第12話 もしかして:異世界転生

とある土曜日の夜。


「……ごちそうさま」

「お粗末様でした、俊ちゃん♪ お姉ちゃん特製のカレー、おいしかった?」

「……うん、おいしかったよ」

「ならよかったわ。また明日も食べさせてあげるからね♪」

葵ねぇはキッチンの方へ向かうと、食器洗いを始めた。


結論から言うと、あの日以降、葵ねぇが俺に手を出すことはなかった。もしかしたら再びあの悪夢が訪れるかもしれないと身構えていたが、葵ねぇはいつも通り──いや、むしろ何事もなかったかのように振る舞っている。

だから、俺たちの関係が変わったかと聞かれれば、そうではないと言える。でも、葵ねぇに対する疑念が払拭ふっしょくされたわけでもない。あの悪夢は、それほどまでにショッキングだったというわけだ。実の姉を疑わなければならないほどに。


ピコォン──


食器洗いをこなす葵ねぇを横目で見ていると、スマホの通知音が鳴った。どうやらメッセージを受信したらしい。誰からだろうか? メッセージの送り主を確認すべく、テーブルの上に鎮座していたスマホを手に取る。


水蓮寺さん:こんばんは、八十崎くん

水蓮寺さん:突然のご連絡、すみません

水蓮寺さん:あ、あの、ですね

水蓮寺さん:その……

水蓮寺さん:あ、ああああしttt、sの、おじっかんありmouseか、

水蓮寺さん:すみませんすみません!!! 打ち間違えてしまいました!

水蓮寺さん:あ、あの、その……

水蓮寺さん:明日、お時間ありますか……!?


液晶画面に広がるのは、なんとも微笑ましい水蓮寺さんの一人芝居だった。いや、そういう言い方はよくないな。彼女は真剣だろうから。でも珍しいな、水蓮寺さんからこんな内容のメッセージが来るなんて。なにかあったのだろうか? 


俊:明日なら暇だよ


とりあえずそう返信しておいた。実際、明日は部活もなにもないので一日中家にいるつもりだった。水蓮寺さんがもし俺を必要としているなら、助けになれるかもしれない。そうしてボーっと画面を見つめていると、思いの外早くメッセージが返ってきた。


水蓮寺さん:ほ、本当ですか!?

水蓮寺さん:あ、あのですね、実は……

水蓮寺さん:あ、明日、私と、ででで、でーt

水蓮寺さん:じゃなくて!

水蓮寺さん:その、私と……コスプレ喫茶に、行きませんか……!?


………………え?

俺は思わず画面を四度見した。なんだって? コスプレ喫茶だって? え? え?


水蓮寺さん:すすすすすみません! ご迷惑でしたよね!?

水蓮寺さん:今の話は忘れてください! こんな時間にすみませんでした!!!


突然の出来事にフリーズしていると、水蓮寺さんから謝罪のメッセージが届いた。いかん、また水蓮寺さんに勘違いさせてしまう。


俊:ちょっと待って!

俊:ごめん、ちょっとビックリしちゃって返信がとどこおってた

俊:それで、コスプレ喫茶に行きたいとのことだけど……

俊:……どうしてコスプレ喫茶なのか、聞いてもいい?


とりあえず速攻で弁明のメッセージを送る。コスプレ喫茶に行くにも、ちゃんと理由を聞いておきたい。でないと正直あまり乗り気になれない。

スマホ片手に返事を待っていると、再び通知音が鳴った。


水蓮寺さん:そ、そうですよね。すみません、理由も言わずにお誘いしてしまって

水蓮寺さん:えっと、ですね

水蓮寺さん:私たちのクラスは、学園祭でコスプレ喫茶をやることになったじゃないですか

水蓮寺さん:でも私、コスプレ喫茶というのがまったくわからなくて……

水蓮寺さん:このままじゃまともに接客なんてできない……と思いまして

水蓮寺さん:その、勉強といいますか……に、

水蓮寺さん:八十崎くんも一緒だと、心強いなと思いまして……!


