第14話 右腕の鎖、左腕の×××

「んっ………………」

薄暗い視界に、点が差す。

その点はあっという間に大きくなって、眼前の景色へと姿を変えた。

ぼんやりとした意識の中、無意識に数回、瞬きをする。

「……………………」

ぼーっと天井を見つめる。そこには瀟洒しょうしゃな物体が吊り下げられていて、それが照明だと気づくのに時間がかかった。見知らぬ天井だ。

やがて意識が覚醒すると、一目散に右手に視線をやった。ぷらぷらと右手を振り、自由が利くのを確認すると、ホッと一息ついた。どうやら拘束はされていないらしい。その事実だけで、少しは気が楽になる。

体を起こし、周りを見渡した。ここはどこだ? 俺はまったく知らない部屋で寝ていたらしい。それも並みの部屋ではない。キングサイズのベッドに、大型のテレビ、そして広大な天井をこしらえたそれは、まさに高級ホテルの一室といった印象だ。まあ、そんな部屋に入ったことはないから、テレビ番組の入れ知恵であるが。

ベッドから身を離し、カーテンに手をかける。とりあえず太陽の光を浴びよう。そう思い、これまた超巨大なカーテンを力一杯開いた。

「まぶしっ…………」

窓いっぱいに広がる朝日に、思わず目をつぶる。手でひさしを作り、窓の外を眺めると、見慣れた街並みが眼下に構えていた。

「あれは、ネオ・アキバランドか」

どうやらここはネオ・アキバ駅の近くらしい。てっきり壮大な自然が見られるかもなんて思っていたから、若干の拍子抜けは否めないが、見知った場所でちょっと安心もした。

そういえば昨日はネオ・アキバランドにいたんだよな。そしたら急にめまいがして、気が付いたら眠っていて、今に至るのか……。いったいどうして、突然睡魔に襲われたりしたんだろう。たしかあの時、ペットボトルのお茶を飲んで、そしたら──


「し、俊くん、起きていらっしゃったんですね」


不意に背後から声をかけられた。音もなく現れたその影に、驚きながら身を翻す。


「……って、みどりちゃんか。おはよ……!!!???」

俺は振り返り、声の主を突き止めると、すぐさま体を180度回転させた。

「み、みみみ、みどりちゃん……! その格好は!?」

みどりちゃんに背を向けた状態で、彼女に尋ねた。

「えっと……その、たった今、シャワーから上がったところで」

「そ、そうだったんだ。ごめん」

「い、いえいえ! 私も不注意でしたし……」

若干気まずい空気が流れた。なにせタオル一枚の姿を見てしまったのだ、お互いにきまりが悪い。

「と、とりあえず着替えてきたら? 俺はしばらくあっち向いてるから」

俺は窓の方に視線をやりながら、みどりちゃんに提案した。

「そ、そうですね……」

みどりちゃんは賛同してくれたのか、そんなセリフを発した。

「じゃ、じゃあ、着替え終わったら教えて」

「はい……」

みどりちゃんがそうこぼしたのを聞いて、俺はしばし待つことにした。実際、脱衣所で着替えてもらえばそれで済む問題だが、万が一に備えて視線は窓の方へ固定した。さんさんと照る朝日を仁王立ちで凝視する……なんとも異様な光景だ。早く解放されたい。まだか? まだ着替え終わらないか? 逸る心から、待っている時間がとてつもなく永く感じた。


「あ、あの、俊くん……!」

「!!!???」

突然、俺の名前が呼ばれたかと思うと、

「みどりちゃん!? あの、その、どうしたの……!?」

急に背中が重くなったのを感じた。いや、重くなっただけではない。ほんのりとした温かみ、女の子特有の心地よい香り、そして……

「私……今、裸なんですよ……?」

男が持ち合わせていない起伏を、背中に感じた。

予想だにしない告白に、たじろいでしまう。一糸もまとわぬ姿のみどりちゃんに、密着されている。客観的に観察することができないこの状況は、しかし想像するだけで体が熱くなってくる。落ち着け、いったん冷静になろう……。とりあえずこのピンチを脱するんだ。

「み、みどりちゃん。急にどうしたの?」

決心とはあべこべに、声は裏返っていた。

「い、いえ、その……」

みどりちゃんはぼんやりとした声音ながらも、一向に俺から離れる気配がない。

「私のことを、知ってほしいなって」

「み、みどりちゃんのこと……?」

俺が聞き返したのと同時に、みどりちゃんが俺の腰に腕を回した。

「…………っ!?」

途端に、みどりちゃんがぎゅうっと密着してくる。ぐいぐいと、圧迫するように引き寄せられる。彼女の肌が、これでもかと押し付けられる。背中越しに感じる二つのふくらみが、否が応にも脳裏にこびりつく。どんなに振り払おうとも意識せざるをえない感触。みどりちゃんって、意外と大きかったんだな……。

