第9話 バカとテストとおしくらまんじゅう

キーンコーンカーンコーン


6時間目終了を知らせるチャイムが鳴る。


「それじゃあ、来週のテストに向けてしっかり勉強しておくように」

お決まりのセリフを言い残すと、担任は相も変わらず足早に立ち去っていった。


「ふぁあ、やっと終わったぁ~」

噛み殺していた欠伸あくびをダムのように吐き出しながら、伸びをした。

「まったく、間抜けな声ね。アンタ、そんなんじゃ赤点取るわよ」

お隣さんが四の五の言ってきた。

「大丈夫だよ。俺はやるときはやる男だが、やらないときもやれちゃう男だから」

「なに意味不明なこと言ってるのよ。どうせ勉強してないんでしょう?」

「うぐっ……」


そう、我が学園は来週からテストである。それに伴い、一昨日おとといから部活動は休みとなっている。


「……香澄、今日も来なかったな」

あの日以来、俺は香澄と顔を合わせていない。部活がないから、というのもあるが、昼休みですら彼女が俺の前に現れることはなかった。あれだけ毎日騒ぎ立てていたのに、最近じゃすっかり秋の夜長だ。あれほどのことがあった後だ、正直こちらからコンタクトをとるのもはばかられる。


「はぁ……」

どうすべきかわからず、自然とため息が漏れる。


「なによ、ため息なんか吐いちゃって。アンタそんなにテスト危ないわけ?」

「うん……? いや、そういうわけじゃないけど、たしかに勉強しなきゃなーと」

移ろいでいた視線を戻し、お茶を濁す。香澄のことは気になるが、時が解決してくれるのを祈るしかないか。それに、

「さすがに勉強しないとマズいよな……」

机上に広がる小テストの群れを眺めて、危機感を吐露した。


「ぁ、あの……」


どれも赤点ギリギリで、「このままでは間違いなく死を見るぞ」と言っているようだった。


「ぁの……」


まったく、ただの紙切れのくせに生意気だぞと思うが、赤点を取ると補習を受けるハメになるので、言い返すにも言い返せなかった。


「あの……」


ちくしょう。「33点」の文字が俺を嘲笑あざわらっているようでムカつくぜ……!


