sideK Real

強い西日が、室内に斜線を引く。光線と呼ぶに相応しいそれが、ボクの宝物をきらきらと照らす。

「その写真を撮ったときのこと、覚えてますか?」

「当たり前だろ。忘れもしない、お前にはじめて突進された日だ」

「……そっか、よかった。あの入学式の日は、ボクにとってなによりも大事な一日だから」

「こっちは困惑の一日だったよ。見ず知らずの人間に絡まれたんだからな」

センパイが苦笑を浮かべる。そんな表情も似合うだなんて、センパイはズルい。

「あっ……でも一個だけ、腑に落ちない点があるんだよな」

センパイが、思い出したように切り出す。

「どうして香澄は、俺のことを知ってたんだ?」

「……そうですね」

鼻から息を抜く。自分のことを話すのには慣れていない。

「それを説明するためにも、最初から話しましょう。ボクのことを」


            ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


ボクは天涯孤独だ。

小学生になったと同時に両親が他界した。事故だった。親戚のいないボクは、両親と三人で暮らしていたアパートに、一人で住んだ。あまりに現実みのない話と思うかもしれないが、どうしようもなく現実なのだから、仕方がない。こういうとき、児童相談所なるものが動くのが通例なのだろうが、ボクにとってはそれこそフィクションだ。

こうして、ボクの一人暮らしが始まった。とはいえ小学一年生だ。右も左も、一から十までなにもかもがわからない。家事の手伝いもしてこなかったから、余計にだ。

「せんたくきは……このボタンをおせば、うごくのかな?」

「うわっ! おさら、わっちゃった!」

「……ひとりでねるのは、こわいよ」

家のことだけで手一杯。なのに、学校にも行かなきゃいけなかったから、かなりのハードワークだった。でも、学校では家事をやらなくていい。それに、学校には友達がいる。だからボクは、なんだかんだノリノリで登校していた覚えがある。

「かすみちゃん、きのうの『ぷにきゅあ』みた?」

「え? あっ、うん、もちろん」

「おもしろかったよね! かすみちゃんも、『ぷにきゅあ』のゲーム、かうでしょ?」

「そ、そうだね」

「わたしは、おかあさんにかってもらうんだ! こんどいっしょに、あそぼうね!」

でも、クラスメイトとの会話が覚束おぼつかなくなる場面は多々あった。テレビもゲームも、世間の流行もまったく把握していないからだ。彼女たちは、当たり前のように家族を話題に上げる。むろん、それは非難されることでは決してない。それでも、ボクにとってはその「当たり前」がなによりも応えた。

そんなボクを不審に思ったのか、それとも会話がぎこちないボクを疎ましく思ったのか、クラスメイトたちは徐々にボクから距離をとった。いじめられはしなかったが、冷たい視線を浴びせられていたことはすぐに思い出せる。

「おい久我、おかわりしすぎだぞっ。おれたちのぶんがなくなるだろうが」

「そんなにくうと、ブタゴリラになるぞ!」

家では満足に食事をとれなかったから、給食をたくさんおかわりした。そしたら男子に軽くからかわれた。

ほどなくしてボクが学校で孤立したことは、想像に難くないだろう。別に悪いことをしたわけではない。悪いことをされたわけでもない。ただ生きていたら、孤立した。家でも学校でも、ボクは孤独になった。

次第にボクは、学校に行くことを放棄した。楽しくなかったからというのもあるが、一番は経済的な理由だ。図工の教材とか給食費とかが、支払えなくなった。逆にどうしてそれまでは支払えていたのかは謎だが、給食をたらふくいただくこともできなくなったというわけだ。なら、無理して登校する必要はない。