「わ、私の体……興奮、しますか……?」

煩悩を射るようなセリフに、思わず身をぴくりとさせる。

「みみみ、みどりちゃん、様子が変だよ? どうしたの?」

「私は、しますよ」

俺の見え透いた言葉を上書きするように、みどりちゃんがはっきりと言った。

「私は……俊くんの体で、興奮しますよ」

「え……?」

「あったかくて、がっちりしていて、おおきな俊くんの背中……。こうやってくっついていると、それをひしひしと感じられて……私まで、熱くなってきちゃうんです」

腰に回した手で、ぎゅっと俺のTシャツを握る。

「俊くんの匂いとか、肌の感触をこんなにも近くで感じられて……正気を保つので精一杯になっちゃうくらい、頭がくらくらします。それくらい、私はこの瞬間に、幸せを見出しています」

臆面もなく口にするセリフに、脳内がき乱される。気のせいだろうか、みどりちゃんの鼓動が聞こえたような気がした。

「俊くんは、興奮しますか? 私の体に、興奮しますか?」

「そ、それは……!」

正直に言えば、興奮している。いや、この状況で興奮しない男などいないだろう。しかし、それを口にするのははばかられた。理性というブレーキが、かろうじて俺を引き留めてくれていた。

「…………やっぱり、興奮できないですよね」

数秒の静寂の後、みどりちゃんが口を開いた。

「こんな傷だらけの体じゃ、興奮なんてできないですよね」

「え……?」

彼女の言葉の意味がわからかった。傷だらけって、どういうことだ……?

「私の腕、見てみてください」

言われるままに、腰に回された腕に目をやった。そこには──

「こ、これ……!」

驚きに目が開いたのを自覚した。視線の先、みどりちゃんの左腕に映っていたのは、数本の線だった。

「見ての通り、傷跡です。ほとんどがカッターによるものですけど、一つだけナイフで切ったものもあります」

俺の動揺にはお構いなしに、彼女は淡々と語る。

「それに、傷跡だけじゃなくて、アザもあるんです」

たしかに、みどりちゃんの腕の所々には変色が見られた。それは赤かったり、青かったり、ものによっては黒かったりしていて、痛々しさを想起させた。

「ね? こんな体じゃ、興奮どころか、目も当てられないですよね」

みどりちゃんは悲しむでもなく、怒るでもなく、ただありのままを述べるようにそう言った。

「そ、そんなことは……」

「気を遣わなくとも大丈夫です。私も、この体は醜いと思っていますから」

生々しい現実に色を失っていると、みどりちゃんが俺の体から身を離した。

「驚かせてしまって申し訳ありませんでした。すぐに着替えてきますので、ベッドに座って待っていていただけますか?」

「あ、うん……」

俺が返事をする前に、みどりちゃんは脱衣所に戻っていった。あれは……あの傷は、おそらくそういうものだろう。まさか、みどりちゃんにあんなショッキングな一面があったなんて……。衝撃にあてられて、上手くフォローしてあげられなかった。

詰まっていたものを吐き出すように、ため息をつく。あまりの展開にどっと疲れを感じた。俺は言われた通りに、ベッドに腰を下ろすことにした。


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


ベッドに腰かけてからすぐに、スマホが見当たらないのに気づいた。部屋中を見渡し、クローゼットがあるのを確認すると、扉を開けた。これまた立派なクローゼットだったが、予想通り俺の荷物が収納されていた。リュックの中をあさり、スマホをゲット。それを片手にベッドに戻った。


スマホの電源を点ける。すると、

「あれ、戻ってる……」

ホーム画面に映っていたのは、昨日撮ったプリクラ……ではなく、キュートなまりかの姿であった。ロックを解除しようとパスワードを打ってみると、いともたやすく突破できた。昨日はびくともしなかった俺のスマホが、元通りになっているのだ。おそらく、俺が眠っている間に誰かがいじったのだろう。だとすると、その“誰か”というのはやはり──

『新着メッセージがあります』

手元のスマホが振動する。つられて画面に目を落とすと、

『通知:2419件』

という前代未聞の量のメッセージを受信していた。連絡もなく外泊してしまったんだ、葵ねぇが心配するのも当然だろう。たった今、受信したメッセージには、


葵ねぇ:俊ちゃん! どこにいるの!? お願いだから返事だけでもちょうだい!