なるほど、そういうことか。要は学園祭のための予習みたいなものか。実際にコスプレ喫茶に行って、勉強したいと。

なんとも水蓮寺さんらしい考えである。つくづく真面目だなと感心させられる。そういうことなら、俺も協力できるだろう。それに俺だって接客担当だ、予習しておいて損はないはずだ。


俊:わかった

俊;そういうことなら、俺も一緒に予習させてもらおうかな


水蓮寺さん:本当ですか!?

水蓮寺さん:その、急な申し出でしたけど、大丈夫でしたか……?


俊:大丈夫だよ

俊:明日は一日中暇だから


水蓮寺さん:ありがとうございます!!!

水蓮寺さん:そ、それじゃああの、明日の11時に現地集合でも、いいですか?


俊:了解


水蓮寺さん:あああありがとうございます!

水蓮寺さん:すすすすごく楽しみです!

水蓮寺さん:はっ……! 気づいたらこんな時間でした!

水蓮寺さん:すみませんお時間取らせてしまって!

水蓮寺さん:それでは、あの、本当に、楽しみにしています!

水蓮寺さん:おやすみなさい!


俊;うん、おやすみなさい


水蓮寺さんの怒涛のメッセージに苦笑しながら、スマホを閉じた。

思えば、水蓮寺さんと外で遊ぶのははじめてかも? 彼女のことだ、きっとおどおどしながらも、一生懸命にコスプレ喫茶を楽しむんだろう。

ふふっ……想像するだけで笑みが漏れる。明日は楽しくなりそうだ。


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「えっと……ここから10分か」

スマホの地図アプリ片手に目的地に向かう。

ここはネオ・アキバ駅。現代のポップカルチャーが集う日本最大級の街である。俺も茶助とよく遊びにくるが、コスプレ喫茶ははじめてだったのでこうして地図アプリを頼っている次第である。


「しかし、今日は人が多いな……」

日曜日の大都市である。人が多いのは当然なのだが、今日はいつにも増して多い気がする。なにかイベントでもあるのか? 思いながら、人と人の間を縫うようにして進むが……


「ここ、どこだ……」

店は駅の周辺にあると聞いたので、迷わずたどり着けると思ったのだが、どうやら細い路地に入るみたいだ。そうして未知の道に足を踏み入れているうちに、迷ってしまったらしい。スマホとにらめっこしながら四苦八苦してみても、目的地にはたどり着けない。仕方ない、いったん大通りまで戻って、ルートを確認しよう……そう思っていると、


ピコォン──


スマホの通知音が俺の注意を引き付けた。何事かと目を向けると、そこには、


水蓮寺さん:八十崎くん、そこの十字路を右です


というメッセージが映し出されていた。

「十字路……ここか?」

言われた通りに右折する。しかし、眼前に広がるのは先程までと同じような細道。はて、本当にこの道で大丈夫なのだろうか? そう思っていると、


水蓮寺さん:その道を二つ進んで右折すれば、お店に着きます


再び水蓮寺さんからのメッセージだ。どうやらコスプレ喫茶はこのすぐ近くにあるらしい。ていうかこれ、駅の方に戻ってる気がするな。やっぱり迷っていたみたいだ。

水蓮寺さんの指示通りに進むと、ようやく、

「はぁ……やっと着いた」

目的地に到着。そして──


「こ、こんにちは、八十崎くん……!」

私服姿の水蓮寺さんが、声をかけてくれた。

「待たせちゃってごめん、水蓮寺さん」

「い、いえいえそんな……! 私も、着いたばかり、ですから」

慌ててフォローしてくれる水蓮寺さん。そこでふと、疑問に思っていたことを口にする。

「そういえば水蓮寺さん、よく俺の居場所がわかったね」

「え……!?」

「いやほら、道案内してくれたでしょ。迷ってたから、本当に助かったよ」

「あ、ああ、そのことでしたかっ。じ、実は私も同じ場所で迷っていたので、も、もしかしたらと思いまして……」

「そうだったんだ。いや、本当にありがとう」

水蓮寺さんはなぜかよそよそしい態度だったが、俺はお礼を伝えた。

ちらりと、水蓮寺さんの方に目をやる。私服姿なんてはじめて見たが、相変わらず上品な着こなしだ。長袖のシャツにロングスカート……まさに清楚を体現したような恰好に思わず息を呑む。

