sideK Call Your Name

病院に放り込まれてからどれくらいが経っただろう。数えてなんかいないけど、たぶん一週間ぐらいか。胸糞むなくそが悪くなって、ボクは病室を抜け出した。

「はぁ、はぁ……はぁ……」

うざったい雨が、体力をむしばんでいく。傘なんて持ってるわけがない。冷たい雨粒が傷に染みる。身体もまったく命令を聞かない。まるで欠陥品のおもちゃみたいに、ぎこちなく歩くことしかできない。

病院を抜け出した理由? そんなのはいくらでもある。入院費を請求されたらどうしようもないし、あの陰気な女に生かされるのは虫唾むしずが走るし、それになにより、害虫どもと一つ屋根の下っていうのが考えられない。殺意で茶がきそうだ。

知らない道を、直感だけを頼りに歩く。病衣姿なのに、誰も声をかけてこない。ま、はなから助けなんか求めてないけど。ボクに手を差し伸べてくれるのは、彼だけだから。

「……センパイ」


何時間も歩いて、アパートに到着。いったいどこまでボクを連れ出したんだよ。聞き慣れた階段の音を流して、202号室までもがく。

「チッ……」

鍵を忘れた。というかなにも持っていない。まあ、貴重品なんかないから問題ないか。

ドアノブをつかみ、思いっきり引っ張る。クソ、今のコンディションじゃ片手では無理か。両手で小さなドアノブを握り、壁に足をかける。壁を蹴る反動で両腕を引き、ドアの鍵を破壊した。

部屋に入ると、転がるように床に寝た。さすがに体力の消耗が激しい。肺を酷使して強引に呼吸をしている感覚だ。

数日ぶりの家。でも、別に安心感やぬくもりなんてものはない。あるのはむなしさと、溜まりに溜まったホコリだけだ。一人きりにはとっくに慣れてる。今更なにも思わない。

センパイと撮った写真。中学の入学式と、この前のデートのヤツ。そうか、この家にも宝物みたいなものはあったな。写真の中のボクは、なかなか褒められた笑顔をしている。ボクにも、あんな表情があったんだな。でもそんなことはどうでもいい。ボクにとっては、なによりもセンパイが大事だから。センパイのことしか、見ていないから。センパイさえいてくれれば、ボクはそれでいいんですよ。

「ただいま、センパイ」

そこで、意識がプツリと途切れた。


目を覚ます。昨日の雨が嫌がらせだったかのような晴天だ。太陽の高さからして、もう昼間だろう。爆睡していたようだ。というより、起きれたのが奇跡みたいなものだ。あのまま一生目を覚まさなくても、おかしくはなかったぞ。

「いっ……!」

起き上がろうとした途端、身体が悲鳴を上げた。筋肉も関節もボロボロだ。擦り傷や切り傷がんで痛い。骨まで折れているようだ。病院ってのも使い物にならないな。まあいい、こんなのは唾を付けて寝ていれば治る。できればセンパイの唾を浴びたいが、我慢しておくか。

夏は楽だ。生活が楽。寒くないし、明るいから電気がなくても問題ない。暑いのは部活で慣れているし、全裸で過ごしていればへっちゃらだ。ただ、水がないのは命取りだ。しばらく水道代も払えてないから、そのうち止められるだろう。面倒だが、公園からんでくるか。

くたびれた身体で、家を後にした。


三日三晩、なにも食べていない。当たり前だ、食料なんてないから。汲んできた水で、飢えをしのぐ。

空腹すぎて吐きそうだ。人間、満腹時なんかよりも空腹時のほうがよっぽど吐き気を催すものだ。病院では無理やり食わされていたから、この状況は久々だな。なんだか懐かしくも感じる。仮初かりそめの天国は、地獄の苦痛を助長するだけだ。もしかしたら、天使の裏側には悪魔の姿がプリントされているのかもな。だが生憎、ボクにそのへんの信仰はない。ボクが求めているのはセンパイただ一人だ。骨折も、空腹も、センパイさえいれば一発で治るのに。

腹に穴が空きそうだ。胃がチクチクして痛い。苦しい。苦しいよ──

「セン、パイ」


痛みや空腹を紛らわすために、自分で自分を慰めたりもした。単に欲求不満ということもあるが。

股を触ったり、上半身をまさぐったり。それでも全然足りないから、自分で喉を攻めた。両手で喉をわしづかみにしたり、二本指を突っ込んだり。いつもはこれで気が晴れるのだが、今日はダメだった。攻められているという興奮も、息苦しいという快感も、今日はまるで湧いてこなかった。やっぱり、自慰は健康なときにしないと無意味か。これじゃあなにも紛れないや。