と、切迫した葵ねぇの様子が表れていた。見たところ、一睡もせずにメッセージを送り続けていたらしい。これ以上不安にさせるのも悪いし、とりあえず生存報告だけでもしておこう。

送信ボタンを押すと、信じられないスピードで返信が来た。やはり相当心配だったのだろう、めまぐるしい勢いでメッセージが飛んでくる。ひとまず無事だということは伝えられたし、一つ一つに返事を返すのは不可能なので、今日中には帰る旨だけ知らせておこう。そう思い、足早にキーボードをタップしていると、


「お待たせしました」

着替えを完了させたみどりちゃんが、いつの間にか隣に腰かけていた。

「誰かに連絡ですか?」

「あ、うん、今ちょうど送ったところ」

俺はなぜか慌ててメッセージアプリを閉じた。見られてマズいものではないが、かといって見られて引かれるのも嫌だしな。ホーム画面に移動し、スマホをそっと閉じようとしたところで、あるものが目に入る。

8時52分──液晶に映っていた時刻表示に、「もうそんな時間か」と謎の感心。どうやらぐっすり眠っていたみたいだ。とは言っても、まだまだ時間はあるし、今日はのんびりしよう……そう思いかけていたまさにその時、衝撃の事実が脳天を直撃した。

月曜日──時刻表示の下に小さく映っていたそれが、急速に俺の肝を凍らせた。

「今日、学校じゃん!!!!!」

思わず大声を上げてしまった。先程までずっと眠っていたからか、それともこの部屋の非現実感にあてられたからか。今の今まで、今日が登校日であることを失念していた。

「ヤバい、完全に遅刻だよ……!」

学校は8時30分始業だ。今から急いで向かっても、1時間目の授業には間に合わない。

「今すぐ出発しなきゃ!」

無意識に焦りが口からこぼれていた。逸る心にそそのかされるように、俺は立ち上がり、部屋を後にしようとした。しかし、結果的にそれが叶うことはなかった。立ち上がろうとした瞬間に、正体不明の力によって引っ張られ、ベッドに戻されてしまったのだ。

「……!?」

なにが起こったのかわからず、思考が停止する。視線の先にある天井、手のひらに伝わるシーツの感触にようやく状況を理解させられると、体を起こし、もう一度ベッドから離れようと試みた。

「……あれ?」

しかし、再びなにかに引っ張られるようにして、俺の体はベッドに放られた。またしても天井を眺めている。ちんぷんかんぷんな状況に半ば呆然としていると、不意にみどりちゃんに顔を覗かれる。

「ダメですよ、俊くん。一人で部屋から出ようなんて」

まるで子どもをさとすような口ぶりで、みどりちゃんは言う。

「いや、でももう学校始まってるし、みどりちゃんも急がないと──」

「大丈夫ですよ」

俺の言葉を遮るように、みどりちゃんが口にしてみせる。大丈夫なはずないだろうといぶかしむ俺を、表情一つ変えずに見下ろす彼女の瞳に、呑み込まれるような感覚さえ覚えた。

「俊くん……今日は私と、学校をお休みしましょう」

悪魔のささやきとは、こういうことを言うのだろうか。蠱惑的こわくてきなセリフに、身を委ねてしまいそうになる。

「いや、それはマズいって。無断欠席なんてしたら、みんなが心配するよ」

しかし、今の俺はどうしてか理性的でいられた。みどりちゃんの提案を、きっぱりと断る。

「さあ、早く準備して学校に行こう。二人で事情を話せば、先生も納得してくれるはずだ」

起き上がり、三度ベッドから立ち上がろうとしたタイミングで、俺はようやく左腕の違和感に気づいた。手首を締めつける感覚、耳なじみのない金属音。

「……っ!」

俺をベッドに引き戻していた力の正体に、寒気を感じた。

「みどりちゃん……この手錠は、なに?」

蘇る悪夢を押さえつけるように、冷静を装う。

「なにって、手錠ですよ」

「そういうことじゃなくて」

広すぎる室内に、声が響いた。うまくボリュームを調整できない。まだ俺の中で、あの悪夢と決着をつけられていない証拠か。

「どうして、こんなことを?」

左腕を掲げ、手錠を見せつけるようにしながらただす。すると、みどりちゃんの右腕がそれにつられるようにして挙動を示した。不審げに手錠を見つめる俺に、彼女もまた右腕を掲げてみせると、柔和な表情でこう言ったのである。

