第09話 赤ちゃん出来た!

 すっかり遅くなってしまった。

 もう夜、二十時過ぎだ。


 自宅マンションに帰宅したりようどうさきは、玄関ドアの前。

 手袋をしておらず、冬の寒さに冷たくなった手を擦り合わせている。


 ハンドルレバーへと手を伸ばしたところ、ドアが勝手に開いた。

 内側から、押されたのだ。


「お帰り。お疲れさま。今日は大変だったね」


 義母のすぐが、玄関に出迎えてくれた。


「ただいま、直美さん。遅くなって、ごめんね」


 小さく、頭を下げた。


「ん、どうした? 制服がやたら汚れているけど」

「あ、いや、これはちょっと……」


 義母が大変とねぎらったのは、告別式のことだろうが、実は、その後の方がよほど大変だった。その時の、汚れだ。


 白い魔道着の魔法使いに襲われたり。

 そんなこと、いえるはずないけど。

 直美さんたちは元リヒト職員の夫婦だが、魔法によってその時の記憶はなく、現在はただの一般人なのだから。


 さらには、カズミの家で自転車の練習をして、何度も転んだり。

 制服が汚れたのは、ほとんどそれが原因だ。


「いわれた通り、夕ご飯は用意してないよ。もし小腹が空いたら、冷蔵庫に少しあるにはあるけど」

「うん。ごめんね、急に勝手なこといって」

「後でプロレスの子の、連絡先を教えてよ。お礼しなきゃ」


 直美のいうプロレスの子とは、あきかずのことである。いきなりプロレス技を掛けられて泣かされた、といった話を、いつもアサキがしていたからだ。


 今日はカズミの家で、夕ご飯を御馳走になってきたのだ。


 十一時から告別式。

 十五時に終わり、真っ直ぐ帰宅するつもりだった。

 帰路で、白い魔道着の魔法使いに襲われ、撃退。

 ぐろ先生の自宅が近かったので、寄って、報告。

 ようやく帰れる、と思っていたら、昭刃和美に呼び止められ、

 家に強制的に招かれて、

 庭で自転車の練習をしたり、

 夕飯をごちそうになったり、

 それで、こんなに遅い時間の、帰宅になってしまったのだ。


 自分の部屋で、スウェットに着替えたアサキは、キッチンの冷蔵庫を開けて、猫のウェットフードを用意する。

 帰宅した時は、出迎えをしないどころか無反応だった、白と黒、二匹の猫が、突如カーテンの向こうから飛び出して、アサキの背中にべたっ、べたっ、となんだかオモチャみたいに張り付いた。