「あのっ!」

「うわっ!」

「ひぃっ!」

突如、背後から声をかけられ、驚きに身を翻す。見ると、声をかけてきたはずの相手もなぜか身をかがませておびえていた。ていうか、前にもあったなこんなこと。


「あれ……水蓮寺さん?」

「は、はい……! こんにちは、八十崎くんっ」

「うん、こんにちは……? どうしたの、俺に用事かな?」

「はい、実は、その……八十崎くんに、お話というか、があって……」

「そうだったんだ。なら、驚かすようなことしないで、遠慮なく声をかけてくれればいいのに」

「ぇ、えと……何回か声をかけさせていただいたんですけど……きき、気づいて、もらえなかったみたいで……」

「本当に!? ごめん、俺がぼうっとしていたばっかりに」

「い、いえ……! 私の影が薄いのが悪いのですから……」

「今度からは、手加減なく背中を叩いてもらって構わないから」

「へぇっ……! そんな、八十崎くんの身体に触れてしまうだなんて……!」

「どうかした、水蓮寺さん?」

「いいい、いえいえ! なんでもございません……!」

「そうだ、それで、話っていうのは?」

「あ、はい……! ぇ、えっと、ですね……その……」

本題に戻るべく、俺は彼女を促した。

「うぅ……そ、その、えっと、えっと……」

ためらっているのだろうか、水蓮寺さんはなかなか続きを切り出さない。それでも、勇気を振り絞って声をかけてくれた彼女に応えるべく、俺は黙って二の句を待った。

「……わたしと」

そして数十秒の逡巡しゅんじゅんの末、ついに水蓮寺さんは口を開いたのである。


「あ、あの……私と一緒に、お勉強、しませんか……!」


「……」

あまりに予想外の言葉に、思わず口を閉ざしてしまう。


「すすすすみません! やっぱり、ご迷惑でしたよね!? 今のは忘れてください……!」

水蓮寺さんはものすごい勢いで平身低頭している。

「あ……違う違う! 迷惑とか、嫌とかじゃなくて、ちょっとびっくりしただけだからっ」

慌ててフォローに回る俺。

「その、まさか水蓮寺さんからお誘いしてもらえるなんて、思ってもいなかったから」

いまだ頭を下げる彼女をなだめて、俺は言った。

「俺でよかったら、一緒に勉強しよう」

「はぁっ……!」

瞬間、水蓮寺さんの表情が明るくなる。

「は、はい、ぜひ、お願いします……!」

そう言って、再び彼女は頭を下げたのであった。


「……といっても、俺、全然勉強できないんだよね」

俺は机上の小テストを一枚手に取り、水蓮寺さんに見せた。

「息巻いといて申し訳ないんだけど、たぶん水蓮寺さんの役には立てないと思う……」

言ってて自分で悲しくなってくる。こんなことになるならちゃんと勉強しておくんだった。

「い、いえ、そんなことありません……! 八十崎くんがバカだなんて、そんなことありませんっ」

いやそこまでは言ってないんだけど。

「八十崎くん、なんだかんだ言って、赤点取ったことないですし……。だから、勉強すれば、絶対に大丈夫ですっ」

真剣な表情で水蓮寺さんは励ましてくれた。なんだか心苦しい。ホントに勉強しておくんだった……。


「そ、それに、私こそ、成績はかんばしくないですから……」

「え……?」

意外な言葉に、俺は声を漏らした。

「あはは……私、こんなに地味なくせに、勉強すら、ろくにできないんです……」

「いや、地味なんてことないと思うけど……ちょっと意外だったな」

「そ、そんな……私なんて、その程度の人間なんですよ?」

「でも、だからってそんなに卑下することないよ。水蓮寺さんには、俺の知らない魅力がたくさんあるだろうし」

「ふぇっ……! あ、あの、恐縮です……」

「まあとにかく、お互い勉強しないとマズいってことだね」

暗くなった雰囲気をはらおうと、俺は冗談っぽく笑い飛ばした。


「でもどうしようか……。二人とも勉強に難ありだと、大してはかどらない気がするし」

「そうですね……。不運にも、八十崎くんと私の苦手科目は似通ってますから、教え合うのも難しいと思いますし……」

二人して考え込んでしまう。やはり、勉強するからには実のあるものにしたい。しかし、俺たちには他人に教えられるほどの実力はない。となると、指導役がいたほうが望ましいんだが……。


ふと顔を上げると、そこにはいまだ教室に残り、自席で頬杖ほおづえをついている金髪ツインテールが一匹。


「おい紅、お前今日ヒマか?」

「はぁ!? なによ急に」

「どうせヒマだろ。なら俺たちに勉強教えてくれよ」

「ちょっと、勝手に決めるんじゃないわよ!」

「んじゃ、よろしく」

「はぁーっ!?」

紅は依然、甲高い声を上げて反駁はんばくしているが、俺は颯爽さっそうと無視した。そう、この幼馴染、見た目や言動に反して成績優秀なのだ。同じ町で生まれ、同じ町で育ち、同じ学校に通っているのに、俺よりも勉強ができるのだ。本当にけしからんヤツである。


「アンタ、とっても失礼なこと考えてるでしょ?」

「いやいや滅相もない。紅さんは本当に頼りになるなぁと」

「だから、やるとは言ってないんだけどっ。……それに、水蓮寺さんはいいわけ? アタシが指導役で」

紅が言うと、俺たちは水蓮寺さんのほうに視線をやった。

「水蓮寺さん、紅が一緒でも、大丈夫かな?」

俺は確認するように、彼女に尋ねた。

「ぇ、えっと……はい、大丈夫ですよ! 相模さん、成績優秀ですし、一緒なら百人力です!」

「そっか、ありがとう」

水蓮寺さんはためらいながらも快諾してくれた。その声はいつもより張っていた気がする。


「はぁ……アンタ、本当に女心がわかってないわね」

「ん? なんのことだ?」

「なんでもないわよ。バカにはわからないものね」

「なんだと!? 俺はバカじゃなくて釈迦だ!」

「はいはいわかりました。しょうがないから、アタシが教えてあげるわ」

ということで、俺と水蓮寺さん、そして紅の三人で勉強会をすることになった。


「それじゃあ早速やるか」

俺が張り切って勉強道具を取り出そうとすると、

「あ、あの……!」

一際大きな声で水蓮寺さんが切り出した。

「そ、その……ここだと、あまり、集中できないかなって……」

「うーん……たしかに、校舎内にはまだ人が残ってるし、うるさく感じるかもな」

自習に励む生徒、音楽を聞いている生徒、駄弁だべっている生徒……教室を見渡すと、彼らが思い思いに過ごしているのを認めた。

「じゃあ、図書室に移動するか?」

「……でも、図書室だと、私たちがうるさくしちゃいそうで、ご迷惑かもです」

「そっか……。うーん、どうしようか……」

勉強会に最適な場所……脳内でサーチをかけるも、なかなかヒットしない。水蓮寺さんも黙考するが、思いつかないようだ。せっかく水蓮寺さんが誘ってくれたんだ、頓挫とんざさせたくはない。そう思いながら俺たちが苦慮していると、まるで最初から正解を知っていたかのように、金髪ツインテールが一声を上げたのである。


