第11話 赤い悪夢

「……はくしょん!」

「あらあら俊ちゃん、大丈夫? はい、ティッシュあげるから、鼻かんで」

「ありがとう葵ねぇ……ずびー」

せきはどう?」

「少しは治まったかな」

「よかったわ……。ほら俊ちゃん、お水よ」

葵ねぇから手渡されたコップを受け取り、水を飲み干す。

「もう俊ちゃんったら、だから雨が弱まるまで待ったほうがいいって言ったのに」

「あはは……」

「あんなにびしょ濡れになったら、風邪引くに決まってるでしょう」

「返す言葉もございません……」

葵ねぇはぷんぷんという擬音語がよく似合う表情で俺に言った。

ここは俺の部屋。ベッドで横になっている俺と、傍らで腰かける葵ねぇという構図だ。非常にお恥ずかしい話なのだが、俺は風邪を引いた。理由は明白。葵ねぇと買い物に行った昨日、傘も差さずにびしょ濡れで走ったからだ。この程度で風邪なんか引くわけないとたかくくっていたわけだが、見事お約束のように制裁が下ったのである。


「俊ちゃん、熱はどう?」

「うーん、まだちょっとあるかも」

「どれどれ……」

葵ねぇは俺の額に手を触れた。

「37.5℃か……。たしかに、まだ熱は引いてないみたいね」

「……触っただけでわかるの?」

「当然よ。平熱より1℃も上がってるんだもの、すぐに気づくわ」

「なんで俺の平熱知ってるの……」

「毎日抱き合ってるからに決まってるじゃない♪」

「いや抱き合ってなんかいないかげほっ……」

「俊ちゃん大丈夫!? 病人なんだから安静にしてなさい」

「げほっ……ツッコミすらできないとは、無念……」

「今日はお姉ちゃんが付きっ切りで看病してあげるから、俊ちゃんはなんにもすることないわ♪」

葵ねぇは陽気に言うと、テーブルに置いてあったお椀を手に取った。


「はい俊ちゃん、ちょっと遅くなっちゃったけど、朝ご飯にしましょう」

「わざわざ持ってきてくれたの?」

「当然じゃない。俊ちゃんは今日一日、ベッドから離れちゃダメなんだから」

「手間取らせてごめん」

「謝らないの。さあ俊ちゃん、おかゆ作ってあげたから、たくさん食べてね」

「ありがとう葵ねぇ」

「お口開けて。はい、あーん」

「あーん……やっぱり葵ねぇの料理はおいしいね」

「うそ……俊ちゃんが素直にあーんさせてくれた……!」

「どうせ拒否しても、『病人なんだから大人しくしてなさい♪』とか言うんでしょ」

「俊ちゃん、そこまでお姉ちゃんのことを理解してくれていたのね……!」

「そこで涙目になる理由がわからん」

「お姉ちゃんとっても嬉しいわ。今日は好きなだけ食べさせてあげるからね♪ はい、あーん」

「あーん」

「はぁぁぁ……! 俊ちゃんが二口もあーんさせてくれた……! 餌付けされているペットみたいで、とってもかわいいわ!」

「あんまり調子に乗らないの」

その後も葵ねぇは嬉々としておかゆを食べさせてくれた。さすがは葵ねぇ、味はさることながら熱加減も絶妙で、あっという間に完食してしまった。


「ふぅ……。ごちそうさま、おいしかったよ」

「お粗末様でした♪ ふふっ、俊ちゃんに全部あーんできる日が来るなんて……。もう一生、俊ちゃんはベッドの上で生活してくれていいわよ♪」

「そんなことあってたまるか」

「それじゃあ朝ご飯も食べ終わったことだし、はみがきしましょうか、俊ちゃん♪」

「先に断っておくけどはみがきは自分でやるからね」

「えぇ~! あーんはさせてくれたのに、はみがきはダメなの!?」

「うん」

「せっかく歯ブラシ持ってきたのに……」

「やる気満々じゃん!」

「ねぇお願い俊ちゃん、ちょっとだけでいいから」

「そんなに他人の歯を磨きたいの?」

「お姉ちゃんが磨きたいのは俊ちゃんの歯だけよ。一生お世話するって決めたんだもの、はみがきだってしてあげたいわ」

「って言われてもなあ」

「別に俊ちゃんにとってデメリットはないと思うの。お姉ちゃん頑張ってちゃんと磨くから」

「急に論理的になった」

「恥ずかしいのはわかるけど、お姉ちゃんしか見てないんだもの、気にすることないわ」

