第38話 これはデートだ
強盗かと思った。
だって、休日の午前中に部屋の窓を叩かれているんだ。そりゃあ、只事ではないだろう。
──ガンガンガン!
窓が激しく振動している。怖い。大いに怖いが、このまま放置していても窓が壊されるだけだ。
まるで害虫を駆除するときのようなビクビクとした動作で、そっと窓を開ける。
「やっと出た!!!」
いや電話みたいに言うなよ。
窓の外には、血走った目で俺を
「ここ2階だぞ」
香澄は我が家の外壁に張り付いている。クモか。
「で、なにか用事か?」
「用事なんて軽々しいもんじゃありませんよ!」
叫ぶ香澄。怒り心頭のご様子。
「センパイ、どうして他の女とデートしてるんですか!!!!!」
デートって……ああ、みどりちゃんのことか。
「ボクにはセンパイのことなんて全部お見通しなんですよ! 浮気も不倫も二股も、隠し通すことなんて不可能だ!」
どうやらコイツは嫉妬でお怒りならしい。まったく、今日も平常運転だな。
「あれはデートではなくてだな。なんというか、込み入った事情があって──」
「うるさい!」
一喝。
「罪滅ぼしとして、ボクとデートしなさい!」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
午前10時30分。俺は駅前の時計台の下で、香澄の到着を待っていた。どうして香澄と一緒じゃないのかというと、
「じゃあ、30分後に駅前に集合で!」
「え? 一緒に行かないのか?」
「待ち合わせしたほうが、デートっぽいじゃないですか! それに、乙女にはいろいろと準備があるんです!」
とのことだ。
夏休みだからだろう、人通りが多い。学生やカップルの姿がちらほら確認できるが、特にファミリーが目立つ。親子が幸せそうに手を繋いでいるのを見ると、こちらも笑みがこぼれる。
「センパーイ!」
にぎやかな空間を貫通するように、声が突っ走ってきた。誰が俺を呼んだかなんて、答え合わせをせずともわかる。
「お待たせしました、センパイ!」
「気にするな。俺もいま来たところだ」
「これこれ! これがやりたかったんですよ! やっぱりデートはこうでなくちゃ!」
ご期待に添えられたようでなによりだ。
「ほらほらセンパイ、他に言うことがあるんじゃないですか?」
すると香澄は、その場でくるりと回ってみせた。ああ、なるほど。
「その服、似合ってるな」
「ホントですか!? えへへ、嬉しいなぁ」
黄色い花柄のワンピース。以前、香澄とスパイクを買いに行ったときとまるっきり同じ格好だ。これが、彼女にとっての
「ささ、アツアツカップルのお約束もこなしたことですし、早速デートとしゃれこみましょう!」
香澄に手を引っ張られる。
「ちょちょ、おい、どこ行くか決めてるのか?」
「予定は未定です!」
「で、結局ここに行き着くのか」
「ここはボクたちの思い出のデートスポットですからね」
「そうでもないだろ」
俺たちが最初に訪れたのは、スポーツショップだった。先日、香澄がスパイクを購入した店だ。
「なにか買いたい物でもあるのか?」
「ないですよ」
「じゃあなんで来たんだよ」
「センパイと一緒なら、ボクはどこにいても楽しいんです!」
香澄がお手本のような笑みを向ける。彼女の純粋な表情を見るのは久方ぶりな気がした。
「センパイは、買いたい物ないんですか?」
「うーん……特に思い当たるものはないな」
「スパイクは? この前、気になってたじゃないですか」
「まあ、買い替えてもいいかなぁとは思うけど、学生が気軽に手を出せる値段じゃないからな」
「まあまあそんなこと言わずに、試着だけでも」
「お前はメーカーの回し者か」
「ぶー。このスパイク、絶対センパイに似合うのに……あっ!」
なにかを発見した香澄。
「この腹筋ローラーとかどうですか!」
「趣旨が変わってんだろ」