「いたたっ、爪立てないでええ!」


 捨て猫なので、いつの生まれかは分からないが、飼い始めてはや半年以上。

 身体はもう大人だが、心はまだまだ子供で、容赦なくこんなことをしてくる。

 定期的に爪を切っているとはいえ、大人二匹の全体重を前爪で支えられては、それは痛いに決まっている。


 涙目で屈み、背中を揺するアサキであるが、むしろなにかのゲームと思ったか、よりがっしりしがみつかれて、降りてくれず。


 涙目のまま、ウェットフードを皿に入れて、食べられる準備をしてあげたら、ようやく飛び降りてくれた。


 競い皿に顔を突っ込んで、餌をがっつく二匹を見ていると、痛みに泣きそうだったアサキの顔が、微笑みに一変した。


「ほんと大きくなったよなあ」


 ヘイゾーの頭を、そっと撫でる。


 白い方がバイミャン、黒いのがヘイゾー。

 我ながら、変な名前だとは思う。

 ネットで調べた中国語の、ヘイバイを、もじったものだ。


 アサキが第三中に初登校した日。

 さっそく治奈ちゃんという友達が出来て、二人で児童公園に寄ってベンチで話していたのだが、そこへ聞こえてきた子猫の鳴き声が、この二匹だ。


 飼い主が見つかるまでは、ということで買い始めたのだが、貰い手はみつからず。

 もうこのまま、飼い続けるしかないだろう。


 しかないどころか、もう家族の一員だけど。

 二匹とも。

 大切な、家族。


 などと思いつつ、アサキは二匹の頭を撫でている。

 まさかこの後、家族に関する衝撃の報告を、直美さんから聞かされることになるとは、当然ながら思ってもいなかった。


「プロ……カズミちゃん家に、連絡したよ」


 直美が、リストフォンの通話を切りながら、隣の部屋から出てきた。


「ありがとう。ごめんね、気を使わせちゃって」

「お兄さんとお話しちゃったよ。あそこ、お兄さんがお父さんでありお母さんなのね」


 昭刃家は、ともなり、カズミ、かける、の三人兄弟が、そのまま三人家族。

 両親とも死別しており、一人だけ社会人の兄が、家計を支えているのだ。


「そうなんだよ。面白いお兄さんでしょ?」


 両親はいないけど、みんな元気で、明るくて、いつも笑っていて。

 最高の家族だと、アサキは思う。


「そうだね。……でも、夕ご飯は関係なく、本当は早く帰ってきて欲しかったなあ」

「え」


 言葉の意味が分からず、きょとんとした顔で直美を見るアサキであるが、見たその瞬間、きょとんがより深まっていた。


 直美の、眼鏡の奥に、不満げなような、嬉しいような、恥ずかしさに照れているような、なんとも読めない表情が見えたためである。


「報告、したかったから」

「え、な、なにを?」


 ふふっ、と笑う直美。


 そのまま五秒ほども、見つめ合っただろうか。


 直美はもったいつけるように、ようやくその報告の言葉を発したのである。

 やわらかく、微笑みながら。


「アサキちゃんが、もうすぐお姉ちゃんになるってことを」


 時間が、静止していた。

 それを聞いた瞬間。

 アサキの中の、時間が。

 直美は優しく微笑み続け、アサキは呆けたようなきょとん顔のまま。


 にゃん。

 お腹いっぱい食べた猫の、満足げな鳴き声に、時が動き出した。


 アサキの顔に浮かぶ、驚きと混乱、混乱と驚き。


「わ、わたしが、お、お姉ちゃ……って、ええっ、す、直美さん、え、えっ?」


 戸惑い慌てふためくアサキの態度に、直美の微笑みが、にんまりとした無邪気な笑顔へと変化していた。


 そんな直美の顔を見ながら、


「わ、わたしが、お、お姉ちゃん、そ、それって……それって」


 言葉つっかえつっかえのアサキであるが、心の中も同じくらいつっかえつっかえであった。


 と、と、という、ことはっ……

 す、す、す、直美さん、が、

 直美さんがっ

 そそ、そ、そのっ、あのっ、

 つまりっ、


 すっかり頭が混乱していた。

 でもそれは、決して不快な混乱などではなく、感情の方向性としては、むしろ正反対だった。

 心地のよい嬉しさが、脳にどっと流れ込んでいたのである。

 やがて少しだけ感情を整理出来たアサキは、


「やったあ!」


 破顔、直美へと飛び付いて、抱き締めていた。

 ぎゅうっと力強く、抱き締めていた。


「あ、ご、ごめんなさいっ。だ、大事なお腹なのにっ」


 慌てて腕を離し、一歩下がると、視線を落とし、まだ全然膨らんでいないお腹を、申し訳なさそうに見た。


「大丈夫だよ、このくらい」


 直美は笑いながら、自分のお腹をさすり、軽く叩いた。


