第36話 観覧車を手放して

あれから一週間が経った。

俺はというと、自室でずっと療養していた。左目と左腕はだいぶマシになったが、右足はまだ痛む。とはいえ、歩行だけなら危なげなく可能だ。ちなみに、紅と茶助も無事である。二人には迷惑をかけまくったからな、ちゃんとお礼をしよう。

あの三人はというと、存外、大人しくしているらしい。あの一件で逆上するかと思ったが、今のところ目立った行動はない。葵ねぇですら、必要最低限の接触しか図ってこない。

蝉時雨せみしぐれが鼓膜を叩く。そうか、もう8月か。夏休みの間に、あと何回、彼女たちに会えるのだろう。そう考えると、こうして部屋でじっとしているのが時間の浪費のように思える。彼女たちを救う──そのためには、時間も、体力も、そして覚悟も必要だ。

ベッドから立ち上がる。スマホを取り出して、即座にある人物にメッセージを送る。

『今日これから、遊びに行かないか?』


            ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「お、おおおお待たせしましたっ」

まるでオイルを差し忘れたロボットのように、彼女は現れた。

「いや、俺もいま来たところだから」

「そのセリフ、すごくデートっぽいです……!」

ただ事実を述べただけなんだが……ま、今日は彼女が主役だからな。彼女が楽しんでくれれば無問題もうまんたいだ。

「し、俊くんからデートに誘ってくれるなんて、夢みたいです! 俊くんが私を選んでくれた……。他の誰でもなく、私が選ばれた……。えへっ、えへへへへへ」

みどりちゃんが、だらしなく頬を緩ませている。絶品スイーツを食べた人みたいな顔だ。

彼女は、あの一件以降も我が家の隣の家で暮らしているみたいだ。2階の窓もちゃっかり復元されていた。ただ、俺の目の前に現れることはなかった。監視・盗聴・ストーキングは今も継続中なんだろうがな。

「相変わらず長袖なんだね」

みどりちゃんは、黒のワンピースに身を包んでいた。とっても暑そうだ。

「え、ええ……」

力なく笑い、左手をさするみどりちゃん。先の争いでボロボロだった彼女も、ずいぶんと回復したように見える。

「やっぱり、変でしょうか? こんな真夏に、長袖なんて……」

「みどりちゃんが着たい服を着るのが一番だ。それに、似合ってるよ、それ」

「はひっ!?」

あ、みどりちゃんが爆発した。

「ししし俊くんに褒められてしまいました! もう一生、この服しか着ません!」

顔を真っ赤に上気させるみどりちゃん。ますます暑そうだよ。

「それじゃあ、入ろうか」

入場ゲートに目線を移す。

「俊くんとここへ来るのは二度目ですね」

そう。俺たちが足を運んだのはネオ・アキバランド。以前、みどりちゃんと遊びに来た遊園地であり、そしてみどりちゃんに眠らされた場所でもある。

俺たちは早速、受付に進む。

すると、おもむろにみどりちゃんがカードを取り出した。あのカード……前回もあれで、ゲートをパスしてたな。

「これで」

「待って」

カードを提示しようとした彼女の手を制止する。

「今日は俺も払う」

「いえいえ、その必要はありませんよ。俊くんが身を削る必要なんか──」

「それじゃあたぶん、なにも変わらないよ」

みどりちゃんが、不思議そうな顔をした。


            ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「もじもじ、そわそわ」

「もじもじ、そわそわ。もじもじ、そわそわ」

「もじもじ、そわそわ。もじもじ、そわそわ。もじもじ、そわそわ」

園内に入ってからというもの、みどりちゃんはずっとこんな調子だった。先日の殺気はどこへやら。

「みどりちゃん」

「は、はいっ」

「乗りたいアトラクションとかある?」

「俊くんと一緒なら、なんでも」

「俺が選んでいいの?」

「はい。主人に付き従うのが、妻の役目ですから」

「じゃあジェットコースターに乗ろう」

「え」


「イヤッホーウ!」

「ぎょえええええええええええええええ!?」

急降下したジェットコースターが、全速力でレールを駆ける。

「Hoooooooooo!」

「アアアアアアアァァァァァッッッ!!!!!」

その間、みどりちゃんは聞いたこともないような奇声を発していた。たぶん、戦闘時よりもヒドい。

「みどりちゃん、楽しんでる?」

「イイエーーーーーーー!!!!!」

「いいえ」って言ったな今。いや、「Yeah!」って言ったのか?