「しかも説得力がある」

「ねぇ、だからお願い!」

手を合わせ懇願する葵ねぇ。

「……もう、わかったよ。今日だけ、仕方なく折れてあげる」

「ありがとう俊ちゃん! 大好きよ!!!」

「こら、病人に抱きつかない!」

ということで葵ねぇに歯を磨いてもらうことに。


「それじゃあ、お口開けて。歯ブラシ入れるわね」

葵ねぇは慎重に歯ブラシを口内に入れると、丁寧に歯を磨き始めた。

「ごしごし、ごしごし……。どう俊ちゃん、痛くない?」

「だいじょうぶ」

「なら、このまま続けていくわね。ごしごし、ごしごし……」

とても優しく、心地よいブラッシング。まるで歯医者のようだ。

「ふふっ、気持ちよさそうな顔してるわね。練習したかいがあったわ」

日常生きてきて他人の歯を磨く練習なんてしないでしょ普通。そんなにこだわりがあったんだな。

「上の歯~♪ 下の歯~♪ 前歯~♪ 奥歯~♪」

葵ねぇは超上機嫌そうに歌を口ずさんでいる。

「ごしごし、ごしごし……。はい俊ちゃん、お疲れ様。ブラッシング完了よ。後はこのお水で口をゆすいでね」

葵ねぇに言われる通りに俺はうがいをした。

「ふぅ……。スッキリした」

「本当? お姉ちゃんのはみがき、問題なかった?」

「まったく。完璧すぎて逆に怖いくらい」

俺の言葉を聞いて安堵する葵ねぇ。大方、「俊ちゃんのお世話がちゃんとできて嬉しいわ♪」といったところか。


「そしたら俊ちゃん、お薬飲みましょう」

一息ついてぼーっとしていると、葵ねぇはそう言った。

「そうだね。まだ熱もあるし、一応飲んでおこうかな」

「はい、お水とお薬。喉に詰まらないように、ゆっくり飲むのよ」

「ありがとう」

葵ねぇに促されるまま、薬を飲む。しかし葵ねぇ、本当に手際がいいな。なにからなにまで準備しているとは。

「ごくごく……。薬はこれで全部?」

「ええ。これでしばらく安静にしていれば、楽になると思うわ」

「そっかぁ……」

間抜けな声を出しながら、うーんと伸びをする。薬を飲んだはいいが、いかんせん暇だ。ベッドの上だとできることも限られるし、どうやって時間を過ごすか……。とりあえずゲームしよ。


俺は枕元のスマホに手を伸ばし、愛用のソシャゲ『マジかレコード』を起動する。瞬間、めまいのようなものを感じた。

「あれ……?」

気のせいだろうか、段々と視界にもやがかかる。しかし、どれだけ目をこすっても眼前の世界は晴れない。

「…………っ」

意識が朦朧とする。天井が歪んで、遠ざかっていく感覚すらある。

そうか、これは睡魔の仕業か……。

気づいた時には覚醒の幕は閉じ、俺は深い暗闇に沈んでいった──


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「……俊君、まだ来ませんね」

「……………………」

「いくらメッセージを送っても既読がつきませんし……」

「…………」

「まだ、寝てるんでしょうかね……あはは……」

「……」

「……紅さん…………?」

「あー、もう! 俊ってば、どんだけ待たせれば気が済むのかしら! ちょっと茶助、アイツに電話してやりなさい!」

「それが、さっきから何回もかけてるんですが、一向に出る気配がなくて……」

「…………」

「ど、どうします紅さん……?」

「決まってるでしょう……あのバカを叩き起こしに行くわよ!」


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


……………………。


…………。


……。




「ん…………」


目が開く。


「……んっ」


意識が灯る。


「……」


見慣れた天井。


瞬きをする。

どうやら俺は眠っていたらしい。それもかなり長い時間。窓の方に視線をやると、寝ぼけまなこに斜陽が差し込んだ。ちょっと痛い……そう思って、目をこすった。こすろうとした。目をこするために、手を動かそうとした。そこで俺は違和感に気づく。


