第37話 月明かりの君
翌日、俺とみどりちゃんは巨大な屋敷を
ちらと、隣に立つみどりちゃんを覗く。彼女の瞳からは、
「みどりちゃん」
心配になって、声をかける。彼女は、自分を奮い立たせるように一呼吸すると、言った。
「戦いましょう」
彼女に続き、修羅場に足を踏み入れた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
敷地内に入ると、
少し前を歩くみどりちゃんの顔が
特に会話もなく、庭園の中を突き進んでいると、やがて人の姿が散見された。すれ違う人間、俺たちに視線をやる人間の目が、異物を見る者のそれだった。まあ実際、俺は異物だ。奇異の眼差しを向けるのはわかる。でもみどりちゃんは家族だ。この家の立派な住人だ。なのにどうして、そんな目で見るんだよ。
「……っ」
みどりちゃんが
「もっと、堂々としてればいいんじゃないか」
「え……」
「そんなに驚くことじゃないでしょ。ここはみどりちゃんの家なんだから」
苦笑混じりに俺は言った。
「そ、そうですよね」
返事とは対照的に、みどりちゃんの笑みはぎこちなかった。それほど、彼女にとってここは窮屈なのか。それほど、彼女はこの家に恐怖しているのか。
しばらく歩いたところで、目的の母屋に行き着いた。和を体現した建物は、間近で見るとプレッシャーすら感じさせる。
みどりちゃんが、睨むような、
「入りましょう」
大きく息を吐いてから、みどりちゃんは歩き出した。俺も後に続く。
「お父さんがどこにいるか、わかるの?」
俺たちは今日、なんのアポイントメントもとらずにここへ来た。みどりちゃんの父親が出払っている可能性だって十分にある。
「おそらく自室でしょう。この時期は、家の仕事に忙殺されていますから」
長い長い木造の廊下に、二人分の足音が響く。このまま水蓮寺
「ここです」
みどりちゃんが足を止める。目の前には、他の部屋のものとは明らかに風格が違う扉があった。
みどりちゃんが手を伸ばす。扉をノックしようと前に出した手が、わなわなと震えていた。
コンコン──代わりに俺が、扉をノックした。
返事がない。
もう一度、ノックする。
返事がない。今日は留守なのだろうか。
ガチャ、という音がした。
扉を開けたのは、他でもないみどりちゃんだった。張り詰めた面持ちで、彼女は一歩、進んだ。
「入室を許可した覚えはないぞ」
室内には、一人の男がいた。間違いない、彼は水蓮寺 勉──みどりちゃんの父親だ。彼は手元の書類に目を落としたまま、一切こちらに視線を向けない。
「あ、あの……!」
俺が声を振り絞ると、彼はようやくこちらを見て、こう言った。
「誰だ、お前たちは」
その一言で、「彼となにを話そう」とか、「部外者である自分は口出しを控えようか」とか、そういう思考は吹っ切れた。
「……それ、本気で言ってるんですか」
俺の言葉を、水蓮寺 勉は平然と無視した。まるで自分の一存こそが絶対とでも言うかのごとく、彼は仕事を続ける。
「ここにいるのは、あなたの娘だ。娘に対して、そんな態度はないでしょう」
「娘……?」
水蓮寺 勉が顔を上げる。鋭く冷めた目付きで、みどりちゃんを見る。
「そんな見るからに
「……!」
「用無し・能無しに割く時間などなし。
全身の血が沸騰するのがわかる。
「テメェ……!」
「お、お父様……!」
震える声が、室内を制した。
「ご多忙のところ、大変申し訳ございません。今日は、お父様に話があって、お、お伺い致しました」
一言一句、慎重に選び取るように、みどりちゃんが言った。それでも水蓮寺 勉は無視を貫いた。いや、無視という作業を続行したというのが正しいのかもしれない。もはやここまでくると、俺たちの声が届いてないんじゃないかとすら思える。
みどりちゃんの身体が凍えきっているのが見ただけでわかる。何年ぶりかに言葉を交わす相手は、父親であり、そして憎悪とトラウマの対象だ。怖いに決まっている。
ポンと、彼女の肩を叩く。俺のメッセージを
「お、お父様……私を、水蓮寺家の人間として、認めていただけませんか」
水蓮寺 勉が、書類をデスクに放った。
「笑止千万だな。なぜ、お前のような凡人を我が家に迎え入れねばならないのだ」
「わ、私も水蓮寺の血を引く者です。家の誇りを背負う資格が、私にもあると思うのですっ」