「決まってるじゃないですか。私と俊くんを、つないでおくためです」

彼女もまた、右腕に手錠をはめていた。チェーンの先をたどると、俺の手錠に到着するのを認めた。どうやらお互いの腕を手錠でつないでいるらしい。

「なにを、するつもり……?」

我知らず声が震えていた。なにをされるのか。どんな仕打ちが待っているのか。想像した途端に、悪寒が体を襲う。どうやってここから逃げるか。誰か助けを呼ぶか。対抗手段を考えようにも、うまく頭が回らない。どうする……。どうやったら、あの悪夢を回避できる……。

「なにも、しませんよ」

みどりちゃんの返答は、思いもよらぬものだった。

「なにかしようだなんて、これっぽっちも考えていませんよ」

「…………」

みどりちゃんを黙視する。彼女の言葉を、信用してもいいのだろうか。彼女の表情に、嘘偽りはないのだろうか。疑念に満たされながら、観察するように彼女を見ていた。

「さあ俊くん、今日は私と一緒に過ごしましょう」

みどりちゃんが距離を詰める。その挙動に身がびくりと反応する。

「いえ……今日だけでなく、明日も明後日も、ずっと私と一緒です」

みどりちゃんが手を伸ばす。なにをするつもりだ。どうやって俺を傷つけるつもりだ。そんな恐怖が彼女の手に重なる。俺の心中にはお構いなしと言わんばかりに接近してくるその手に、思わず目をつぶってしまった。

