sideM 日の出

「みどりちゃんのことを、教えてほしい」

俊くんは、まっすぐな視線をこちらに向けておっしゃいました。それが、とても怖い。

「ど、どうされたんですか、急に」

声が上擦うわずる。口が乾く。

「俺は、みどりちゃんのことが知りたいんだ。みどりちゃんの過去、心の中、そして、家族との関係」

「ですからどうして──」

「君を、救いたいんだ」

まるで、私の奥の奥を射止めるような声でした。

「他人の過去とか、家庭の事情とか、そういうのに安易に踏み込むべきじゃないのは百も承知だ。でもそれこそが、みどりちゃんを苦しめていると俺は思ったんだ。といっても、憶測に過ぎないけど」

ああ、どうしてこの人は、こんなにも誠実に私と向き合ってくださるのでしょうか。夏の夕日すらかすむ、直射日光のようなまっすぐさで。

「みどりちゃんがどうして苦しんでいるのか……それがわかれば、俺も力になれるかもしれない。だから聞かせてほしいんだ」

にぎやかな園内が、一瞬だけ沈黙に染まった感覚さえしました。それでも、私たちを乗せた観覧車はゆっくりと、しかしたしかに進んでいく。

怖い。自分の内側を話すのが、とても怖い。傷がうずくのがわかるから。でも彼なら、この痛みを癒してくれるかもしれない。

「わかりました」

こぶしを握る。覚悟は、できた。

「そうですね。わかりやすいように、時系列順にご説明しましょう」

俊くんがゆっくりとうなずきました。

「まず私は、家族からしいたげられています」

「虐げ、られる……?」

「簡単に言えば、ネグレクトです。それと暴力も。暴力については、もう過去の話ですが」

「そんな……!」

「私の身体の所々にアザがあるのを、俊くんもご存じですよね?」

その一言で、俊くんは合点がいったというような反応を示しました。

「ちょっと待って。時系列の最初にそれって……いったいいつから、みどりちゃんは、その、虐げられていたんだ?」

言葉を選ぶように、俊くんが尋ねてきます。

「覚えていません。もうずっと昔のことですから」

俊くんが暗い顔をされます。そんなお顔は、見たくないのに。

「その……虐げられていた理由とか、訊いてもいいのかな?」

私は、無意識のうちに唇を引き結んでいました。あの男の影が、眼球にチラついたからです。

「やっぱり、今の質問はなしで──」

「ありていに言えば、私が無能だからです」

「え……?」

俊くんと目が合います。

「水蓮寺という家について、俊くんはどんなイメージをお持ちですか?」

「それは……名家、かな」

「おそらく、それは事実なんでしょう。歴史はありますし、各界に対する発言力も強い。当の水蓮寺家もそれを自負している。だからこそ、あの家の人間には、優秀であることが求められている。絶対的なまでに。ですがどうやら、私は才能に恵まれなかったみたいです」

「水蓮寺家に相応しくない……そう思われていたってこと?」

私は首肯しゅこうしました。

「そんなことで……」

「そんなことが、あの家にはなによりも重要なようですよ。特に、私の父親にとっては」

「……水蓮寺 まなぶ

俊くんがつぶやいた瞬間、私は息が止まるような苦しみを覚えました。不快な汗が背中に張り付き、無自覚に呼吸が荒くなる。自分から話題に上げておいて、なんとも情けない。

俊くんが、ハンカチを差し出してくださりました。無言で。

私はそれで汗を拭くでもなく、ただぎゅっと、ハンカチを握りしめました。すがるように、ぎゅっと。

「みどりちゃんのお父さんについては、俺でも知ってる。時々、テレビで見るから」

「その実、家では平気で家族に暴力を振るうやからですよ。猟奇的なまでに能力主義的。それだけならまだしも、彼にとってはどうにも弱者が目障りらしい。そして目障りなものは排除する……そんな狭窄きょうさくな男です」