手が動かない。


まるでなにかに縛られているかのように、両手が言うことを聞かない。抗えども抗えどもびくともせず、ただ聞きなじみのない金属音が微かに響いた。

どういうことだ。俺はわけがわからないまま、右手に目を向けた。


「…………は?」


目線の先には、イメージ通り、しかしながら容認不能な金属が右手にあてがわれていた。これはなんだ? 右手を動かしてみると、連続的な金属音を上げ件の金属が緊張したのを認めた。


「これは……手錠か?」

俺の腕の自由を奪ってるのは、おそらく手錠かなにかの拘束具だろう。左腕も同じく、ベッドの脚と繋がれていた。

「どうなってんだよ……」

ひとまず事態を確認するために、俺は体を起こそうとした。しかし、


「なっ……!」

結果として俺の体は少し背中が浮いただけだった。手が動かせないから、足を使って起き上がろうとした。しかし足が動かなかった。まるでなにかに縛られているかのように。

「まさか……!」

ビンゴだった。手だけではなく、足までかせのようなもので拘束されていたのである。


「なん、なんだよ……!」

認め難い現実を前に、意識はすっかり覚醒した。手足をじたばたさせて、なんとか拘束から解放されようと抗ってみても、金属音が耳を打つだけ。

「くそ……くそっ……!」

どんなに引っ張っても枷はちぎれない。どんなに揺らしても枷は外れない。なにもできない不自由さにストレスが溜まり、半ば暴れ気味にベッドを叩いた。すると──


「あら俊ちゃん……そんなに暴れてはダメよ……」

金属音だけが響く部屋に声がした。

「あ……葵ねぇ……! よかった、ちょっとこの手錠みたいなの外してもらえる?」

きっと部屋がうるさいのに気が付いたんだろう。俺はタイミングよく現れた葵ねぇに助けを求めた。


「ごめんね、俊ちゃん。それは無理な相談だわ」

「……え?」

「俊ちゃんのお願いならなんでも叶えてあげたいけど、それだけはお姉ちゃん、力になれないわ」

「ど、どうして……!?」

「ふふっ、俊ちゃんは病人なんだから、大人しくしてないとダメでしょう」

「そ、んな……」

不意に、途方に暮れる俺の頬を葵ねぇが撫でた。


「さあ俊ちゃん、お姉ちゃんがいっぱい癒してあげるからね♪」

そう言うと葵ねぇはいきなり俺の体にまたがってきた。

「ちょっ……葵ねぇ、なにしてるの!?」

「うん? これから俊ちゃんを、お姉ちゃん色に染めて、癒してあげるんだよ……♪」

葵ねぇは意味のわからないセリフを発すると、耳元に顔を寄せてきた。


「まずは……俊ちゃんのお耳から、染めてあげるね……」

瞬間、葵ねぇは消え入るような声でささやきだした。

「くっ……くすぐったい……!」

「俊ちゃん……俊ちゃん……お姉ちゃんの声、聞こえる……? お姉ちゃんの甘くてふわふわな声、聞こえるかな……?」

「……っ!」

「ふふっ、体がびくってなってるよ……。まだ始めたばかりなのに……」

「あおい、ねぇ……!」

「そう、お姉ちゃんだよ……。ここにいるのは、お姉ちゃんだよ……。お姉ちゃんが、永遠に側にいてあげるからね……」

どんなに抵抗しようとも、体を拘束されていては無意味に等しかった。

「お姉ちゃん……。お姉ちゃん……。お姉ちゃん……。お姉ちゃん……。俊ちゃんが大好きな、お姉ちゃんですよ……♪」

「はぁっ……はぁっ……!」

「俊ちゃんはお姉ちゃんのことが大好きなの……♪ 他の誰よりも愛しているの……♪ ねえ、そうでしょう……?」