「…………」

左腕に、小さな感覚。

「……」

それは段々と大きくなって、

「…………え?」

俺の腕を包んだ。

そっと目を開ける。そこには、

「ふふっ……俊くんの腕、あったかいですね」

俺の腕に、身を委ねるみどりちゃんの姿があった。

「み、みどりちゃん……?」

「なんですか?」

「い、いや、なにしてるの?」

「見ての通り、俊くんの腕に抱きついているんです」

俺の肌に頬擦ほおずりをしながら、みどりちゃんはあっけらかんと答える。その様子は、まるで人間にすっかり懐いた猫のように映った。

「えっと……」

「は!? もしかしてお嫌でしたか?」

みどりちゃんが腕から顔を離す。

「いや、そういう問題じゃないというか……」

予想外の展開に呆気にとられる。別になにかされたかったとか、そういうわけではないが、だいぶ拍子抜けだ。

「言ったじゃないですか。なにもしないって」

俺の心を見透かしたかのように、みどりちゃんが口にした。

「じゃあ、これはなに? なにもするつもりがないのなら、手錠なんてする必要はないでしょ?」

がしゃがしゃと金属音を撒き散らしながら、左腕を掲げる。

「…………」

どう答えたものか……彼女の表情がそう物語っているようだった。やがて最適な言葉が浮かんだのか、顔をぱっと晴らすと、俺の視線を迎え撃つようにして言った。

「……私は、俊くんと、対等でありたいんです」

「……対等?」

「はい」

力強い眼差しだった。出会った頃の彼女とは別人と思えるほどに。

「私には、俊くんのお世話をすることはできません。家事なんてほとんどできませんし、包容力だってありませんから」

それが誰のことを指しているのか、容易にわかった。

「それに、図々しく俊くんを引っ張り回して、迷惑をかける無能さも持ち合わせていません」

これも誰のことを言っているのか、すぐにわかった。

「……私には、俊くんの手を引くことができないんです」

みどりちゃんが手首の傷跡に視線を落とす。弱々しくも、どこか忌々しさを含んだ瞳だった。

「だから……!」

再び目線が交わる。

「せめて、俊くんの隣にいられるようにって……。俊くんに追いつけるようにって……!」

「それで、この手錠?」

「はい……」

ため息を漏らす。なんというか、不器用な理由だ。いかにもみどりちゃんらしい。

「別にそんなことしなくたって、俺はみどりちゃんをないがしろにしたりなんかしないって」

「そ、そうですね……。俊くんはお優しいですから、そう言ってくださると思っていました」

みどりちゃんがきゅっと、俺の腕を小さくつかんだ。

「……でも、他の女は違います。俊くんの周りをたかって、私たちを引き離そうと邪魔ばかりします」

ぎゅっと、左腕が握られる。

「だから俊くん……! ずっとこのまま、このまま私と一緒にいましょうっ」

刹那、体がベッドに押し倒される。

「ちょ、みどりちゃん……!?」

「誰にも邪魔されない空間で、二人きりで過ごしましょう。誰にも引き離されないように、二人をつないでいましょう」

そう口走る彼女の瞳は、うっすらと陰っていた。

「私、弱くて世間知らずで大したことはできないですけど……俊くんを守ることだけはできます。どんな手段を使ってでも、俊くんを魔の手から守り切ってみせます」

「くっ……」

「だから、俊くんには私の側にいてほしいんです。私の側で、私にだけ笑いかけてほしいんです」

起き上がろうにも、うまく力が入らない。みどりちゃんの力が強いというよりは、ドンピシャで重心を押さえられている感じだ。

「そうすれば私……少しは自分のことが好きになれるかも、しれません」

不意に口ずさむと、みどりちゃんが体を重ねるようにして俺の上半身にもたれかかってきた。

「さあ俊くん……ずっとここで、支え合いながら人生を送りましょう。他の女なんか忘れて、二人きりの幸せを築きましょう……!」

みどりちゃんが顔を寄せる。まぶたをほのかに閉じながら、発色の綺麗な唇を、俺のそれに近づけてくる。その距離わずか数センチ。ゆっくりと縮まる二人のスペースに、心臓がうるさく脈動する。体中が火照り、思考が停止する。まるで時間が止まったようにすら感じられる世界で、カウントダウンが刻まれる。5、4、3、2、1……みどりちゃんの想いを前に、俺はぎゅっと目を閉じる。


──なんの前触れもなかった。突然、心臓を麻痺まひさせるような高音が室内に響き渡った。

条件反射で天井に目をやる俺たち。音の主が天井に取り付けられた警報機だということはすぐにわかった。間もなくして、どこからともなく放送が流れた。

「201号室で火災報知器が作動しました。宿泊客の皆様、並びに従業員は速やかに1階エントランスに避難してください。繰り返します──」

切羽詰まったアナウンスが、硬直していた体に電流を流す。

「火災報知器が作動って……まさか火事!?」

「…………」

「だとしたらヤバいよ! すぐに避難しよう、みどりちゃん!」

「……」

「みどりちゃん、どうしたの!? 急いでここから逃げなくちゃ!」

慌てて起き上がり、ドアへ向かおうとした俺に対し、みどりちゃんは黙ったままベッドから離れようとしない。もしかして、恐怖で体が動かなくなってしまったのだろうか? 様子をうかがおうと顔を覗き込むも、わなわなと震えている模様はなかった。むしろ、

「みどりちゃん……どうしたの?」

彼女の顔には、どういうわけか苛立いらだちのようなものが見て取れた。普段から温厚なみどりちゃんが見せたはじめての表情に、ひるむ。煮え切った怒りを鎮めるように目を閉じると、ようやく俺の言葉に反応した。

「……そうですね。これ以上、なにをしでかすかわからないですし、避難しましょうか」

みどりちゃんが手錠を外しながら口にした。その発言の真意はつかめなかったが、みどりちゃんが立ち上がりドアへ向かったのを見て、俺もすぐさま後に続いた。

「…………くっ」

気のせいだろうか。真横を通り過ぎたみどりちゃんが、歯噛はがみしたように見えた。


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


騒動の原因はタバコの消し忘れだったそうで、「なんだ、そんなことか」と拍子抜けした宿泊客は俺だけではなかった。怒りをぷんぷん匂わせる客もいれば、ホッと胸を撫で下ろす客もいた。アラートから一時間ほど経って解放された皆が、エントランスを散り散りに後にした。

そこで俺はようやく気づいた。自分が今、どんな場所にいるのかを。部屋から出てすぐわかったのだが、このホテルは尋常じゃないくらいデカい。少なくとも、俺はこんな規模のホテルとは無縁な人間だ。加えて宿泊客も裕福そうな人間ばかりだった。超高級ブランドの衣服を着こなす女性、どう見てもカタギではない初老、果ては売れっ子俳優まで……学生二人で宿泊するようなところではないと、理解できないほうが難しい。俺たちは完全に浮いていた。

「私たちも戻りましょうか」

そんな環境の中、まったく物怖ものおじせずにみどりちゃんが言った。そわそわしっぱなしの俺とは正反対だ。

「う、うん、そうだね」

彼女に言われるがまま、俺も歩を進めた。ちらっと、エントランスの壁に装飾された文字を見やる。達筆な……というか筆記体で書かれた英語だったのでホテルの名前まではよくわからなかったのだが、その傍らには日本人の俺でも読めるように、はっきりとこう書かれていた──「水蓮寺グループ」と。

