第26話 「いつか絶対に」

「このあたりにしましょうか」

「そ、そうだね」

その場で足を止める。

「ここなら、誰にも邪魔されませんから」

周囲を見渡せば、一面の木々が視界を埋め尽くしている。ここは、いわゆる林というやつなのだろう。なのだろうが、林って実在するんだな。いや、森が存在するのはわかるよ? 遠足とかで行くし。でも林って見たことも聞いたこともないじゃん? 「林に行こうぜ!」ってならないじゃん? 小学一年生で習う漢字なのに。

「そんなにきょろきょろして、珍しいものでもありましたか?」

「いや、あんまりこういう場所に馴染みがなかったから」

「静かで涼しくて、私は好きですよ」

「もしかして、ここもみどりちゃんの?」

「はい、我が家の所有物です」

恐るべし、水蓮寺家。

現在時刻は16時ほど。香澄と別れた俺は、次いでみどりちゃんの命令を聞くことになった。彼女の命令の内容は、「二人きりでおしゃべりしましょう」だった。そうして連れて来られたのがこの林。オレンジがかった木漏れ日が、安らぎと幻想感を演出している。

……そして紅は、なぜか林をうろうろしている。木々の一本一本を悠長に見上げては、考え込むように顎に手を据える。品定めでもしているのか? アイツにそんな趣味があったとはな。

