第4話 バルト海

「さあ、俊ちゃん、一緒に帰りましょう」


夜の学園。


「センパイと帰るのはボクだ!」


廊下には誰もいない。


「そんな女は放っておいて、お姉ちゃんのところへおいで♪」


いるのは葵ねぇと、


「お前のほうこそ、俊センパイの視界から消えろっっっ!!!」


激昂する香澄と、


「ふ、二人とも、落ち着こう……」


板挟みになった俺だけだった。


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「久我 香澄さん、だったかしら。悪いけど、今すぐ俊ちゃんから離れてもらえる?」

「断る。俊センパイは今からボクと一緒に帰るので」

「一緒に帰るって……あなたは俊ちゃんと暮らしているわけではないのだから、その必要はないでしょう?」

「ボクたちには二人の愛の巣がある……!」

「ふふっ、愛の巣だなんて、かわいらしい空想ね。でもね、俊ちゃんと一緒に暮らしているのは私なの。俊ちゃんと愛を育めるのは姉である私だけなの。ねえ、俊ちゃん?」

「あ、あぁ、えっと……」


葵ねぇに振られるも、俺は生返事しかできない。ピリピリとした空気が否定も肯定も許さないのだ。


「空想なんかじゃない! それにボクには、汚らわしい女から俊センパイを守る義務がある!」

「いいえ、部外者であるあなたにはなんの義務もないわ。俊ちゃんを悪い女から遠ざけるのも、姉である私の仕事だから」

「……ボクのこと、部外者って言った?」

「ええ、言ったわ。俊ちゃんにとってあなたは赤の他人よ。にもかかわらず、毎日のように俊ちゃんを困らせて……あなたは俊ちゃんにとって害虫よ」

「あ、葵ねぇ、さすがにそれは……」

「俊ちゃんは優しすぎるから、こんな傍若無人な女にも心を許してしまうのよね? 待っててね、お姉ちゃんがすぐに助けてあげるから」

「……うっ」


いつもの葵ねぇからは想像もつかないような、香澄をないがしろにする発言にたまらず俺は口を出したが、静かなプレッシャーに気圧けおされてろくに反論できない。役立たずだな俺。


「そういうお前だって、必要以上に俊センパイにベタベタして……! 血が繋がってることが、そんなに偉いの!?」

「偉いとか偉くないとか、そういう次元の話じゃないわ。私は俊ちゃんにとってたった一人の姉……俊ちゃんと結ばれることが許された、唯一の存在なのよ」

「……意味わかんない。姉であるからこそ、お前は俊センパイと結ばれることが叶わないんだ。もっと賢い人かと思ってたけど、現実を理解できてないただの愚か者だったんですね」

「……っ」


それまで涼しい顔をしていた葵ねぇだったが、香澄の言葉を聞いた途端に言葉を詰まらせた。理由は明白。香澄にバカにされたから……ではないだろう。若干表情を歪ませて、葵ねぇは言った。


「……たとえ世界がそれを許さなくたって、私は俊ちゃんと幸せになるの。法律や世間体なんて関係ない。私は一生をかけて……ううん、死んでも俊ちゃんに添い遂げると誓ったから!」

なんか衝撃の告白されたよ! 間接的なプロポーズのような気がするんだが……!

「そんなのお前の私利私欲だ。お前は幸せでも、俊センパイは不幸になる。やっぱりセンパイにお前は相応しくない……!」

「まるで、自分なら俊ちゃんを幸せにできるみたいな口ぶりね。ふふ、そんなの無理よ。だってあなたは俊ちゃんにとってただの知り合い。なんの特別性もないの。スペアなら他にいくらだっているわ」

「なんだと……!」

「姉である私は、生まれたときから俊ちゃんと消えない糸で繋がれているの。永遠にバラバラにならない……そう定められているの。でもね、あなたは違う。たまたま俊ちゃんと出会っただけで、学園を卒業したらすぐに俊ちゃんに忘れられる存在なの」