歩いているうちにエレベーターに到着。これまた豪華だなと圧倒されつつも、先程から口数の少ないみどりちゃんが気まずくて、俺は逃げるように周囲に視線を泳がせていた。すると、ホテルの入口に人が集まっているのを認めた。従業員だろうか……妙に物々しいな。

気になってしばらくそっちを眺めていると、ドアが開き、何者かがホテルに足を踏み入れる。同時に、入口で整列していた人間たちが一斉に頭を下げる。なんだなんだ? どっかの王様でも来るのか? そんな馬鹿げたことを思っていた俺の目に映ったのは、

「あれ……あの人、どこかで見たことあるぞ」

40代後半ぐらいの男性が、こうべを垂れる者たちに一瞥することなく歩んでいる。その様子にスマートさと荘厳さが感じられて……でもやっぱりどこかで見たことある顔だ。あれはたしか……テレビだったか? となると有名人か……記憶を巡らしていると、案外すぐに答えを思い出した。アハ体験に快感を覚え、その勢いでつい声に出していた。


「あれって、みどりちゃんのお父さんじゃない?」

刹那、みどりちゃんが明らかに動揺しているのがわかった。顔色は青ざめ、体中が震え、それを抑えるようにがしっと、左腕を握っていた。

「み、みどりちゃん、大丈夫……?」

彼女の急な変貌に、どうすべきかわからない。しかし放っておくわけにもいかないので、ひとまず声をかけてみる。

ぎぎぎと、まるで錆びついた機械のように、ゆっくりとホテルの入口の方へ目をやるみどりちゃん。俺の声なんかまるで聞こえてないみたいだ。やがてその場で180度身を翻すと、

「……はぁ、はぁ……んっ……はぁっ、はぁっ……!」

みどりちゃんの呼吸が、異常だった。息を吸う・吐くという簡単な動作すら、まともにこなせていなかった。見る見るうちに衰弱している。過呼吸なんて言葉では済まされないその不自然さと過酷さに、ついに──

「みどりちゃん!!!」

みどりちゃんがぐらついたのを、なんとか抱きかかえる。体は汗まみれでぐっしょりしていて、瞳はまるで空っぽだった。どうやら意識はあるようだが、仔細は俺にはわからない。どうする? 救急車を呼ぶべきか?

「俊くん……すみません、部屋に、連れていって、いただけ……ませんか」

ちぐはぐな呼吸の中、絞り出すようにみどりちゃんは言う。

「いや……でも救急車を呼んだほうが」

「だい、じょうぶです。俊くんと一緒にいれば、すぐによくなりますから……」

「そんな……」

逡巡のうちに、タイミングよくエレベーターが到着した。まるで「部屋に戻れ」と告げているような巨大な鉄塊に、吸い寄せられるように乗り込んだ。

「9階、です」

みどりちゃんが、エレベーターガールに告げる。俺たちのありさまを見て何事かと目を細めていたが、取り立てることなく9階に到着。避難してきた時の記憶をたどって部屋の前まで歩くと、みどりちゃんがカードキーで開錠した。

「大丈夫、みどりちゃん!?」

ベッドに彼女を寝かせ、慌てて尋ねる。

「はい……俊くんのおかげで、なんとか」

そう言っている彼女の顔色はなおも悪かったが、どうやら少しだけ落ち着きを取り戻せたようだ。呼吸も静かだ。

「急に体調が悪くなったみたいだけど……なにかあった?」

異変の原因が気にかかって、尋ねてみた。しかし、みどりちゃんは視線を外し、口を開こうとはしなかった。

「ごめん、デリカシーのないこと聞いて」

気分が優れないのだ、話したくないことだってあるだろう。自分の軽率さに、俺は頭を下げる。

「い、いえ、単純に疲労が溜まっていただけだと思うので。心配なさらないでください」

「そっか」

疲労の蓄積……みどりちゃんはそう言ったけれど、あれはそんな生易しい話ではないだろう。明らかに動揺していた。身体的な病気というよりは、精神的なショックによる異変だと思う。そしてその精神的なショックの原因は……水蓮寺すいれんじ まなぶ──みどりちゃんのお父さんか。

しばらくは安静にしておいたほうがいいということで、みどりちゃんには横になってもらった。

「すみません、ご迷惑ばかりおかけしてしまって」

「気にしないで。迷惑だなんて思ってないから。……あ、汗でびっしゃりだね、タオル持ってくるよ」

脱衣所の方へ足を運ぶと、すぐにタオルを発見できた。一枚だけ借用すると、

「自分で拭ける?」

「あ、はい。ありがとうございます」

タオルを手渡すと、みどりちゃんは体を起こして額を拭い始めた。そのまま背中へ手を回したので、俺は視線を外した。スマホの画面には11時06分の表示。もうそんな時間か。