学校に行かなくなった子どもがとる行動は一択だ。家にこもる。外に出て昼間から遊び回る子なんて、現代に存在するのだろうか。

「洗濯機まわさなきゃ」

「皿洗いかんりょうっと」

「布団、しこう」

「家にこもる」というと、「なにもせず自堕落じだらくに過ごす」というイメージを結びつけられがちだが、ボクは違った。家事はちゃんとこなしていたし、必要とあれば外に買い物に行った。「家事はやらなきゃ」という義務感にも似た謎の原動力があったらしい。このときはまだ。

「スズメさーん、ごはんだよ!」

当時のボクの娯楽といえば、家の小さな小さなベランダにやって来るスズメにエサを与えることだった。ゲームやおもちゃなんて持ってなかったし、テレビはいつの間にかかなくなっていた。野球ボールで遊んでいたら下の階の住人に怒られたので、スズメと遊ぶことにした。彼らにエサをやるというのは、自分の食料を削ることを意味したが、構わなかった。窓の外に目を向ければ孤独が癒えた。それがなによりも重要だった。

でも、ボクが年相応に明るかったのはここまでだ。小学校高学年に上がったあたりから、ボクは暗くなった。なにか決定的な出来事があったわけではない。緩やかに空を進んでいた太陽が、無音で沈んだだけだ。

例えば、まったく外に出なくなった。日の光を受けるのも、雑音に揉まれるのも、異端視されるのも億劫おっくうになった。

例えば、家事に手を付けなくなった。もう限界だった。「小学生だから」と言い訳するつもりはないが、やはり小学生が一人で家事をこなすのは不可能だ。掃除も洗濯もしない。外に出ないなら、風呂に入る必要もない。食事だってまともにとらないのだから、皿を洗う義務もない。

そして例えば、ボクは声を発さなくなった。会話をする相手がいないんだ、当然といえば当然だろう。ひとりごとも口に出さなくなった。唯一、ボクが声を届けていたスズメたちも、気が付けば姿を現さなくなった。

はたして、ボクは例に漏れず「なにもせず自堕落に過ごす」人間となった。ずっと窓辺で体育座りをしているだけの人生。心は腐敗した。

両親が他界してまともな教育を受けてこなかったからか、学校を拒否したツケが回って来たのか、単にボクの身体が弱っていたからか──ボクは明らかに知能が低下した。不思議なもので、まったく触れずに過ごしていたら半年間で日本語の使い方を忘れた。ボクが口数の多い人間だったら。あるいは、人間らしい行動をとっていたならば、こんなことにはならなかったのだろうが。

耳が痛くなるような工事音も、じれったい夏の湿気も、したり顔で我が家を占拠するハエの存在も、どれもボクの気を引くことはできなかった。

死にそう。というか、死んだも同然だった。

もちろん生理的にもそうだった。食事は一日に一回とるかとらないか。睡眠を自発的にとっていたという記憶もない。いつの間にか意識が途切れ、いつの間にか起きる。運動も皆無だったから、ボクの身体は見る間にみすぼらしくなっていった。

でもそれ以上に、社会的な意味合いが強かった。幼稚な小学生は覚えたての言葉を自慢するように「社会的に抹殺するぞ!」と連呼するが、当時のボクは社会的に死んでいたのだ。他者との繋がりというものが、圧倒的かつ完膚かんぷなきまでに欠落していた。会話がない。コミュニケーションがない。だから言葉も表情も失った。最後に笑ったのはいつだっただろうか? 最後に泣いたのはなんでだっけ? 凍りついたように無表情。永遠に無表情。

それでも、そんなボクでも、ときどき手を伸ばすことがあった。飢えていたからだ。食ではなく、愛に。ボクは愛を見たことがない。愛し方も、愛され方も、愛の形も、色も、重さも、大きさも、なにも知らない。

誰かに頭を撫でてもらいたい。誰かに褒められたい。誰かに愛してもらいたい。そう渇望しながら、今日もボクは生と死の境界戦を行ったり来たりする。


そんなときだった。ボクが、一人の男の子を目に留めたのは。

「ほら茶助、公園まできょうそうだ!」

いま思えば、一目惚れだったのだろう。楽しそうに笑う彼が、なによりも輝いて見えた。それまで他人に興味を持たなかったボクが、その男の子だけは、積極的に目で追っていた。