「これヤバいです高いです速いですこんなの死ぬに決まってます私を殺す気ですか止まれ止まれ止まって終わってうぷっ」

ダメっぽい。殺し合いよりジェットコースターのほうが怖いっぽい。なんでだよ。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

「だ、大丈夫、みどりちゃん?」

「大丈夫じゃ、ありません……うぷっ」

ジェットコースターから降車すると、みどりちゃんはありえないほど消耗していた。額は汗でぐっしょり濡れ、肩を大きく上下させては、目が渦巻き状になっている始末だ。まさかここまで全力でエンジョイしてくれるとは。

「水、買ってこようか?」

「い、いえ、平気です」

「でも相当、疲労してるだろう? 回復しなきゃ」

「それじゃあ、あの……頭を、撫でていただけませんか?」

「頭を撫でる?」

「それで、元気が、出ますから」

途切れ途切れに言葉にしながら、上目遣うわめづかいでこちらを見るみどりちゃん。その子犬のような仕草を前に、俺は黙って手を差し出した。

「ふふっ……俊くんが頭を撫でてくれています。ぬくもりが、気持ちいいです」

途端に彼女は笑顔になった。心なしか少し若返ったようにも見える。頭を撫でられただけで、本当に体力が回復するんだな。

「さてと」

数秒が経って、手を引っ込める。みどりちゃんが「しょんぼり」と声にした。

「ジェットコースターはみどりちゃんの消耗が激しそうだし、次は平和なアトラクションにしようか」

「そうですね」

「してみどりちゃん、どのアトラクションがいい?」

「私が選んでいいんですか?」

俺がうなずくと、みどりちゃんは考える素振りを見せた。そしてしばらくの後、

「あれに、リベンジしたいです」


「ようこそ、『アキバ大迷宮』へ!」

俺たちがおもむいたのは、以前もチャレンジした脱出ゲームのアトラクションだ。

「お二人は無事に、大迷宮を脱出することができるのでしょうか!?」

スタッフのお姉さんが意気揚々と言う。このお姉さん、前回もいたような?

「それではまず、このゲートをくぐっていただきます」

スタッフさんが両手で示す。以前の俺なら、「これはなんですか?」と尋ねていただろう。だが今の俺は、このゲートが金属探知機であることを知っている。それに、前回ここでなにが起こったのかも。