「ど、どうか、しましたか……?」

すると、水蓮寺さんがおずおずと尋ねた。マズい、ちらちら見すぎて不審がられた。

「い、いや、えっと、暑くないかなって。ほら、長袖で……」

言い訳しようとして変なセリフを口走った。我ながらちょっと無神経だとも思う。

「あっ……だ、大丈夫です。その、私、肌が弱いので……」

「そ、そっか。ごめん、妙な質問してっ」

「いえいえ、気にしないでください」

開幕から5分でなんとも言えない空気になる。いかん! これではせっかく誘ってくれたのに楽しんでもらえなくなってしまう……!

「そ、それじゃあ、ずっとここにいてもなんだし、入ろうか」

俺はコスプレ喫茶を指差して言った。この空気を断ち切ろう。それに水蓮寺さんからのお誘いとはいえ、こういうのは男がエスコートすべきだ。

「そ、そうですね……!」

水蓮寺さんもうなずく。そうして俺たちは、本日の目的地に足を踏み入れた。


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「いらっしゃいませ♪」

店内に入ると、そこには異世界が広がっていた。ピンク色に塗装された壁。星形やハート形の装飾。メルヘンな什器じゅうき。そして──


「いらっしゃいませにゃん♪」

俺たちの前に現れた、しゃべるネコ──もとい、ネコのコスプレをした店員さんが、テーブルに案内してくれた。

「どうぞ、おかけになってくださいにゃ♪」

促されるまま席に腰かけると、店員さんはメニューを取りに一度離れた。

「す、すごいな……」

そのタイミングですかさず俺は困惑を吐露した。圧倒的なまでの世界観に酔ってしまうんじゃないか……そんな危機感?も一緒だった。

「そそそそそそそそうですね……」

対面に座る水蓮寺さんに至ってはすっかり硬直してしまっていた。顔色は青ざめ、目はグルグルしていて、触れただけで倒れてしまいそうなほどに緊張していた。

「水蓮寺さん、大丈夫?」

心配になって声をかける。

「はっ……! だ、だだだ大丈夫です! 今日は勉強しにきたんですから、この程度では屈しません……!」

いやなにと戦ってるの? そう心の中でツッコんでいると、


「お待たせしましたにゃあ。こちらがメニューになりますにゃ♪」

店員さんがメニューを広げてくれた。ていうか思ったんだが、やっぱりコスプレ喫茶の接客は役になりきるのが当たり前みたいだ。このネコの店員さん然り、店内を見渡すと他にも天使やら警察官やらのコスプレをした店員さんが、それぞれ役になりきって接客を行っていた。自分もこれをやるのか……若干の絶望感。

「や、八十崎くん、どれにしますか?」

水蓮寺さんに声をかけられた。そうだ。予習も大事だが、水蓮寺さんを退屈させてはダメだ。俺は促されるまま、メニューを見る。

「え”………………」

思わず変な声が漏れた。なぜか? それはメニューをご覧いただければわかる。そこには「ユニコーンさんの特製ジュース」とか、「黒魔女の宅急便」とか、「天界のグリーンティー」などのフレーズが羅列していた。いや二番目、お前ドリンクじゃないだろ。

「うーんと、じゃあ、この……『火星人の手作りサイダー』で……」

「じゃ、じゃあ私もそれで……」

「かしこまりましただにゃっ! お料理はどれにしますかにゃ?」

「えっと……俺は『デビルスパイシーカレー』で……」

「私は……うーん、どうしましょう……」

メルヘンなメニューに翻弄されながらも、俺はなんとか注文をこなす。水蓮寺さんはなにを食べようか悩んでいるみたいで、メニューとにらめっこしていた。するとそこで、ネコの店員さんから思いも寄らぬセリフが発せられる。