ただささやかれているだけなのに、息切れがする。

「お耳の穴から鼓膜を伝って、脳まで、お姉ちゃんの声が届くでしょう……? もう全部、お姉ちゃんのものなんだよ……」

葵ねぇの声が脳内に直接響くようだ。

「俊ちゃんはお姉ちゃんのもの……。俊ちゃんはお姉ちゃんが愛しくてたまらない……。お姉ちゃんが欲しくてたまらない……」

「…………」

「ふふっ、すっかりリラックスしちゃってる……♪ お姉ちゃんの声に、とろとろにされちゃったんだ……? お姉ちゃんのことしか考えられなくなっちゃったんだ……?」

「……」

「それじゃあ俊ちゃん……俊ちゃんが大好きな人の名前を呼んで……? 俊ちゃんが世界で唯一愛する人の名前を、お姉ちゃんに聞かせて……♪」

「あ、あおい……ねぇ……」

「はい、よくできました♪ 偉いわ俊ちゃん♪」

「や、めて……」

「うん? なにか言ったかしら俊ちゃん?」

「あおいねぇ……やめ、て」

「うーん、まだお姉ちゃん色に染まりきってないみたいね。ふふっ、いいわ、まだ時間はたっぷりあるもの。それなら……」

すると葵ねぇは耳元から顔を離し、今度は自分の胸元を俺の胸元に押し当ててきた。


「ねえ俊ちゃん、ここになにがあるかわかる?」

葵ねぇは俺の左胸を指差しながら言った。

「そう……ここには俊ちゃんにとって一番大事なもの……心臓があるのよ」

「…………!」

俺は本能的に危険を察知し、身をよじった。

「うふふ、そんなに慌てなくても大丈夫よ。心臓にはなにもしないから。……あぁ、聞こえるわ、俊ちゃんの心臓の音が」

葵ねぇは愉悦に満ちた表情で言う。

「どくん、どくん、どくん……って、俊ちゃんが生きてる証が聞こえるの」

「そ、れが……どうしたって、いうの……?」

「ふふっ……ねえ俊ちゃん、お姉ちゃんのも聞こえるでしょう?」

聞こえるわけがない──俺はそう答えようとして、自分の耳を疑った。

「聞こえるでしょう、お姉ちゃんの心音。だって俊ちゃんのお耳はもう、お姉ちゃんに支配されているんだもの」

「な……っ!」

俺は葵ねぇの胸元に耳を当てているわけではない。にもかかわらず、葵ねぇの心臓の音がはっきりと聞こえてくる。

「それじゃあ俊ちゃん……俊ちゃんの鼓動とお姉ちゃんの鼓動を合わせてみましょうか♪」

「は……?」

「どく、どく、どく、どく……段々と俊ちゃんの鼓動が、お姉ちゃんのに合わせて動くの」

そんなこと、できるはずがない……理性がそう叫んでいるのに、脳が言うことを聞かない。

「そう、上手よ俊ちゃん。お姉ちゃんと同じリズムで、心臓が時間を刻んでいるわ」

「くっ……こんなこと、なんの意味が……」

「こうすれば、俊ちゃんの心臓に、お姉ちゃんが生きている証を刻み込むことができるでしょう? 一回一回心臓が鼓動を刻むたびに、お姉ちゃんを感じられるでしょう?」

「バカ、な、こと……」

「今は理解できなくても仕方がないわ。これから時間をかけて、ゆっくりとお姉ちゃんを感じてもらえれば、それでいいから」

心音を合わせる……そんなオカルトじみた行為になんの意味もない。なのに、恐怖が心を染めていく。

「どくん、どくん、どくん、どくん……はい俊ちゃん、これでお姉ちゃんと鼓動までおそろいよ♪ もう俊ちゃんのお耳も、脳も、そして心臓も、お姉ちゃんのものだわ♪」

認めるな──ここで認めたら、本当に葵ねぇに支配されることになる。こんなのはまやかしに過ぎない。だったら、抗い続ければ葵ねぇに屈することはない……!


