第27話 「ずっとずっと待ってるね」
夕食を食べ終え、あたりもすっかり暗くなった時間、俺は砂浜に腰を下ろしていた。穏やかにループする波の音が、日頃の疲れを癒してくれる。
「風が気持ちいいわね、俊ちゃん」
海の声を上書きするように、葵ねぇが言う。特別騒ぎ立てる気分でもないので、俺は一言、「そうだね」と返した。
葵ねぇの命令は、「海で一緒に涼みましょう」というものだった。冷たい砂浜に、二人で身を寄せて座る。そこに俺たちの影が映ることはないし、俺たちの会話を阻むものもない。紫がにじむ夜空の下、非日常がスローモーションに流れるだけだ。
……と思っていたのだが、ここでも紅は
「俊ちゃん、もっとこっちにおいでよ」
葵ねぇに覗き込まれる。
「これでも十分密着してると思うんだけど」
「お姉ちゃんに肩を預けてくれていいんだよ?」
「それは恥ずかしいからパス」
「じゃあお姉ちゃんが接近しちゃお♪」
肩と肩が触れ合う。右半身に一抹の暑苦しさを感じたが、相手が葵ねぇならば諦めるしかない。
「ねえ俊ちゃん。ちょっと大事な話があるんだけど、いいかな?」
葵ねぇが改まった声で言う。
「いいけど……」
人間、「大事な話」と前置きされると緊張してしまうものだ。無意識に背筋が張る。
「お姉ちゃんね、最近なんだか寂しいなぁって、思うんだ」
「寂しい……?」
思わぬ切り出しに、つい聞き返してしまった。
「そう、寂しいの。とっても」
一方で、当の本人は真剣な様子で続ける。
「最近、俊ちゃんとゆっくりおしゃべりできてないなぁって」
「そうかな? そんなことないと思うけど」
「そんなことあるよ。お家でのんびり過ごす機会が、確実に減ってるんだよ」
そうだろうか? 俺にはいまいちピンとこない。
「前は、特に用事がなくても、リビングで他愛のない会話を交わしていたでしょう? 今日みたいな暑い日には、一緒にクーラーで涼んだり、アイスをはんぶんこしたり。それだけじゃないわ。ご飯もお風呂も、寝るときだって一緒だった」
「風呂と睡眠は一人でした」
「とにかく、二人の時間が減っちゃったのよ。ねえ俊ちゃん、どうしてだと思う?」
葵ねぇは眉を八の字にして尋ねてきた。その表情からは困惑のようなものが見て取れる。
「それは……」
原因はなんとなく察しがつく。ただ、正直に言うべきかどうか迷う。
「もしわかるなら、教えてほしいな」
葵ねぇが首を傾げる。たぶん、彼女は本気なのだろう。
「……ぎすぎすしてるからだと思う、たぶん」
葵ねぇの必死さにほだされて、気まずげに口を走らせた。
「ぎすぎす……」
葵ねぇは呆気に取られてしまっている。俺としては、そこまで衝撃的でもないことなんだがな。
「俊ちゃんとお姉ちゃん、ぎすぎすしているの? ぎすぎすって、その、つまり、うまくいってないってことだよね?」
うなずく。
「そっか、そうなんだ……。お姉ちゃんたち、うまくいってないんだ……」
葵ねぇは心底悲しそうな顔を浮かべた。その横顔を見ると、俺のほうまで悲しくなってしまう。
「やっぱり、お姉ちゃんが悪いんだよね?」
俺はなにも答えなかった。無言はすなわち肯定だ。
「あ、でも葵ねぇのことを嫌いになったわけじゃないからね」
慌てて付け加える。極端にネガティブな解釈をされては、最悪の場合に発展しかねない。
「うん、ありがとう」
微笑む葵ねぇ。
「たぶん、お姉ちゃんとの付き合いかたに、戸惑ってるんだよね? それで、二人の間に変な空白ができちゃって、一緒にいる時間も減っちゃって……」
「そう、だね」
再三言っておくが、葵ねぇのことが嫌いになったわけじゃない。ただ、いろいろありすぎて俺のほうから距離を取ってしまっているという次第だ。わだかまりというやつが、まだなんとなく綺麗さっぱり拭いきれていない。
「お姉ちゃんね、悲しいというより、寂しいっていう気持ちのほうが強いの、やっぱり。せっかく
それは俺も同感だ。姉弟に生まれたからには、仲良くやっていきたいと思ってる。
「ごめんね、俊ちゃん」
葵ねぇと目が合う。
「仲直り、したいな? お姉ちゃんも反省するから」
小指を差し出す葵ねぇ。月明かりに照らされた爪が、わずかに光沢を放っている。
「……ん」
俺はその細長い指に、自分の指を絡めた。
「ゆびきりげんまん♪」
葵ねぇが楽しそうに歌い出す。指切りなんて、いつぶりだろう。幼い光景を前に、少し恥ずかしくなる。
「指切った」
互いの指が離れる。
「……そういえば、指切りは約束するときにするものでは? 仲直りするときは、握手とかでは?」
「細かいことはいいのよ。俊ちゃんと接触できれば」
葵ねぇはうっとりとした目で自身の手を眺めている。
「これからも、お姉ちゃんがたくさんお世話してあげるからね」
「思ったんだけど、どうして葵ねぇは俺の世話をしたがるの?」
今一度考えてみれば謎な話である。葵ねぇが過保護なのは身をもって知っているが、それにしたって献身的すぎるというか……。いったいなにが、葵ねぇにそうさせているのだろう?