「お二人は、カップルさんかにゃ~?」

一瞬、場が凍りついた。

「いや、俺たちは、その──」

正気を取り戻した俺は慌てて否定しようとする。そうか、冷静に考えれば男女が二人で遊んでいるんだ、カップルのデートだと思われてもなんら不思議じゃない。うっかり失念していた。カップルに間違われでもしたら、水蓮寺さんに迷惑をかけてしまう。それになにより、水蓮寺さんがその手の質問に平静でいられるはずがない……! 俺はそう思い、自分たちはカップルではないと告げようとした。しかし、それはある人物の、到底予想だにしなかった発言によりはばまれることになる。


「そ……そうなんですっ。わ、わわわ私たち、か……か、カップル、なんです……!」


思考が停止した。今、なんて言った? 俺たちが、カップルだって? 誰が言った? 誰が、俺たちがカップルだと言った? 俺は発言の主の方へ、顔を向ける。


「うぅ……い、言っちゃいました」

そこには、恥ずかしそうに顔を伏せる水蓮寺さんの姿が。

「す、水蓮寺さん──」

俺は今の発言の真意を確かめるべく、水蓮寺さんに尋ねようとする。しかし、

「やっぱりそうでしたかにゃあ♪ カップルさんには、この『キューピッドさんのふわとろオムライス』がおすすめですにゃ!」

「な、ならそれでお願いします……!」

「かしこまりましたにゃん♪」

ネコの店員さんは注文を受けると、その場を離れた。再び二人きりになる。


「あ、あの、水蓮寺さん……」

「は、はい……」

「その、さっきの発言って、どういう……」

「あ……も、もしかして、オムライスお嫌いでしたかっ?」

「いや、そっちじゃなくて……! え、えと、その前の……俺たちが、カップルっていうの……」

おずおずと、探るように俺は尋ねた。

「……あ、えっと…………」

水蓮寺さんはうつむき、もじもじしながら言葉を濁す。先程から目が合っていない。それでも俺は黙って返答を待っていると、ついに水蓮寺さんは口を開いた。

「実は、その……これも、予習のうち、といいますか……」

「予習? それって、学園祭の?」

「えっと……そ、そうですね。それも、あります……」

「学園祭の予習と、俺たちがカップルだってことと、どういう関係が……?」

「えっと……」

再び水蓮寺さんは言葉に詰まる。少し問い詰めすぎたか……そう思い、一度空気を入れ替えようとした途端、思い出したように彼女は言った。

「そ、そうです……! あの、学園祭本番でも、カップルのお客様が来られるかもと思って、それで、こういったお店ではどんな接客をするのか、べ、勉強しておくべきかと、思ったんです」

「……つまり、カップルに対する接客について知っておきたいと?」

「そ、そうなんです……」

水蓮寺さんは答えながらも、なぜかまた目を伏せてしまった。でもそうか、あくまで文化祭を成功させるための予習ということなら、まあ付き合ってあげても……いいのだろうか? 頭を抱えるような難問に戸惑っていると、陽気な声が俺たちの注意をさらった。


「お待たせしました! こちらが『火星人の手作りサイダー』ですにゃん♪」

ネコの店員さんがそう告げると、テーブルの上にグラスが置かれた。中身を見てみると、蛍光色の液体が小さな気泡を発生させていた。なるほど、名前に負けず劣らず実物もミステリアスなようだ。

怪訝けげんな表情でドリンクを見つめていると、あることに気づいた。

「あれ、一つだけ……?」

そう、テーブルの上には大きめのグラスが一つ佇立ちょりつしているだけである。

「あの、すみません。これ、二つ注文したんですけど……」

おそるおそる店員さんに尋ねる。

「こちらはカップルさん専用のグラスになっておりますにゃ! このストローで、お二人仲良くシェアしてほしいにゃ!」

そう言って手渡されたのは、いつかのファミレスで見た、一本に飲み口が二つ付いたカップル用のストローだった。

「…………」

思わず絶句する。カップルだとは言ったが、まさかカップルのためにドリンクをカスタマイズしてくるとは……。かと言って今更カップルじゃないなんて伝えても迷惑だろうしな……。目の前に構える難題に逡巡しゅんじゅんしていると、


「い、いいい一緒に飲みましょう……sssssししし俊くん…………!!!」


………………え? 今、なんて言った? 誰か、俺の名前を呼んだか? でもいったい誰が? 