「さて……お耳と脳と心臓と、俊ちゃんの内側は染められたから……今度は外側ね♪」

すると葵ねぇは立ち上がり、俺の元から離れた。これで終わり……そんなわけがない。葵ねぇは洗面器のようなものを手にすると、再び俺の上にまたがった。

「それじゃあ今から、俊ちゃんに、お姉ちゃんの匂いをマーキングしていくね♪」

「マー、キング……?」

一瞬、葵ねぇの言ってることがわからずに俺は言葉を返した。しかしその意味は、文字通り身をもって知ることになる。

「……っと、その前に、俊ちゃんの服を脱がせてあげないとね」

葵ねぇは口ずさむと、瞬く間に俺のTシャツをさらった。

「はーい、俊ちゃん……お姉ちゃんの匂いですよ~♪」

そう言って葵ねぇは、洗面器からすくった液体を俺の体にかけ始めた。

これはなんだ……特段変なニオイがするわけではない。むしろ──

「これはね、お姉ちゃんが使ってる香水や、ボディソープを混ぜたものなの」

たしかに、女性ものの香料の匂いだ。それも葵ねぇが普段つけてるやつの。……これくらいなら耐えられそうだ。

「……それからね、ここにはお姉ちゃんの体液……唾液とか、その……恥ずかしいけど、お手洗いで出したものとかも、入ってるの……♪」

「……っ!!!」

俺は気色悪さに体を揺らした。

「いやん、もうそんなに暴れないで。お姉ちゃんだって勇気を出したの。だから俊ちゃんにも受け入れてほしいな」

俺がどんなに激しく抵抗しようとも、葵ねぇは液体を塗り続ける。その手は腹、胸、首を伝い、ついには──

「それじゃあ俊ちゃん、お顔にも塗っていくわね♪」

「……くっ!」

葵ねぇは優しく撫でるように、俺の顔に手を触れた。

「やめ、ろ……!」

「大丈夫よ俊ちゃん。お姉ちゃんの匂いをマーキングするだけだから。危険なことなんてなにもないわ」

ためらいもなく液体を塗布する葵ねぇ。

「むしろ俊ちゃんに寄ってくる害虫を払うことができるんですもの、俊ちゃんにとってはプラスなことだわ」

「なにを……っ!」

「ふふふ……これで他の人間にも、俊ちゃんはお姉ちゃんのものだって知らしめることができるわね♪」

抵抗もむなしく、俺はマーキングとやらを浴び続けることしかできなかった。やがて葵ねぇの手が止まり、俺の体を嗅ぎ始めた。

「くんくん……うん、ちゃんとマーキングできたみたいね♪」

葵ねぇは笑みを浮かべた。いつもは優しく感じるその笑みが、今は不気味で仕方ない。

「もう、いいかげん……おわりに、して……」

俺は微かながらに反抗の意を唱えた。

「心配しないで俊ちゃん。次で最後だから♪」

葵ねぇの言葉に希望を見出す。そうか、やっと終わるのか。次を耐えれば、ようやく──


「痛っ……!」

安堵したのも束の間、突然首元に痛みを感じた。

「なに、してる、の……!」

首元に顔をうずめる葵ねぇに俺は問うた。

「うん……? れろっ……見ての通り、俊ちゃんの体に、お姉ちゃんの歯形をつけてるのよ♪」

「…………」

絶句した。理解不能だ。歯形をつける? なんだよそれ……!?