口に出しながら、「お前だって排他的じゃないか」と、誰かに嘲笑ちょうしょうされたような気がしました。なんとも皮肉なものです。そして、憎たらしい。

「私は父の反感を買い、暴力を振るわれ、そして家全体から見放された。もはや誰一人として、私のことを家族とすら思ってないでしょう」

俊くんが唇を噛み締めます。

「だから当然、私は家が嫌いです。父親が大嫌いです。私が実家に帰らず、俊くんの隣の家で生活しているのも、そういう理由からです」

「そう、だったのか……」

「そして同時に、私はどうしようもない劣等感に襲われました。自分の居場所を、価値を欲せずにはいられなかった。だから──」

左手首の包帯をするりと解く。

「私は私を傷つけた」

俊くんが、ショッキングな感情を目に浮かべます。私の傷を見るのは、これがはじめてではないのに。

「どうして、どうしてなんだよ」

「痛みに耐えられる自分に、価値を見出そうとしたんです。この傷に耐えられる自分はすごいんだ、無能じゃないんだって」

俊くんが黙り込みました。

「理解、できないですよね」

彼はなにも答えませんでした。あなたのつらそうな顔を見るのは、とてもつらい。

「その後、私は父の指定した小学校に入学しました。まあ、当時の記憶は皆無ですが。特に思い出と呼べるものがなかったので」

私は水を一杯、口に含んだ。ぬるくなった水が、喉に苦みを残す。

「変わらず無視と暴力が続く日々。友達はおらず、助けを求める相手なんてもちろん存在しませんでした。陰惨いんさんな日常の中で、私の心はどんどん沈み、やがてふさいだ。そしてとうとう、自殺を考えるようになりました」

「……!!!」

俊くんが、強い驚きを示しました。私が自殺を視野に入れていたなんて、予想もしなかったからでしょう。ですがね、俊くん。私を泥沼の底から引っ張り出してくれたのは、他でもない──

「そんなときです。私が、太陽に出会ったのは」


            ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


小学一年生の秋のことでした。私はいつも通りの道を、いつも通り一人で、いつも通り下を向いて歩いていました。帰宅すれば、今日も父親から叱責しっせきを浴びせられるのだろう。それを思えば、気分が曇るのも当然でした。学校も楽しくない。家も楽しくない。じゃあいったい、私の居場所はどこなんだろう。いや、もしかしたら、こんな私には居場所なんてないのかもしれない。だとしたら、私が生きる意味なんてないのだ。私に首を切る覚悟があれば、それで──

「……はっ」

小石につまずき、地面に転ぶ。アスファルトに擦れて膝から流血。おまけに服が泥水を被った。また怒られるな。さらに憂鬱になった。

地面に両手をついて、なんとか立ち上がろうとする。でも、足が痛んでうまく身体を起こせない。懸命にもがいてみせても、誰も助けてくれない。まるで私のことなんか無関心。いや、私の姿なんて、誰の目にも見えてないのかもしれない。それでも世界は変わらず動き続けるというのなら、私が存在する意味なんて、本当にないじゃないか。

ダメだ、立ち上がれない。こうして足掻あがいている間にも、血はどんどんとあふれていく。痛みが鎮まるのを待つしかないか。それとも、いっそこのまま地を這う石にでもなってしまおうか。そのほうがきっと楽だ。

「きみ、だいじょうぶ?」

最初は、自分が声をかけられていることに気が付きませんでした。

「ねえきみ、きこえてる?」

「……え」

「あ、やっぱりきこえてんじゃん!」

上を向くのは、ずいぶんと久々だったような気がします。その男の子があまりにもまぶしくて、目が痛かったのをよく覚えています。

「って、うわっ! ケガしてるじゃん! えっと……」

男の子はポケットをまさぐると、やがてなにかを取り出し、こちらに手を差し出しました。


「はい、これあげる!」


それが、私と彼の出会い。


私が彼に、恋をした瞬間。


男の子が差し出したのは、絆創膏ばんそうこうでした。「ありがとう」すらろくに言えなかった私は、無言でそれを受け取りました。でも、彼がそれを差し出した理由がわからず、私はただじっと、絆創膏を眺めていました。

「ほら、はやくはらないと」

男の子が、私の膝を指差しました。そこでようやく、彼が私を認知していることに気が付きました。

「もしかして、ばんそーこーのつかいかた、しらないの?」

彼が顔を覗いてきます。私は思わず目を逸らしてしまいました。

「しかたないなー。じゃあ、おれがはってあげるよ」

すると男の子が腰を下ろしました。このときの私の顔は、戸惑いでいっぱいだったでしょう。知らない人から話しかけられたことよりも、他人が私を気にかけるという事実に驚愕していました。

「よいしょっと」

彼が絆創膏を付けてくれるのを、私はただ眺めていました。あまりに突然のことで、唖然とすることしかできなかったのです。まあ、私のコミュニケーション能力に難があるのが一番の理由ですが。