「今日はじどうかんでドッジボールだ!」

「だがしやでコーラ買おうぜ!」

「茶助、ツーシンバトルするぞ!」

男の子は、いつも友達と一緒だった。ボクの視線にも気づかず、毎日どこかへ遊びに行っていた。自分とは正反対の場所にいる彼を、文字通り羨望せんぼうの眼差しでボクは眺めていた。

秋になっても、男の子は変わらずボクの家の前を笑顔で走り去る。それをボクは、相も変わらず体育座りで傍観する。彼に目を奪われていたのは事実だが、それでボクの心が明るくなったわけではない。ボクはからにとじこもっていたままだったし、当然のように死に体だった。恋なんて感情を収納するスペース、身体のどこにも存在しなかった。

冬になった。彼が姿を現さなくなった。知らず知らずのうちに、ボクはショックを受けていた。寂しいという感情を抱いたのはすいぶんと久しい気がする。愛に飢えていたときとはまた違う、別の感情。だからといって、ボクがどうこうできる問題でもない。うつむく。この部屋も、だいぶ暗くなった。

冬が終わり、春が訪れた。目を覚ます。

彼がいた。窓の外に、あの男の子がいた。

でも彼は、笑顔じゃなかった。表情は真剣そのものだった。

次の日も、そのまた次の日も、男の子は真剣な表情で道路を駆けていた。そこで気づく。彼はもう、小学生じゃないのだと。ぶかぶかの体育着が、彼が中学生になったことを物語っていた。

嬉しかった。たまらなく嬉しかった。もう一度、彼をこの目で見ることができて。

もう二度と会えないと諦めていたから。彼は笑顔じゃなかったけど、それでも、必死な顔で、なにかを見出すように前へ前へと走る彼が、格好良かった。

心が満たされていく。パンパンになって破裂しそうなくらい、ポジティブな感情で満たされていく。人間、本当に嬉しいと感じるときは、心がぎゅうぎゅうになって痛くなるのか。

彼と一緒にいたい。彼の隣で走りたい。彼と楽しい時間を過ごしたい。

彼に褒められたい。彼に笑いかけてもらいたい。彼を愛したい。彼に愛してもらいたい──

ボクは、年上の男の子に恋をした。

立ち上がる。こんな気持ちははじめてだ。「是が非でも彼を手に入れたい」。飢えに飢えた獣が、よだれを垂らして牙を剥く。


小学校を卒業したという自覚はない。それでも、ボクはその瞬間を待ち望んでいた。

4月7日。色鮮やかな桜並木を一直線に駆け抜ける。ドキドキとワクワク、ボクが忘れていた感情を乗せて。

はじめて着た制服が、春風を軽やかに受け流す。

いた、ボクの初恋の人──


「センパイ!!!!!!!!!!」


            ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「というわけで、ボクはセンパイに一目惚れしたってわけですよ。まあ、センパイはボクの事情を知っていたと思いますが」

「その、天涯孤独というのは聞いていたが……まさか、そんなことがあったなんて」

センパイが微妙な表情を浮かべる。たぶん、今の心情を言葉にすることができないのだろう。

「ボクはセンパイに恋をした。その結果、真っ暗な人生から抜け出すことができた。今のボクがあるのは、お世辞でも誇張でもなく、センパイのおかげですよ」

写真の中のボクと目が合う。彼女にとって、今のボクはどのように映るのだろうか。それを思うと、不意に切なさを感じた。

「……でもボクは、まだ愛を知らない。愛に飢えている。センパイの愛が欲しい。だから──」

心がむずむずする。こんなのはじめてだ。自分がこんなにも純情だったなんて。

ボクは今、恋をしている。


「センパイ……今日、ウチに泊まってくれませんか?」

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