第23話 肉食系脱兎
暮れなずむ空の下、見慣れた道をぽつぽつと歩く。夕方だというのに、ベタベタしていて鬱陶しい暑さだ。
俺は今、香澄の家に向かっている。
昨日の帰りがけに病院に確認したところ、アイツは本当に脱走したらしい。そしてその後は行方知らず、とのことだ。まったく呆れたヤツである。
まあ、香澄のことだから家に立て
手土産をこしらえたビニール袋が、カサカサと音を立てる。
大した時間もかからずに、古びたアパートに到着した。ミシミシと声を出す階段を一段ずつ上り、202号室の前で足を止める。ここに来るのも三回目か。
「久我」と書かれた表札の周辺には、どこを見てもチャイムがなかった。今時珍しい家である。ともあれ、他に方法もないので、俺は分厚いドアを軽くノックした。
しばらく待っても反応はなかった。もう一度、今度はゆっくりと、指の骨を打ち付けるようにノックする。
……それでも反応はない。おかしいな、聞こえてないなんてことはないと思うが。とすると、外出中だろうか。でも香澄はほとんど家から出ないしな。もしや、本当にどこかへ失踪したとか?
様々な憶測が脳裏を行き交って、不安が募る。心配だな……そう思いながら、何気なくドアノブに手をかけると、
「開いてる……」
ドラマでよく見る展開に、さらに不安が
一枚の金属を長方形に切っただけのチープなドアは、見た目のわりに軽い。が、建て付けが悪いのか、ギーギーと不快な音が耳を刺した。
「香澄、入るぞ」
そう言いながら、ゆっくりとドアを引く。足を踏み入れる前に、家の中の様子を
「!?」
あまりの驚きに、心臓が飛び出しそうになった。それでいて声は出ない。恐怖で身体が動かないのだ。
目が合っている。
ドアの隙間を覗いた瞬間、香澄の顔がすぐそこにあった。まるで、ドアにべったりと貼り付いているかのように。
丸々とした空っぽな瞳に凝視されたかと思えば、突然、
──次の瞬間、香澄の全体重が俺にのしかかってきた。しかしそれは、痛くもかゆくもなく……不自然なほどに熱かった。
「……香澄? おい香澄、しっかりしろ! おい!」
数十分後。
「ふっかーつ!!!」
香澄が目を覚ました。
「大丈夫か、香澄?」
「はい、もう超元気です。俊センパイのオーラでパワーを蓄えましたから!」
俺はパワースポットかよ。
たしかに香澄は元気を取り戻したようだ。しかし、だいぶやつれているようにも見える。頬はこけているし、なにより
「そうだ、これやるよ」
手土産を差し出す。
「わーい、ありがとうございます! お、ポテチ入ってます。早速食べちゃおっと」
香澄はポテトチップスの袋を開封すると、一目散に食らい始めた。いやめっちゃ食うじゃん。大方、まともに食事すらとれていないのだろう。もっと栄養価の高い、ちゃんとしたものを買ってやるべきだったな。それにしてもめっちゃ食うじゃん。
「嬉しいです! センパイから会いに来てくれるなんて」
ポテチを口に運びながら、香澄が切り出す。
「聞いたぞ。お前、なんで病院から脱走したんだよ?」
「脱走なんて人聞きの悪い。ボクは家に帰っただけですよ」
「ったく……みんな心配してんだぞ」
「みんなって、誰ですか?」
香澄の手が止まった。
「ボクのことを心配してくれるのなんてセンパイだけですし、センパイだけで十分なんです」
「そ、そんなことは……」
「入院費なんて、ボクに払えるわけないですし……それになにより、アイツに生かされるなんて、
どすの利いた声に、思わず押し黙ってしまう。アイツというのは、おそらくみどりちゃんのことだろう。水蓮寺家の厄介になることを、香澄のプライドが許さないのか。
「体調はどうなんだ?」
「たった今、完治しました」
「嘘つけ」
たしかに、表向き香澄は元気そうだ。だが、アザや傷跡がまだ目立つ。病院に行っていないんだ、完治なんてしていないだろう。
「食事は? ちゃんと食べてるのか?」
「たった今、完食しました」
「そういうことじゃねぇよ」
ポテトチップスを秒で平らげた香澄は、しかし満腹なようには見えなかった。やはり、間違いなく細くなった。葵ねぇやみどりちゃんが元気だったのもあって、余計に心配だ。
「それでセンパイ、ボクを押し倒しに来たんですか?」
「は?」
「だ・か・ら、しばらくボクに会えなくて、溜まっちゃったんですよね?」
「なにが?」
「征服欲、略してセーヨクです」
「んなもんねぇよ」
「またまた、強がっちゃって。ずっとボクに会えなくて、寂しかったですよね?」
「いや、大して」
「嘘ですよ。だってセンパイ、ボクのこと大好きですもん」