「久我 香澄とは、なにをしたんですか?」

みどりちゃんが、やや冷たい声音で俺に尋ねた。

「特別なことはしてないよ。ちょっと、昔話をね」

ありのままを答えると、みどりちゃんは無機質な表情で「そうですか」と言い捨てた。少し不機嫌そうにも見える。

「あ、そうだ」

大事なことを思い出した。

「香澄のこと、教えてくれてありがとう。おかげでアイツが餓死せずに済んだよ」

みどりちゃんが首を傾げる。さながら「なんのことですか?」といったところだろう。

「ほら、この前、香澄が病院から脱走したことを教えてくれたでしょ」

「ああ、あれでしたか。別に、私は事務をこなしたに過ぎませんから」

「それでも、助かったことには変わりないよ。ありがとう」

みどりちゃんがムスっとした顔になる。

「私のことよりも、彼女の命ですか」

「え?」

「私とおしゃべりをしているのに、他の女の話題を上げちゃうんですね、俊くんは」

「あ、いや、それは」

「私のことなど二の次なんですね、俊くんにとっては」

「そんなことないよっ」

みどりちゃんが拗ねる。どうやらご立腹のようだ。

「そ、そういえば、もしかして髪切った?」

申し訳程度のフォローをする。我ながら下手すぎるな。

「どきっ」

不意に、みどりちゃんが赤面する。

「き、気づいていらっしゃったんですか?」

「まあ、なんとなくだけど」

「じじじ、実は、前髪を少しだけ切ってみたんです。俊くんとの、デート、ですから、少しでも、その、おしゃれしようと、思いまして」

「そうだったんだ。似合ってると思う」

「はうっ……!」

みどりちゃんは、顔を真っ赤にしながらもじもじしてしまった。

「あ、ありがとうございます……」

少なくとも怒ってはいないようなので、心配はいらないか。

野鳥の声が、空に響き渡る。都会では耳にすることのない音に、も言われぬ風情を感じる。

「みどりちゃん、今日は誘ってくれてありがとう」

いまだ火照っている彼女に声をかける。

「そんな、お礼を言われることではないですよ。私が俊くんと遊びたかっただけですし」

「いやいや、こんな素晴らしい場所を提供してくれたんだもん、感謝するに決まってるよ」

「まあ、私は俊くん以外を誘った覚えはないですけどね」

それについては苦笑を返すことしかできない。

「でもでも、みどりちゃんのおかげで楽しい思い出ができそうだよ」

「そうですか……ちゃんと、楽しんでいただけているんですね」

みどりちゃんがホッと息を吐く。

「それなら、勇気を出して誘った甲斐がありました」

控えめな笑顔に覗き込まれて、心臓が少し跳ねる。

そうしてしばらくは、とりとめのない雑談を交わした。思えば、こうして二人きりで話すのもずいぶんと久しく感じる。約一ヶ月ぶりの談笑に、俺たちは存分に花を咲かせた。

「一学期は、いろいろなことがありましたね」

みどりちゃんが、感慨深そうに切り出す。

「やっぱり一番は、俊くんとの出会いでした。あれがなければ、こうして遊ぶことなどできなかったでしょう」

「あのときの俺、いろいろと失礼だった気がするな。なにせ、真後ろの席の人を把握していなかったんだからな」

「いえいえ、あれは私の影が薄いのが悪いんです。断じて俊くんの責任ではありません」

「それは自分を卑下しすぎだと思うけど……」

「会話はおろか、スムーズに言葉を発することすらできなかった私です。日陰者のラベルがぴったりでしょう」

たしかに、みどりちゃんはこの数ヶ月でずいぶんとおしゃべりになった気がする。出会った当初は、マジで会話もままならなかったからな。

「ふふっ、否定しないんですね」

「いや、ごめん、そんなつもりは……!」

「平気です。事実ですから」

ニヤっと口角を上げるみどりちゃん。表情もずいぶんと豊かになった。

「俊くんと仲良くなって、デートもさせていただきました。遊園地での思い出は、ちゃんと胸に刻み込んでいますよ」

「あ、ああ、あれか……」

正直、俺にとっては素直に喜べない思い出だ。

「そして学園祭。憧れの俊くんに接客ができて、感無量でした。私たちの愛も、ずいぶんと深まりましたね」

滔々とうとうと語る彼女とは対照的に、俺は口を閉ざした。苦笑を浮かべることもできない。

「否定、しないんですか?」

みどりちゃんが首を傾ける。そのポーズが、どこか意地悪にも見える。

「……肯定は、できないかな」

ただ一言そう告げると、みどりちゃんは満足げに微笑を作った。彼女の心中がいまいちつかめない。

「振り返れば、一学期だけでもとても濃密な時間でした。私の人生が変わった瞬間でした。私自身も、大きく変わりました」

みどりちゃんが空を見上げた。木の葉でいっぱいな視界に、斜陽が差す。

「他人とコミュニケーションがとれるようになったり、自然と笑顔になれるようになったり、自分の気持ちを伝えられるようになったり、勇気を出して行動することができるようになったり。そんな些細なことすらできなかった臆病者の私が、一人の人間として大きくなったんです」

空を仰いだまま、彼女が続ける。

「それもこれも、すべては俊くんのおかげです。俊くんの優しさが、私に空の青さを教えてくれました」

ふと、みどりちゃんがこちらに向き直る。

「本当に、ありがとうございました。俊くんには、感謝しかありません」

彼女は深々と頭を下げた。

「そんな、改まらないでよっ。恥ずかしいから」

「私にとっては本当に大事なことですから。頭だって下げますよ」

「そんなに貢献した覚えはないんだけどな……。たった数ヶ月だし」

俺がぼつりとこぼすと、みどりちゃんの口が止まった。

「……そうですよね。俊くんにとっては、私なんてたった数ヶ月の付き合いですもんね」

寂しそうに目を逸らすみどりちゃん。

「え、あ、ごめん、そういうつもりで言ったわけじゃ……!」

慌ててフォローする。思いも寄らぬ形で彼女を落ち込ませてしまったみたいだ。

「……俊くん、覚えていらっしゃいますか? 私たちが、小学校から一緒の学校だったってこと」

「あぁ……そういえば、前に言ってたね」

「ということは、私が言うまで、俊くんはそのことを知らなかったというわけですね?」

「……ごめん」

「謝らないでください。俊くんを責めようだなんて気はありません。ちょっと、私の昔話にも付き合っていただこうと思って。構いませんか?」

「うん、わかった」

みどりちゃんが、二、三歩だけ移動する。土を踏む音が、耳に心地いい。

「私が俊くんのことを知ったのは、小学二年生の頃でした。そのときにはもう、俊くんのことをお慕いしていたんですが、とうとう、今年に入るまで一緒のクラスになることはできませんでした」

「待って、そんな前から俺のことを認知してたの!?」

「ええ。俊くんは私の太陽ですから、一目惚れは不可避でした」

「ということは……」

「かれこれ10年になりますね」

「マジかよ!?」

「10年間も片想いだなんて……我ながら笑っちゃいますけど」

「それは……ありがとう、でいいのかな?」

なんともコメントしづらい。

「そんなことで感謝されては、私は一生片想いを続けるハメになりますよ? 俊くんとは両想いでいたいのに」

またもやコメントしづらいセリフだ。

「それで、話を戻しますけど」

みどりちゃんが続ける。

「クラスは違えど、私が俊くんを想う気持ちは変わりません。ずっとずっと、俊くんのことを見ていました」

「その、具体的には……?」

恐る恐る尋ねる。

「そうですね……体育の着替えは、必ず観察していました。掃除の時間も、自分のクラスのことなど放っておいて、微力ながら俊くんのお手伝いをさせていただきました。俊くんが食べ残した給食は私がすべて回収していましたし、俊くんに怒鳴る愚鈍な教師は解職しておりました」

「ストップストップ、理解が追いつかない。それ全部、みどりちゃんの所業なの?」

「もちろんです。あとはやっぱり、学校行事ですね。カメラが破損するまで俊くんのお姿を撮らせていただきました。俊くんは本当に素敵な男性なので、お写真を見るだけで私は悶えていました」

「よくそんなこと恥ずかしげもなく言えるなぁ」

「言えちゃうんです。大好きですから」

みどりちゃんが笑みをこぼす。やれやれ、そんな昔から盗撮被害に遭っていたとは。

「次第に私は、『学校以外での俊くんを知りたい』と思うようになりました」

うん……?