「私は言ったぞ、無能は不要だと。万人のトップに君臨する水蓮寺家の人間にとって、なによりも優先すべきは才能だ。血縁など二の次よ」
「たしかに、私には才能がありません。無能であることは承知しております。で、ですが、これからたくさん努力して、家の名に恥じぬ存在に──」
「笑止千万な上に荒唐無稽ときたか。才能とは、後天的な努力をも狩り尽くす絶対的なまでの力だ。凡人の努力など消し炭にする、不可侵の正義だ。無能として生まれた人間が足掻いた末に獲得した自己満足を、才能とは呼ばない。ゆえに、お前は水蓮寺家に相応しくない」
みどりちゃんが下を向く。実の父親にここまで罵倒されて、悲観しない人間などいない。
「待て……お前まさか、みどりか」
刹那、みどりちゃんが戦慄した。まるでロックオンされた獲物のように、肩をビクビクさせている。
「そうかそうか、ずいぶん大きくなったじゃないか」
水蓮寺 勉が立ち上がり、こちらに接近する。
「だが、大きくなっても変わらない。無能のままだ」
そして、みどりちゃんの目の前で立ち止まった。
「あれほど身体に教え込んでやったのに、自分の身の程を履き違えているようだな」
水蓮寺 勉は
「そんなに家族に加わりたいなら、父親である私がまた教育してやろう。その身体に、お前の無力さを理解させてやるよ……!」
娘をはたこうとした男の手を、鷲掴みにする。
「それが、父親が娘に対してすることかよ……!」
「離せ、汚らわしい」
水蓮寺 勉に手を払われる。
「部外者が親子のコミュニケーションに口出しするな」
「こんなときだけ
「なに?」
「断言しよう。お前は、父親失格だ」
「ガキが父親を語るな。経験に勝る妄言などない」
「親子の形ってのは、親が子に一方的に押し付けるものじゃない。互いが互いを評価した先に生まれるもんだ。その点、お前は最低の父親だよ」
「私は失敗しない。水蓮寺家の繁栄がそれを証明している」
「娘に手を出す父親のどこが完璧なんだ。俺には、弱者の
「否。強者が強者たる
「家柄や使命なんてものは関係ない。たとえどんな理由があろうと、親が子に暴力を振るうことなど許されない」
「何度も言わせるな。私には水蓮寺家を導く大義名分がある。それはお前のような凡人には到底、理解など敵わぬ強者の道徳だ。私には、選ばれた人間としてこの天命を果たす義務がある。その達成のためには、有能を強者たらしめ、無能は徹底的に排除しなければならない」
「そんな選民思想は間違っている。どんな子も、親にとっては唯一無二の子だ」
「親は子を選べない。生まれた子が無能ならば、これを捨てる以外に選択肢などない」
「だったら最初から子どもなんて生むんじゃねぇよ!!!」
男の
「親は子を選べないだ? ふざけんじゃねぇよ! テメェの都合で生んだんだろ? テメェが欲しいと望んだから、子どもを授かったんだろ? だったら一生を
「私の都合で生んだのなら、私の都合で捨てることも許されるだろう」
「子どもはお前の道具じゃねぇ! 生まれたその瞬間から、命も、人格も、ちゃんと持ってるんだよ。だから、『捨てる』とか簡単に口にするんじゃねぇ。親になったんなら、子どもの都合も考えやがれ。子どもの人生は、お前のくだらない欲望を満足させるためにあるんじゃねぇぞ!」
右の
「殴るのか? 殴ってみろよ。この部屋には防犯カメラがある。お前が私を殴れば、証拠がきちんと残る。後は私が訴えを提起すれば、お前は社会的な敗北者だ!」
「誰が殴るかよ。テメェみたいな汚物」
男を放り投げ、出口に向かって歩く。
「……前言撤回します、お父様──いえ、水蓮寺 勉」
みどりちゃんの声が鳴り響く。
「私はこの家と、縁を切る」
俺たちは、ちっぽけな家を後にした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
帰りの電車に揺られながら、窓の外の景色を流す。視界に映るのは、狭苦しく
結局、みどりちゃんと水蓮寺家を和解させることはできなかった。それどころか、両者が縁を切る結果に終わった。これが正解だったのだろうか。これがみどりちゃんの望んだ結末だったのだろうか。不安になって彼女の横顔を見るも、答えは灰色のままだ。
駅に着いて、二人で帰路をたどった。どうしてだろう、行きよりも、帰りのほうが緊張している。
「あ、あのさ」
耐えきれなくなって切り出す。
「これで、よかったのかな……?」
みどりちゃんが小首を