「……もう、大丈夫ですよ。視線を戻していただいても」

「あ、うん」

「いろいろと気を遣わせてしまってすみません」

「だから気にしなくていいってば。それより、体調のほうはどう?」

「まだ本調子ではないですが、だいぶ落ち着いてきました」

「そっか……それは一安心だ」

ホッと安堵する。

「俺にできることがあったらなんでも言って」

「い、いえいえ、これ以上お手を煩わせるわけにはいきません! あとは自分でなんとかしますから」

「遠慮しないの。早く治すのが病人の務めなんだからさ。なにかない? 俺に手伝えること」

「うぅ…………」

なぜかみどりちゃんが上気する。

「そ、それじゃあ……一つだけ、お願いしても、いいですか?」

「うん、なんでもどうぞ」

「えっと、その……」

視線をおろおろさせて、口ごもるみどりちゃん。出会ったばかりの頃のような挙動に、口角が上がる。やがて決心がついたのか、彼女が発したのは、

「抱きしめてください!!!」

「…………へ?」

「はっ! すみませんすみません! 奇妙なこと言ってすみません!」

「いや、そんなに謝らなくてもいいよっ」

ガンガン頭を下げるみどりちゃんを慌ててなだめる。これ以上体調が悪化してはいけない。

「その、抱きしめるっていうのは……ハグ、でいいのかな?」

「は、はい! 俊くんに、ハグしていただけたら、その、気分が晴れると思います」

たどたどしい話し方とは裏腹に、瞳はまっすぐだった。これもまた、一ヶ月前の彼女を見ているようだった。

「そんなんで治るなら……やってもいいけど」

「ほ、本当ですか!? あの、じゃあ、ぜひ、お願いします……!」

嬉しそうに表情を輝かせる。ホント、手錠で腕をつないでいた時とは別人のようだ。

「じゃ、じゃあ、いくよ……」

俺はみどりちゃんに相対し、深呼吸。ハグってこんなに覚悟を要求されるものだったのか?

「は、はい……」

赤面する彼女に腕を伸ばす。まだ触れてもいないのに、熱が伝わってくるような感覚。

「はぁっ……」

ようやく背中に腕を回した時には、みどりちゃんは完全に目を閉じていた。俺だってめちゃくちゃ恥ずかしかったが、ここが正念場だ。

「…………」

あとはみどりちゃんを、抱き寄せるだけ。じっとりと、粘りついたような時間の中で、少しずつ、少しずつ、距離を詰める。さらさらとした髪の毛が腕を撫でているようで、それが余計に女の子らしさを訴えかけてくる。跳ね回る鼓動は俺のものか、はたまた彼女のものか。わからないくらい、近い。残り数センチ。それを意識する余裕もなくて、必死に彼女を抱き寄せた。真っ赤に染まったみどりちゃんの頬を、胸に抱き寄せた。

「んっ…………」

腕の中で広がるぬくもり。なぜだろう、数秒前まではあんなに恥ずかしかったのに、今は落ち着きさえ覚える。それはみどりちゃんも同じだったのだろう、

「…………ありがとうございます、俊くん」

と穏やかな声でささやくと、俺の胸で寝息をたてた。規則的に繰り返される呼吸が心地よい。起こすのも悪いから、このままぐっすり眠らせてあげよう。俺は腕をほどき、彼女をベッドに寝かせると、布団をかけてやった。

