第8話 それはデートではありません
「………………」
茜色の空の下、並んで歩く影が二つ。
「……か、香澄?」
「なんですか、センパイ」
「い、いや、その……」
俺は言葉に詰まる。先程からずっとこんな感じだ。駅前で遊んでいた時間が嘘だったかのように、沈黙が流れていた。
「い、いいのか本当に、家にお邪魔しちゃって……?」
「大丈夫ですよ」
耐えかねた俺が口を開くも、香澄の返事はあっけなかった。いつもの香澄からは想像もつかないほど淡泊だ。緊張しているんだろうか? これから家に男子を招くんだ、あの香澄といえど、気持ちが張り詰めているんだろう──俺はそう思いながら、自分こそが緊張しているということを
「着きました」
不意に香澄が足を止めた。視線の先には、古びたアパートが構えている。
「こっちです」
そう言って香澄は俺の手を引いて、アパートの階段を上がっていく。乾いた足音が、この建物の歴史を物語っているようだった。やがて一室のドアの前に至ると、再び香澄は足を止めた。
「さあ、どうぞ」
香澄はバッグから鍵を取り出し、慣れた手つきで開錠すると、俺を中へと促した。「202 久我」──
「……お、お邪魔します」
俺はやはり緊縮した心持ちのまま、香澄に続いて家中に足を踏み入れた。
ガチャン──ドアが閉まる。室内が一気に暗闇に包まれた。どうやらカーテンを閉め切っているみたいだ。慣れない空間と暗闇の掛け算に、俺はその場でたたずむことしかできなかった。
ピシャ──たちまち部屋に光が差し込む。香澄がカーテンを開けてくれたみたいだ。すると、
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
と長いため息が聞こえたかと思うと、
「ささ、センパイ、遠慮なく上がっちゃってください!」
先程までの静寂から一転、香澄はいつものような朗らかな声で俺に言った。
「お、おう。お邪魔します」
俺も彼女に
靴を脱いで部屋に上がろうとした途端、俺は足のやり場に困惑した。
「すみません、ちょっと散らかっちゃってて。適当に
俺は言われるがまま、床に散在する物を踏まないように振る舞い、ようやく家に上がることができた。視線を足元から前方へ移すと、部屋のほうにまで物が散在しているのを認めた。なんというか、少し散らかっているなという印象だった。
「センパイは、ボクの家に来るのは二回目でしたよね?」
「ああ。でもずいぶんと前のことだからな、すごく新鮮に感じるよ」
「そんなに肩肘張らなくても大丈夫ですよ! 狭い家ですけど、リラックスしてください」
香澄の言う通り、この家の間取りはワンルームとなっており、お世辞にも広いとは言えない。ただ、香澄は
俺は香澄に促されるまま、部屋に腰を下ろした。イスやクッションのようなものはなく、小さなテーブルの側に座っているだけだが。見るに、テレビやエアコンなどもなく、本当に必要最低限の家具しか置いていないという感じだ。
「センパイ、お待たせしました。粗茶ですが、どうぞ」
香澄がキッチンスペースから顔を出すと、飲み物を出してくれた。
「おう、サンキュー」
俺はありがたく
……薄い。これ、スポーツドリンクだ。しかも粉を溶かすタイプの。これだけ生活感の感じられない家だ、もしかしたら水しかないのかもしれない。スポーツドリンクが贅沢品なのだろう、きっと。
「ふふっ、センパイ、今日は楽しかったですね!」
香澄は言いながら俺の隣に腰かける。
「そうか、それはよかった」
「まさかセンパイとデートできるなんてなぁ~」
「言っておくが、あれはデートではないぞ」
「えー! あれは正真正銘デートですよ! センパイだって楽しかったでしょう?」
「む……まあ、楽しくはなくもなくもなくもなかった、かな」
「ほらー、楽しかったんじゃないですか。そしたらもう、それはデートなんですよっ」
「デートの定義って難しいな……」
そうして俺たちはいつものように談笑した。しかし、
「……自分から誘っておいてなんですけど、大したもてなし、できませんね」
香澄は申し訳なさそうに切り出す。
「そんな、気にすることないだろ。こうしてしゃべってるだけでも、十分楽しいぞ」
「ん……でも、やっぱり家にお誘いしたからには、それっぽいことしたいじゃないですかっ。手料理を振る舞うとか……」
言いながら香澄は、「でもそんなの自分にはできないし……」という顔をしていた。困ったな……俺は別にもてなしてもらいたいとは思ってないが、家主としてはそういうわけにもいかないのだろう。
「うーん……じゃあ、一緒に掃除でもするか」
「……へ? 掃除って、ボクの家をですか?」
「他にどこを掃除するってんだ。いい時間潰しにもなるだろう」
「ダメですよそんなの! センパイはお客さんなのに!」
「俺がやりたいんだ、気にするな。それにな香澄、この部屋、お世辞にもキレイとは言えないぞ」