「ふざけるな! ボクは俊センパイの特別だ! センパイを守れるのはボクだけだ……センパイと生涯を共にするのはボクなんだ!」


ぎゅうっと、俺の腕がつかまれる。見ると、香澄の目はすっかり血走っていて、物々しい気を発していた。


「埒が明かない……。これ以上話しても、きっと無意味だ。こうなったら、ボクが教えてあげるしかないですね……」

「あら、なにをする気かしら」

「わからせてあげるんです……お前は俊センパイにとって不必要だってことを!!!」


ついに香澄は、時限爆弾がタイムリミットを迎えたがごとく怒号を上げた。


ブウォン──瞬間、俺の耳元で鈍い音と振動を感じた。


何事かと視線をやると、予想だにしない光景に目を奪われることになった。


「香澄……。お前、それ……」


香澄の右腕に握られていたのは金属バット。いかめしさを感じさせるそれは、突如として生々しい恐怖を植え付ける。どうやら俺は事の重大性を履き違えていたみたいだ。


ブウォン──香澄はもう一度バットを振る。空気の振動が重い。プロ野球選手が両手で振るような金属の塊を、香澄は片手で軽々と扱っている。まるで子どもがチャンバラで遊ぶみたいに、簡単にバットをさばいてみせる。しかしそれが鈍器であることに変わりはない。内心の恐怖はむしろ大きくなっていった。

……でもいったいどこから、金属バットなんて取り出したんだ?


「センパイ、ボクにしっかりつかまって、離れないようにしてくださいね」

「……え?」

「センパイがケガなんてしたら、ボク耐えられないので」

「いやいや、だったらむしろ離れていたほうがよくないか?」

「ダメです」

「なんでだよっ。守ってくれるんじゃないのかよ」

「センパイがくっついててくれないと、ボクのパワーが出ないので」

……俺はワイヤレス充電器かなにかかよ。バットの射程範囲内にいたら、危ないなんてもんじゃないぞ。確実に病院送りだ。


「……ずっと不快でたまらなかったのだけれど、あなた、いつまでそうやって俊ちゃんに引っ付いてるつもりなのかしら?」

「ボクたちは永遠に一緒ですよ。朝も昼も夕方も夜も深夜も、なにをしていたって、どこにいたって一緒です」

「……今すぐ俊ちゃんから離れなさい。これ以上、俊ちゃんが汚らわしい女に毒されるのなんて、絶対に許さない……!」


普段の温厚さはどこへやら、葵ねぇは目を見開いて、香澄に対して敵意を剥き出しにしている。


「そっちもどうやらやる気みたいですね……」

香澄はそう言って、ホームラン宣言をするバッターよろしく金属バットの先を葵ねぇに向ける。

「ええ、そろそろ白黒はっきりさせましょうか……」

対する葵ねぇも完全に臨戦態勢だ。


一触即発──いや、もはやそんな言葉すら不適当なほど遅きに失していた。

気づいたときにはもう──


「どっちが俊ちゃんにとって必要ない存在か……!!!」

「どっちが俊センパイにとって必要ない存在かっっっ!!!」


終わった──衝突する二人の間で、俺は諦めていた。

二人を止めなくちゃ……頭ではわかっていても、身体に染みついた恐怖が自由にさせてくれない。


万事休す──俺は現実から逃避するように、目を閉じた。




「そこに誰かいるのかね?」


「…………!!!」


突然、聞き覚えのない声がした。


「……君たち、こんな時間になにをしている! 下校時間はとっくに過ぎているぞ!」


声の主は、手持ちの懐中電灯で俺たちを照らすなり、声を上げた。

──学園の教師だ。そう理解するのに時間はかからなかった。おそらく、校内の見回りをしていたところなのだろう。

「あ、えっと、これはその……」

なんて説明するべきかわからず、俺はどもってしまう。まさか本当のことなど言えまい。かといって、なにか言い訳をしないと先生に怒られてしまう。


「すみません先生。実は家の鍵を学園に落としてしまったみたいで……。三人で探していたところなんです」

俺が戸惑っていると、すかさず葵ねぇが口を開いた。見ると、さっきまであれほど殺気立っていた二人は、何事もなかったように平静を装っている。異様な存在感を放っていた金属バットも、どこかに消えていた。