……うん、とても安らかな寝顔だ。


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「………………はっ!!!」

窓から西日が差し始めた頃。

「すみません俊くん! もしかして私、ずっと寝ていました……?」

「もしかしなくても、ぐっすり」

「あわわわわわ…………」

みどりちゃんは頭を抱えたように手を上げると、

「すみませんすみませんすみません!!!!!」

勢いよく頭を下げた。

「いや、謝ることなんてないよ」

「でもでもでも、ずっとこの部屋で、私が起きるのを待っていてくださったんですよね!?」

「まあ、そうなるかな」

「私のことなんか、放っておいてくださってよかったのに」

「そんなわけにはいかないよ。みどりちゃんは病人だったんだし」

「うぅ……私のせいで、貴重なお時間を無駄にしてしまって……すみません」

「いいっていいって。それより体調は?」

「あ、はい、すっかり元通りです」

見るに、みどりちゃんの顔色はすっかりよくなっていて、その言葉が嘘ではないのは明らかだった。

「あの……今って、何時ですか?」

「16時ぐらいかな」

みどりちゃんは「あちゃあ」という顔をすると、

「本当に、ご迷惑をおかけしました」

と、静かに言った。

「学校も、行けずじまいでしたね」

「終わったことはしょうがないよ。別に皆勤賞を狙ってるわけじゃないし」

「学校をサボろう」と言っていた時とは比べ物にならないくらい、げんなりしている。なんだかんだ、みどりちゃんにも責任感なり罪悪感なりがあるのだろう。

「……でも、さすがにそろそろ帰らないと、マズいかな」

先程からスマホが鳴り止まない。おそらく、葵ねぇが心配に耐え切れなくなった頃だろう。このまま放置してたら、なにが起こるかわからない。

「そうですね」

みどりちゃんがぎゅっと拳を握る。

「すぐに車を手配します。ご自宅まで、送らせてください」

「え、車!? いやいいよ、電車で帰れるからっ」

「いいえ、これは私のけじめです。今日は……いえ、昨日から、俊くんにはご迷惑をたくさんかけてしまいましたから」

「でも……」

「お願いします」

みどりちゃんが、芯の通った瞳を向ける。

「……わかった。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」

「ありがとうございます」

「あ、でも、最寄り駅まででいいからね。みどりちゃんも家に帰るだろうし」

「いえ、私の家なら俊くんの──」

こほんと、みどりちゃんが咳払いをする。

「わかりました。最寄り駅まで、責任を持ってお送りします」




それから先は淡々としていた。ホテルを出るといかにもな車が停車していて、俺たちを颯爽と運んでくれた。車中では大した会話を交わすこともなく、窓の外をぼーっと眺めていた。この二日間、波瀾万丈だったな……そう諦観ていかんしてもいい場面だろうに、6月の、さほど美しくもない夕焼けに心が吸い込まれたようだった。

小一時間ほどで自宅の最寄り駅に到着。運転手の男性にお礼を伝えてから下車する。リュックを背負っているところへ、みどりちゃんがお見送りに来てくれた。

「あの、昨日今日と、本当にありがとうございました」

みどりちゃんがうやうやしく頭を下げる。

「それに、たくさんご迷惑もおかけしてしまって」

「だからそれはもういいって」

相変わらず律儀な彼女に、苦笑紛れに告げる。

「明日からは、また元気な顔を見せてよ」

なにげなく口にしたセリフに、みどりちゃんの表情が変わったような気がした。なんというか、雲がかかったみたいに。

「あの、俊くん」

その呼び名も、つい昨日から始まったものだったな。懐かしむように目をやる。

「私……本当に楽しかったです。俊くんと二人きりで過ごせて、本当に、本当に……」

俺の視線を迎撃したのは、透明に潤んだ彼女の瞳だった。溢れそうな想いを、必死に閉じ込めるように、胸に手をやっている。わなわなと、唇が震えている。泣いているわけでも、怒っているわけでもない。時に人は、まだ自分でも名前の付けられていない感情に、出会うことがあるのだろう。みどりちゃんは、お揃いで買ったTシャツをぎゅうっとつかむと、短く、こう言ったのである。

「幸せ、でした」




みどりちゃんと別れると、とぼとぼと帰路をたどった。夕方の喧騒と、センチメンタルな感情と、帰ったら葵ねぇになんて言われるかなぁという懸念とが、ごっちゃになってまとわりつく。

明日から、どうやってみどりちゃんに接しようか……そんなことは微塵も考えてなかった。考えずとも、なんとなくわかっていた。この二日間で、俺たちの関係は大きく変わった。良くも悪くも、今までのようではいられないのだろう。良くも悪くも──






「お久しぶりです、センパイ」




心臓が、握り潰されるような感覚がした。

その一言で、俺を呑み込んでいた喧騒も、感傷も、懸念も、消え失せた。

背後から、声がする。

よく知っている声で、だけどとても久しい声で。

数週間ぶりに聞いたその声は、数週間前までとまったく変わっていなくて。


鉛のように鈍った体を、なけなしの精神力で駆動させる。見たいわけでもないのに見てしまうのは、人間の性だろうか。足、胴、頭と、不便なおもちゃのように順に身を翻し、ついに声の主に振り返る。ようやく動作し終えた眼球が捉えたのは──


「会いに来ちゃいました。俊センパイ」

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