第25話 「センパイに出会えて」

葵ねぇ、みどりちゃん、香澄によるビーチボール対決は、4091 対 4091 対 4091という超人類的なスコアを叩き出し、同点に終わった。よって俺は、三人の命令に従う結果となった。無念。


昼食が終わってから、一時間ほどが経っただろうか。俺はなぜか、ビーチに面した小高い山を登っていた。

「ほらほらセンパイ、もっと頑張らないと、ボクに負けちゃいますよ!」

「俺の敗北で構わん」

「ダメですよ! これは競争なんですから!」

「どうしてお前は手当たり次第に競争を仕掛けたがるんだ。ポケ○ントレーナーかよ」

「王者が最下位に命令を下せるっていうルール、センパイが作ったんじゃないですか」

「ぐっ……」

「さあさあ、先に頂上に到着したほうが勝ちですよ!」

「こりゃあもうちゃんとした登山だ」

軽快に山肌を駆けていく香澄に、自然とため息が漏れる。

香澄からの命令は、「ボクと山登りをしましょう!」だった。理由は不明だが、“なんでも”命令を聞くと言った手前、拒否もできまい。食後にこれはなかなかハードだが、潔く付き合おう。

「やったー! ボクの勝ち!」

香澄の勝利報告が、やまびことなって俺の耳に届いた。

「はぁ、はぁ……お前、やっぱりバケモンだな」

数分後、ようやく頂上に到着した俺は、すっかり息を切らしていた。

「ぶい!」

香澄が、爽やかな笑顔でVサイン。

「もう、身体の具合は大丈夫そうだな」

彼女の様子を見て、ありのままの感想が口をいて出た。

「はい、バッチリです!」

香澄が、もう一方の手でVサインを作った。さながらWサインだ。

「ひっくり返すとMサインです!」

「ヒップホッパーか」

すっかり本調子のようだ。

「ボクが生き長らえたのは、センパイのおかげですよ」

「生き長らえるって、んな大袈裟おおげさな」

「大袈裟なんかじゃありませんよ! 再会した日、センパイが来るのがあと一秒でも遅ければ、ボクは確実に死んでいました!」

「それじゃあ俺は命の恩人だな」

「はい! センパイはボクの生涯の恋人です!」

「そんなセリフ、一言も吐いとらん」

疲労感がハンパなかったので、岩に腰を据えた。標高がそこまであるわけじゃないが、それでも山頂からはあたりが一望できる。改めて見ると、本当に素敵なロケーションだ。

……ていうか、山の中腹に紅がいるんだが。アイツ、一人でなにやってんだよ。宝石でも探してるのか?

「うーん、空気がおいしいですねぇ。ライス八杯はいけます」

「さっきあんだけ食ってただろうが」

「いやぁ、久々の肉に、テンション上がっちゃいました」

照れ笑いする香澄。彼女の屈託のない表情を目にするのが、ずいぶんと懐かしく思えた。

「……香澄は、楽しいか?」

「楽しいですよ」

「即答かよ」

「センパイと一緒なら、いつだって、どこにいたって、楽しいですよ! ま、二人きりならもっと最高でしたけど」

「そうか。それならよかった」

「どうしたんですか、やぶから棒に?」

香澄に顔を覗き込まれる。

「いやなに、最近、香澄と遊んでなかったなぁと思って」

「うーん……そうでしたっけ? ボクは毎日センパイとデートしている気がするんですけど」

「それは妄想だ。はたまた幻覚だ」

香澄の頭を小突こづく。

「ともかく、お前が楽しいなら、俺も嬉しいってこと」

「それじゃあ、ボクがセンパイと結婚して、毎日をエンジョイすれば、センパイも毎日ハッピーってことですね!」

「地味に理路整然としているところがムカつくな」

太陽が、空高くから俺たちを照らす。真夏の太陽は、ジリジリと音が聞こえてきそうなほどに熱く、そしてまぶしかったが、不快な気分にはならなかった。むしろ穏やかであるとすら思える。山頂の清涼な空気が、そうさせているのだろうか。