「こうしてね、俊ちゃんの体に歯形をつけて……あむ……俊ちゃんはお姉ちゃんのものだって他の人間に教えてあげるの♪」

「……っ!」

肩に激痛が走る。

「ふふっ、安心して。食べちゃったりはしないから♪」

続けて腕、指、腹と、俺の体を噛んでいく葵ねぇ。

「やめ、ろ……っ」

あまりの痛みに声を上げる。

「俊ちゃんの体、とってもおいしいわ。いっぱい歯形つけたくなっちゃう♪」

「……めろ……っ」

必死に体を揺すって抵抗する。

「じゃあ最後は、俊ちゃんのお耳を、いただいちゃおうかな」

そう言って葵ねぇは俺の耳をくわえた。その痛みに対する恐怖心と反逆心が、俺の体を動かした。

「や、めろ……!」

俺は唯一動かせる頭で、葵ねぇに頭突きを仕掛けた。しかし、葵ねぇは俺の行動を察知したのか、すぐさま回避し俺の反撃は失敗に終わった。


「……俊ちゃん。あんまり暴れちゃダメって、お姉ちゃん言ったよね?」

「知るか……!」

「うーん……どうやらまだ、お姉ちゃんの言うことがちゃんと聞けないみたいね」

「そんなもの……聞いて、たまるか」

「そっかぁ……なら俊ちゃんには、ちょっとおしおきが必要みたいね」

「おしおき……?」

葵ねぇは不気味な笑みを浮かべると、胸元からなにかを取り出した。

「俊ちゃん……これ、なんだかわかる?」

「……ただの糸だろう」

「ただの糸なんかじゃないわ。これはね、俊ちゃんとお姉ちゃんを繋ぐ、赤い糸」

言って葵ねぇは、糸をぴんと張り、俺の腕に当てた。そして次の瞬間──

「ぐぁっ……!!!」

葵ねぇは糸を素早く動かしたかと思うと、俺の肌を躊躇ちゅうちょなく切ったのである。

「……っ!!!」

「まあ俊ちゃんったら、そんなに大きな声を上げちゃって。痛かった?」

「ん……っ」

「痛かったのね。でも仕方ないわ。これはおしおきなんですもの」

「痛……っ!」

葵ねぇはさらに俺の肌を糸で切っていく。

「ねえ俊ちゃん、痛いよね……? とっても痛いわよね……? 感じるでしょうこの悲痛を……♡」

途端に葵ねぇの声音が変わった。先程までの穏やかなものから一転、狂気さえ感じるような声である。

「この痛みはね……お姉ちゃんがずっっっっっと感じてきた痛みなんだよ♡ 俊ちゃんをお姉ちゃんのものにしたくて、したくて、したくて、でも……ずっと結ばれることができなかった、お姉ちゃんの痛みなんだよ♡ ねえ俊ちゃん、感じるよね!!!???」

ぐりぐりぐりと、音が聞こえそうなぐらい肌がえぐられる。

「はぁ……見て俊ちゃん。俊ちゃんの血で、どんどん糸が赤くなっていくわ♡ お姉ちゃんと俊ちゃんを繋ぐ、赤い糸……うふふ♡」

「くはぁ……!」

痛い。糸がこんなにも危険な凶器だなんて、知らなかった。痛みとともに、どんどん肌が赤くなっていく。葵ねぇの言う通り、出血してるみたいだ。

「ねえ俊ちゃん、痛いでしょう? 辛いでしょう? でもね、お姉ちゃんの感じてきた痛みは、こんなものじゃないの! それを俊ちゃんにも教えてあげないとね……!!!」

不意に葵ねぇは糸を腕から離したかと思うと、俺の後頭部の方へ持ってきた。そのまま下の方へスライドさせ、糸の両端を両手でつかんだかと思うと──

「…………っっっっっ!!!!!!!」

言葉が出なかった。それくらいの苦痛だった。

葵ねぇはその凶器とも言える糸で、俺の首を絞めたのである。

「あああぁぁぁぁぁ俊ちゃん♡ 二人を繋ぐ赤い糸が、俊ちゃんの首を絞めちゃってるよ♡」

葵ねぇの表情は、どこかで見た誰かのそれにとても似ていた。

「ぐりぐりぐり……って、どんどん深く絞め上げちゃってる♡」

狂気をはらんでいて、

「はぁぁぁ見て俊ちゃん……血だよ……俊ちゃんの血……♡」

どこか恍惚こうこつ的で、

「この糸はね、元々は真っ白だったの。それをね、お姉ちゃんの血で真っ赤にしたんだよ♪ だから……この糸は、俊ちゃんとお姉ちゃんの血で染められた、正真正銘の二人の赤い糸なんだよ♡」