「センパイがマッチョになれば、ムキムキカップルの誕生ですよ」
「お前はどこを目指してるんだ???」
「ちぇっ、センパイはマッチョ願望なしか」
「陸上の選手にゴリゴリの筋肉はいらないだろ」
「ま、ボクはセンパイがどんな体型でも愛し抜きますよ! 愛し抜きまくっちゃいますよ!」
「そりゃどうも」
「あ、センパイ、このテニスラケットとか」
「一番いらん」
そうして俺たちは、軽口を交わしながら店内を見て回った。こんなにツッコミを入れるのも、ずいぶんと久しく感じる。香澄は、いつまで経っても香澄だ。
「あ……」
ふと、香澄が歩みを止めた。彼女の視線をたどると、ランニングウェアが。
「これ、カッコいいな……」
それが気に入ったのか、まじまじと商品を眺める香澄。
「買うか?」
俺が尋ねると、香澄は無言で首を横に振った。
「お金、ないですから」
彼女は表情を変えずにそう口にした。
「そんなこと言わずに、試着だけでもどうだ?」
「センパイ、なんだか回し者みたいですよ」
「でも着るだけならタダだ。ちょっとだけ気分を味わってみても、バチは当たらんよ」
そうして香澄を試着室に押し込む。「もう、センパイってば強引なんだから。ま、ボクはゾクゾクしてたまらないんですけどね」と声を漏らしながら、着替え終えた彼女がカーテンを開けた。
「じゃじゃーん! どうですか、センパイ!」
「おう、似合ってるな。それに強そう」
「これで、センパイとウイニングランを走る夢に一歩前進ですね」
「それは俺のハードルが高すぎるな」
「センパイセンパイ、写真撮ってくださいよ!」
香澄がぴょんぴょん跳ねる。
「いいけど、ウェアを着た写真なんか欲しいのか?」
「これも、れっきとしたセンパイとの思い出です!」
ピースをきめる彼女を、スマホのカメラでパシャリ。
「ふふっ、これでまた宝物が増えちゃったなぁ」
満足そうに笑うと、香澄は試着室に戻った。こんなことで喜ばれるとは、なんだか子どもを相手にしているみたいだ。でもまあ、これはこれで新鮮で楽しい。些細なことにもリアクションを返す香澄は、見ていて飽きない。
「お待たせしました!」
香澄が試着室を出る。
「さあセンパイ、次はどこに行きましょうか?」
「そうだな……。ちょっと、腹が減った気もするな」
「なら、ピクニックしましょう!」
ということで、俺たちは駅の屋上の庭園に移動した。庭園といっても小規模なもので、正確に言えば休憩所のようなスペースだ。
「うふふ、センパイとピクニックデートなんて、ボクは勝ち組だなぁ」
「思いっ切りコンビニ弁当だけどな」
「デートは、『なにをするか』じゃなくて、『誰と行くか』ですよ」
「もうちょっと、
談笑しながら、コンビニ弁当を開封する。今日の俺の昼食は、ハンバーグと唐揚げが同居したジャンキーな弁当だった。
「それじゃあセンパイ、食べましょうか」
対して、香澄が購入したのはたった1個のおにぎりだけ。
「お前、それだけで本当に足りるのか?」
「平気ですよ! ボクは燃費が最強なんです。それになにより、センパイと一緒にいるだけで生命力が湧きますから!」
「んなふざけた理論じゃなくてだな──」
「ふざけてないですよう。ホントのホントのホントに、ボクはセンパイさえいればいいんです。センパイだけでいいんです」
香澄に間近で直視される。そこまでされると、反論しづらい。
「ほらほら、冷める前に食べちゃいましょう! センパイも、両手を合わせて」
両手を合わせる。
「いただきまーす!」
「いただきます」
都会の庭園で、二人きりのピクニック。
「いやー、駅の屋上にあるから、てっきり暑いのかと思いましたけど、意外と涼しいですね。マイナスイオン最高!」
「そうだな」
「疲弊した心が平穏を取り戻すようで、落ち着きますねぇ。マイナスイオン最高!」
「めっちゃマイナスイオンのこと褒めるじゃん」
