字句の海に沈む
@chauchau
その瞳が見たかった
書いては消して、消しては書いて。
シャープペンシルと消しゴムを交互に使い続ければ、紙は縒れて悪くなっていく。
縒れ黒ずんだ紙を見下ろして、少年はため息を零す。苛立ち紛れに紙をクシャクシャと丸めて少し離れたゴミ箱へと投げ捨てる。
「ナイッシュー」
「ッ!?」
自分以外は誰も居ない。と思い込んでいた教室で別な誰かの声がする。これほどまでに狼狽えるという言葉が当てはまることはないほどまで慌てた少年は、椅子から転がり落ちるのを持ち前の運動神経でなんとか堪えてみせた。
「ぁッ!! ぶッ!」
「……、大丈夫かぃ?」
「~~ッ! 思うなら助けろよッ!?」
「それが人に頼む態度かぃ? ……仕方ないなぁ」
どこか楽しそうな感情を乗せながら、それでも態度は渋々と云った具合で今にも落ちそうな少年を助けたのは、黒髪の乙女であった。
少年を助けだした腕は恐ろしいほどに白く、儚げで。日々外で遊びまわり日焼けしている少年と比べれば同じ生き物とは思えないほどであった。
「あぁ、重い重い」
はらり、とこぼれた乙女の黒髪が少年の鼻孔を擽っていく。彼の頬が紅く染まるのは、彼女と密着したが故か、それとも恥ずかしい姿を見られてしまったが故なのか。答えは両方なのであるが。
「…………と」
「うん?」
小さく零れた少年の声。
聞き取れず聞き返す乙女の表情は口元だけが微笑んでいて、瞳はただ目の前の少年の姿を映す鏡のようであった。
「ありがとうって言ってんだようっせぇなァ!!」
「耳元で騒がないでくれるかぃ? それと、どういたしまして」
任務を終えた乙女は、少年の隣。自身の席へ鞄を置き、ゆっくりと着席する。
「それで、何をしていたんだぃ? いつも遅刻ギリギリの君がこんな朝早くから一人で」
「……なんでも良いだろ」
「ああ、そうだね。なんでも良い。つまりは、気にしても良いだろう?」
鞄から取り出して教科書や筆記具を、机の中へと入れていく。普段から置き勉派の少年とは違って、乙女は毎日全ての教材を持ち帰っていた。
「宿題……、ではないね。今更やって来ていないことを気にするような君じゃない。なにより、今日提出の宿題にプリント類はなかったはずだ」
返事を求めず、乙女は独り言を投げかける。
「反省文? いいや、それもないか。もう2年以上の付き合いだ。君が家で書いてこないことなんて先生は分かりきっている。書き切るまで帰すはずがない」
少年は口を閉ざして必死で下を向く。何か言い返せば碌でもないことになるのは痛いほどに経験している。
「使用している紙も、あれは便箋に見えた。つまりは手紙……」
立つ。
獲物を狙う蛇のようにゆっくりと音を消し、乙女は近づいていく。強張る少年を背後から見下ろして、
「あれだけ必死になって書く手紙。君が、今時の子どもである君が手紙を書く? いやいや、そんな高尚な趣味を持ち合わせるはずがない」
ほっとけ!! そう叫べば終わるだろうか。それともトイレだと言えば逃げれるだろうか。無理だと分かり切った上で、少年は、無い頭を振り絞る。
「ああ、そうか」
少年を背後から。乙女が抱きしめる。
首元から胸へと伸びる彼女の腕は、か細い。力の差は少年の圧勝であるはずなのに、どうしても振りほどくことが出来ない。
「――ラブレターだァ」
顔が動かせない。
少しでも横を向けば、すぐそこに乙女の顔がある。
少年は、顔が動かせない。
「君も隅に置けないな。普段あれだけ元気よく暴れまわっているくせに、告白の仕方は古風というのかぃ? 驚きだよ、実に驚きだ。僕はてっきり君は直接愛の言葉を伝える派だと思っていたよ」
耳元に直接語られる乙女の言葉。漏れる吐息が少年の耳を擽る。
「…………」
「…………」
「ぃぎゃぁあ!?」
生温かく湿った柔らかい何かが少年の耳を撫でた。
気持ち悪さに飛び上がろうとした少年の身体は、乙女によって阻まれる。
「なにしやがるッ! この、」
「君が無視するからだろう?」
思わず少年は乙女のほうを向く。
向いてしまう。
鼻と鼻が触れる距離に乙女の顔。
乙女の瞳に映る少年の瞳に映る乙女の顔。
どちらかが少しでも前に進めば、触れ合うほどに。相手の唇の形が伝わってきそうな距離を乙女は気にしない。
「どうしたんだぃ?」
「……ち、ちかッ」
「良いじゃないか。それより、良いのかぃ? ラブレター。書こうじゃないか」
「はぁ?」
「長い付き合いだ。君が追い詰められないと出来ないことくらいは知っているさ。僕がひと肌脱ごうじゃないか。さあ、一緒に書きあげよう」
「はぁ!? い、いや、書くわけねえだろ!」
「本当に?」
「当たり前だろうがッ!」
「本当の本当に?」
「ああ!!」
「書き上げるまで今日一日このままで居ようかな」
「急いで書き上げるぞ」
やると言ったら乙女はやる。
