月華4
遺跡は小さなものでした。人の手によって作られた石造りの壁はすぐに終わり、そのあとは分かれ道も何もない単純な洞窟を行くだけでした。けれど、少女と少年はすぐに眠くなってしまいました。昼間にあんなに寝だめをしておいたのにです。
少年の行動はしごく単純なものでした。隅の方にへばりついていたボロを、すぐに見つけ出してきました。何十年前か知りませんが、ここまでやって来た冒険家の忘れ物なのでしょう。
少年はそのボロを丁寧に地面に広げ、両手を押し当てて唸り声をあげました。いいえ、それはもしかしたら、どこかの国の、いつかの時代の言葉なのかもしれない。けれど、少女にはそれは獣の声としか思われないのです。
ほどなくして、ボロの上に銀にうねる草原が現れました。起毛し、形を成し、呼吸すら始める雪原の色の毛皮です。生臭い息づかいが聞こえてきました。そしてそれは、ちろりと舌を出しました。濡れた肉色も鮮やに、そこから滴った涎が少年の手の甲を汚しました。
そこに横たわっていたのは巨大な狼でした。小さく喉を鳴らしながら、静かな瞳で少年を見つめます。少年が鼻面を撫でてやると、狼は長い舌を伸ばしてべろりとその手を舐めました。
少年は狼を仰向けにすると腹の毛皮をするりと剥ぎました。いえ、めくったのです。めくられた毛皮の下はまた毛皮です。狼は四肢の関節を折り曲げ宙に投げ出し、されるがままなのです。
生きた狼にしか見えないその腹のふくよかな毛の海に、少年は何の躊躇もなく身を差し入れます。上掛けをめくり上げたまま少女に、寒いから早く入れという要求を、眉を微少に寄せることで伝えてきます。
少女がとなりに潜り込むと、少年は素早く上掛けを閉じました。少年の腕が少女の肩と腰に回り、さらにその上をたっぷりとした毛皮が覆いました。
密やかな甘さが、少女の鼻腔を擽ります。それは花の香りのようではない、蜜のように纏わりつきもしない、どこか奥ゆかしく、全貌をこちらに見せようとしない、追いかければ追いかけるほど逃げていくような、それでいて目を閉じると、いつの間にか忍び寄っているような。
囲う腕がそのままガラス瓶の結界になって、香りごと閉じ込められてしまいます。ひと息ごとに夢の深部へと分け入っていくのがわかります。
予感が少女の胸を踏みます。猫の肉球の柔らかさで。こんなとき見る夢は決まって特別なのです。
予知夢がくる、と少女にはわかりました。
少年の規則的な心音がいつの間にか水音に変わっています。手足を包んでいた温もりが冷ややかさに。流れの中にいるのだ。小川のようなささやかな流水に晒されて、身体は重く水底に沈んでいます。
ぼんやりと闇が霞んでいます。頭上からほの明るい光が射し、その細い筒の中で埃がくるくると舞っています。
少女は、光の奥に浮かび上がる物体を見つけます。それは仰向けの身体です。四肢はダラリと投げ出されています。開いたまま瞬きもしない瞳。
だが、まだ生きている。
電流のように、気づきが身体中を駆け巡ります。
その途端、輪郭が立ち上がった。いま自分の瞳が映しているものの細部が。黒と肉色の裸の身体。焦げて縮れた髪が数本貼り付いている頭部。睫毛が全て燃え落ちて剥き出しの目。唇がめくれ、付け根まで見えた歯。それでもまだ、息をしているのです。
もはや身じろぎひとつできない身体が言いました。
死にたくない。
その一音一音が、水を伝い少女に届きました。パルスのように。水が身体に打ち寄せるたびに、細かな粒が弾けて火花が散ります。
死にたくない。
最期に見る風景は洞窟の天井から射し込む陽光。
死にたくない。
叫びはいつしか打撃になって、少女の身体を襲っていました。胸を叩くリズム、それが全身に広がって脈打ちます。駆け抜ける熱い血潮、指先にまでそれが達したとき、もはや少女は夢の中にはいませんでした。いま感じている鼓動は本物、はっきりとそう、わかるのでした。
そこで目が覚めました。
手足が冷たかったのは、少年がもう寝袋から出ていたからなのでした。狼は消え、少女はただのボロ切れを纏って地面に寝ていました。
それから私たちはまた歩いて、月華を見つけたのです。
少女はそれだけ言うと、唐突に口を閉じました。
冒険譚はそこで終わりでした。
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