「む……君は八十崎君じゃないか。鍵を落としたというのは本当なのかね?」

「はい、本当です。家に着いてから、鍵を紛失していたことに気づいて……。慌てて学園に引き返し、鍵を探していたら、下校途中の彼らに遭遇いたしまして……。それでこの二人にも協力してもらっていたんです」

「うーん、そうか……。まあ、君がそう言うなら事実なんだろう。鍵は見つかったのかね?」

「はい、この通り」

そう言って葵ねぇは家の鍵を示してみせた。

「そうか、なら速やかに下校しなさい。先程、学園の周辺に不審者が現れたと女子生徒から通報があってね。それで今日は、生徒を一斉に下校させたんだが……」

「え、そんなことが……?」

そんなの初耳なんだが。どうりで、まだそんなに深い時間でないにもかかわらずまわりに生徒がいなかったはずだ。

「今回のことは不問にしておくから、君たちも気を付けて帰るんだぞ」

「はい、ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

葵ねぇが深々と頭を下げると、教師は見回りに戻った。さすがは葵ねぇ、学園側からの信頼も厚いな。


「ふぅ……助かったぁぁぁ~~~」

俺は極限の緊張状態から解放されて、たまらず声を漏らした。


「チッ……あと少しのところで、邪魔な女を始末できたのに」

香澄はなぜか悔しそうにしている。いやマジでなんでだよ。


「ふふっ……焦らずとも、いずれ私が排除してあげるわ」

対する葵ねぇもいまだ好戦的だ。おそるべきファイティングスピリット。


とにもかくにも、難は去った。これでしばらくはまた平穏だ……俺は完全に安心しきっていた。


「さあ俊ちゃん、お姉ちゃんと一緒に帰りましょうか♪」

油断していた俺の左腕に、葵ねぇがすかさず抱きついてきた。


「あっっっ!!! なにしてるこの泥棒猫! 俊センパイと帰るのはボクだと言ったでしょ!!!」

それを見た香澄が黙っているわけもなく、これまた早業で俺の右腕をホールドしてきた。


「あなた、記憶力皆無なのかしら。俊ちゃんにふさわしいのは私だと、さっき教えてあげたじゃない」

「お前こそバカだろう! 俊センパイはボクを選んだんだ! その手を離してよ!」

「嫌よ、私と俊ちゃんは永久に一緒なのだから。私たちの世界にあなたはいらないわ。さっさと一人で帰りなさい」

「なんだと……!!!」


まさに両手に花……いや、両手に火花と言ったところか。二人ともまったく改心していない。せっかく安寧を享受できると思っていたのに……一難去ってまた一難か。


かくして俺は、実姉と後輩のサンドイッチに揉まれながら下校することになったのである。


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


初夏とはいえ、まだ5月なので夜は涼しく過ごしやすい。一生こんな季節が続けばいいなんて思うこともある。


「俊ちゃん俊ちゃん、今日の晩ごはんはなにがいい? お姉ちゃんがなんでも好きなもの作ってあげるからね♪」

「センパイセンパイ、明日の昼休みはボクと二人きりで過ごしましょう! そうだなぁ……屋上とかどうですか!?」

「ちょっとあなた、なにを言ってるのかしら。俊ちゃんとお昼を一緒にするのは私よ。私が作ったお弁当を、私が俊ちゃんに食べさせてあげるんだから」

「お前こそバカなこと言わないでください。俊センパイはボクにあーんしてほしいに決まってます。ね、センパイ?」


そんな清涼な季節に反逆するかのように、俺の両サイドではいまだ白熱した戦いが繰り広げられていた。まるで夏を先取りしたかのような熱さだ。学園を出てからもずっとこの調子である。