「いや嘘じゃないから」
「嘘だッ!!!」
「そのセリフはやめろお前が言うとシャレにならんから」
「ボクは寂しくて仕方なかったんですよ」
「あっそ」
「センパイに会えなかったから、ずっと一人でシてたんですよ?」
「なにを?」
「そんな恥ずかしいこと訊かないでください!」
「痛ぇよ! 背中バシバシすんな!」
「まあ、その、自分で自分の喉を攻めたり、とか……?」
「自分から言ってんじゃねぇか! しかもなんで恥ずかしがってんだよ、恥ずかしがって言う内容じゃねぇよ!」
「イッてませんよ! センパイがいないからイケなかったんですよ! おかげでボクは欲求不満です」
「誰も聞いてねぇよ!」
「じゃあセンパイ、なにしに来たんですか? ボクを押し倒すためじゃなかったら……ボクを襲いに来たとか?」
「一緒じゃねぇか。第一、お前をどうこうするつもりで来たんじゃないから」
「ボクにどうこうされたいんですか?」
「違う」
「ボクにいじめられたいんですか?」
「断じて違う」
「ボクに開発されたいんですか?」
「絶対に違う」
「ならもう、もったいぶらずに言ってくださいよ! ボク、我慢できません!」
「お前が勝手に話をややこしくしてるんだろうが!」
「ドキドキ、ドキドキ」
「目を
まったく、コイツの相手は本当に疲れる。スイカ割りの後処理よりも疲れる。
「今日は、香澄に訊きたいことがあって来たんだ」
「ボクはセンパイのことが大好きですよ」
「聞きたいのは愛の告白じゃない」
「じゃあなんですか?」
一瞬の空白が生まれた。俺は
「お前、学園祭の日のことを覚えてるか?」
「はい、覚えてますけど」
「じゃあ、お前がなにをしたのかも覚えてるよな?」
「ええ」
「……香澄、なんであんなことしたんだ?」
「センパイのことが好きだからに決まってるじゃないですか」
即答だった。
「他に方法はいくらでもあっただろ」
「ボクにはあれしか思いつきませんでした」
即答だった。あまりの
「なんでそんなこと訊くんですか?」
「え?」
今度は逆に質問される。
「なんで、そんなわかりきったことを、わざわざ質問したんですか?」
「それは……」
言葉に詰まる。というよりは、口に出すのを躊躇ったというほうが正確か。
「センパイ、ボクと仲直りしたいんですよね? だから、ボクの真意を探るような質問をしたんですよね?」
「……!」
ずばり言い当てられ、心臓がわざとらしく音を立てる。
「図星ですね? ま、ボクにはセンパイのことなんてなんでもお見通しなんで、当然ですけどね」
勝ち誇ったように胸を張る香澄。ちょっとイラッとするな。
「……お前の言う通りだよ。俺は、みんなの腹の
ため息を吐き、大人しく白旗を掲げる。なぜか香澄が不機嫌そうな顔になったが、構わず続ける。
「俺は、みんなと決別したいわけじゃない。でも、もしまたあんなことが起こったら……和解しようと思える自信がない。だから、みんなが再び変な気を起こさないかどうか、探ってたんだ」
「ふーん」
おもしろくないといった反応だった。
「気を悪くしたか?」
「“みんな”っていうのが気に入らないです。ボク一人で十分ですよ」
そこかよ。
「それで、審査の結果はどうだったんですか?」
香澄が
「それは……まだわからん」
「なんですかそれ。ボクは余裕で合格でしょう」
「だといいけどな」
「センパイの
香澄が唇を
「それじゃあ、俺はもう帰るぞ」
「なに
「痛っ! 腕を引っ張るな」
「さあセンパイ、二人で愛を叫びましょう!」
「叫んでどうすんだ近所迷惑だろうが!」
「せっかく会えたのにもうバイバイなんて、世知辛いですよ」
「世知辛いの意味、知ってるか?」
「ほら、座って座って」
「だから引っ張るなって」
怪力で引っ張られ、強引に戻された。やつれても、パワーは健在らしい。
「つっても、やることなんかないだろ」
「えー、ありますよぉ」
不意に、香澄が不気味な微笑を作った。そして気が付けば、彼女の両手が俺の肩をがっしりつかんでいた。
「な、なんだよ」
「えっへへへ」
香澄の顔は、いつの間にか
「や、やめろ香澄っ」
声が
「やめませんよ。ずっと待っていたんですから、この瞬間を」
クソッ、まさかこのタイミングで仕掛けられるとは……! 葵ねぇとみどりちゃんがなにもしてこなかったから、香澄も同様だと信じてしまった。
「やっと、やっとです……。やっとセンパイを!」
香澄に押し倒されてしまった。マズい、詰んだ。せっかくモヤモヤが晴れたかと思ったのに、こんなところで……!