「ほ、ほら、し、俊くん……! 飲み、ましょう……?」


まただ。また誰かに名前を呼ばれた。誰が俺のことを「俊くん」と呼んでいるのか?


「し、俊くん、どうしたんですか? は、早く、飲みましょう……?」

「……水蓮寺さん」

「は、ひゃい!」

「その『俊くん』って、俺のこと……?」

「な、なに言ってるんですか! しゅ、俊くん以外に俊くんはいませんっ」

「…………」

水蓮寺さんはめちゃくちゃ赤面している。今にでも爆発してしまうんじゃないか。いやそんなことより、水蓮寺さんに下の名前で呼ばれた。いや、嫌とかそういうわけではなく、あまりに突然すぎて面食らったというか……。どう反応すればいいんだ……!?


「んにゃ? 彼女さんは下の名前で呼んでるのに、彼氏さんは下の名前で呼んであげないにゃ?」

そこへネコの店員さんがいらぬ発言をする。いや彼女は俺たちをカップルだと思い込んでいるから、当然の疑問ではあるか……。

「そ、そうですよ俊くん。い、いいいいつもみたいに、下の名前で呼んでください……」

そこへ追い打ちをかけるような水蓮寺さんの発言。今日の水蓮寺さん、なんだか様子がおかしくないか!? 普段はこんなことまったく言わないのに!

「にゃんだ、恥ずかしがってるだけだったのかにゃん。にゃーのことは気にせず、お二人でラブラブしてほしいにゃん♪」

「あ、あははははは……」

俺は笑うことしかできない。もはや外堀は埋められた。俺に逃げ道はない。となれば……腹をくくるしかないか。


「えっと……、そ、そうだな、み、みみみみどりちゃん……。二人で飲もうか?」

「ひゃ、ひゃい!!!!! くぁwせdrftgyふじこlp;」

「みどりちゃん!!!???」

俺が思い切って下の名前で呼んだ瞬間、水蓮寺さん──もとい、みどりちゃんは発狂したかのように謎言語を発した。

「だ、大丈夫!?」

「は、はい……お見苦しくて、すみません……」

とても大きな深呼吸をして、みどりちゃんはなんとか復帰する。

「にゃははは! とっても初々しいカップルさんだにゃ!」

ネコの店員さんは俺たちの気持ちなどお構いなしに笑っている。

「それじゃあ、二人の仲を近づけるために、一緒にドリンク飲んでみるにゃ!」

そしてしれっと爆弾発言。今の俺たちに、カップル用のストローを扱うことができるのか……!?

「し、俊くん、飲んでみませんか……?」

「みどりちゃん……」

俺が一人葛藤しているのに対し、みどりちゃんは意外と乗り気なようだ。

スッと、みどりちゃんがストローに口づけた。その顔はすっかり真っ赤で、目をぐっと閉じているのがわかる。彼女も相当恥ずかしいのだろう。

「……!」

俺は拳を握る。みどりちゃんだけに恥をかかせるわけにはいかない。なら、ここは男を決めて──

「……んっ!」

ストローに口づける。目は閉じているし、あまりに無我夢中でどんな状況なのかさっぱりわからない。口は渇いているのに、思うようにジュースが飲めない。味もよくわからない。

「にゃあ! 二人ともラブラブだにゃ~♪」

ネコの店員さんがはやし立てる。周りから見ればさぞラブラブなカップルなのだろう。我を忘れて飲み続けていると、急に苦しさを感じた。必死すぎて呼吸すら忘れていたらしい。慌ててストローから口を離す。