光を失ったその瞳は、

「もっとちょうだい……俊ちゃんの真っ赤な血、もっとちょうだい♡ ぎゅゅゅゅゅううう……!!!」

そうか……あの日、俺をさいなめていた、香澄の表情によく似てる。

「ぐふっ……!!!」

あまりの苦しさに、意図せず嗚咽おえつが漏れる。

「ねえ俊ちゃん。痛い? 辛い? 苦しい?」

苦しいに決まってるだろ……そんな訴えも、声にならない。

「苦しいよね? 苦しいわよね! じゃあもっと感じて! 痛いの辛いの苦しいの、もっともっと感じて♡」

喉が渇く。

「お姉ちゃんが感じてきた痛みも、苦しみも、悲しみも、絶望も、全部俊ちゃんに知ってほしいの!!!!!」

いや、喉が渇くとか、もはやそんな次元じゃない。体中が酸素を求めている。

「はぁぁぁぁぁ俊ちゃん……大好きだよ。愛してるよ俊ちゃん♡」

脳が警告を発している。「このままじゃ死ぬぞ」と。

「いっぱい傷つけて、痛い思いさせちゃってごめんね。でも今日だけだから。これで終わりだからね……!」

意識が遠のく。視界が揺らぐ。なのに、あらゆる記憶が一斉にフラッシュバックして、脳裏に浮かぶ。

「明日からは、一生ここで、お姉ちゃんが俊ちゃんのお世話してあげるから……。俊ちゃんに苦しい思いは、なに一つさせないからね♪」

……ははっ、これで二回目か。走馬灯を見るのは。いよいよここまでみたいだな。

「だから俊ちゃん……永遠に二人きりでいましょう……。この赤い糸で二人を繋ぎ止めて、永遠に縛ってしまいましょう♡」

葵ねぇが力を込める。抵抗しようにも、もはや体が動かない。

「愛してるわ俊ちゃん……。愛してる愛してる愛してるアイシテルあいしてる……♡♡♡」

俺はその瞬間、自らの最期を悟った──











ピンポーン






不意に、体が軽くなる。苦痛が姿を消す。

そうか、俺、死んだんだな……。死ぬとこんなにも、重力を感じないんだな。


「…………っぷはぁぁぁっっっ!!!!!」


俺はなにかを吐いた。まるで苦しみを体内から棄てるように。

……って、あれ? 俺は死んだんじゃなかったのか?

懐疑かいぎしているうちに、思い出したように呼吸を始める。


「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」

息をしている……ということは俺、生きてるのか……!

混濁した意識と、疲弊しきった体にムチを打って、俺はゆっくりと目を開けた。


見慣れた天井。


「…………ぁ」

俺は生きてる。死に際まで片足を突っ込んだが、なんとか生きてるようだ。


「…………」

そこで俺は、先程までとの変化に気づく。

葵ねぇが、いない……。それになぜかTシャツを着ている。Tシャツだけじゃない、さっきまで乱れていたベッドが、綺麗に整えられていた。そして最大の変化は──


「……手足が動く…………」

そう。数分前まで俺の自由を奪っていた手錠や足枷が、なくなっていたのだ。

どういうことだ……? 終わったのか? あの拷問のようなものから、俺は解放されたのか……?

謎だらけの迷宮を一人ぐるぐるしていると、突然ドアノブのカチャという音がした。


「…………っっっ!!!」

俺は恐怖に身を強張らせた。もしも葵ねぇだったら……。もしも葵ねぇが、あの拷問のようなものを再び味わわせるのだとしたら……。思い出すだけで体が拘束されるようだった。


ガチャリ──ゆっくりとドアが開く。そこに現れたのは、




「あら俊ちゃん、目を覚ましたのね」

葵ねぇだった。

「調子はどう? 熱のほうは……って、大変! 俊ちゃん、戻しちゃったのねっ」

しかし、葵ねぇは葵ねぇでも、先程のような狂気に満ちた葵ねぇではなく、いつもの世話焼きな葵ねぇだった。そして──


「俊君、大丈夫ですか!?」

続けて現れたのはまったく予想外の来客──茶助と紅だった。


「さすけ……それに、くれないも…………」

「二人がね、俊ちゃんの様子を見に来てくれたんだって」

「何回電話をかけても繋がらなくて……それで心配になって来てみたら、風邪を引いたと聞いて……」

茶助が心配そうな表情で言った。

「電話……? 俺に……? どうして……?」

「あれ……? 俊君、もしかして忘れてます……?」

「なにをだ……?」

茶助と話が噛み合わず、疑問符を浮かべる。そんな俺に堪忍袋の緒が切れたのか、今まで沈黙を貫いていた紅が、ついに口を開いた。


「アンタ、テスト終わったら三人で映画見るって、約束したでしょうが!!!」

その声は怒りをたっぷり含んでいた。

「ちょっと紅さんっ。俊君は病人なんですから、もうちょっと静かに……」

「関係ないわよっ。アンタね、アタシたちがどんだけ待ってたと思ってるの?」

「…………あ」

そこでようやく思い出す。そうだ、二人と遊ぶ約束をしてたんだ。

「今思い出しましたって顔ね……。へぇー、アンタなかなか度胸あるじゃない……」

紅は言うと、おもむろにこちらに歩み寄ってきた。どうしたのだろうか。病人である俺に、あまり迂闊うかつに近づくべきではないと思うのだが……。そう思案していた次の瞬間、