「それじゃあセンパイ、失礼します」
「……!」
恐怖に身構える。
「………………ふふっ」
「…………ふははっ」
「ひっ……」
「ははっ、あっははは……!」
「って、お前はなにしてんだよ!」
Tシャツの中に潜り込んできた香澄の頭をはたく。
「やめ……ひっく……やめろって……ははっ……言ってん、だろっ」
くすぐったくて言葉がまともに出ない。ちなみに笑い声は全部俺のだ。
「ふわぁ、久々の俊センパイのぬくもり! 最高だなぁ!」
状況を説明すると、香澄が俺のTシャツの中に侵入してきて、俺の素肌をまさぐっている感じだ。
「いい加減にしろっ」
俺が声高に叫ぶと、香澄はTシャツの襟の部分から顔を出した。
「お前は小動物か!」
「ボクってそういうキャラじゃなかったでしたっけ?」
「真逆だろ! ていうかどういうつもりだよ!」
「どういうって、センパイの肌と熱を堪能するつもりですよ」
「気色悪いからやめろ」
「でも、こうやってぎゅーってすると、あったかいんですよ」
「俺は苦しいんだよ」
「それにこうやってセンパイの上半身を触ってると、滑らかで気持ちいいんですよ」
「ひゃっ! くすぐったい!」
「えへへ、懐かしいなぁ。前は、よくこうしてスキンシップをとってましたよね」
「記憶にござらねぇ」
「むぅ、センパイ冷たいな。肌はこんなにあったかいのに」
「こっちは暑いんだよ! 真夏なんだからベタベタするな!」
ちなみにこの部屋にはエアコンがない。
俺はなんとか香澄を引き離すと、Tシャツを整える。めちゃくちゃ伸びちまったじゃねぇか。
「ちぇ、もう終わりかぁ。まあ会えなかったぶんはチャージできたし、いっか」
能天気な声だ。だが、暴力を振るわれたわけではないので大目に見よう。
「はぁ、もう疲れたから本当に帰るぞ」
「センパイのいけず。あと三百年はウチにいていいのに」
「お前は老婆か」
軽口を言いながら、玄関で靴に履き替える。
「香澄、これ……」
そこで俺は、嫌なものを目にした。バットと斧だ。
「ああ、それ捨てるんですよ」
「え……?」
予想外の発言に、呆気に取られる。
「ボクにはもう必要ないんで」
「そ、そうか……!」
無意識に語調が
「嬉しそうですね?」
「そりゃあ──」
「嬉しいに決まってるだろ」と言いかけたところで、口をつぐんだ。別に気を遣ってやる必要はないが、変に香澄に気分を害されては困る。俺としては、香澄が改心したことがなによりも重要なのだから。
「それじゃあ、またな」
咳払いをしてから、香澄に告げる。
「“またな”ってことは、またボクに会いに来てくれるってことですね!」
「……まあ、気が向いたらな」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
風呂から上がり、自室のベッドに身を投げ出す。真っ白な天井と目が合った。
ぼんやりと、この三日間のことを思い返す。
葵ねぇとの突然の再会に始まり、みどりちゃんや香澄とも言葉を交わした。
まずは、全員無事そうでなによりだ。最悪の結末にならなくて、本当に安堵している。
だから問題は、やっぱり学園祭でのみんなの行動だろう。正直、今だって心の底から許しているわけではないし、完全に信頼しているわけでもない。病み上がりだから、この三日間は手を出さなかったのかもしれない。
ただ、彼女たちのことをちょっとだけ、ほんのちょっとだけだが、理解できたと思う。どうしてあんなことをしたのか……その動機が、少しだけわかった。もっと言えば、理解してみようという気になったんだ。このまま拒絶していたって、なにも変わらないからな。
今一度、胸に手を当てる。ずっとくすぶっていたモヤモヤは、いつの間にか消えていた。
「今まで通りに接しよう」
自分自身に対して、言葉を発する。なんだか変な感覚だ。
俺は、みんなとこれまで通りの関係にありたい。そのためには、俺のほうから歩み寄らなければいけないのかもな。
仲直りに向けて、踏み出そう。
目を閉じる。夏休みは、これからだ。
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