センパイさえいれば、薬も食料もいらない。センパイに欲求不満を解消してほしい。センパイに犯してほしい。センパイが欲しい。

「センパイ……!」


死にそうだ。死にそうだ死にそうだ死にそうだ。

あれから何度吐いただろう。骨は強引にくっつけたが、痛いものは痛い。言うまでもなく、完治なんかしてないし暮らし向きも最悪だ。もう、いつ死んでも不思議じゃない。目の焦点は定まらないし、声だってうまく出せない。呼吸は浅く、時々思い出したかのように痙攣けいれんを起こす。

これが餓死か。今までだって、食料不足に陥ることはあったが、死を目前にしたのは久々だ。ボクはこのまま、誰もいない部屋で雑巾のように死に果てるのだろう。

最悪の人生だった。でもまあ、これでピリオドなら、気楽ってものか。


──コンコン


……うん? なんだ?


──コンコンコン


なにか、聞こえる。ははっ、ついに幻聴まで聞こえるようになったのか。


「開いてる……」


……!!! 

センパイの声だ。間違いない、絶対にそうだ。ボクがセンパイの声を聞き間違えるわけがない。

行かなきゃ。たとえ幻聴でも、センパイのところへ行かなきゃ。


「香澄、入るぞ」


ドアが開かれる。ボクは前のめりになって、その先に待つ光を見つめる。

へへ、センパイだ。本当にセンパイだ。幻覚なんかじゃない、本物のセンパイ。

やっと会えた。やっと会えた。やっと会えた……!

これでボクも、あと数週間は、生きられ、そうだ──


「……香澄? おい香澄、しっかりしろ! おい!」


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「ふっかーつ!!!」

ボクはものの数十分で目を覚ました。小鳥のさえずりすら聞こえてきそうな、快適な目覚めだった。

「大丈夫か、香澄?」

「はい、もう超元気です。俊センパイのオーラでパワーを蓄えましたから!」

嘘なんかじゃない。センパイの声を耳にした瞬間から、センパイの顔を目にした瞬間から、ボクの全細胞は潤いに満たされた。センパイはボクのエンジンだ。

「そうだ、これやるよ」

センパイがビニール袋を差し出す。なんだろう?

「わーい、ありがとうございます! お、ポテチ入ってます。早速食べちゃおっと」

嬉しかった。センパイの厚意ももちろん嬉しかったが、それ以上に、久々の食事にありつけたことが嬉しかった。ボクは一心不乱にポテトチップスを食らった。うまい。うまい。カロリーが、そのままダイレクトにボクの熱になっていく感覚がした。そういえば、今年の夏は極寒かよと思っていたが、ボクの体温が底を突いていたのか。


「それでセンパイ、ボクを押し倒しに来たんですか?」

ポテトチップスを平らげると、センパイに尋ねた。きっとセンパイも、ボクに会えなくて欲求不満に陥っているのだろう。

「じゃあセンパイ、なにしに来たんですか? ボクを押し倒すためじゃなかったら……ボクを襲いに来たとか?」

絶対にそうだ。そうに決まっている。センパイはボクのこと大好きだから。ボクを犯したくてたまらないのだろう。ボクは当然、ウェルカムだ。ボクだってセンパイに犯されたい。

「今日は、香澄に訊きたいことがあって来たんだ」

なんだ、ボクを凌辱してくれるんじゃないのか。ちょっぴり期待外れ。センパイはいつになったらボクを押し倒すんだろう? ボクも気が長いほうじゃないから、さっさとしてくれないと狂っちゃいそうですよ。

ま、今日のところはボクも手は出しませんけどね。さすがに今のボクじゃ、センパイを満足させてあげることはできないし。他人につけられた傷を、センパイに見せるわけにもいかない。ボクはセンパイに傷つけられたいの。

「……香澄、なんであんなことしたんだ?」

「センパイのことが好きだからに決まってるじゃないですか」

なにを今更。センパイは時々、天然なところがある。ボクが何兆回も愛を伝えているのに。そんなセンパイも大好きですけどね!


