第08話 アサキは自転車に乗れない
ああ、そういえば、
「乗れるようになっておけ、とかいっていたな。ウメちゃん」
自転車を見ながら、ぼそり呟いた。
応芽が死ぬ間際、そのような会話をしたのだ。
自転車程度、乗れるようになっておけ、と。
約束するよ、と。
バタバタ落ち着きのない、そんな日々が続いており、まったく果たすことが出来ないでいるのだけど。
「別にそれ、なにに対しても頑張れとか、普通に生きろとか、そういう意味だろ。夢をアサキに託そうとしたわけだから、前向きでないと困るし、ちょっとの苦手は気合で克服しろ、ってことだよ。ゴキブリとか」
「ゴキブリは誰だって苦手だよ!」
得意な人なんているの?
「そう? んなことよりお前さあ、真面目に聞くけど、本当に、自転車に乗れないの?」
「うん。漕がなきゃ安定しないのは分かるんだけど。前へ進もうと漕いでもね、どうしてもふらついて倒れちゃうんだ」
恥ずかしげをごまかすでもなく、にんまりと笑みを浮かべた。
分かっている。
中学二年にもなって自転車に乗れないなど、恥ずかしいということを。ごまかすもごまかさないもない。
時折、思い立って、義母である
しかし、やれども漕げども、まったく向上の兆しがなく、いつか疲れてやめてしまう。
何度、チャレンジしたことか。
天王台へ越してきてからだって、四、五回くらいは練習している。
「結局、漕がないからなんだよ。倒れるのは、怖がってスピード出さないからだよ」
「いやいや、ペダル思い切り踏んだら、ぐうんと加速しながら、ハンドルが一瞬でぐりんと真横を向いて、その瞬間に地面に叩き付けられて、肘と手のひらを怪我したよお」
思い出して、情けない顔になるアサキ。
つい先日の、秘密練習の時だ。
倒れたはずみにごろり転がって、肘を怪我だけでなく、頭を打って。
誰もいないと思って、わんわん泣いてしまったのだ。
そしたらそれを、小さな子に見られてしまったんだよなあ。
ほんと恥ずかしい。
「ハンドルをしっかり固定させておかないからだろが。剣持って戦ってるくせに、なんなんだ、その握力のなさ。……ちょっと、うちのそいつで、アントワネット号で練習してみろよ。あたしが見ててやっから」
「えーっ、無理だよう!」
慌てた様子で、バタバタと手を振った。
練習はいいけど、別になにも、こんな時じゃなくても。
そもそも、これまで一人で隠れてだったから、誰かに見られていたら恥ずかしくてみっともなくて、練習なんか出来ないよ。
それより、なんだアントワネット号って……
「無敵の魔法使いのくせに、なにいってんだ。ほらあ、天国からウメも応援してるぞお」
それはなにげない言葉だったのだろう。
でも、その言葉に、アサキははっと目を開いていた。
応芽とのことを、
彼女が亡くなる時のことを、思い出していた。
そうだよな。
と、胸の中に呟いていた。
約束、というほど大袈裟なものじゃないけれど、
さっきカズミちゃんがいっていた通り、別に自転車だけってわけじゃ、ないんだろうけど、
でも……
「じゃあ、やってみるね」
足元のコンクリートに置いてあったサンダルを履くと、地面へと降りた。
それが、ほんの僅かでも、ウメちゃんの弔いになるのなら。
やり切れれば、わたしだって自信になるし。
奥の物置場にある脚立をどかすと、斜めに立て掛けてある赤い自転車、アントワネット号のハンドルを握って起こした。
「あれ、鍵掛が掛ってない。盗まれちゃうよ」
「そんなボロ、誰も盗まないから。だから、倒しても構わねえ。遠慮なく漕ぎな」
「分かった」
頷くと、自転車を完全に引っ張り出して、あらためてハンドルを両手で握った。
「でも、壊しちゃったら弁償するね……」
「どんだけ自分に自信ないんだよお! まあ、お前らしいけどな」
「だって、乗れたことまだ一度もないし。……それじゃあ、やってみるね」
決心した真顔で深呼吸をすると、無敵の魔法使いが、ついにサドルにまたがった。
地に左足を、ペダルに右足を乗せた状態で、きっと前方を見据える。
身体が細かく震えている。
転ぶ怖さとか、転んだら恥ずかしいなとか、そんな気持ちからの緊張で。
「も、目標は、そこの通りのところまでっ。い、い、行くぞお!」
目標距離、約三メートル。
左足も地面から離して、ペダルの上へ乗せると、そおっ、と踏み込む足に力を込めた。
ガシャン!