「いい加減、目を覚ましなさいっっっ!!!」


バチン──弾けるような音が、部屋中に響いた。


「えええええ!!!??? 紅さん、なにしてるんですかっ!? 俊君は病人なんですよ!?」

「ふん、これで風邪も治ったでしょ」

「いやいやビンタ一発で治るわけありませんよ!」

「ならもう一発カマしてあげましょうか?」

「絶対ダメですから!」


頬が痛い。じんわりとする。おまけに頭もくらくらする。紅のヤツ、どれだけの力ではたいたんだよ。

でも、不思議と体が軽い。頭はくらくらするが、意識は覚醒している。なんというか、先程まで遠くにあった意識が、ちゃんと自分の中にあるという感じだ。


「それじゃ、一発ブン殴れたことだし、アタシはおいとまするから」

捨て台詞のようなものを吐くと、紅はあっけなく部屋を後にした。

「ちょっ、紅さん!? もう、本当に自由気ままなんですからっ。それじゃあ俊君、僕もこのへんで失礼しますね。お大事にしてください!」

紅の後を追うようにして、茶助も帰っていった。

結局あの二人はなにしに来たんだ? ってまあ、約束を忘れていた俺が全面的に悪いのだが。

頬をさする。まだ少し痛い。でもこの痛みが、今はなんだか安心感を与えてくれる。

「……サンキュー」

俺は意図せず、そんなセリフをつぶやいていた。




「それで俊ちゃん、体調はどう? 気分は悪くない?」

途端に声がした。先刻、俺を苦しめていた声が。

「……………………」

「お熱はどう? ちょっと測ってみよっか」

葵ねぇが俺の額に手を伸ばす。俺はその手をはらけた。

「どうしたの俊ちゃん? お姉ちゃんにお熱を測らせて?」

葵ねぇはさも当然のように続けようとする。そんな彼女に、俺は猜疑心さいぎしんあらわにする。

「……葵ねぇ、さっきのはなに?」

少しの沈黙。そして、

「さっき……? なんのことかしら?」

「とぼけないで。さっきの、その……マーキングとか、歯形とか……」

「……? ごめんなさい俊ちゃん。お姉ちゃんちょっとわからないわ」

「ふざけないでっ……! 葵ねぇ……俺の首を縛ったじゃないか……」

「え!? お姉ちゃんが、俊ちゃんの首を……? ううん、お姉ちゃんがそんなことするわけないわ……! そんな、俊ちゃんを傷つけるようなこと……」

葵ねぇは神妙そうな表情で続けた。

「……きっと、悪い夢でも見ていたのね。ちょっと、お薬が強すぎたのかしら」

「夢、だって……?」

「やっぱりもうちょっとお休みが必要ね。待ってて俊ちゃん、すぐに夜ご飯作ってきてあげるから」

葵ねぇはそう言うと足早に部屋を発った。呆然とする俺を置き去りにするように。


「……夢だって…………あれが……?」

そんなはずがない。俺ははっきりと、鮮明にあの苦しみを覚えている。夢であってたまるか。

……でも同時に、夢であったらどんなによかっただろうとも思った。まさか葵ねぇが、俺に対してあんなことをするなんて……。到底認めたくない現実だ。


「……………………」

俺はまだダルさが残る体を連れ、姿見の前に立つ。そしてゆっくりとTシャツを脱いだ。文字通り一糸まとわぬ上半身、そこには──

「くっ……」

真っ赤に染まった肌と、大量の歯形が目に焼き付いた。


どうやら俺は、葵ねぇを疑わなければならなくなってしまったようだ。

たった一人の姉は、狂気に溺れた赤い花だと──

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