第15話 暗雲
「会いに来ちゃいました。俊センパイ」
視線の先から声がした。沈みかけの夕焼けが逆光になって、いまいち姿がはっきりしない。それでもわかる。この声の在り処が。
「香澄……」
その名を口にした途端、彼女の姿が、色を持ったように鮮明になった。
「わあ、嬉しいです。ボクのこと覚えてくれてたんですね」
「そりゃ……忘れるわけないだろう」
「そうですよね。なんてったって、ボクたちは運命の糸で結ばれていますからね」
香澄が、屈託のない笑顔をこちらに向ける。どうしてだろう、それが俺を嬉々とさせることはなかった。
「センパイ、今日の学校サボっちゃいましたね」
心臓がどきりとした。
「どうしてお前がそれを?」
「そりゃあセンパイ、今日の部活に顔出さなかったじゃないですか。真面目な俊センパイが、理由もなく無断欠席するなんて思えませんからね」
言われてみれば、部長に欠席の旨を伝えるのを失念していた。正直それどころではなかったしな。
「それに、昼休みにチラッと教室を覗いたんですけど、センパイの姿がありませんでした。ボク以外の人間と、どこかでつるんでるっていうことも考えにくいですから、今日はサボりだなと」
「真面目な俺が、学校をサボったと思ったのか?」
「そうせざるをえなかった、でしょう? センパイは真面目な上に優しいですから」
全部お見通しということか。
「それで、俺を
「違いますよぉ。むしろボクは、すごくすごくすごく心配していたんですから」
冗談めいた口ぶりとは裏腹に、香澄の瞳は本気だった。
「それに、怪訝そうにしていた部長を説得したのもボクなんですからね。未来の伴侶であるボクがそう言うならって、部長も納得してくれました」
まさに怪訝な視線を、香澄にやった。
「もう、そんな顔しないでくださいよ。冷たい目線を向けられたら、ぞくぞくしちゃうじゃないですか」
言われて俺は、彼女から視線を外した。帰宅ラッシュの時間だというのに、周囲には誰の影もなかった。
「まあ、そのことはもういいです。まさか三人で学校をサボるだなんて予想外でしたけど、こうして俊センパイが無事ならそれでいいです」
……うん? 今なんて言った? 三人で学校をサボる……?
「そんなことよりも」
香澄の言葉を追求しようと、顔を上げる。その刹那──
「もうすぐ雨が降り出しますよ、俊センパイ」
香澄が一歩を踏み出す。反射的に、俺は後退した。
「ありゃ、どうしたんですかセンパイ? ボクから離れようとするなんて」
「いや……」
俺も意図してやったわけではない。体が勝手に反応したんだ。脳が、心が、あの恐怖を忘れられずにいるのだろう。彼女の虚ろな瞳を。
「まあ、それに関しては他人のこと言えないですけどね。ボクもセンパイから離れちゃってた時期がありましたし」
悪戯っぽい笑みを浮かべる香澄。
「それより……雨が降り出すって、どういうことだよ。そんな風には見えないぞ」
空に視線をやった。水無月の空は低かったが、雨が降る気配はまったく感じられない。
「えっと……そうですね。今日は雨の心配はなさそうですね」
香澄は右手を宙にかざすと、自信満々に言った。「お前は宇宙と交信でもできるのかよ」と思ったが、口にするテンションではなかった。
「なんだよ、ただの天気予報かよ。それだけなら俺はもう帰るぞ」
呆れ顔で告げると、俺は香澄に背を向けてその場を立ち去ろうとした。爪先を四時の方向へ向け、身を翻そうとした瞬間、
「天気予報というか……警告?ですよ」
香澄のセリフに、足が止まった。
「警告って、なんだよ」
再び香澄に対面すると、俺は即座に
「わーにんぐ、ですよ」
「そうじゃなくてだな」
「あはは、やっといつもの感じに戻ってきましたね! やっぱり俊センパイはそうでなくちゃ」
なんだか香澄に乗せられているようで、むすっとした。
「もう、かわいい顔しちゃって」
「う、うるさい。それより、なんの警告だよ。俺に身の危険でも迫ってるのか?」
ばつが悪くなって勢いで言い捨てると、不意に香澄の面持ちが変わった。表情の変化だけで、空気が一気に張り詰めた。
「うーん、そうですね。有り体に言えば……」
ざっと、一陣の風が俺たちの
「全員、動き出しました」
太陽に生み落とされていた影が、夜と同化して消えた。
「いや……それもよくわかんねぇよ」
全員って誰だ? 動き出すってなんだ? それが俺に関係あるのか? そんな疑問ばかりが湧き出る。
「本当に、わからないんですか?」
まるで俺の脳裏を射るかのように、香澄はきっぱりと訊いた。
「薄々理解してるんじゃないですか? ボクの言葉の意味を」
そのセリフに、思わず黙り込んでしまう。そうだ。なんとなく、香澄の言わんとしていることはわかっているのだ。最近になって、俺の身の回りで不可解なことが頻発するようになったこと。そのどれにも、俺の親しい人間が絡んでいること。そして彼女たちが、そんな無茶苦茶に走った理由。なんとなく、わかってはいた。