豪快に、真横にぶっ倒れた。
地面に頭を打って、ごつっという痛そうな音と、ぎゃっという悲鳴が同時に上がった。
「なんで足を着かないんだよ!」
頭を抱えたまま裸足のまま、ウッドデッキ下のコンクリートに立ち上がって、カズミは両の拳をもどかしそうに握った。
「そこまで考えが回らなかったあ」
うえええ、と情けない声。
赤毛の頭を押さえながら立ち上がると、腰に手を当てくっと回し、身体の無事を確認。
制服のスカートに付いた汚れを、はたいて落とした。
「考え回らなかったから転ぶとか、そこからか、お前はそこからなのか。なんかアサキが相変わらずの天然で、嬉しいような、ちょっとムカつくような、複雑な気持ちだよ」
カズミがぶつぶついっている。
「気持ち盛り下げるようなこといわないでよ。……よし、二度目の正直だ」
再びまたがり、ペダルを踏んだ。
ガシャン!
最初とまったく同じように転倒してしまった。
考え回っていようとも、結局。
めげずにまたがった三度目は、少しは正直であった。やはり上手くは漕げなかったものの、ふらふら倒れそうになったところ足を着いて、支えることに成功したのだ。
「頑張るぞ」
転倒しなくなったことに勇気が湧いて、何度もチャレンジするアサキであったが、
しかし……
乗れない。
進まない。
一メートルも進まない。
しっかり押さえているつもりなのに、ハンドルがぐらぐら揺れてしまい、すぐ転倒しそうになる。
そんなハンドルぐらぐら状態で、闇雲にスピードだけ上げても、勢いに持ってかれたハンドルが強制的に横へ回転してしまい、すぐにまた転び掛けて、地に足を着くことになる。
ムキになり無茶をした挙げ句、転倒した。
派手に。
繰り返すうちに、すっかり惨めな気持ちが膨らんでいた。
自分の運動神経は、それほど悪い方ではないはずなのに。
体育の成績だって悪くないのに。
最近練習している剣道だって、自分でも上達を感じているのに。
どうして自転車だけが、こうもままならないのか。
まるで神様に、そう仕組まれているかのように。
きっと、たまたま自転車の酷さが際立つだけで、探せば他にも色々とあるのだろう。こうした、自分の不器用さは。
そう、不器用なのだ。
自分は。
なにごとにおいても。
「ウメちゃん……」
微かに開いた口から漏れるのは、慶賀応芽の名。
死に際の会話を、思い出していた。
自転車くらい、乗れるようになっておけ、という。
あえて日常的なことを語って、幸せな気持ちで、天国へ行きたかっただけなのだろう。
分かっている。
でも、かわした言葉に、わたしが頷いたのは事実だ。
適度に練習すれば、いつかは乗れるようになるだろう。
これまでは、そう気楽に考えていた。
でも、いざこうして、強い気持ちで挑戦し、それでこうも乗れないなると、本当に自分がたまらなく情けなくなる。
惨めな気持ちになる。
世界を救え、などと大きなことを頼まれたのならともかく。
自転車くらい乗れるようになっておけ。
という、その程度も出来ないことに。
自分が情けないばかりか、応芽に対し申し訳のない気持ちになっていた。
ガシャン!
五度目の転倒。
まともに受け身を取れず、自転車に手足を絡ませて、地に横たわっている。
横たわったまま、アサキは動かなかった。
コンクリートに置いてあった外履きがもうないので、縁側から膝立ち姿勢で、もどかしそうにカズミが話し掛ける。
「ああもう。早く起きろよ! スカート思い切りめくれてっぞお。……悪かったよ、無理やりやらしちゃって。もう練習終わりにしようよ」
アサキは、倒れたまま動かない。
よく見ると、身体が微かに震えている。
「アサキ?」
呼び掛けに応えるのは、ふーっとため息に似た長い呼気。
アサキはゆっくりと片腕を動かして、顔にかざした。
隠していた。
泣き出しそうな顔を。
いや、泣き顔を。
つうっ、と涙がこぼれるのを。
でも、隠せなかった。
悔しがる、唇を。
頬を伝う、涙を。
漏れる泣き声を。
押し殺しながらも、でも、はっきり聞こえる声で、アサキは、すすり泣いていた。
「ごめん……ウメちゃん」
隠した腕から、もう隠し通せないほどに、ぼろぼろと涙がこぼれていた。
えくっとしゃくり上げると、さらに声が大きくなって、そのままいつまでも泣き続けていた。
冬の夜空には、星が出ていた。
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