そうこうしている間に、香澄はおにぎりを完食してしまった。
「ふー、満腹だぜ」
「言ってるそばから腹が鳴ってるぞ」
「これは、センパイに対する愛のメッセージですよ」
「トリッキーすぎる」
成長期なんだ、おにぎり1個で足りるわけがない。それに、最近の香澄は会うたびにやつれて見える。俺の前では明るく振る舞っているが、ちゃんとした生活を送れているのだろうか。
「おい」
「はい?」
「やる」
「なにを?」
「唐揚げ」
弁当のフタに唐揚げ×2を置き、香澄に
「いや、いいですよ。センパイが買ったんですから、センパイが食べてください」
「俺にはハンバーグっていう最強の主食がある」
「でもそれじゃあ、センパイのお腹がいっぱいになりませんよ」
「痛み分けってやつだ。お前が腹を空かせているのを見るほうが、よっぽどつらい」
香澄の言葉が止まる。
「ほら」
「……いいんですか?」
「おう」
「本当に、いいんですか?」
「ああ」
「じゃあ、あーんしてください!」
「図々しいな!?」
どちらにせよ、香澄は箸を持っていないので、間接キスは避けられない。ならまあ、妥協するか。
「じゃあ、はい」
「これぞ愛の共有。固く結ばれた二人の聖なる営み。この唐揚げを口に含んだ瞬間、ボクとセンパイは約束された夫婦になる……! そしてボクたちは、華やかな未来を誓ってアツい
「いいからさっさと食え!」
「むがっ! 無理やり押し込まらいでくらはいよ! 喉を攻められて気持ちよくはっひゃうじゃらいえふか!」
香澄の妄言はスルーし、2個目の唐揚げを与えた。
「うーん、やっぱり揚げ物はおいしいですね」
「それでもまだ満腹には程遠いだろ」
「センパイの優しさで、お腹いっぱいです! ありがとうございますね、センパイ!」
なんだか香澄の
「そうだ! 写真撮りましょう!」
「またか? まあ、いいけど」
香澄にスマホのカメラを向ける。
「違いますよ! ツーショットです!」
香澄が俺の腕に抱きついてきた。
「ほらセンパイ、撮って撮って!」
俺の肩に頬を密着させる香澄。これじゃあ暑苦しくて、マイナスイオンも効果なしだ。
「まったく」
カメラのシャッターを切る。
ピクニックを終えると、俺たちは再びショッピングセンターに戻ってきた。といっても、特になにをするでもなく、ただウインドウショッピングをするだけ。
「うわぁ……」
不意に香澄が立ち止まる。そこは、レディースの洋服を扱う店だった。
「入ってみるか」
「いや、いいですよ。どうせ、買える物ないですし」
今日だけで、彼女のこの表情を何度見ただろうか。なにもかもを悟ったような笑み。「諦める」なんて、香澄に一番、似合わない言葉だ。
「来い」
「え、ちょっ、センパイ?」
香澄の腕を引き、店に入る。
「センパイ、女装に興味とかあるんですか?」
「なぜそうなる!」
店内は、色とりどりの商品と、ガーリーな装飾であふれていた。アウェイ感がハンパない。
「これだろ、お前が見入ってたの」
入口横のショーウインドウ。そこに大々的に陳列された水色のチェックのワンピース。
「そ、そうですけど」
香澄が頬を赤くする。
「うん? どうかしたか?」
「なんというか、ボクには似合わないような気が。ちょっと、女の子っぽすぎるというか……」
「そうか? 俺はよく似合うと思うぞ。ていうか、お前だって立派な女の子だろ」
香澄がますます顔を赤らめた。なにを恥ずかしがっているのか。
「そちらの商品が気になりますか?」
店員さんに声をかけられる。
「い、いや、ボクたちはただ──」
「あの、この服、着て帰ることってできますか?」
「え!? せ、センパイ!?」
「はい、できますよ」
「じゃあそれでお願いします」
「えええっ!?」
「ということだから、お前は試着室で着替えてこい」
「で、でも、お金は? ボク、そんなお金、持ってないですよ……」
「心配いらん。ほら、着替えた着替えた」