「はい、かんせい! これでもう、だいじょうぶだよ」

男の子が、明るい笑顔で言いました。患部を見ると、綺麗に絆創膏が貼られていて、「上手だな」と感心しました。

「たてる?」

男の子が尋ねてきたので、私は起立を試みました。

「……うっ」

まだ少し傷が痛んで、バランスを崩しそうになります。

「おっと……!」

咄嗟に男の子が支えてくれました。

「あっ……」

二人の手が繋がっている。私はつい手を引っ込めようとします。

「だめだよはなしちゃ。あぶないから」

男の子にぎゅっと手を握られる。

その瞬間、私の世界に青空が広がりました。はじめて、人のぬくもりに触れたからです。罪悪感や後ろめたい気持ちはどこかに吹き飛び、幸福と、ちょっとの恥ずかしさで、私の心があふれかえりました。

人生にターニングポイントというものがあるなら、私のそれは、間違いなくこの秋の日でしょう。そして、この出会いに勝るような「運命の瞬間」はもう訪れないと、私は断言できます。

それからのことは、実はあまり覚えていません。口下手な私は、まともに会話することすら敵いませんでしたから。ですが、たたひとつ、はっきりと記憶していることがあります。

「それじゃあ、いっしょにかえろっか」

生まれてはじめて、私のことを対等に扱ってくれた言葉。

「……うんっ」

とても、とてもとても、嬉しかった。


その後、私は彼を付け回すようになりました。彼だけが私の光だったのですから、当然といえば当然でしょう。真夜中の電灯にが群がるように、彼という太陽に私はすがっていました。

彼の家も、名前も、通っている小学校も、すぐにわかりました。それ以上のことも把握したかったのですが、当時の私には無理でした。でも、これからゆっくりと知ればいい。私と彼は、長い付き合いになるのだから。

次第に彼のことで頭がいっぱいになりました。一日中、彼のことを考えていました。「なにをしているのか」、「どこにいるのか」、「誰といるのか」。とうとう恋心を抑えられなくなった私は、接触を試みました。

お察しの通り、接触は果たせませんでした。私が他人に、しかも意中の相手に声をかけるなど、地球最後の日でも無理です。彼が私以外の人間と楽しそうに笑っているのを、遠巻きに眺めることしかできませんでした。切なさと、もどかしさと、嫉妬が募ります。

そこで私はひらめきました。「そうだ、会話の機会が勝手に出来上がるような状況を作ろう」と。

ということで、私は彼のいる小学校に転校しました。二年生のときです。一緒のクラスになれば、否が応でも彼と話す機会が生まれる、という打算でした。ちなみに、私が独断で転校したことについて、家族は口出しはおろか、把握すらしていませんでした。すでに、私に対する興味なんて皆無だったのでしょう。

そして待ちに待った新生活。絶対に彼とお近づきになってやる……! 柄にもなく、私は燃えていました。

結果、彼と一緒のクラスになれたのは、その10年後のことでした。己の悪運をうらむばかりです。ですが、同じ空間に彼がいる。それは私にとって、なによりも心が躍る事実でした。あとは、彼に声をかけるだけ。大好きな男の子に、一歩近づくだけ──

席に座り、考え事をする彼。

私は人生最大の決心をして、初恋の相手に声をかけました。


「………………ぁ…………ぁの……………………」


            ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「以上が、私のすべてです」

観覧車がスピードを落とす。まもなく下車だ。

もう夜か。なんだか長い旅だったような気がする。

「そっか……俺たちは、そんな昔に出会っていたのか」

遠い目を浮かべて、俊くんが言います。やはり、覚えていらっしゃらなかったみたいですね。ちょっぴり残念です。

「みどりちゃんは、やっぱりその、家が嫌いなんだね」

「ええ、憎悪しています」

俊くんが一瞬、黙りました。様子を窺っていると、再び彼が開口しました。

「ならなんで、家の力を使っているんだ?」

「え……?」

私は、彼の言葉の意味を理解できませんでした。

「例えば、ネオ・アキバランドに入場するとき、カードを取り出しただろう。あれは、水蓮寺家の人間であることを証明する行為だったんじゃないか? それだけじゃない。ホームレスを雇ったのも、銃や火炎放射器を用意できたのも、別荘を利用できたのも、全部、水蓮寺家の力なんじゃないか」

「……っ!」

私は言葉を失いました。まさにその通りだと思い知らされたからです。

「結局、矛盾してるんだよ。家を否定しておきながら、家の力を使う。それじゃあ、なにも変わらない」

俊くんが立ち上がりました。

「行こう、みどりちゃん。水蓮寺家へ」

ああ、どうしてこの人は、こんなにも誠実に私と向き合ってくださるのでしょうか。夜すらしらむ、直射日光のような明るさで。

「戦おう、一緒に」

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