「うぐっ……」
「どうせこんな機会でもなければ掃除しないんだろう? だったらせっかくだし、一緒にキレイにしちまおう」
「センパイ……」
そう言うなり俺は、立ち上がって腕まくりをした。今日は先輩として後輩のサポートをするという名目だ。ならばとことんサポートしてやろう。
「悪いんだが香澄、電気を点けてくれないか?」
俺は香澄に言った。
「あ……すみませんセンパイ、電気切れちゃってるんです。もう長いこと使ってないので」
「え……? そ、そうか、なら明るいうちに済ませよう」
電気を点けていないだって……? そんなんで生活できるのか? それに、さっきまでカーテンも閉め切られていたし……。 まあいい、香澄の生活事情だ、あまり詮索はするべきじゃない。それよりも、今はさっさと掃除をしないとな。
「よし、まずはゴミ捨てからだ。いらないものをまとめよう」
「はいっ!」
そうして俺たちは、手分けして床一面に広がるゴミを拾っていった。見たところ、カップ麺やコンビニ弁当のゴミが目立つ。ちゃんとした食事はとれているんだろうか? 心配になるな。
「ん……なんだこれ」
掃除の傍ら、俺は部屋に妙なスペースがあることに気が付いた。
「バット……」
そう、そこには数本の金属バットが無造作に立て掛けられていたのだ。どれもずいぶんと使い古されているような印象だった。
「っ……」
戦慄がフラッシュバックしてくる。香澄はどうしてこんなものを所持しているのだろうか。香澄にバットを握らせるべきではないのではないか。いっそ、俺がここで捨ててしまったほうがいいのではないか。様々な感情が矢継ぎ早に押し寄せてくる。
「……ん?」
あれこれと
「重たっ……うん? これは……斧と、ハンマー?」
そこに鎮座していたのは、きこりが使うような本格的な斧と、用途不明なハンマーであった。どちらも俺の爪先から胸のあたりにわたるほどの大きさであり、容易に扱えるような代物ではなかった。しかし、どちらもそれとなく錆びついていて、誰かが使用した痕跡のようなものを感じた。
「センパイ、なにか見つけましたか?」
そこへ香澄が声をかけてきた。
「香澄、この斧とハンマーはなんだ? お前のか?」
俺は気になって尋ねてみる。
「ああ、それはボクのですよ」
「なんだってこんなもん持ってんだ?」
「それは、雑草を刈ったり、あとは……護身用ですよ」
「護身用って……物騒すぎるだろ」
「あはは……でも最近は使ってないので、大丈夫ですよ」
「そこに置いといて平気ですから」と香澄が言うので、俺は先程あった位置に戻しておいた。なんだか歯切れの悪い返事が気になるが、俺の物ではないので香澄の言う通りにする。
しかしなんだこの部屋、見れば見るほど退廃的というか……。数少ない家具はへこんでいたり破損していたり、極めつけは窓や鏡にヒビが入っている。どう考えても自然発生的ではない不気味さが、部屋の至る所から感じ取られる。
「お、これは……」
そんなお化け屋敷のような空間の中で、唯一輝きを放っているスペースがあった。
「懐かしいな」
そこに飾られていたのは、過去の大会で獲得したメダルや
「センパイ、覚えてますか? この写真を撮ったときのこと」
俺が一人で感慨にふけっていると、香澄が背後から声をかけてきた。
「ああ、覚えてるよ。入学式の日の写真だよな」
「はい。ボクが中学校に入学したときの」
俺たちが眺めている写真──そこには桜並木をバックに、満面の笑みの香澄と、ぶっきらぼうな顔をした俺が肩を並べていた。その写真は、この部屋のどんなものよりも大切に飾られていた。
「あの日……ボクが俊センパイの後輩になったあの日から、ボクの運命は変わったんですよ」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟なんかじゃありません。ボクにとって、あの日以上に意味のある人生なんてありません。センパイという存在は、ボクの中で何物にも代えられないたったひとつの救いなんです」
「さ、さすがに言いすぎだって」
「センパイは優しくてカッコよくてあたたかくて……だから、今日のデートは本当に嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて」
「お、おう……」
「ボクも、センパイにとっての“たったひとつ”になりたいって、強く思っているんです」
「……香澄?」
「──でも、まわりは邪魔者ばっかりだ」
そこでようやく、香澄の様子が変だということに気づいた。
「だからボク、思いついたんです。他の女に取られる前に、センパイと結ばれちゃえばいいんだって」
香澄の笑みは、薄く、冷たいものだった。
「センパイ、今日はボクの家に泊まっていってください。ううん、今日だけじゃなく、明日も、明後日も、