「二人とも……そろそろ仲良く帰らないか? そっちのほうがきっと平和だよ?」

「お姉ちゃんも仲睦なかむつまじく帰りたいと思っているわ。でも、この娘が無意味に騒ぎ立てるから、お姉ちゃんが処理してあげなきゃならないの」

「ボクだって、センパイを不快にする気なんてまったくないですよ。でもやたらとセンパイにたかってくるハエがいるみたいなので、ボクが守ってあげてるんです」

「あらあら、憐れな娘ね。なんの魅力も持ち合わせていないから、そうやってわめくことでしか気を引くことができないのね」

「ボクになんの魅力もないだと……?」

「そうよ。俊ちゃんをメロメロにできるほどの女の子としての魅力が、あなたにはないのよ。ねえ、俊ちゃん♪」

「へっ……」


いきなり左腕への圧が強くなった。精神的な圧力ではない……物理的な、しかしそれでいて苦しさを感じさせない柔らかな感触だ。


「ほら俊ちゃん、ぎゅ~~~」

「あひゃ……」


間違いない。これは葵ねぇの双丘だ……!! 柔らかくて大きなお山さんが、俺の腕に密着している……!!


「このぉぉぉ……!!! ボクにだって、色仕掛けくらいできるもん!」

それに気づいた香澄も、対抗するように俺に密着してくる。

「……ん???」

しかし香澄の胸元は荒野だ。実りない冬の大地では、どんなに誇張しようとも春の豊かさには敵わない。これは葵ねぇに分があるか……!


「ぐぬぬぬぬぬ、こうなったら……」

俺の反応を見て己の不利を悟ったのか、香澄は背伸びをして俺の耳元に顔を寄せてきた。なにをする気だ……? そう思っていると。


「ふぅ………………」

「ひゃん……!」


香澄が俺の耳に息を吹きかけてきた……! 予期せぬ不意打ちに変な声が出てしまう。


「センパイ、だいすきですよ………………」

「んむっ……!」


続けて香澄が耳元でささやいてくる。消え入りそうな声のトーンに、変な気分になってしまう。


「あ……! 俊ちゃんがうっとりしちゃってるっ。私が早く連れ戻してあげないと……!」

葵ねぇは言うと、反撃態勢をとった。


「俊ちゃん、お姉ちゃんがずっと側にいてあげるからね………………」

「あぅ……」


左耳から、葵ねぇのウィスパーボイス。おっとりした葵ねぇの口調も手伝って、こうかはばつぐんだ!


「センパイ……ボク、センパイにならなにされてもいいですよ……」


今度は右耳から、香澄のささやき。左右の耳から二人の女の子にささやいてもらえるなんて、リアルにバイノーラルを体験しているみたいだ……!


「俊ちゃん、そんな女の声は無視しましょう……。耳に毒だわ……」

「そっちこそ、今すぐセンパイから離れてください。汚い口臭で俊センパイの耳が腐ってしまいます」

「あなたなにもわかってないのね。俊ちゃんは生まれてからずっっっと私の声を聞いてきたのよ。いわば俊ちゃんのお耳は私のものだわ……!」

「センパイを私物化するな! センパイはボクのもので、ボクはセンパイのものなんだ!」

「まったく……聞き分けのない娘ね。もう一度、今度は徹底的にあなたを教育する必要がありそうね……!」

「いいですよ……今度こそ、決着をつけてやる!!!」

「うるさーーーーーい!!! 耳元で騒がないで!!!!!」


たまらず俺は声を上げた。両耳同時に鼓膜が破れるところだった。


「もういい加減、仲良くしてよっ。じゃないと俺、もう二人とは口利かないよ……!」

そのまま勢いに任せて、俺は腹の内を吐露とろする。口走ってしまった感は否めないが、いい加減大人しくしていただきたいのは事実なので撤回はしない。


「………………」

「………………」


すると二人は、毒気を抜かれたように黙り込む。そして、


「俊ちゃん、お姉ちゃんを嫌いにならないでぇぇぇ~~~~~」

「俊センパイ、ボクを一人にしないでくださいっっっ~~~~~」


二人は一斉に泣き出した。顔をぐちゃぐちゃにして、すがりつくような眼差しをこちらに向けている。さっきのセリフ、そこまでの破壊力だったの……?