「それはもちろん、恩返しのためよ」
「恩返し?」
驚きで声が裏返る。
「俊ちゃん、もしかしなくても自覚がないのね。元々は、俊ちゃんのほうがよっぽど過保護だったんだから」
「いやいや、まさか」
葵ねぇはうっすらと微笑むと、髪を掻き上げた。
「お姉ちゃん、本当に元気になったよね。自分で言うのも変だけど」
「そう、だね」
「昔は、こうやって外でのんびりすることさえ、ままならなかったもんね」
葵ねぇは先天性の持病を患っている。今はかなり落ち着いているが、小さかった頃は本当に不安定だった。
「24時間のほとんどをベッドの上で過ごしていたから、さすがに気分が塞いでいたわ。それになにより──」
葵ねぇが目を伏せる。
「不安でしかたなかった。いつになったらこの生活が終わるんだろうか。そもそも病気は治るんだろうか。治らなかったとしたら、私はこの先どうなるんだろうか。私に未来はあるんだろうか……ってね」
当然の感情だろう。大きな病を前にすれば、誰もが不安や恐怖に駆り立てられる。
「でもね、そんな私にもね、ひとつだけ楽しみがあったんだよ」
葵ねぇが海に視線をやる。
「それは他でもない、俊ちゃんとの時間」
不意に名前を呼ばれてハッとなる。
「俊ちゃん、お姉ちゃんの部屋に来て、たくさんおしゃべりしてくれたよね。学校での出来事とか、当時の流行とか、テレビの話題とか」
「そんなこともあったかも」
「一緒に遊ぼうって、ゲームを持って来てくれたり。そのどれもが、お姉ちゃんにとっては楽しかった。外に出られない、身体を動かせないぶん、俊ちゃんがたくさん楽しませてくれた」
「まあ、俺が単純にゲームをしたかったからってのもあるけどね」
「その相手にお姉ちゃんを選んでくれたことが、嬉しかったの。他にも遊び相手はたくさんいたでしょうに」
でもたしかに、当時の俺は葵ねぇとの時間を優先していたかも。
「それとね、俊ちゃんがたくさん、お姉ちゃんのお世話をしてくれた」
「お世話っていうか、看病じゃないか、あれは?」
「あら、お姉ちゃんの下着を替えてくれたのは、俊ちゃんだったじゃない。他にも、爪を切ってくれたり、お手洗いの手伝いをしてくれたり、あーんだってしてくれたわ」
「だからそれも、看病の一環で……!」
当時は、忙しかった両親に代わって俺が葵ねぇの看病をしていたのである。
「でも、俊ちゃんがお世話をしてくれたのは紛れもない事実よ。それもすっっっごく過保護で。まあ、
「すみません、精進します」
「だから俊ちゃんには、『葵ねぇは過保護だ』なんて言う資格はないのよ。俊ちゃんのほうがよっぽどだったんだから」
「はい」
うなだれている俺を、
「そう。お姉ちゃんは、俊ちゃんのおかげで生きようって思えたの。俊ちゃんのおかげで、苦しい闘病生活を乗り越えられたの。俊ちゃんが、お姉ちゃんに未来をくれたんだよ」
葵ねぇの視線に、射止められたような感覚がした。
「俊ちゃんには返しきれないほどの恩をもらったの。だから今度は、お姉ちゃんが俊ちゃんに尽くす番。俊ちゃんに、たくさんたっくさんご奉仕するって決めたの。一生をかけてね」
葵ねぇが、首から下げたペンダントをぎゅっと握る。大袈裟にもほどがあると思うが、葵ねぇは本気も本気なのだろう。今の彼女には、揺るぎない決意みたいなものがありありと映し出されている。
「……じゃあ、ちょっと訊くけどさ」
俺はぶつぶつと口を開く。
「俺に恋愛感情を持つのはどうして? 恩を返すだけなら、必要なくないか?」
俺の問いに、葵ねぇはすぐには返答しなかった。まるで舞台が開演する数秒前のような静寂の中で、
「そんなの、尽くしてもらったからに決まってるじゃない」
葵ねぇは、予め回答を用意していたかのようにすらすらと言った。
「誰かに尽くされて、その人のおかげで幸せになれたのなら……その誰かに恋心を抱くのは、当然じゃない?」
葵ねぇが、万国共通の一般常識を確認するみたいな態度で訊いてきた。