「それでは彼氏さんも、お願いしますっ」

みどりちゃんの後に続いて、ゲートをくぐる。足を踏み出した瞬間、妙な緊張感に襲われた。人間、こうしてトラウマというやつを覚えていくんだなと、身をもって感じた。

なぜか息を止めながら、ゲートを通過する。

「はい、ありがとうございます! それでは、大迷宮の旅へ、いってらっしゃーい!」

不安でいっぱいだった俺とは裏腹に、スタッフさんの呑気な声が響く。

みどりちゃん、盗聴器の類を仕込んでないのか? それに、今日はなんだか大人しい気がする。

俺が疑念の目を向けていると、彼女の視線に迎え撃たれた。

「さあ俊くん、頑張りましょう」

みどりちゃんに手を引かれるようにして、俺たちは大迷宮に吸い込まれた。


「こっちでしょうか……?」

「うーん、左のような気もするけどな」

二人で頭を悩ませる。相変わらず難度の高いアトラクションだ。

「あっ、あんなところに宝箱がありますよ!」

そうしてみどりちゃんが指差したのは、天井だった。いやどうしてあんなところにあるんだよ。

「でもどうやって取りましょう」

「棒とか、専用の道具とかは……なさそうだな」

「ジャンプしても、届きませんね」

「これは……肩車しか、ないのか」

「……!」

ぎこちなく言う俺と、赤面するみどりちゃん。

「ど、どうぞ俊くんっ」

みどりちゃんが屈む。

「いや逆でしょ! どう考えたって俺が下だろ!」

羞恥心を隠しながら、俺は腰を落とした。

「す、すみません、俊くん」

「いいさ。これもゲームクリアのためだ」

「それでは、し、失礼します……」

みどりちゃんがおずおずと肩に乗る。

「おおお重くないですか!? 大丈夫ですか!? 私は重い女ですか!?」

「平気。むしろ軽すぎてびっくりしてるくらいだから。ただ、目の前が暗闇だ」

俺の頭は、みどりちゃんのスカートにどっぷり覆われていた。

「すみませんすみません! 俊くんを独占したい気持ちが、スカートを勝手に……!」

んなバカな。

「とりあえず先に、宝箱を取ろう」

ということで宝箱を回収し、肩車を解く。

「で、宝箱の中は?」

まだ紅潮しているみどりちゃんを、先へ促す。

「カードキー、ですね。あ、指令書も入ってます」

そこには、「カードキーに熱を加えて、黄金の鍵に変化させるべし。さすれば道は開かん」的なことが書かれていた。

「熱を加えるって、バーナーでもあるのか?」

言ってから、一週間前の嫌な記憶がよみがえった。

「なさそうですね」

どんだけ不親切な迷宮だよ。

「でも、方法ならありますよ」

「え?」

「俊くん、カードを乗せた状態で、てのひらをこちらに差し出していただけますか」

言われた通りにする。

「こう?」

「はい。後は──」

みどりちゃんが、俺の掌に自分の手を重ねた。そしてぎゅっと握られる。

「私と俊くんのラブラブパワーで、カードキーに熱を与えましょう」

手中で熱がこもるのを感じる。たしかにこれなら、指令をクリアできそうだが……

「俊くん、目を合わせてください。じゃないと、パワーが落ちてしまいます」

そうしてなぜか、みどりちゃんは俺の左手まで握ってきた。そっちは関係ないだろ……!

「ふふっ、これならキス、できてしまいますね」

妖艶に笑うみどりちゃん。熱に浮かされたような状況に心臓をバクバクさせていると、不意に、「ポーン」という電子音が聞こえた。飛行機の機内で耳にするような音だ。

続けて謎の轟音。

振り返ると、これまた謎の大玉がこちらに向かってきていた。

「なんで大玉が転がってくるんだよ! どんだけハードなんだよこのアトラクション!」

「せ、せっかく俊くんと、素敵なムードに包まれていたのにっ」

あくせく走る俺とみどりちゃん。しかし、大玉は驚異的なスピードでこちらに転がってくる。このままじゃ──

「みどりちゃん、こっち!」

「へ!?」

咄嗟に進路を変え、溝のようなスペースに二人で逃げ込む。逃げ込んだのだが……

「しししし俊くん……!?」

「くっ……!!!」

一人分のスペースに、二人が横になって押し込む。するとだ、この二人は否が応にも密着する。かなりの密度で。

「俊くんと、密着しちゃってますっ。恋人を越えた、夫婦の距離……。男女が抱きしめ合い、交わるときの距離……! ううっ……!」

みどりちゃんの熱が、息遣いが、心音が、まるで体内に入り込むかのように、ダイレクトに伝わってくる。みどりちゃんの隠れた双丘がむにゅむにゅと当たって……これはマズいぞ!

「こ、これならキス……できてしまいますね」

みどりちゃんの吐息が、唇にかかる。その距離わずか、りんご一個分。いたたまれなくなって、必死に視線のやり場を探す。すると、ぴたりと俺たちの目が合った。きっと彼女も、余裕なんかないのだろう。大きな黒目が、おろおろと振動している。波打つ鼓動。爆発寸前の体温。ヒビ割れる理性。ついに耐えきれなくなった俺たちは、同時に真横に視線を逸らした。

「「あ……」」


なんと俺たちは、史上4組目の「アキバ大迷宮」クリアだったらしい。このアトラクションの難易度と仕掛けについては異議を申し立てたい。

「まさか、あんな細い道の先にゴールがあるなんて。驚きました」

「驚きと怒りを通り越してため息が出るよ」

「でも、その……楽しかったですねっ。私は、俊くんと一緒に探検できて、嬉しかったです」

尻すぼみにみどりちゃんが言う。俺のほうも先の出来事を思い出して、変な汗が出た。

「ハードなアトラクションばっかりだったから、落ち着いたやつに乗りたいな。あ、観覧車とかどう?」

ごまかすように、俺は提案する。

「い、いいですね。俊くんと二人きりで観覧車……ロマンチックです」

そうして観覧車のコーナーに到着したものの、

「ありゃ、さすがに混んでるな」

待ち構えていたのは大行列だった。アキバ周辺の景色を一望できるだけあって、やはり人気のアトラクションらしい。

「心配ないですよ」

みどりちゃんが短く言う。次いで彼女は、余裕綽々よゆうしゃくしゃくの面持ちで列に向かった。この感じ、覚えてる。前回も……。

みどりちゃんが最後尾に位置すると、途端に、列に並んでいた乗客──どれも男性の一人客だった──が続々とその場を去った。やっぱり、前回と一緒だ。みどりちゃんは、まるで最初からそうなることがわかっていたかのように、堂々と歩を進める。