「なら、俊の家でいいじゃない」


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


15時50分──公園の古びた時計を見流し、歩を進める。小学生だろうか、子どもたちが元気に駆けている。普段はこんな時間に下校しないから、なんだか新鮮に感じる。

やがて進むと、見慣れた我が家に到着。ポケットから鍵を取り出し、何の気なしに開錠する。


「さあ、どうぞ」

「お邪魔しまーす」

紅はすっかり慣れた様子で、我が家に上がった。


「ささ、水蓮寺さんも上がって上がって」

「は、ははははは、はいっ……!」

対して水蓮寺さんはというと、わかりやすいぐらいに緊張していた。手足が硬直しており、先程からいびつな直立二足歩行を披露している。

「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。ほら、遠慮しないで」

「ひゃ、ひゃい! おおおお邪魔しましゅ!」

噛み噛みである。まあ、クラスメイトの男子の家に上がるんだ、誰だって緊張はするか。にしても、切羽詰まりすぎだとは思うが。


なんとか水蓮寺さんは靴を脱ぎ、我が家に足を踏み入れた。ここまでで5分かかっている。彼女が落ち着いたのを見計らって、玄関近くの階段を上がった。後ろから荒い呼吸が聞こえてくるが、たぶん気のせいではないだろう。そして二階に到着して間もなく、「俊ちゃん♡」と書かれた表札の前に至ると、ドアノブをひねって部屋の中に入った。