「……ぷはぁっ!」

荒い呼吸を整える。ジュースを飲むだけでこんなにも疲弊するなんて。

「はぁ……はぁっ……!」

みどりちゃんはというと、やはり顔を赤くしてぜぇーぜぇーはぁーはぁーしている。そんなに恥ずかしがるならやらなきゃいいのに……。


「お二人とも、とってもアツアツでしたにゃあ♪ この勢いで『キューピッドさんのふわとろオムライス』も食べてほしいにゃん♪」

俺たちが羞恥しゅうちもだえていると、ネコの店員さんが卓上にオムライスを運んだ。見るに、オムライスはハート形になっていて、例の如く二人でシェアするタイプのようだ。

「この『愛のスプーン』で二人で食べさせ合いっこするのがおすすめだにゃ!」

そう言って手渡されたのは、全身がピンク色で先端がハート形になった、おあつらえむきなスプーンだった。

「にゃっ! にゃーはしばらく席を外すから、後は二人でじっくり楽しんでほしいにゃ!」

そう告げるとネコの店員さんは奥の方へ姿を消してしまった。桃色漂うオムライスを、俺とみどりちゃんがはさむ構図になる。

「…………」

しばらくの沈黙。気まずさと気恥ずかしさで互いに口をつぐんでしまう。

「……あ、あの」

静寂を破ったのはみどりちゃんだった。

「せ、せっかくですし、いただきましょうか……」

そう言うと、ピンキーなスプーンを右手に取り、オムライスをすくった。そのまま自分の口に持っていく──そう思っていた俺の予想は、あっけなく外れることになる。

「し、ししし俊くん……! は、はい、あーん……」

なんとみどりちゃんは、オムライスをすくったスプーンを俺の方へ向けてきたのである。

「み、みどりちゃん!? その、本気……?」

「も、もちろんです……!」

とか言っといて、みどりちゃんの右手はだいぶ震えている。本当に今日の彼女は読めない。でも、勇気を振り絞っているのはわかる。それが学園祭の予習のためなのかは怪しいが、応えてあげてもいいと、なぜかそう感じた。

「わ、わかった……。ただ、その、せめて一口だけにしてほしい。俺も恥ずかしいから」

「わかりました。その、私も恥ずかしいので……」

ためらいがちに視線を外すみどりちゃん。しかし覚悟を決めたのか、再びまっすぐな視線がこちらに向けられた。

「そ、それじゃあ俊くん……はい、あーん……」

心臓が高鳴る。体温が上がる。あーんなんて、葵ねぇに散々されてきたのに、それでも恥ずかしい。

突き出されたスプーンをめいっぱい頬張る。舌でオムライスを口に運ぶと、スプーンから口を離した。やがてケチャップライスを咀嚼そしゃくし卵と一緒に飲み込むと、ようやく俺は目を開けることができた。

「…………」

再び気まずい沈黙。おかげでオムライスの味はよくわからない。

「ど、どうでしたか……?」

「あ、えっと、おいしかったよ……」

中身のない会話。別に悪いことをしたわけでもないのに、いたたまれない気持ちになる。この空気はとても耐えられそうにない、そう思った俺は、みどりちゃんにオムライスを食べるよう促した。

「な、なら……その、俊くんに、た、た、食べさせて、ほしいです……」

みどりちゃんから放たれた衝撃的なセリフ。それってつまり、俺があーんするってことか……。

「えっと、これも、予習のうち?」

「そ、そうですね……」

おずおずと、しかしはっきりとそう答えた。ええい、ここまできたらとことん付き合うしかない……! あまりの恥ずかしさに考えることを放棄した。もしくはこの異世界の空気にあてられたのかもしれない。

「じゃあ、その、……はい」

俺はオムライスをすくい、スプーンを差し出す。みどりちゃんは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに身をこわばらせ、スプーンを頬張った。

「……どうかな?」

「お、おいしいですね……」

先程も繰り返したやり取りだった。世のカップルというものは、こんなことを平気でやってのけるのか……。


その後はこれといって内容のある話をすることもなく、淡々とオムライスを食していった。最後まで味はわからなかったが、腹は膨れたので満足だ。オムライスを完食し、今日何度目かの気まずさが場を呑む。ついに俺は居ても立っても居られなくなって、