「最初は、登下校中の俊くんの後を追って、ただひたすら見つめていました。でもそのうち我慢できなくなって、お家での俊くんの行動を把握したいという欲求が湧きました。なのでしました」

「『しました』じゃないよ! なにやってるの! それはれっきとしたストーカーだよ!」

「私たちは将来的に夫婦になる関係です。なので、ストーカーには当たりませんよ。妻が夫を尾行していたって、まったく問題はないですから」

あっぱれな屁理屈だ。

「……でも結局、一度たりとも俊くんに声をかけることはできませんでした」

みどりちゃんが苦笑を浮かべる。

「当時の私は……いや、今でもそうなんですけど、とにかく内気だったんです。他人と気軽に話す勇気すらない、相手の目を見るのが怖い、自分にまったく自信がない。陰気という言葉がぴったりな人間でした」

「少なくとも今は、そんな風に見えないけど」

「それは俊くんがお優しいからですよ。俊くんが寛大だから、私も勇気を出して飛び込もうと思えるんです」

「うーん……自覚がまったくない」

「だから俊くんは私の太陽なんです。無自覚に私をあたためてくれる、崇高な存在」

それじゃあまるで神様だ。

「陰気な私は、もちろん存在感も皆無でした。私の影の薄さは、俊くんも十分ご存じでしょう」

「それは……なんか、すみません」

「そんな陰気で影の薄い私でも、俊くんには、俊くんにだけは、なんとか認知されたいと、必死でした。俊くんの目の前を往復したり、俊くんの背中に張り付いたり。気を引くために爆発を起こしたこともあれば、俊くんの席に座っていたことだってあります」

「マジかよ、知らなかった」

「俊くんの好きな髪形に変えてみたり、笑顔の練習を頑張ったり、挙句の果てには俊くんにひたすら念を送っていた時期もありました。『大好き、大好き、大好き……届け!』って」

「それでも俺は気づかなかったと……」

うなずくみどりちゃん。

「どんなに努力しようが、うまくはいきませんでした。それで自信を喪失した私は、さらに自分を傷つけるようになりました。まあ、これは俊くんが云々というより、他に事情があったからなんですが」

みどりちゃんがぼそぼそとなにかをつぶやいている。正確に聞き取ることはできなくても、その内容が晴れやかでないことはなんとなくわかる。

「だから私は、こうして俊くんと言葉を交わせることの喜びを、本当に、心の底から噛み締めているんです」

みどりちゃんがこちらに向き直る。

「本当は、その、一秒でも長く、俊くんとおしゃべりしたいですし、あ、穴が空くほど、私のことをみみみ見てもらいたいですし、二人の思い出も、たくさん……たくさん作りたいんです!」

懸命に、胸の内を吐露するみどりちゃん。その必死さが、数ヶ月前の彼女の面影にぴったりと重なった。もしかしたら、彼女の根っこは変わっていないのかもしれない。でもそれが──みどりちゃんがありのままでいることが、俺にとっては嬉しいのだ。

「だから、私──」

みどりちゃんが一歩前に出る。その距離わずか50センチ。今ならはっきりと見える、彼女の顔。

「いつか絶対に、俊くんを振り向かせてみせますからね」

輝きに満ちた表情で、みどりちゃんは告げるのであった。


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


日が落ち始めたので、二人で宿に戻ることにした。宿といっても、みどりちゃん家が所有する別荘なのだが。

「俊くんは、私たちの出会いを覚えていますか?」

突然、みどりちゃんがそんなことを訊いてきた。

「出会いか……。小学校で、俺を見かけたとか?」

正直、まったく覚えていない。むしろ「知らない」と言ったほうが正しいのかもしれない。

「違います」

あっさりと否定される。

「そうですよね……さすがに、覚えてなんかいませんよね」

言葉とは裏腹に、みどりちゃんは嬉しそうな顔をしている。

「あの瞬間こそが、私の人生を変えたターニングポイントであり、私の人生で最も意味と価値のある時間でした。いわば、私が一人の男の子に救われた日」

「そんな風に言われたら、気になってしょうがないな。いったい俺たちは、どうやって出会ったんだ?」

みどりちゃんの顔を窺う。

「ふふっ、それはまだ内緒ですよ。少なくとも、いま打ち明けるべきではありません」

「え、なんで!? ますます気になるんだが!」

「宝箱というものは、簡単に開かないからこそロマンがあるんです」

みどりちゃんが楽しそうに笑う。俺のほうはモヤモヤでいっぱいだが、いずれわかるときが来るだろう。

「さ、戻りましょうか。夕食は豪華なステーキですよ!」

「また肉類なんだ」

ぎゅっと、俺の右手を彼女が引いた。

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