 安堵の長いため息を吐いたアサキは、あらためて自分も笑顔を作ると、ちょっと恥ずかしそうな上向き目線で、小さく頭を下げながら、


「おめでとう……ございます」


 心からの言葉を送った。


「なんだよ、他人行儀だなあ。でも、ありがとう、アサキちゃん」

「もう性別は、男の子か女の子かは、分かっているの?」

「もう分かってるだろうから、聞けば教えてくれるんだろうけど。どっちなのかは、最後まで楽しみに取っておくつもりだ」

「そっか」


 ふーーーっ、とさして意味なく長い息を吐くと、顔を上げ、視線を上げ、天井を見上げた。


しゆういちくんと、直美さんの、赤ちゃんかあ」


 アサキの目は赤くなっていた。

 潤んでいた。


 泣きそうだ。


 それほどに、嬉しかったのだ。

 二人がどれだけ子供を望んでいたかを、よく分かっていたから。

 まだ若いのに半ば諦め掛けていたことも、知っていたから。

 そんな二人を見ているのが、辛かったから。


 だから、この報告は自分のことのように嬉しい。

 最高に、幸せな気持ちだ。


 でも、

 だからこそ……


「わたし、家を出るよ」


 真顔になり、正直な思いを直美に伝えた。


 子供が出来たら、自分だけ血の繋がりがないわけで、それを窮屈に思うから?

 それもある。

 でも、窮屈がどうというのは、単に自分の気持ちだ。


 そうではなく、純粋に、この家族のことだけを思い、幸せの邪魔をしたくないと思い、それで、出て行こうと思ったのだ。


 現在は、中学生の身分で収入もない。

 だから、卒業してからということになるだろうが。


 ウメちゃんだって、中二で一人暮らしをしていたのだ。

 高校生にもなっていれば、アルバイトだって出来るし、生活自体は、なんとかなるだろう。


 アサキの言葉をどう汲んだかは分からないが、


「ダメ。あたしたちは四人家族になるの。アサキちゃんが長女」


 直美には一瞬で否定、否認されたが。


「でも……」

「でもじゃない」

「ごめん。で、でも、やっぱり迷惑……」

「本当の家族以上、だよね、あたしたちの関係って」


 突然そんなことをいわれ、少し戸惑いながらも、アサキは小さく頷いた。

 血の繋がりこそないが、自分がこの夫婦を好きだということ、本当の家族以上に思っていること、一緒に過ごせたことの幸福感、これらに微塵も嘘はない。


「もし本当の家族なら、誰かがグレようが強盗しようがでっかい借金背負おうが、家族だよね」

「うん」

「でしょ? そうだとしてもそうなのに、アサキちゃんはそんなこととは正反対の、優しくてしっかりしてて、最高の女の子」

「そんなことは……」


 買い被りすぎだ。


「そんなことあるの! だったら、わたしたちの最高の家族じゃん。うちの自慢の娘だよ。……もう、なにをどうしようとも切れない絆で、あたしたちは、繋がっているんだよ。どこかへ行くのは、いつかいい人と結婚する時だけだ」

「そういってくれるなら……」


 ず、

 鼻を、すすった。

 ぼろり、涙がこぼれた。


「まだ、しばらく、ここにお世話になります」

「だからそういうこといわない!」

「分かった」


 アサキは目を赤く腫らしながら、幸せそうな笑みを浮かべた。


 そこまでいってくれるのなら、本当の家族になろう。

 遠慮なんかしない。

 家族以上の、世界一の、家族になろう。

 生まれてくる、弟か、妹のため。


「理由はないけど、女の子な気がするよ」


 涙を拭いながら、アサキは笑った。


「うん。考えられない話じゃないよね。二分の一だし」

「そうだね」


 もしかしたら、成葉ちゃんか正香ちゃんの生まれ変わりだったりして。

 実は双子で、応芽ちゃんと雲音ちゃんの魂が……って、それはないか。そんなこと起こるなら、うちよりも慶賀家に生まれるのが当然だし。


 しかし、帰宅してみたら、こんな嬉しいニュースが待っていたとは。

 ここ最近、知っている人がどんどん死んでいくばかりだった。

 生まれる生命もあるのだという、当たり前のことをすっかり忘れていた。

 リヒトからの、じわじわ追い詰められていく感触に、気持ちが闇に飲まれかけていたのかも知れない。

 でもこうして、まだまだ守るべき幸せはあるのだ。

 ならば、守らなければ。

 この生活を。

 この世界を。


 そのためには、「新しい世界ヌーベルヴアーグ」を起こしてこの世を壊そうとしているだれとくゆうの野望を、絶対に阻止しないと。

 この下らない争いに、早く決着をつけないと。


 みんなが、笑顔であるために。

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