「狭い部屋だけど、遠慮なくくつろいでいって」

後に続く二人を促し、俺は告げた。

「なんだか久しぶりな気がするわね、俊の部屋」

「なに言ってんだよ。お前はしょっちゅう来てるだろ」

「そんなことないわよ……あっ、新しいマンガ増えてるじゃない! 後で見せなさい」

「いやこれから俺たち勉強するんだけど」

紅はよどみないムーブで定位置に腰かけると、まるで自分の部屋のようにくつろぎ始めた。

そんな幼馴染を尻目に、俺はジュースでも振る舞おうかとキッチンに向かおうとしたところで、足を止めた。


「……水蓮寺さん、入っていいんだよ?」

そこには、依然としてドアの前で立ち尽くしている水蓮寺さんの姿があった。

「は、はい、がんばりますぅ……」

「頑張るってなにを!?」

水蓮寺さんはすっかり混乱してしまっているみたいで、ぐるぐる模様の目が似合うアニメキャラみたいになっていた。

「とりあえず落ち着こう。ほら、いつもみたいに深呼吸して」

「は、はいっ! すー、はー、すー、すー、すーーーっっっ」

「いや吸いすぎ! しっかり吐かないとっ」

「ぶふぁーーーっっっ!!!」

「水蓮寺さん、大丈夫!? 顔、真っ赤だよ!?」

「へ、平気でふぅ……。……すごくいいにおい」

「うん? ……って、うわぁ! 鼻血出てるよ!」

「きゃぁぁぁ、すみませんすみません!!! 今すぐ止めますから!」

「ストップストップ! お辞儀で鼻血が散乱してるよ!!!」

「ほえぇぇぇぇぇ!!! ずみまぜん~~~!!!」

「……まさに阿鼻叫喚ね」

かくして、俺たちの勉強会は波乱の幕開けとなったのである。


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「……どう、落ち着いた?」

「は、はい、おかげさまで……」

ようやく平静を取り戻した水蓮寺さんは、申し訳なさそうにちょこんと座っている。

「そんなに落ち込まないでっ。ほら、ジュースもあるからどうぞどうぞ」

そんな彼女を励まそうと必死にもてなす。

「は、はい、いただきます」

俺が促すと、水蓮寺さんは上品にコップに口づけた。

「アンタ、どんだけりんごジュース好きなのよ」

「たまたまあっただけだ」

「とか言って、ほぼ毎回りんごジュース出される気がするんだけど」

「しょうがないだろ、葵ねぇがそれしか買ってこないんだからぁ」

ぶつぶつ言いながらも、紅のジュースも減っているみたいだ。


「そういえば、葵さんはどうしたの?」

紅が思い出したように尋ねる。

「ああ、葵ねぇなら、学生会の仕事で遅くなるってさ」

「ふーん」

俺の部屋で勉強会をするにあたり、もちろん葵ねぇに連絡を入れた。クラスメイトの女子が来ると伝えたらものすごく焦っていたが、紅も一緒ということでOKがもらえた。


「てことで、ここなら誰にも邪魔されずに勉強できるだろうし、早速やろうか」

「そ、そうですね、頑張りましょうっ」

そうして、問題集とのにらめっこが始まった。

「えーっと、『次の式を因数分解せよ。a³-b³』」

「ぁ……これは公式に当てはめれば、解けますね」

「え、そんな公式あったっけ?」

「ちょっとアンタ、公式ぐらい覚えてないと、話にならないわよ」

「うっせーな。こんな公式、俺ならテスト本番で自力で生み出せるから、覚えてなくてもいいんだよ」

「や、八十崎くんすごいです……!」

「いや無理に決まってるでしょ」

紅によるダメ出し──もとい、指導を受けて、なんとか問題集を片付けていく。水蓮寺さんはといえば、成績不振のようなことを言っていたが、見たところ大きなミスもなく、勉強に難ありという風には感じなかった。


「なになに、『次の式を展開せよ。(2a+b)⁷』。おい紅、こんなの解けないぞ」

「それは二項定理を使えばいいのよ」

「にこうていりってなんだよ……って、お前なにマンガ読んでんだよ!」

「えー?」

「えー、じゃねぇよ! 俺たち頑張って勉強してんだぞっ」

「いいじゃない、アタシ指導役なんだし」

「よくねーよ! つかお前も勉強しろよっ」

「アタシは普段からちゃんと勉強してるから平気」

「くっ……悔しいが正論だな」

「うーん……このマンガの最新巻、なんか微妙ね。飽きてきたわ」

「勝手に読んどいてずいぶんな言い様だな」

「なんか面白いものないかしら……」

もはや勉強そっちのけで、猫のような気まぐれで本棚をあさる紅。


「……あっ、これ懐かしいわね!」

なにか琴線に触れるものでも見つけたのか、紅が言う。

「いやそれ俺の幼少期のアルバムなんだが」

紅が手にしている分厚いハードカバーを目にして、俺は呆れ気味に言った。

「八十崎くんの、幼少期……ごくり」

「ほら、水蓮寺さんも興味あるみたいよ」

「えっ? 俺の子どもの頃の写真なんて、おもしろくもないと思うよ?」

「いえいえ、そんなことありません! 八十崎くんのお写真、とっても見てみたいです!」

いつにない気迫で言う水蓮寺さん。

「それじゃあ、休憩がてらみんなで見ましょう」

言いながら紅は、テーブルの上にアルバムを広げた。


「わぁっ……とってもかわいいです……!」

「ふふっ、懐かしいわね」

「これは、お遊戯会の写真でしょうか……?」

「そうそう、俊ったら、木の役なのに……ふっ……最前列のど真ん中に立ってたから……ふふっ……なかなか、シュールな劇になったのよね……っふふふ」

「笑うかしゃべるかどっちかにしろ」

「八十崎くん、この頃からお顔が整っていたのですね」

「いや、そんなことないと思うけど」

「そんなことありますっ。この写真は王子様のように爽やかですし、こっちはヒーローみたいにカッコいいですし、こっちは……」

「まあたしかに、昔の俊はかわいげがあったわね~」

「うっ……これなんか照れるな」

二人はすっかりご満悦な様子でアルバムを眺めている。もはやテスト勉強のことなど誰の頭の中にもなかったが、これはこれで楽しいからいいか。


「改めて見てみると、八十崎くんについてまだまだ知らないことがたくさんありますね……」

不意に、水蓮寺さんが顔を上げて部屋中を見渡した。

「八十崎くんは、アニメとかが、お好きなんですね」

「あっ……ああ、そのお恥ずかしい限りだけど……」

部屋中に広がるオタクグッズに目をやって、水蓮寺さんは言った。完全に失念していたが、知り合って間もない非オタの女の子をこんな二次元ワールドに招き入れるなんて、どうかしてるんじゃないか俺。


