだと思う。異性に対してじゃなく、友達とか、あるいは家族に対して感じるもの」

目を逸らしちゃいけない。

「だから俺は、香澄を恋愛対象として見ることができない。香澄の求める『愛情』を、俺はあげられる自信がない。だから、ごめん」

言い切ったという達成感よりも、言い切ってしまったという喪失感のほうが強かった。この言葉が正しかったかなんて、誰にもわからない。

「ははっ……フラれ、ちゃったな……」

弱く笑う香澄。

でもそれは、「どうしようもなく悲しい」の裏返しだ。

声を上げ泣く彼女の頭を、俺はゆっくりと、何回も撫でた。


朝日が顔を出す。

燦然さんぜんと輝く日光が、カーテンのない部屋を通り過ぎる。その光は、不思議と柔らかかった。

「香澄の言葉で、ひとつだけ間違っているところがある」

日の出の美しさにあてられたのか、吐息のようにその言葉が出た。

「香澄はもうとっくに一人なんかじゃない。香澄を愛している人は、たくさんいるんだ」

香澄が小さく首を傾げる。まぶたはまだ、潤っていた。

「部活、行かないか」


            ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


猛暑のグラウンドが、足元をじわじわとあぶってくる。空に灼熱、地に灼熱。結局、一睡もできなかったし、無事に帰れる気がしない。

「おや……おやおやおや!?!?!?」

俺たちの姿を見て、誰かが声を上げた。

「香澄ちゃん! それに八十崎くんまで!」

その声に吸い寄せられるように、部員のみんなが集まってきた。

「おう俊、久々じゃねぇか!」

「香澄ちゃん、元気だった?」

まるで帰国した留学生を出迎えるかのようなにぎわいだ。まあ、俺に関しては約1ヶ月ぶりの部活だからな。騒がれても仕方がない。

「久しぶりだな八十崎。体調不良と聞いていたが、もう平気なのか?」

「部長、お久しぶりです。はい、身体の具合はバッチリです」

「そうか」と部長がうなずく。

「久我も、連絡がなかったから心配したぞ」

「す、すみません」

「謝る必要はないさ。みんな、お前が戻ってくるのを心待ちにしていたんだからな」

「え?」

部員たちが一様に微笑む。

「なんか香澄ちゃん、元気なくなったんじゃない? もしかして、休み中に太ったとか?」

「そ、そんなことはっ」

「あはは! やっぱエネルギッシュな香澄ちゃんが一番だね!」

「エース復活だな」

「二人が復帰したことだし、今日の練習を始めようか」

部長のかけ声に、全員が「はい!」と答えた。

その後の練習は、お察しの通りていたらくだった。

「ほら八十崎、しっかり走れ」

「ぶ、部長、復帰明けの俺に、当たり、強くないですか……!」

「なに弱音を吐いてる。私もじきに引退だ。これから部を引っ張っていくのは、お前たち2年生なんだぞ」

「でも、さすがにこのメニューは……うぷっ」

「情けない。久我を見習え」

グラウンドの中央には、トラックを爽快に駆け抜ける香澄の姿が。

「うわっ、久々なのに全然なまってねぇな!」

「ていうか香澄ちゃん、前より速くなってる!?」

相変わらずの怪物っぷりだ。でもそれ以上に──

「やっぱりボク、走るの好きみたいです」

彼女の笑顔は、夏の太陽を上書きするほど、まぶしかった。


ハードなメニューをなんとか切り抜け、最後のジョギング。

「センパイ」

最後尾を死に体で走っていた俺の隣に、香澄が近寄る。

「大丈夫ですか? へろへろですよ」

「大丈夫じゃない。よぼよぼだ……うっぷ」

「もう、しっかりしてくださいよ! ほら、ボクが元気を分けてあげますから」

「やめて! いま背中バシバシするのダメ!」

俺とは対照的に、香澄はまったく疲労を感じさせない。そのスタミナが羨ましい限りだ。

「センパイ、ありがとうございました」

唐突に香澄が言う。

「部活に行こうって誘ってくれて。おかげで、いろんなものがスッキリしました」

「……そうか」

「みんなと会って、みんなと走って、みんなと笑って……ボク、すごく楽しかった。そのことに改めて気づけたのは、センパイのおかげです」

柔らかい笑みが、印象的だった。

「これからも一緒に頑張りましょうね、センパイ!」

「ああ」


久々の部活も無事に終わり、香澄と一緒に学園を出ようとした瞬間のことだった。

いきなり、大量のクラッカーが音を上げた。

「な、なんですかこれ!?」

「俺が知るかよっ」

散乱する紙テープに戸惑っていると、


「ハッピーバースデー、香澄ちゃん!!!」


そこには、ホールケーキを持った陸上部の部員たちが。

「え、えええっ……!?」

いまだに状況を飲み込めていないのか、うろたえる香澄。

「ハッピーバースデーって、ボクのことですか?」

「お前以外に誰がいるんだよ。ほら、行ってこい」

香澄の背中を押す。

ケーキに乗ったプレートには「香澄ちゃん、お誕生日おめでとう」の文字が。

「ど、どうしてボクの誕生日を?」

「そりゃあ友達だもん、バッチリ把握してるよ」

「去年はお祝いできなかったから、今年こそはと思って!」

「み、みんな……」

電池が切れたように、香澄が立ち尽くす。

「か、香澄ちゃん、どうしたの!?」

「もしかして、チョコレートケーキのほうが好きだった!?」

「え? いや、そんなことないっ。嬉しい、とっても嬉しい……のに、どうして」

香澄がまぶたを拭う。

「嬉しくても、涙が出るときがあるんだよ」

「センパイ……」

「まわりの人のぬくもりに触れるとな、胸の中の氷が溶けたみたいに、涙が出るんだ。それは、香澄が愛されてるっていうなによりの証拠だ」

部員たちが一斉にうなずく。

「香澄はもう、一人じゃないんだ」

「セン、パイ……!!!」

「ほらほら香澄ちゃん、せっかくの美貌がもったいないぞ!」

「そうそう、香澄ちゃんは笑顔が一番、似合うんだから!」

「ささっ、記念にみんなで写真を撮ろう! 八十崎先輩、カメラお願いします!」

部員たちが固まる。

その中心で、頬を濡らしながら、くすぐったそうに笑う彼女。

「それじゃあ、撮るぞ」

カメラを構える。

「せーの!」

皆が声を揃える。


──誕生日おめでとう、香澄。

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