周囲が何を言おうとも。教師が注意しようとも。やると言ったら乙女はやる。
彼女がこの態勢のままで居ると言った以上、少年が解放されるには書き上げる以外の方法が存在しないのだ。それも、他の誰かが登校する前に。
新しい便箋を取り出した少年は、急いでペンを握り、そして。
「…………」
固まってしまった。
なんてことはない。単純に書けないのだ。
「そんなに僕とこうしていたいのかぃ?」
「ンなわけねぇだろ……ッ!」
「力強い返事をありがとう」
乙女が見ているため、相手の名前を書くことは出来ない。
そもそも簡単に書けるのであればさきほどまで何回も書いては消してを繰り返してはいないのだ。
ぐるぐると回りまわる頭の中で、どうして自分は今まで読書感想文をちゃんと書かなかったのだろうと少しズレたことまで少年は考えだしてしまう。
「君は本当に期待に応えてくれる」
「……ああ?」
「協力してあげると言ったじゃないか。良いかぃ? 沈んではいけないよ」
「……意味が分からん」
「生い茂る言の葉は、森と成り落ち葉と成って、積もり積もって山と成る。だが、山は山でも落ち葉の山だ。その上にただ立っているだけでは当然下へと沈んでいく。その深さは山であり海の如しだ。何もせずに沈めばやがて溺れてしまうだけ。ならばどうする。簡単なことさ。溺れないために少しでもほんの少しでも手を動かして前へ上へと向かうのさ」
「…………日本語で頼む」
「日本語なんだけどね。つまりは、悩むくらいならなんでも良いから書くと良いってことさ。そもそも君は頭が悪いんだ。格好良い文章なんか書けるわけがないだろう?」
「…………そう、だけどよ」
「拗ねないでおくれ。そこが君の良い所でもある。君の気持ちを書くだけで良いんだ。その子の好きなところは例えば何だぃ? その子になんて伝えたいんだぃ? 君のことだ、まずは好きですと書いても良いはずさ」
言われた通りにするのは癪ではあるが、現状から抜け出すためにも少年は自身の気持ちを便箋へと綴っていく。
そこに書かれる文章は、文法などは無茶苦茶で。前後の文章に繋がりがあったものではない。
ただ、好きですと言う気持ちを前面に押し出した拙く汚く読みにくい文章であった。
それでも、少年が消しゴムを手に持つことはなくなった。
乙女に抱きしめられていることすら忘れてしまうほど必死になって、少年は想いを文字に託していく。
そんな彼の横顔を、乙女は感情の乗らない瞳で見つめ続けていた。
「…………出来た……」
「おめでとう。君はやれば出来ると信じていたよ」
するりと解放される少年の身体。
何事もなかったかのように乙女は自身の席へと戻っていく。時計を見れば、あと5分もしない間に他の生徒が登校してくるだろう。ギリギリだった。
「あとはそれを渡すだけさ。直接渡すかぃ? それとも古風に下駄箱かぃ?」
「……直接渡す」
「ああ、なんとも君らしい。良いじゃないか、実に良いじゃないか」
「……」
「心配する必要はないさ。君は馬鹿だが良い奴だ。なにせ僕のような人間とも付き合っているくれるぐらいだからね。よく物を壊したり、成績が悪くて先生に怒られてはいるけれど、君を嫌っている先生は居ないのだって事実。君は多くの人に好かれているじゃないか。その告白だってきっと巧くいくはずさ。万が一今回が駄目でも安心すると良い。まずは相手に自分の好意を示すということは大きな一歩だ。そうすることでその後の行動の全てに意味を持たせることが出来る。つまりは、振られてからが勝負というやつさ。もっとも君に限ってそんなことはないはずだけど。きっと最初から上手くいくさ。さあさあ、あとはいつどこでどうやって直接渡すかだね。まさかとは思うが皆が居る前で渡すなんて馬鹿な真似はするんじゃないよ。そんなことをすれば、」
「ん」
「…………うん?」
前を向き、決して少年と目線を合わせず次々に乙女は言葉を紡ぐ。沈まぬようにと海を泳ぐ。
前へ前へと向かう乙女を引き留めたのは、少年の日焼けした腕。
差し出されたのは書き上げたラブレター。いつの間にか丁寧に封筒に入れたそれを乙女へと差し出した。
「…………ああ、最終確認かぃ? 大丈夫だよ、シンプルではあるが良い封筒だ。ハートのシールが欲しいところだが、そこまで行くとさすがにメルヘンが過ぎるからね」
「ん」
「いや、だから大丈夫だと言っているじゃないか。あとは君の意中の相手にそのラブレターをだね」
「だから」
普段は合わない二人の視線。乙女が追いかけ、少年が逃げるから。
今も合わない二人の視線。少年が見つめ、乙女が逃げるから。
「俺の好きな相手に渡してる」
「………………」
浮かんだ乙女の表情に、
初めて勝ったと微笑んだ。
字句の海に沈む @chauchau
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