「ご、ごめん、お見苦しいものを見せてしまって」

「いえ、私は全然不快に思いませんよ」

「水蓮寺さん、遠慮なんてしないで言っていいのよ。キモいって」

「キモくはないだろキモくは!」

「アタシは慣れてるからいいけど、オタクでもない女の子にあんまりこういうの見せるんじゃないわよ」

紅は立ち上がってフィギュアの棚の前に移動し、俺の嫁たちを指差した。

「こらこら、俺の嫁を指差すな」

俺は慌てて立ち上がり駆け寄る。

「まったく、こんなののどこがいいのかしら」

「あれ……そういえば、八十崎くんがいつも教室でやってるゲームの女の子は、いないんですね……」

いつの間にか水蓮寺さんまで立ち上がっていて、背後から声をかけてきた。

「そうなんだよ!!! ちょっと前に、まりかのフィギュアが消えたんだよ!」

「そ、そうなんですか……」

気迫に満ちた形相で訴える俺に、水蓮寺さんは若干引いている様子だった。

「別にそんなに落ち込むことじゃないでしょ。ゲームで見れるんだし」

「ダメなんだよ! いいか? フィギュアというものはだな──」

「はいはいわかりました。ったく、二次元女子のどこがいいのかしら」

「頭の天辺てっぺんから足の爪先までだ!!!」

鬼気迫る決意で断言する俺に、水蓮寺さんは苦笑してしまっている。いかん、本格的に失望される前に、話題を変えなくては。


「えっと……こちらは、クローゼットですか?」

「うん? ああ、そうだよ。服しか入ってないけど」

「あ、開けてみても、よろしいですかっ……?」

「い、いいけど……まったくおもしろくないと思うよ?」

疑問気味に答える俺をよそに、水蓮寺さんはクローゼットをためらいなく開けた。

「ふわぁ……」

クローゼットの中身はというと、なんのことはない、至ってシンプルに衣類が収納されているだけだ。にもかかわらず、水蓮寺さんはまるでひとつなぎの大秘宝を発見したがごとく、目をキラキラさせていた。

「これが、八十崎くんのクローゼット……」

気のせいだろうか、水蓮寺さんの喉が鳴ったような……?

「そういえば、水蓮寺さんは俺の私服姿、見たことなかったっけか」

「あっ、えと、は、はい、そうですねっ」

「といっても、特に映えるものはないけどね」

「あ、あのっ……触ってみても、いいですか……?」

「え? 触るって、服に……?」

「は、はい。ダメでしょうか……?」

「いや、別にいいけど……」

俺の服に触りたいだなんて、変わってるな……。ファッションが好きなのかな?

「では、失礼します……」

水蓮寺さんは一瞥いちべつすると、至極真剣な面持ちで手を伸ばした。

「は、はぁぁぁぁぁぁぁ」

瞬間、水蓮寺さんは見たこともないほど頬を弛緩しかんさせた。

「す、水蓮寺さん、大丈夫……?」

「はぁっ!? す、すみません、なにか粗相をいたしましたでしょうか!?」

「いや、そんなことないけど、見たことない表情してたから、ちょっと驚いて」

「そそそそうでしたかっ。私は大丈夫ですので、お構いなくです」

そう言うと、水蓮寺さんは他の服に手をかけては、なにやらご満悦そうにしていた。彼女にこんな一面があったなんてな……そう思いながら見ていると、

「すぅぅぅぅぅ……はぁぁぁぁぁ~~~、とってもいい匂いです……」

「えええちょっと水蓮寺すぁぁぁん!?」

「あわわわわわどうしましたでしょうか!!!???」

「いやいや、急に俺の服の匂い嗅ぐから……!!」

「はっっっ!!! すみませんすみません! あまりにも興味があったので!」

「俺の服の匂いにっ!?」

「は、はい。でもご安心ください……ほっへも(とっても)、ひひにほい(いい匂い)、ですよ……」

言いながらも水蓮寺さんは鼻元に俺の服を当てている。

「すぅぅぅ、はぁぁぁ~~~……あら、こちらの棚はなんでしょう……」

すると水蓮寺さんは、出し抜けにタンスに手をかけ、

「あっ、そこは……!」

開けてしまった。

「はっ……すみませんすみません!!!」

「下着入れだから……」

この後、なぜか俺が紅に頭を叩かれた。




その後も勉強などには目もくれず、俺の部屋の探索が続いた。水蓮寺さんに至っては勉強していたときよりも生き生きしていたが、俺は内心、ビクビクしていた。そう、この部屋には、決して見られてはならないパンドラエリアがあるのだ。