「うぅ、ぐすん……お姉ちゃん、俊ちゃんとお話できなくなるくらいなら、この耳を切り捨てたほうがまだマシよ……」

「んっ……センパイが口を利いてくれないなら、ボクも喉を潰します……ぐすっ」

「い、いや、そこまでは言ってないんだけど……」

「だから俊ちゃん……ぐすっ……お姉ちゃんの存在を許して……。お姉ちゃんを嫌いにならないで……」

「センパイ……一人にしないで……。うぅ、お願いだから、一人にしないでください……」


まるで絶望の淵で弱々しく嘆願するような二人を見て、さすがに狼狽うろたえてしまう。薬になればとの思いで発した言葉だが、まさかここまで効く劇薬だったとは……。


「そ、それなら二人とも、仲良くできる……?」

とはいえ、なんだかうまく言いくるめそうなのでこのまま畳みかけることにした。我ながらセコいとも思うが、背に腹は替えられないだろう。


「う、うん……俊ちゃんがそう言うなら、お姉ちゃん、いい子になるよ……?」

「ボクも……センパイの言うことなら、聞けます……」

「それじゃあ、もうケンカは終わりだよ?」

「うん……」

「はい……」

鼻水まで出して泣いていた二人は、静かに俺の言葉にうなずいてくれた。よかった……ひとまず応急処置は成功のようだ。


その後の帰り道は非常に静穏だった。まるで秋の夜長のような静けさだった。喧騒が日常となっている俺にとっては違和感すら感じるほどに。

明日も、平和でありますように……俺は星に祈った。


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「ふぅ……やっと着いた」

帰路の途中で香澄と別れ、葵ねぇと帰宅。いろんなことがあって帰り道が長く感じた。


「俊ちゃん、お姉ちゃん急いで晩ごはんの用意するから、先に着替えて待っててくれる?」

「別にそんなに急がなくても大丈夫だよ。ゆっくり準備して」

「ありがとう、俊ちゃん。おいしいごはん、食べさせてあげるからね」


葵ねぇも先程のショックから立ち直り、いつも通りに振る舞っている。

俺はお言葉に甘えて先に着替えることにした。自室に入り、Yシャツを脱ぐ。


「なんだ、これ……」


俺は自分の両腕を見て戦慄した。別に己の肉体美に酔いしれていたとか、そういうわけじゃない。そもそもそんなもの持ち合わせていない。


「赤い……」

赤いのだ。真っ赤なのだ、俺の腕が。軽く出血もしている。どうして?……なんて考えなくともわかる。あの二人が原因だろう。にしても、どんだけの力でホールドしてたんだよ……。

「痛っ……」

さっきまで痛みなんて感じなかったのに、触れただけでうずきが走る。認識してはじめて痛みを感じるってやつだ。しばらくはあまり触らないほうがよさそうだ。香澄や葵ねぇにホールドされないように気を付けねば。


「俊ちゃーん、ごはんできたから、一緒に食べましょーう」


一階から葵ねぇの声がした。どうやら夕飯の用意ができたらしい。


「わかった、すぐ行くよー」

俺はとりあえず着替えを済ませ、リビングに向かうことにした。腕の様子は気になるが、そのうち赤みは引くだろう。放っておいても大丈夫だ。


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


大丈夫じゃありませんでした。風呂のこと完全に忘れてた。痛すぎてまともに湯船につかれなかったよ。葵ねぇもしきりに俺に抱きついてこようとするから制するのでいっぱいいっぱいだった。