「ねえセンパイ、部活行ってますか、最近?」

心臓がずしりと重たくなったのを感じた。

「……いや、行ってないな」

実は、ここのところ部活に参加できていない。学園祭で負傷したからというのもあるが、それ以上に、香澄と顔を合わせるのが憂鬱だったからだ。

「香澄は?」

ばつが悪くなって、香澄に振る。

「ボクも、行ってないです」

少し驚いた。香澄は、部活だけは真面目に取り組んでいたから。

「だって、センパイがいないんじゃ、行く意味ないですもん」

「いやいや、香澄はウチのエースなんだし、誰よりも優秀なんだから俺に気を遣う必要なんか──」

「ボクは、センパイと会うために部活に参加しているんです。センパイと唯一、一緒になれる場所だから」

香澄の気迫に、言葉を失ってしまう。

「センパイ、覚えてますよね。中学生時代のボクのこと」

「そりゃあ、もちろん」

香澄は中学の頃から、俺にずいぶんとべったりだった。今とあんまり変わらないな。

「あの頃のボク、今とは別人のようでしたよね」

「え」

「なんですかそのリアクション。今と昔じゃ、ボクは大違いだったんです」

そ、そうか……?

「昔のボクは、なんというか、人間じゃなかったんです」

今でも十分、人間離れしているがな。

「正直、センパイと会うまでのボクは、死んでいたも同然でした」

「……」

再び、言葉を失う。俺は多少だが、香澄の過去を知っている。それが決してたのしいものではないことも。

「ボク、言葉すらまともにしゃべれなかったんじゃないですかね。ちゃんとした教育も受けられなかったし。毎日毎日飢えていた……って、これは今もそうか」

香澄は淡々と語っているが、それが只事でないことは想像に難くないだろう。それほど、彼女の生活はすさんでいたんだ。

「一番はやっぱり……笑っていませんでした。センパイと出会うまで、笑ったことなかったんじゃないかな、たぶん。永遠に無表情。本当に、死んでいたも同然」

「……たしかに、今の香澄からは想像もつかないな」

そんな空虚な言葉しか、俺は口に出せなかった。

「でもセンパイと出会って、人生が変わった」

香澄が微笑む。

「センパイとはじめて言葉を交わした、三年前の春。あの瞬間にボクは、この世に生まれたんです」

香澄とはじめて顔を合わせたのは、彼女の入学式の日だった。

「でもお前、あのときめちゃくちゃ笑顔だったじゃないか」

忘れもしない。初対面の香澄が、満面の笑みで、いきなり腕に抱きついてきたことを。

「『あっ、センパイだ!!!』って思ったら、自然と笑顔になっていたんです。ボクのはじめての笑顔は、センパイのものなんですよ」

「本当か? いまいち釈然としないな」

初対面の赤の他人を見て、笑顔になることなんてあるか?

「本当なんです。今のボクが、それを証明しています!」

香澄がニッと笑ってみせる。お世辞にも「真っ白な歯」とは言えないが、それでも彼女の表情はキラキラしていた。

「それで、センパイを追いかけて、陸上部に入ったんです」

「あんときはビックリしたぜ。入学式で突進してきた子が、部活にいたんだからな。しかも部活でもべったり」

「そりゃあ、憧れのセンパイを前にして、じっとしてなんかいられませんよ」

「普通は逆だろ。緊張するもんだろ」

「入部当初のボクは、愛情表現が下手だったんですよ。誰かに甘えたこともありませんでしたし」

「……今も下手じゃないか?」

「今のボクは、ちゃんと愛を言葉にできますから。でも昔は、抱きついたり、マーキングしたりすることでしか、愛を表現できませんでした」

「ツッコミどころ満載なんだが」

「そんなボクが、センパイとの日々を通して、変わっていった」

香澄の声音が改まる。引き付けられるような横顔だ。

「入部初日、センパイとはじめて一緒に走りました。それまで背中を見ることしかできなかった人と、肩を並べて走る。それだけでボクは、夢見心地ゆめみごこちでした」

「いや、香澄は入部初日から誰よりも速かったぞ。だから肩を並べて走るとか、そういう次元じゃなかった」

「でも、真っ先にボクを褒めてくれたのはセンパイでしたよ。生まれてはじめて他人から褒められて、本当に嬉しかったんです。そのときボクは、陸上を頑張ろうって、心に決めたんです」