「おい俊、こんなところにエロ本隠すな」

「あっさりバレたよパンドラエリア!?」

「ベッドの下なんて、典型的なところに隠すからよ」

そう言って紅はベッドの下から俺が大事に忍ばせていたひとつなぎの大秘宝をバサバサ取り出した。

「ってなにやってんだよ!? 俺のお宝の本やゲームなんだぞ!」

「こんな汚らわしいもの、不要よ」

「エロ本やエロゲを持っていることがそんなに悪いのかっ!?」

「悪いわ。大罪よ。ね、水蓮寺さんもそう思うでしょう?」

紅が尋ねると、水蓮寺さんはいつになく静かな口調で言った。


「ダメです……八十崎くんは、こんなの持ってちゃ、ダメです……」

刹那、水蓮寺さんはエロ本に手を伸ばしたかと思うと、

「こんなもの、不必要ですっ……」

と言ってビリビリに破り始めたのである。

「ちょっ……水蓮寺さん!?」

「こんな、破廉恥はれんちなもの……八十崎くんの目の毒です……!」

「あぁっ……」

俺の声には反応を示さず、手当たり次第にエロ本を破り続ける。その剣幕は、いつもの水蓮寺さんからは到底想像もつかないものだった。


「こ、こんなものなくたって……私が、ま、満足させて……!」

ぶつぶつとつぶやいたかと思うと、水蓮寺さんはついにエロゲに手をかけ、

「私が、頑張って、満足させてあげますから……!」

という謎のかけ声とともに、ディスクを真っ二つに割ってしまった。

「あぁぁぁぁぁっっっっっ………………」

目の前に広がる惨劇に、俺は色を失ってしまった。

「俊、こればっかりはアンタの自業自得ね」

「そんなぁぁぁ~~~」

俺の大海賊時代が終わった。


「……まだ他にも残ってないか、ちゃんと確かめなきゃ」

すると、水蓮寺さんは今のですっかり火が点いたのか、部屋中をくまなく捜索し始めた。

「見られてマズいものはベッドの下に隠すようにしてるから、もうないと思うよ……ぐすっ」

傷心が癒えない俺は涙ながらに言う。

「でも、その、まだなにか、あるような気がして……」

「……なにかあったかな?」

心当たりがない俺に対して、水蓮寺さんは不審そうにあたりを見渡す。

「あれ……ここ」

すると水蓮寺さんはある場所で視線を止めた。

「うん? 俺の机が、どうかしたの?」

「いえ、その、変な雰囲気がして」

「え……心霊的な?」

「いえいえ、そうではなくて……もっと不気味な気配で……」

「余計に怖くなったんだけど……」

鳥肌が立ってきた。

「ちょっと、調べさせていただきますね」

そう言うと水蓮寺さんは、机の奥底の方へ潜っていった。クラスメイトの女の子がホコリまみれの暗闇を探る……あまりの急展開にポカンとする。俺たち、テスト勉強してたんだよな?


「あれ……これは……っ!」

やがて水蓮寺さんが声を上げた。

「なにかあったの?」

どうせ大したものではないだろう……俺は軽率に尋ねた。

「は、はい……これが」

だから水蓮寺さんが手にしていたものを見たとき、頭が一瞬フリーズした。

「な、なんだよこれ……機械?」

彼女が持っていたのは、黒くて小さな機械のようなものだった。

「どうしてこんな機械が、こんなところに……。そもそも、この機械なんなんだ……?」

見たこともない物体に言葉を失う。すると水蓮寺さんは、空間を引き裂くような冷たい口調で、こう言ったのである。


「これは……盗聴器、ですね……」

「は……?」

全身が凍るような心地だった。盗聴器? それってあの、声を盗むやつだよな? いやでも、どうしてそんなものが俺の部屋に?