「呼んだ、俊ちゃん?」

「うわぁっっっ! 葵ねぇ、急に現れないでよっ」


いつの間にか俺の部屋に葵ねぇがいた。音も気配もしなかった……アサシンかよ。


「……って、パジャマ姿でなにしに来たの?」

「決まってるじゃない、俊ちゃんと一緒に寝るのよ♪」

「至極当然みたいに言わないでよっ」

「いいでしょう、たまにはお姉ちゃんと二人で寝てくれても」

「いやいや、もう子どもじゃないんだから一人で寝るよ」

「年齢なんて関係ないわ。私たちは姉弟なんだから、なにも気にすることなんてないのよ」

「姉弟だからこそマズいというか、恥ずかしいというかですね……」


俺の言い分を受け流し、手を引いてベッドに直行しようとする葵ねぇ。なんとも強引なアサシンである。


「ちょっとストップ、葵ねぇ! やっぱり二人で寝るのは無理だって!」

俺はこのままではいかんと思い、葵ねぇの手を引き返した。すると葵ねぇは抵抗することなく振り返ったもんだから、その勢いで俺に身体を預けるような形になった。


「……っと、ごめん、葵ねぇ」

不意に葵ねぇと密着してしまったためにおろおろしてしまう。実姉とはいえ相手は女の子だ、こんな至近距離だと否が応でも緊張してしまう。


「……俊ちゃん」

葵ねぇがか細い声で俺の名を呼ぶ。


「……俊ちゃんとお姉ちゃんは、ずっと姉弟きょうだいよね……?」

上目遣いで俺に語りかける。その目は少しにじんでいて、ぞんざいにすることなどできない。


「……なにおかしなこと言ってんの、俺たちはずっと姉弟だよ」

俺は答える。


「そうだよね……お姉ちゃん、ちょっと不安になってたみたい。俊ちゃんがお姉ちゃんのこと、見てくれなくなるんじゃないかって……見捨てちゃうんじゃないかって」

「そんな、見捨てたりなんてしないよ! 俺たちは家族なんだから」

「うん……ありがとう、俊ちゃん。そんな優しい俊ちゃんに、お姉ちゃんのわがままを聞いてほしくて……」

「あぁ……さすがに一緒に寝るのは、恥ずかしいかも」

「ふふっ、心配ないわ、変なことはしないから。今日はね、俊ちゃんのことを、すぐ側で感じていたいだけだから……」


葵ねぇは神妙な面持ちで言う。うーん……こうなると俺は葵ねぇに弱い。ちょっとぐらい具合が悪くても、葵ねぇの望みを叶えてあげたいと思ってしまう。存外、俺も葵ねぇに対して過保護なのかもな。


「はぁ……わかった、今日は特別に一緒に寝てあげる。ただし、絶対に変なことはしないこと!」

俺は結局折れた。


「本当に? ありがとう俊ちゃん♪」

葵ねぇは一転して陽気を取り戻し、ご満悦といった感じの表情をしている。どうやら俺はこの笑顔に弱いらしい。なんとも隅に置けないアサシンだ。


「あ、あと条件もうひとつ追加。明日から香澄と仲良くしてね」

「……わかったわ、約束する」

「今の間が気になるな」

「ささ、早くベッドに行きましょう、俊ちゃん♪」

「おっ……わかったって」

葵ねぇはご機嫌な様子で再び俺の手を引き、二人でベッドに入った。


「えへへ、俊ちゃんと一緒に寝るなんて久しぶりだわ」

「こらそこ、俺の腕に抱きつかない」

「はーい」

葵ねぇはまたも俺の腕にくっついてくる。パジャマ姿で布が薄い分、たわわな感触がダイレクトで伝わってくる。これはアウトだ。俺は葵ねぇをできるだけ遠ざけた。


「……っていうか葵ねぇ、寝るときもそれしてるの?」

葵ねぇの首元、一際存在感を放つペンダントを指して俺は尋ねる。


「当然よ。これは俊ちゃんからもらった、大切な大切な宝物だから……。一日中、肌身離さず着けているわ」

葵ねぇは本当に大切そうにペンダントを握りしめて、答えた。子どもの頃にあげたものを今でも身に着けてくれてるのは嬉しいが、なんだか照れくさい。


「すんすん……はぁ、俊ちゃんの匂いがたっぷり味わえる。この香りに包まれながら眠れるなんて、幸せだわ……」

「いや恥ずかしいから匂いなんて嗅がないでよ! 変なことするなら、一緒に寝ないよ」

「あぁ、ごめんね俊ちゃん! もう大人しく寝るから……!」

そう言うと葵ねぇは本当に静かになった。なんだかいつにもまして聞き分けがよい……今日はなにかされる心配はなさそうだな。


「おやすみなさい、俊ちゃん……」

「ん……おやすみ、葵ねぇ」

それを合図に、俺は目を閉じた。今日は……っていうか今日もいろいろありすぎて疲れた。早いとこ寝よう……。






「………………大好きだよ、俊ちゃん」




そっと、俺の手が握られた気がした。

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