「ごめん、ちょっとトイレ」

と言って逃げ出した。我ながら男として情けない……。顔でも洗って、気分を切り替えよう。

バシャバシャと、火照った顔を冷ますように洗った。水を止め、ポケットからハンカチを取り出そうとして、

「あれ、ないな」

ポケットに入ってないことに気づいた。バッグにしまったのか? 普段はポケットに入れてるんだけどな……。顔を拭くものがないので、仕方なく乾くまでその場で佇んだ。

いやしかし、まさかこんな展開になるとはな……。まさか、あの水蓮寺さんがカップルだなんて言い出すとは……。

鏡を見て、顔がだいぶ乾いてきたのを確認する。これなら水蓮寺さんの前でも恥ずかしくないだろう。俺はトイレを後にした。




「ごめん、遅くなって」

「い、いえいえ! 私もだいぶ落ち着いてきたので……」

「あ、あははは……やっぱりちょっと混乱してた?」

「はい……。その、先程は取り乱してしまい、申し訳ありませんでした……」

「いや、そんなに謝らなくていいよ! その、俺も緊張したけど、それだけだったし……」

会話を交わしながら、バッグの中に手を突っ込む。手探りでハンカチを探すも、なかなかヒットしない。あれ、家に忘れてきたかな……? いや、ここに来るまではポケットに入れてたはずだが……。

「し、俊くん、どうかしました?」

「あ、いや、その、コスプレ喫茶も大変だなと……」

「そ、そうですね。思いの外骨が折れそうです……」

水蓮寺さんはトホホという表情で困惑気味に言った。これは学園祭当日が恐ろしいな……。


……あれ、そういえば今、水蓮寺さん俺のこと…………

「あ、あの、水蓮寺さん。その……『俊くん』っていうのは……」

「はっ! すみませんもしかして不愉快でしたか!?」

「いやそうじゃなくて。ただ、いつまでその呼び方なのかなと思って……」

「あ……その、わ、私は、できれば、ずっと……これからも、『俊くん』と、お呼びしたいなと、思いまして……」

心臓が跳ねた。水蓮寺さんのセリフに、表情に、胸がたかぶるのを感じた。たかが呼び方ごときでこんなになるなんて、我ながら幼いかもな。

「や、やっぱりご迷惑でしたか……!?」

「い、いや全然! その、俺は構わないよ」

パァッと、水蓮寺さんの表情が明るくなる。

「そ、それなら私のことも……下の名前で、呼んでいただけませんか!?」

そのまま水蓮寺さんは前屈みに言った。

「あっと……うん、わかったよ…………みどりちゃん」

水蓮寺さん──いや、みどりちゃんがますますの笑顔を咲かせた。

「あ、ありがとうございます! その、これからも、よろしくお願いします!」

みどりちゃんは本当に嬉しそうに、そう言った。どうやらコスプレ喫茶という名の異世界は、俺たちの関係をも変えてしまったらしい。でも、それでこんな気持ちになるのなら、悪くないのかもな。


「それじゃあ、そろそろ出ましょうか」

みどりちゃんが告げる。

「そうだね」

俺も追随するように立ち上がる。二人でレジに向かうと、ネコの店員さんがスマイルで迎えてくれた。

「お二人とも、楽しんでいただけたようでなによりだにゃ!」

店員さんは言いながらも会計を進める。わかってはいたことだが、こういう類のお店は意外と高いな。割り勘にして半分ずつ出そう──そう提案しようとした刹那、

「これでお願いします」

みどりちゃんがなにやらカードを取り出した。

「いやみどりちゃん、ここは割り勘にしようっ」

俺が慌てて言い出すも、

「いえ、お誘いしたのは私ですので、ここは私が」

みどりちゃんはかたくなに拒む。

「私、ポイントを溜めてるんです。なので、ここは私に支払わせてください」

みどりちゃんは淀みなく言うと、ついに会計を済ませてしまった。

「ありがとうございましただにゃん♪」

ネコの店員さんに見送られ、俺たちはコスプレ喫茶を出た。

「ごめんみどりちゃん、後で必ず払うから!」

店の前、くように言う俺。するとみどりちゃんは、俺の方へ向き直り、目を細めてこう言った。


「……なら、お金じゃなくて、その……俊くんの時間を、私にくださいませんか……?」

それは午後の太陽すらかすむ、蠱惑的こわくてきなセリフだった。

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