「おそらく、どなたかが仕掛けたのでしょう」

俺の疑問に答えるように、水蓮寺さんが言った。

「仕掛けたって……誰が、なんのために!?」

「そ、それはわからないですけど……」

激情する俺に彼女がひるむ。

「ご、ごめん……」

「い、いえ、気にしないでください。その、誰が、というのはわかりませんが、目的はやはり、盗み聞きだと思います」

「盗み聞き……」

水蓮寺さんの口から放たれる言葉を、どうにかして受け止める。が、心というものは正直で、恐怖に彩られた現実を肯定することは、やはりできなかった。


「……これも、八十崎くんには、不要です」

「……え?」

すると突然、水蓮寺さんはなにかを言ったかと思うと、盗聴器を片手に部屋のドアのほうへ移動した。そしてドアを少し開け、床に盗聴器を置くと、

「ふっ……!」

というかけ声とともに思い切りドアを閉めた。同時に、ドアに挟まった盗聴器がパキッという音を上げる。もう一度水蓮寺さんはドアを開けると、黒い破片のようなものを拾い集め、こちらに戻ってきた。

「もうこれで、大丈夫ですよ」

そう言って見せてきた手の中には、粉々になった盗聴器の姿があった。

「す、すごい……」

あまりに完璧に壊したもんだから、思わず感心の声が漏れてしまった。

「今後は、盗み聞きされることはないと思います」

「う、うん、ありがとう」

「は、はい……お役に立てて、光栄ですっ」

先程までの面影から一転、彼女はいつものような控えめな返事をした。


「あ、あの、すみません……お手洗いを、お借りしてもよろしいですか……?」

「ああ、もちろん。階段降りてすぐのところにあるから」

「はい、ありがとうございます」

水蓮寺さんは三度みたびドアを開けると、トイレに向かっていった。

「ふぅ……なんだったんだよ今の……」

ようやく緊張感から解放され、安堵の息を吐く。

「……そうね、まさかこんなことになるなんてね」

紅はクールに吐き捨てる。

「なあ、盗聴器が仕掛けられてたってことは、もしかしたらお前との会話も盗み聞きされてたかもしれないってことだよな?」

「ええ、そうね」

「おいどうすんだよ!? あんなアホ丸出しの会話、他人に聞かれてたらって思うと、恥ずかしすぎるぞ!?」

「アホなのはアンタだけよ。それに、アタシとアンタの会話なんて、わざわざ聞かないと思うけど」

「どうしてだよ?」

「だってアンタの部屋に置いてあったのよ、アンタ目当てってことでしょう」

「ぐっ……マジで誰なんだよ」

「アンタも案外、モテるのね」

「嫌みたらしく言うな」

ビリビリになった俺の秘宝たちを拾いながら、紅と会話を交わしていた。


「すみません、お待たせしましたっ」

そこへトイレから戻ってきた水蓮寺さん。ガチャリと、扉の閉まる音がすると、紅が口を開いた。

「それじゃあ、アタシはそろそろ帰ろうかしら」

「ん? って、もうこんな時間か」

時計を見ると、時刻はすっかり遅くなっていた。

「ウチはまだ大丈夫だけど」

「今日はこのへんでいいわ。そのうち葵さんも帰ってくるだろうし」

「そうか」

「そ、それじゃあ、私もそろそろ……」

「あ、そうだよね。水蓮寺さんも、そろそろ帰らないと家族が心配するよね」

「あ、あぁっと……まあ、そんな感じです」

ということで、二人は荷物をまとめ、帰り支度を始めた。うん、結局勉強は捗らなかったな。

「それじゃあ、そこまで送るよ」

階段を下り、玄関で靴を履き替える二人を見届ける。

「それじゃ、お邪魔しました」

紅はいつも通りの気張らない挨拶をする。まあ隣の家だし、コイツは心配なかろう。

「水蓮寺さんも、気を付けてね」

「は、はい……」

水蓮寺さんに声をかけると、彼女はうつむきがちに答えた。あれ、なんだか様子が変だ。

「どうしたの、水蓮寺さん? あ、忘れ物かな?」

「い、いえそうではなくて……いや、忘れ物と言えば忘れ物なんですが……」

とんちのような返答に戸惑っていると、水蓮寺さんはこちらに向き直り、震えながらに口を開いた。


「あ、あのっ……連絡先を、交換、いたしませんかっ……!」


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「さてと……部屋の片付けをして、風呂に入りますか」

ひとりごちながら部屋に入る。紅と水蓮寺さんが帰った後、入れ違いのような形で葵ねぇが帰宅。そのまま夕食となったので、部屋は散らかったままなのだ。

「アルバム、置きっぱなしだったか……」

テーブルに置いてあったアルバムに手を伸ばす。

「ははっ、懐かしいな」

幼少期の写真って、改めて見るとおもしろいんだよな。ついついページをめくる手が動いちまう。

「あれ?」

ふと、流していた視線が止まった。

「写真がないな……?」

おもむろに次のページを見てみると、こちらも穴が開いたように写真がなくなっていた。見たところ、写真が所々抜かれているのである。

「うーん……? 葵ねぇが持ってるのかな?」

それか両親が思い出に何枚か持っていってるのかもしれない。はたまた、単純に落としたとか、なくしたとか。まあ、さほど困る案件でもないからスルーしても平気か。俺は軽い気持ちでアルバムを本棚に戻した。瞬間、あることに気づく。