「こんな形でみどりちゃんと家族の仲が終わって……しかも、部外者である俺が突っ走ったせいで。これで、みどりちゃんは本当に満足なのか?」
まばたきと呼ぶには長い間があった。
「満足しているに、決まってるじゃないですか」
足を止める。気が付けば、彼女の家の前だった。
「いいえ、満足なんて言葉、不適切です。私は今、幸福と感謝で胸がいっぱいなんですよ」
みどりちゃんが微笑んでみせた。
「大好きな俊くんが、私のために立ち上がり、私のために盾となり、私のために戦ってくださった。これのどこが、不幸なことなんですか?」
「でも、そのせいで、みどりちゃんは家族と縁を切るはめになった」
「それこそ不幸なことではありません。私は苦しみから解放された。その苦しみの原因が、たまたま家族だった。それだけのことです。このご時世、『家族が一番の宝物』とは限りません。私にはもっと、大事なものがある」
風が吹いた。真夏の午後に似つかわしくない、爽やかな風だ。
「俊くんはやっぱり、私の太陽です。こんな私と正面から向き合ってくれて、見返りも求めずに手を差し伸べてくれて、そして……私を救ってくれた。声がかれるほどの『ありがとう』でも、きっと足りません」
みどりちゃんが頭を下げる。
そして彼女が顔を上げた瞬間、濡れた瞳と目が合った。
「俊くんに恋をして、俊くんを好きになって、本当によかった。いいえ、それだけじゃない。俊くんとこうしておしゃべりできるようになれて、俊くんと知り合えて、たくさん俊くんと思い出を作れて、本当に本当に嬉しかった」
心が澄んでいくような引力が、彼女の瞳にはあった。まるで世界から雑音が消えたみたいだ。
「私、俊くんが大好きです。世界で誰よりも、俊くんのことが大好きです。だから……私を、俊くんのお側に置いていただけませんか」
どんなに気の利かない俺でもわかる。これは告白だ。狂気と愛憎にまみれたものじゃなくて、完璧なまでに純粋な告白。彼女の震える唇も、不安であふれた眼差しも、なにもかもがはっきりと見える。
だから俺は、自分のありのままを声に
「俺は、みどりちゃんと恋人になれない」
自分の心が、くしゃくしゃになるのを感じた。
「みどりちゃんのことが嫌いなわけじゃない。これだけは、誤解しないでほしい」
それでもみどりちゃんの目は、もう限界を迎えていた。
「みどりちゃんに非があるんじゃない。これは、俺の問題なんだ。恋愛とか、正直、今の俺にはわからくて……。誰かをずっと好きであり続ける──その自信が、俺にはない」
痛い。身体の中心がとても痛い。自分から告白したわけじゃないのに、こんなにも胸が痛むなんて。
でも、絶対に目を背けちゃいけない。もっと痛いのは、彼女のほうだから。
「だから、ごめん」
自分でも呆れるくらい、気の利かない言葉だった。
「はい、はいっ……!」
むせびながら、みどりちゃんが笑う。
「あっ、でも、今後みどりちゃんと関わらないとか、そういう意味ではないから! その、告白……も、すごく、嬉しかったし」
「その言葉を聞いて、安心しました。俊くんとまで疎遠になったら、私、一人になっちゃいますから」
依然として頬を濡らしながら、それでも笑うみどりちゃん。女の子は、男なんかよりもずっと、強いんだな。
「これからはさ、後ろから付け回したりなんかしないで、俺に直接、声をかければいい」
「え……?」
「みどりちゃんはもう、昔の臆病なみどりちゃんじゃない。盗聴器もカメラも必要ない。声が聞きたいなら、電話すればいい。顔が見たいのなら、また遊べばいい。今のみどりちゃんには、それができるはずだ」
「振った女の子に『また遊ぼう』だなんて、残酷なこと言っちゃうんですね。……でも、俊くんの言う通りです」
不意に、みどりちゃんが右手を上げた。そして、左手の包帯を外す。
「家は隣ですし、俊くんとはいつでもお会いできます」
地面に落ちた包帯に、日の光が反射する。いつもより世界がまぶしく見えるのは、きっと勘違いなんかじゃない。
「今までたくさんご迷惑をおかけして、すみませんでした。私はもう、他人も、自分も傷つけません。そう思えるようになったのは、全部、俊くんのおかげです」
そうか。
君はもう、そんなに明るく笑えるようになったんだね。
「ありがとう、俊くん」
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