静かな風が、香澄の髪を撫でる。

「三年前のことなのに、よく覚えてるな」

「え、センパイは覚えてないんですか!?」

「自信はない」

「ぶぅ。じゃあじゃあ、はじめてボクが大会で優勝したときのことは!?」

香澄が前のめりになる。

「それはもちろん覚えてるさ。入部したての一年生が、いきなり関東で一番になっちゃったんだからな」

「えへへ。センパイに褒めてもらいたくて、頑張っちゃいました!」

「あんときはまあ、俺も嬉しかったよ」

「かわいい後輩の雄姿が見れて?」

「そうだよ」

「そっかぁ。あのとき、センパイはボクに恋したのかぁ」

「それは誤解だ」

「大会の帰りにおごってもらったアイスの棒は、洗わずにちゃんと飾ってありますよ」

「速やかに処分することをお勧めする」

「あとは、なんといっても合宿! ボクとセンパイが、はじめて一緒に寝た日!」

「そういや、あんときもお前、夕飯を食い散らかしてたよな」

「大勢で食べるのがはじめてで、はしゃいじゃったんですよ」

「他校の生徒と揉めるし」

「それは、知らない女がセンパイに色目を使ったからです」

「極めつけは、『風呂に入れないから一緒に入ってくれ』ときた」

「だって、お風呂なんて長らく入ってなかったですもん。身体の洗いかた、知らなかったし」

「なにからなにまで俺が面倒を見たなぁ」

「おかげでボクは、人間らしい生活を送れるようになりました!」

「親指を上げるな」

「センパイとお散歩したり、センパイと川遊びしたり、センパイと夜更かししたり。たくさんの思い出ができたなぁ」

まるで青春のアルバムを見返すかのように、香澄がこぼす。

「だから、センパイが引退したときは、寂しくて寂しくて仕方がありませんでした。いや、寂しいなんてもんじゃありませんね。もう悲しくて、苦しくて、死ぬほど絶望的でした」

表情ひとつ変えずに、香澄がそんなことを言い出した。

「それこそ大袈裟じゃないか? 今生こんじょうの別れでもないんだし」

「ボクには、途方もない空白でしたよ。センパイと唯一、二人きりになれる場所が、奪われたようなものですから」

香澄の言葉は、嘘でも誇張でもないのだろう。長い付き合いが、俺にそう直感させた。

「胸の中に、大きな大きな穴が、ぽっかりと開いたような痛み。それでいて、ボロボロの心臓を握り潰されたような孤独。そういうのが、一気にボクの身を削ってきたんです」

俺は黙って耳を傾ける。

「部活に入るまではそれが当たり前だったのに、部活に入って、センパイと出会ったボクは、それが苦しくて苦しくてたまらなかったんです」

真っ白な日光が、彼女のまぶたに吸い込まれていく。

「そのときようやく、ボクは、センパイを愛しているんだって、自覚しました」

「香澄……」

「ボクはバカだから、失ってはじめて、センパイのありがたみとか、ぬくもりに気づいたんです。だから、もう一生忘れないように、毎日毎秒センパイのことを想い続けるようになりました」

不意に、香澄の瞳が潤んでいるのを認めた。

「センパイに出会えて、本当によかった。センパイを好きになって、本当によかった。センパイには……感謝しても、しきれません」

瞳の奥の潤いは、やがて彼女の頬を音もなく伝った。太陽に照らされたそれが、どんな景色よりも輝いて見える。

それでも、彼女に涙は似合わない。

「香澄」

人差し指で、流れるしずくを拭ってやる。

「センパイ……」

俺の行動が意外だったのか、香澄は目を丸くしている。

「今日は、優しいんですね」

「俺はいつも優しいだろうが」

香澄の髪の毛をわしゃわしゃする。くすぐったそうに笑う表情が、やっぱり彼女には一番だ。

「センパイ、大好きですよ」

柔和な笑顔で、香澄が言う。ともすれば告白のように聞こえるそれは、彼女にとっては日常の一部に過ぎないのであろう。これが本当の告白ではないことが、俺にはわかる。

だから、俺も返事をせずに、穏やかな緑に視線を移した。

「なのでセンパイ、ちゃんと部活に来てくださいよ」

悪戯いたずらっぽく、香澄が言ってみせる。

「ああ、わかったよ」

そよ風に導かれて、彼女に視線を戻す。

そこには、真夏の太陽に負けないくらいのまぶしさがあった。

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