「あれ……フィギュアがない!!!」

慌てて本棚の隣、俺が大切にまつっているフィギュアの棚に近づく。

「やっぱり、ない……」

見ると、規則正しく並んでいる列の一角に、ポカンとスペースができていた。昨日まで、そこには俺の嫁の一人が体育座りをして恥ずかしそうにはにかんでいたのに……! 俺は部屋にいるときは毎時間嫁を眺めているから、思い違いなどでもない。

「ちくしょう、どうなってんだよ……!」

先日のまりかの件と言い、最近フィギュアの喪失が多い。自分で捨てるなんてことありえないし、フィギュアが勝手にいなくなるなんて馬鹿げたこともあるはずない。となると、誰かが持ち去ったということになるが……。くそっ、いったい誰なんだ? 

「……風呂に入ろう」

イライラを鎮めるため、風呂に入ることにした。犯人のアテもないし、とりあえず、後で紅や葵ねぇに聞いてみよう。

「……あら、黒のパンツ、どこやったっけか」

お気に入りの黒いパンツでも履いて、気合を入れようと思ったのだが、まだ洗濯中なのかな。仕方なく紺のパンツを片手に風呂場へ向かった。




「ごく、ごくっ……ぷはぁ」

就寝前の一杯。なんとも至福である。といっても牛乳であるが。

「あら、俊ちゃん、もう寝るの?」

「うん、テスト勉強で疲れちゃって」

嘘だが。

「ふふっ、お疲れ様。寝る前にちゃんと歯磨きしないとダメよ?」

「わかってるって」

「あ、なんだったらお姉ちゃんが磨いてあげよっか!?」

「自分でやるから平気」

期待の眼差しの葵ねぇをよそに、リビングを後にする。

「ふぁあ……勉強しなくても、問題集を見るだけで人間眠くなるものだよな」

我ながらくだらない理論だと思いつつ、洗面所に到着。

「あれ、歯ブラシどこだ?」

見ると、いつもはコップの中に立て掛けられている歯ブラシが、姿を消していた。葵ねぇが新品に変えるために捨てたのだろう。まったく、歯ブラシの交換くらい自分でできるというのに。

「しかし今日はいろいろなくなる日だな……」

今朝の星座占い、11位だったしな。こんな日は早く寝るに限る。

「それじゃあ葵ねぇ、おやすみ」

「いやん俊ちゃん♪ お姉ちゃんと一緒に寝ましょう?」

「はいはい一人で寝るからおやすみなさい」

葵ねぇに挨拶をし、自分の部屋に戻った。

「しかし、明日からマジで勉強しないとヤバいな……」

そんなことを思いながらベッドに入ろうとした矢先、枕元のスマホが光ったのを見た。そこには、


水蓮寺さん:や、八十崎くん、連絡先を交換していただき、ありがとうございましたっ

水蓮寺さん:メッセージ、ちゃんと送れているでしょうか……?

水蓮寺さん:私、お友達とこういったやりとりをするの、はじめてで……

水蓮寺さん:はっ……! すみません、そんなことどうでもよかったですよね!?

水蓮寺さん:あの、今日は突然お邪魔してしまい、すみませんでした

水蓮寺さん:私、あの、お友達の家に行くのもはじめてだったので、その……

水蓮寺さん:す、すごく、楽しかったです……!

水蓮寺さん:よ、よろしかったら、あの……

水蓮寺さん:ままままた、遊んで、くださあ!!!

水蓮寺さん:すみません、誤字をしてしまいました……!


「ははっ、水蓮寺さんは画面内でも相変わらずだな」

水蓮寺さんからのメッセージに笑みが漏れる。


俊:こちらこそ、今日はありがとう。楽しかったよ

俊:うん、また今度遊ぼう

俊:おやすみなさい


ありきたりな返事を送る。すると、送信と同時に既読が付き、水蓮寺さんらしい一文が返ってきたのである。


水蓮寺さん:は、はい! おやすみなさあ、です……!

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