「でも、俺たちは姉弟だし……」
「関係ないわ。恋愛に赤信号なんてないもの。血縁ですら、お姉ちゃんたちの恋路を阻むことはできない。だからお姉ちゃんは、俊ちゃんと結婚するためにいろんなことをした。婚姻届も結婚式場もウエディングドレスもちゃんと用意してあるし、花嫁修業だってバッチリ。出生届だって、ほら」
そう言って葵ねぇは、ポケットから紙を取り出し、広げて俺に見せた。
「それはさすがに……」
言葉を失う。
「そうかな?」
葵ねぇは首を傾げながら、大事そうにそれを戻した。葵ねぇは、そこまで本気なのか──
「……じゃあ、どうしてキスはしてこないの?」
俺の質問が突飛すぎたのか、葵ねぇは石のように固まった。自分でも、どうしてそんなセリフを口走ったのかよくわからない。
「その、一緒に暮らしてるんだし、俺のベッドにも侵入してるくらいだから、チャンスはいくらでもあったはずでしょ?」
海が、一際大きな音を立てた。勢いを増した波が爪先にタッチする。夜の海は、こんなにも冷たいのか。
「キスはね、俊ちゃんからしてほしいの」
葵ねぇが、やはり爪先を見つめながら言った。
「お姉ちゃんだって、れっきとした乙女なんだよ。甘い夢の一つや二つ、見ちゃうよ」
恥じらいのようなものが、彼女の頬に朱を差していた。葵ねぇが本気で照れるなんて、珍しい気がする。
刹那、おでこに重みを感じた。
「ちょっ、葵ねぇ……!?」
気が付けば、俺たちは互いのおでこを重ねていた。いや、葵ねぇが重ねてきたんだ。視界が葵ねぇでいっぱいになる。
「お姉ちゃんは、一生をかけて、無条件に愛を注ぎます。大きな大きな愛を」
こんな近距離でも、葵ねぇは俺の両目をまっすぐに見つめる。澄みきった瞳が、いやらしさや恥ずかしさを吹き飛ばす。俺は、文字通り眼前に迫る実の姉の目を、逸らさずに見つめ返した。
「だから、ずっとずっと待ってるね。俊ちゃんが、お姉ちゃんの唇を奪ってくれる日を」
おでこが離れる。額には葵ねぇの体温が残っていて、まるで熱でも出たかのような気分だ。
葵ねぇはといえば、澄ました顔で夜空を仰いでいる。彼女は今、いったいどんな気持ちなのだろう。
「今夜は見えないね。流星群」
不意に、葵ねぇが口にした。
「流星群? 流星群なんて、しょっちゅう見れるものでもないでしょ」
「でも俊ちゃん、約束してくれた。お姉ちゃんと一緒に、流星群を見るって」
「あぁ……」
そういえば、そんなこともあったっけ。
「ということで、代わりに花火をしましょう」
葵ねぇは、胸の谷間から線香花火を取り出した。
「いやどこに収納してるの」
「ちゃんと二本あるから、大丈夫よ♪」
数の問題ではない。
「って、いけない、肝心の火を忘れちゃったわ」
「それじゃあ花火は難しいね」
しょぼくれる葵ねぇを眺めていると、唐突に肩をポンポンされた。「誰だ?」と思い振り返ると、
「おう……紅か。うん?」
そこには、無言でマッチを差し出す紅がいた。
「もしかして、くれるのか……?」
うなずく紅。彼女の雰囲気に
「サンキューな、紅」
マッチを返し、俺と葵ねぇの花火を点火する。
「そうだ、お前も一緒に……って、あれ?」
顔を上げると、紅の影は消えていた。
「ま、後でちゃんと礼を言っておこう」
花火に視線を戻すと、火玉がぷくぷくと膨らんでいる最中だった。
「ふふっ。俊ちゃんと二人で花火なんて、最高の思い出ね」
「そうかな? 大したことじゃないって」
「こんな些細なことさえ、昔は夢のまた夢だった。だから、お姉ちゃんにとってはかけがえのない時間よ」
俺たちは、花火そっちのけで互いを見つめ合う。
「……あ! お姉ちゃんのほう、火花がパチパチしてきたわ」
途端に葵ねぇが火花を眺める。つられて俺も、自分の手元に目線を移した。
「あっ……」
──膨らんだ火玉は、花を咲かすことなく落下していった。
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