「待った!」

そんな彼女の手を後ろから引く。

「し、俊くん? どうしたのですか?」

みどりちゃんは大層、驚いた顔をしている。

「観覧車、乗らないんですか?」

「……これ、みどりちゃんが仕組んだんだよね?」

彼女の表情が一瞬で変わった。

「やっぱり……。みどりちゃん、お金で雇った人を、列に並ばせてたんだね」

「……よく、わかりましたね」

「違和感、すごかったから。それに、昨日たまたま、似たようなシーンをマンガで見た」

みどりちゃんはしばし沈黙すると、口を開いた。

「その通りです。私は金でホームレスを買い、そして使いました。なにも今日に限った話ではありません。私は常日頃から、俊くんとの関係を円滑に発展させるためにあらゆるものを活用しています。機械だろうと、人間だろうと。金だけはありますから」

声色ひとつ変えずに言う彼女に、少しだけ不快感を覚える。と同時に、どうしてだろう、彼女に対して寂しさに似た感情を抱いてしまう。

「そんなことはしなくていい。普通に、普通に並んで、一緒に乗ろう」

「ですが、それだと時間の浪費です。私は俊くんに少しでも多く楽しんでいただきたいんです。俊くんと、ひとつでも多くの思い出を作りたいんです」

「俺は……友達と一緒に列に並ぶことが、時間の浪費だとは思わない」

「え?」

みどりちゃんが、驚きと疑問の混じった声を出す。

「待ち時間がつまらないとは、思わないよ。待ち時間が、立派な思い出になることだってある。少なくとも、みどりちゃん相手なら」

「し、俊くん……」

「それにだ」

俺はみどりちゃんの肩をつかむと、こちらに向き直らせた。

「このままじゃ、なにも変わらない──いや、変われないよ、みどりちゃん」

彼女の瞳の奥に訴える。

それでもみどりちゃんは、困惑の表情を浮かべたままだった。

「とにかく、並ぼう。それがルールだ」

「は、はい……」

そうして俺たちは、雑踏の中の一部になった。

それから20分後、大した会話をすることなく、二人で観覧車に乗り込んだ。


8月の太陽は、夕方になっても白く、そして熱い。一直線に伸びる日光が、俺と彼女の間にある静寂を貫通していく。

「綺麗、ですね」

「ああ」

みどりちゃんは、先程から窮屈な気持ちを顔に出していた。気まずい雰囲気を作ってしまったことに、罪悪感めいたものを感じているのだろうか。対する俺も、しっかりこの空気に呑まれているわけだが。

観覧車がゆっくりと回る。俺たちを乗せた箱が11時の方向に差し掛かったとき、眼下にネオ・アキバランドの看板が映った。その下に、「水蓮寺グループ」の文字。

「ねえみどりちゃん」

するりと声が出た。これからするのは、軽い雑談なんかじゃないのに。

「今日は、なにもしてこないの?」

「え?」

「盗聴器を仕掛けるとか、睡眠薬を飲ませるとか」

みどりちゃんがうつむく。まあ、そう簡単に答えるわけないか。

「……私だって、反省はしているんですよ。それに、これ以上、俊くんに嫌われるわけにはいかないですし」

「そ、そっか」

予想外の答えに、ありきたりな反応を返してしまう。だが、今日みどりちゃんに訊きたいのは、また別の話だ。もっと根本的な話。

「みどりちゃんは、実家に帰らないのか?」

「……!!!」

明らかに彼女の顔色が変わった。いや、悪くなった。

やはりみどりちゃんは、自分の家に負の感情を抱いている。こうして拒絶反応を示してしまうほどに。そしてそれが、今の彼女を──もっと言えば、彼女の人格を──形成している。

だとしたら、みどりちゃんを救うには──

直射日光がまぶしい。ガラス越しの白が目に痛い。その輝きに背を押されるようにして、俺は口を開いた。


「みどりちゃんのことを、教えてほしい」

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