だが一方で、それを認めたくなかったという気持ちも強かった。認めることで、彼女たちとの関係が変わってしまうのが嫌だった。俺は今のままで十分楽しい。充実した学生生活を過ごせている。だから、それを崩壊させてしまうのが嫌だった。認めたくなかった。
「……ああ、そうだな」
肯定の意を、曖昧に返す。まだ俺には、踏ん切りがつかない。
「でもよ……もし俺の推測が正しければ、香澄だって、その“全員”に含まれるんじゃないのか?」
言ってから、我ながら挑発的なセリフだと自覚した。
「ふふ、そうですよ。むしろボクが、先陣を切ったわけですしね」
自虐気味な言葉は、香澄には似合わないな。
「そういった意味では、宣戦布告にもなりますかね」
「宣戦布告……?」
「はい! ボクが俊センパイをゲットするんだっていう、宣戦布告です」
香澄の声が跳ねる。
「それを俺に言ってどうするんだよ」
苦笑が漏れた。
「そりゃあ、ボクが必ず迎えに上がるので、心して待っていてくださいねっていう趣旨ですよ」
「あっそ」
自分でも、どうしてこんな会話を平気でできているのかわからなかった。つまりそれって、また香澄に襲われる可能性があるってことなのに。
「それに……宣戦布告の相手は、なにも俊センパイだけじゃないんですよ」
「ん……?」
他に相手でもいるのか? 俺が疑問符を浮かべていると、
「今だって、監視されていますからね」
「監視、だって……?」
「はい。どうやらボクたちの会話が、他の女に見られているみたいですよ」
慌てて周囲を見渡す。しかしそこには、相変わらず俺たち二人の姿しかなく、誰かの気配すら感じられなかった。
「へ、変なこと言うなよ。誰もいないじゃないか」
「いますって。不快なニオイがプンプンしますもん。……こりゃあ、二人いるな」
眼光を
「くっ……」
どうやら本当に、全員が動き出したってことらしい。目の前の事実に歯を食いしばる。
「まあいいや。どうせ今日は手を出さないだろうし」
香澄は殺気めいたものを引っ込めると、俺に対面し、
「そういえばセンパイ、もうすぐ学園祭ですね」
と、唐突な話題を出した。
「まあ、そうだけど……急になんだよ」
「いやぁ、ボク、学園祭なんてはじめてだから、楽しみだなって」
そう口にする香澄の表情は嬉々としていた。
「俊センパイも楽しみでしょう?」
「そりゃあ、楽しみだけど」
突然の話題転換にまごつきながら答える。
「ですよね。学園祭なんて、青春のビッグイベントですもんね。みんな楽しみですよね」
やはり興奮気味にしゃべる香澄に、テンションの差を感じざるをえない。ここは俺も話に乗っかるべきか……そう思い始めた瞬間、香澄が一気に声のトーンを下げた。
「そう……みんな、楽しみにしてるんですよ」
ハッとした。その「みんな」がこの会話において誰を指すのか……理解するのは困難ではない。
「……まるで、学園祭でなにかが起こるみたいな口ぶりだな」
「起こりますよ。絶対に」
香澄の力強い眼差しに、逃れられない未来が映った気がした。他でもない香澄自身が言うんだ、学園祭で絶対になにかが巻き起こるのだろう。そしてその中心にいるのは……俺なんだろう。
「いやぁ、本当に楽しみですね!」
濁りすら感じられない笑みを向け、香澄が言った。まるで俺の懸念なんてお構いなしのようだ。
「さて、ボクはそろそろ帰るとしますかね」
不意に、香澄がこちらに向かってきた。連動するように俺は後ずさる。
それでも香澄は歩を止めない。一歩、一歩と、俺との距離を詰める。
黒ずんだ空に不安が掻き立てられる。物言わぬ香澄の表情に背筋が凍る。
一歩、一歩、音もなく歩み寄るそれの正体は──恐怖心だ。
まさか、このタイミングで仕掛けてくるのだろうか。動き出したと言っていたが、よもやこんなにすぐだとは思ってもいなかった。反射的に身構える。もし腰に剣でも差していたら、間違いなく手をかけていただろう。
様々な憶測がごった煮になっていると、香澄はいつの間にか目の前にいた。身が固まる。もはや目をつむることすら叶わないほどに。
冷や汗が垂れるのと同時に、香澄が足を踏み出す。そして──
「やっぱりボクは、俊センパイなしには生きていけないみたいです」
とだけ
香澄の背中を追うように、視線をやる。俺が見ていることに気づいたのか、香澄はその場に立ち止まると、
「俊センパイ! 明日は部活サボらないでくださいね!!!」
元気な声で言って、大きく手を振った。
それに応えるように、小さく手を振り返す。香澄は満足そうな笑みを咲かせると、振り返り、帰路をたどった。
香澄の後ろ姿が見えなくなるのに、そんなに時間はかからなかった。俺は一呼吸してから、呆然と空を仰いだ。いつの間に顔を出していたのだろう。雨雲が、ゆっくりゆっくりと、流れている。
全員が動き出した。
学園祭でなにかが起こる。
避けられない運命に導かれるように、一歩を踏み出した。
遠くで、雨音がした。
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