「それじゃあ、俺はもう帰るぞ」

「なに戯言ざれごとを吐いてるんですか。センパイの家はここですよ」

「痛っ! 腕を引っ張るな」

「えっへへへ」

「や、やめろ香澄っ」

「やめませんよ。ずっと待っていたんですから、この瞬間を」

我慢できなくなって、センパイの肩をつかむ。やっぱりか。

「やっと、やっとです……。やっとセンパイを!」

センパイを押し倒し、ボディチェックがしやすい体勢に持ち込む。服の上からじゃ無理か。

「それじゃあセンパイ、失礼します」

そしてボクは、センパイのTシャツの中に潜り込んだ。

「ふわぁ、久々の俊センパイのぬくもり! 最高だなぁ!」

センパイの肌……すっごく滑らかでウトウトする。センパイの熱がじかに伝わってきて、ボクのほうが蒸発しそうだ。センパイの体温、センパイの血管、センパイの脈拍……その全部が、ボクの身体を沸騰させる。ヤバい、興奮する。久々のボディタッチということも手伝って、もうイッちゃいそうだ……!

「えへへ、懐かしいなぁ。前は、よくこうしてスキンシップをとってましたよね」

「こっちは暑いんだよ! 真夏なんだからベタベタするな!」

センパイに引き剥がされてしまった。

「ちぇ、もう終わりかぁ。まあ会えなかったぶんはチャージできたし、いっか」

それに、目的は達成できた。

「はぁ、もう疲れたから本当に帰るぞ」

センパイが立ち上がり、玄関に向かった。夢のような時間は、これで終わってしまうみたいだ。

「香澄、これ……」

センパイがつぶやく。目線の先には、すっかりくたびれたバットと斧があった。

「ああ、それ捨てるんですよ」

「え……?」

ソイツらは役立たずだ。そんなおもちゃじゃ、邪魔者を殺せない。それに──

「ボクにはもう必要ないんで」

次なる武器は、もうすでに用意が済んでますから。

「それじゃあ、またな」

センパイが言った。お別れなんて嫌だ。この時間を永遠にしたい。センパイを閉じ込めたい離れたくないやっと会えたんだもん……!

「“またな”ってことは、またボクに会いに来てくれるってことですね!」

それでも今日は、大人しくしていよう。センパイに嫌われてしまっては元も子もない。それに、センパイに拒絶されたらボクは即死する。どんなに健康でも、どんなに満腹でも、センパイに縁を切られたら否応なく心停止する。

「……まあ、気が向いたらな」

センパイはボクとの結婚を約束して、家を出た。センパイの姿を一秒でも長く目に焼き付けていたくて、背中に手を振り続けた。瞬間、センパイが手を振り返してくれた。心臓がドキッとした。それでボクは、自分が恋をしていることを再確認した。

センパイの影が見えなくなり、センパイの匂いがしなくなったところで、ドアを閉める。ちゃんとお見送りできた。これでボクも、立派な花嫁に一歩前進だ。

ふと、握りしめていた左手を開く。そこには、ぐしゃぐしゃになったシールのようなものがあった。絆創膏ばんそうこうみたいといったほうがイメージしやすいか。肌色で、薄くて、小さなシールだ。

これは、俊センパイの肩に付いていたものだ。大方、あの金持ち女がセンパイに仕込んだ盗聴器かなにかだろう。相変わらずやることがキモい。

「陰気臭いんだよこのカスが!」

盗聴器に向かって叫ぶと、それをビリビリに破り捨てた。むしゃくしゃしたのでバットも折った。

大きく息を吐くと、床に寝転んだ。真っ暗な天井と目が合う。

大好きなセンパイに会えた。めちゃくちゃ嬉しかった。何度センパイの声で昇天したことか。センパイに見つめられる度に、失禁するのを精一杯我慢した。これはある種の禁断症状だ。それくらい、ボクはセンパイに飢えていたんですよ。

身体は完治した。向こう一週間は、なにも口にしなくても生きられる。今のボクは健康そのものだ。

そっと、股に手を伸ばす。センパイの肌にまさぐられているようで、身体がビクビクする。右手で、喉に指を突っ込んだ。センパイの熱が侵入してくるみたいでたまらない……! 苦しい。つらい。快感だ。ボクは今、センパイに犯されてるんだ!

今日は、満足できそうだ。

「センパイ!!!」

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