「い、いや、急に言われても厳しいって。それにずっと香澄の家に泊まるなんて、無理だろう」
俺は冗談めかして、軽いノリで香澄の誘いを断った。だからこの言葉が、香澄の導火線に火を点けるだなんて思ってもいなかった。
「なんでですかっっっっっ!!!!!」
突然、香澄が大声で怒号を上げた。俺は思わず手で耳を押さえる。
「ボクは誰にも邪魔されず、センパイと一生暮らしていたいだけなのにっっっ!!! どうしてセンパイは拒絶するんですかっっっ!!!」
空気を引き裂くような甲高い怒鳴り声が、俺の鼓膜をつんざくように突き刺す。その憤怒に満ち溢れた剣幕にひるんでいると、突如、右腕に強い痛みを感じた。
「……っ!」
見ると、香澄がこれまでとは比べ物にならないほどの力で俺の腕を掴んでいるのを認めた。いや、「握り潰している」と言うのが正しいのかもしれない。その握力はおよそ香澄のものとは思えず、まるで右腕が空中に固定されているかのようだった。
「くっ……香澄、離してくれっ。このままじゃ、腕がもげる……!」
腕に血が通ってないのがわかる。指先はどんどん冷たくなり、このまま腐敗して取れてしまうんじゃないかと、そう思ってしまうほどに、香澄の力は強かった。
「センパイ、離れちゃダメですよ。ボクたちはここで、幸せな家庭を築いていくんですから」
どんなに説得しようとも、香澄は聞く耳持たずといった感じで、まったく解放してくれない。マズい……このままでは、本当に危ないかもしれない。俺は命の危機を直感した。仕方がない、香澄には悪いが、力ずくでもこの場から去ろう。
「う……らあっ!」
俺は体を反転させ、その遠心力で香澄を壁に打ち付けた。その衝撃にたまらず香澄は俺の腕から手を離す。
「わ、悪いな香澄、乱暴しちまって。俺はもう帰るから」
俺は再び捕捉されることのないよう、急いで部屋を発とうとする。大慌てで靴を履き、ドアノブに手をかけた。
「なっ……」
するとドアは全開することなく、重たい音を響かせただけだった。
「いつの間にチェーンなんか……」
俺は
「ぐはぁぁぁっっっ!!!」
鈍く、重たい痛みが、俺の背中を襲った。
「っ……はぁっ」
あまりの衝撃に俺はその場に倒れ込む。息が、うまくできない。
「センパイ、ヒドいですよ……。ボクを置いてどっか行こうとするなんて。ボクたちは永遠を誓い合ったんですから、常に一緒じゃないと、ダメじゃないですか……」
背後から、冷たい声。そこにいるのが誰かなんて、わかりきってる。振り返りたくもない。なのに防衛本能は、否応なく俺の視線を引っ張っていく。
「あ、やっと目が合いましたね、センパイ♡」
そこにそびえていたのは、今日何度見たであろう、金属バットを片手に冷笑する香澄だった。
「はぁ、はぁ……っ」
俺は痛みに打ちひしがれた体をなんとか動かし、地を
「あっははははは!!! センパイってば、本当にお外が好きなんですね。もしかしてまたボクとデートしたいのかなぁ? でもダメです♡ 今夜は二人で愛を育むことにしましたからねっっっっっ!!!!!」
「あぁぁぁっっっ!!!」
重たい金属音とともに、脚に鈍痛が走る。痛い、熱い、痛い。鉄塊で殴られるのが、こんなに苦しいだなんて。
「そんなに声を上げちゃって♡ 痛かったですか? 苦しかったですか? いいなぁ、痛苦しいのって、とっっっっっても気持ちいいですよね♪ 本当はボクがセンパイに乱暴されたいのになぁ♡」
香澄は完全に陶酔しきった様子で、その瞳には
「センパイにたくさん虐められて、辱められて、犯されて、傷物にされたいなぁ♡ えっへへへへへ……想像するだけでよだれが出てきちゃいましたよ♪ ……れろっ」
そう言いながら、香澄は俺の身体を転がし、仰向けにすると、臆面もなくまたがってきた。
「でも今日は……痛くて痛くて動けないセンパイのために、ボクがシてあげますからね♪」
香澄の指先が、俺のベルトに触れる。
「ぐっ……」
それ以上はダメだ──俺は必死の思いで抵抗するも、香澄相手にはまるでびくともしない。
「ようやくです……ようやく、センパイと繋がれるんです。いっひひひひひ」
「やめ、ろ……」
ダメだ、やめろ──強く思っても、身体が言うことを聞かない。痛みからか、意識も段々と
香澄の手が、ズボンにかかる。
やめろ、やめろ、やめろ──
「センパイ、大好きですよ……これからは、永遠に二人きりです♡」
懸命の抵抗も
「ぐはぁぁぁっっっ!!!!!」
突如、香澄の大きな
「な、なんなんだ、いったい……」
あまりに突然のことに、薄れていた意識が明瞭さを取り戻す。いったいなにが起こったんだ……? 状況を把握しようと、上半身を起こすと、
「これは……ゴム弾、か?」
床に転がっていた一発のゴム弾。先程まではなかったものだ。嘘だろ……俺はありえもしないが、しかしそう考えるのが自然だという状況に、唾を呑んだ。まさか、香澄はこれに撃たれたのか……!?