「あっ、センパイ、そんな強引に押し込んだら、ダメ、気持ちよく、なっちゃう……!」
「誤解を生むような声を出すな!」
数分後、会計を済ませた俺は、店の前で香澄が来るのを待っていた。
「せ、センパイ、お待たせしました……」
香澄が陰から顔を出す。
「どうした? そんなところで隠れてないで、こっち来いよ」
「い、いやぁ、センパイとかくれんぼ……なんちゃって」
「なに言ってんだ。ほら、早く行こうぜ」
「う、うっす」
香澄はちらちらと全身を確認すると、ようやく俺の隣に来た。
「じゃ、じゃじゃーんっ。どうですか、似合って、ますよね……?」
香澄が弱々しく言う。どこか自信がないようにも見える。
「ああ、ばっちり似合ってるぞ。ほら、俺の言った通りだ」
「ほ、本当ですか!?」
うなずく。
「えへ、えへへ、センパイに褒められちゃった! 嬉しいな、嬉しいなぁ!」
先程までの弱々しさはどこへやら、すっかり調子を取り戻した香澄。
「……でも、センパイに払ってもらうのは、やっぱりダメですよ。後でちゃんと返しますね、お金」
「いや、その必要はない。それ、誕生日プレゼントだから」
「……!」
「お前、たしか8月だったよな、誕生日。少し早いかもだけど、まあ俺からのプレゼントということで」
「……その、明日です。誕生日」
「マジか!?」
「あの、本当にいいんですか? ボク、お返しとかできる保証、ないですけど」
「見返りなんて求めてないっつうの。だから、ありがたく受け取っとけ」
「センパイ……!」
香澄が首に抱きついてきた。
「センパイ、大好きです!!!!!!!!!!!!!!!」
「こら、声がデカい! 恥ずかしいだろ!」
「センパイセンパイ! 写真撮りましょ! 写真!」
「マジで写真好きだな!?」
「もちろんツーショットですよ!」
「わかったわかった」
スマホを取り出し、今日何枚目かの写真を撮る。
「やったやった! 今日だけで、宝物が一気に増えちゃいました!」
香澄が、「嬉しそう」というよりは「幸せそう」に笑う。ったく、俺はどうやらこの表情に弱いらしい。
「この服、一生大切にしますね!!!」
午後3時を回り、いよいよやることがなくなった俺たちは、大人しく帰ることにした。
「今日は楽しかったですね、センパイ!」
「そうだな」
予想以上に楽しかった。一日で一週間分のエネルギーを消費した感じだ。
とぼとぼと帰路を進む。カップルやファミリーとすれ違うたびに、夏の活気を体感する。これからどこかに遊びに行くのだろうか。
「あの、センパイ」
改まったような声音で、香澄が切り出す。
「これから、ウチに来ませんか?」
「……どうした、急に?」
やや警戒感を持って尋ねる。
「せっかくの一日を、これで終わらせたくないなって思って」
香澄はこちらを見ずにそう言った。
「……わかった。少しだけ、寄っていこうかな」
身の危険がゼロでないことは重々承知だ。でも、ここで逃げたらなにも変わらない。
相変わらず、香澄のアパートは
「お邪魔します」
まず感じたのは、鼻につく異臭。これはたぶん、カビのニオイだ。
室内は、以前よりも散らかっているように見受けられた。物が少ないのに、散らかっている。ゴミだらけというわけでもないのに、散らかっている。そこで気づく。これは「散らかっている」のではなく、「荒れている」のだと。
そんな殺風景な空間の中で、周囲とは空気が違うスペースがあった。グレーな室内で、そのスペースだけが、カラフルな雰囲気をまとっていた。
香澄の、中学校の入学式の写真──
「ねえ、センパイ」
ゆっくりと振り返る。そこには、穏やかな瞳をたたえた香澄がいた。まるで、写真の中の自分を
「ちょっと、思い出話でもしませんか」
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