「はっ……香澄? 大丈夫か?」
俺は訴えかけるように香澄に声をかけた。ゴム弾とはいえ、狙撃されているんだ、ただ事では済まないかもしれない。心配になって香澄の様子をうかがった。
「………………セ、ン……パイ……セ、ンパイ……センパイセンパイセンパイセンパイセンパイ」
瞬間、香澄の手がブルッと震え、壊れた機械のような声がしたかと思うと、空っぽの瞳で射貫くように睨まれた。
「っ……!!!」
恐怖に冷や汗をかいた。このままでは、今度こそやられる──動物的な本能でそう直感した俺は、急いでこの場から離れることにした。
「わ、悪い香澄……またな……!」
床に伏している香澄を置いて、俺は部屋を後にした。早く帰ろうと、そう思っても、足がうまく動かせない。さっきバットで殴られたからだろう、歩くたびに痛みを感じる。
「はぁっ……はぁっ……」
足を引きずるように、鉛のような身体を支えるようにして帰路を目指す。目をつぶれば今にも崩れ落ちてしまいそうな身体を、命からがら保つので精一杯だった。
道のりが果てしなく長く感じる。
あたりはすっかり真っ暗だ。
どれだけ歩いただろうか。
もうすぐ着くだろうか。
一寸先の闇に、心が折れそうになってきた。
諦めてはいけない。
まぶたを閉じてはいけない。
それでも……わかっていても、抵抗できない。
意識がぼんやりしてきた。
俺、ここで終わるのか……悔しさすら伴わない
「……あら、俊じゃない。アンタ、こんなとこでなにやって……って、俊!? どうしたの!? しっかりして……!」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
目覚めというものはなんの前触れもなく訪れるもので、このときだって、起きたいわけでもないのにまぶたが勝手に開いたのである。
「ん………………」
ここは、どこだ? あれ、見慣れた天井だ。それに、あたたかい。どうして?
「っ……俊ちゃん!!!!!!!!!!」
あれ、葵ねぇ? どうして、ここに?
「俊ちゃん、大丈夫!? お姉ちゃんとってもとっても心配で……!」
葵ねぇの不安そうな声と、青ざめた表情に、ようやく意識が明るくなってきた。ここは俺の部屋だ。俺のベッドだ。
「くーちゃんがね、ボロボロになってる俊ちゃんを、ここまで運んできてくれたのよ」
そうか、紅が……。帰り道の途中、どうやら俺は意識を失ったらしい。自分でもあのあたりのことはよく覚えていないが、紅が助けてくれたんだな。後でちゃんとお礼を言おう。
「ぐすっ……よかったあ……ほんとうに、よかったあ………………」
葵ねぇはその綺麗な顔をぐしゃぐしゃにしながら、大粒の涙を流していた。
「んっ……もう俊ちゃん、かえってこないんじゃ、ないかって……ぐすっ……ほんとうに、ふあんだったから……うぐっ」
苦しそうに、むせぶように言う葵ねぇは、強く、強く俺の手を握っていた。そうか、あたたかいと感じたのは、葵ねぇが包んでくれていたからだったのか。
ホッとしたからであろうか、再び意識が薄れていく。あれだけのダメージを負ったんだ、体はまだ全快していないのだろう。ぼろぼろと涙を流す葵ねぇを傍らに、俺は目を閉じた。
──香澄は、大丈夫だろうか。
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