第10話 嬉しいから最悪へ -アサキの日記-

「嬉しい。

 嬉しい。

 嬉しい。


 それほど長くもない人生で、どれだけ久し振りのことだっただろう。

 嬉しくて、泣いてしまうだなんて。

 あまりに嬉しくて、ボロボロと涙がこぼれるだなんて。

 こんな涙が、まだ私の中にあっただなんて。

 枯れず、残っていただなんて。


 いつもは、その日のことを時系列で書くよう心掛けているというのに、

 今日は、記しておくべき色々なことがあったというのに、

 その日の最後のことから書いてしまっている。

 仕方がない。

 今の私の頭の中は、その嬉しいことで一杯だから。

 筆を持つ手を抑えられないから。

 何かというと、


 赤ちゃんが、出来たのだ。


 いや、あの、違う。

 修一くんと直美さんとのだ。

 待ちに待った赤ちゃんが、ついに。


 性別は、聞いていないとのこと。


 どちらであろうとも、きっと可愛い子か生まれるに違いない。


 二人がどれだけ子供を欲していたか分かっていたから、私も自分のことのように嬉しかった。


 妊娠が判明したばかりだから、まだまだ先のことだけど。

 早く、会いたいな。


 私を幸せな気分にさせていることが、もう一つある。


 嬉しい報告を聞くと同時に、ただの養女である私は、この家を出るべきだろうなと思い、その思いを直美さんに伝えた。

 そうしたら、直美さんは強くいってくれたのだ。

 生まれて来る子と、四人で家族なんだと。

 私も、もう強い家族の絆で結ばれているんだからと。


 涙が出て、止まらなかった。


 だって最近、周囲の人が死んでいくばかりだったから。

 魔法使いだから、ヴァイスタと戦っているから、仕方ないことではあるのかも知れないけど。

 普通の感覚が麻痺していても、おかしくないと思う。

 実際、少し麻痺していた気がする。

 でも久し振りに、こうした明るい話を聞いて、目が覚める思いだった。


 この世界を守らなきゃ、と強く思うと同時に」




「同時に、なんだ……しかし困ったな。ついテンション高く、すぐさんの妊娠のことばかり書いてしまったけど、お昼のことはどうしよう」


 自室で学習机に着きながら、アサキは、ペンを持ったまま腕ん組んで、難しい表情を作った。

 背もたれを少し後ろへ倒して、天井を見上げる。


 今日は、色々なことがあった日だというのに。

 いまさっきのことから、日記を書き始めてしまった。


 昼前から、ぐち校長の告別式。

 帰りには、白い魔道着を着た魔法使いに襲われて、撃退。たまたま近くにあったぐろ先生のマンションへ、報告に行った。

 すっかり日も暮れ、ようやく帰れると思ったら、あきかずに呼び止められて。何故か自転車の練習をすることになったり、さらには夕飯を御馳走になったり。


 時系列という点からも、ことの重さからも、本来ならば、樋口校長の件から書き出すべきなのに。

 あえてそれを避けて、気持ちのよいことだけ勢いで書いてしまったのかも知れない。


 その件以外、今日は嫌な記憶ばかりだからだ。


 告別式では、だれ所長の言動が許せず激高してしまったし。

 白い魔法使いに対しては、過剰防衛ともいえるあしらい方をしてしまい、自己嫌悪。

 自転車練習では、ウメちゃんとの約束を守れていない自分が情けなくて途方に暮れて。


 書かないわけには、いかないからな。

 仕方ない。

 自分の嫌なところと向き合うのも、また日記の役割だ。


 思い出して追記した形式にするか、今日だけ日付を二回振って二部構成にするか。

 どうするかな。


「決めた」


 椅子の角度を戻して、机に覆いかぶさり、執筆を再開しようとした。

 その時である。


 ブーーーーーーーーーーーー


 机の上に置かれたリストフォンが、激しく振動したのは。


 単なるメッセージ着信とは違う強烈な振動に加え、直置きされている机もカツカツ激しく鳴って、アサキはびくりと肩を震わせた。


 いつものクラフト内蔵リストフォンは、須黒先生に預けてあるため、これは前々より所有していた、市販の物。


 だというのに……

 特殊回線を使えるわけでもない、普通のリストフォンの、画面に映っているのは、


 グレーのスーツ。

 髪をオールバックにした、なんとも野性的な風貌の、でも整った顔立ちのためか女性のようにも見える、男性。

 リヒト所長、だれとくゆうであった。


「東京の特別放送局からお送りしております。天王台第三中学校の魔法使いマギマイスターたち、元気にしてますかあ? 絶望に向かって日々を楽しんでますかあ? どーでもいいゴミみたいな人生を、健気に生きてますかあ?」


 画面の中の彼は、これまでに見たことないほど、妙に機嫌のよい口調であり、笑顔であった。


 その正反対ベクトルの感情が、同じリストフォンのスピーカーから激しく噴き出した。


「てめえ、なにいってんだあ!」


 カズミの怒声である。

 小さなスピーカーから、バリバリと割れた音質で。


 魔法使いたち、といっていた。

 そしてこのカズミの声。

 至垂徳柳は、どこで宛先を知ったのか、同報通信を掛けてきているのだ。


「どんどんね、どんどんね、追い込んでいくよね、この、感触……」


 小さな画面の中で、グレースーツのリヒト所長が、楽しそうに身体を細かく揺すっている。


「ま、まさかっ! フミ……フミを、どうした!」


 今度は、あきらはるの、明らかに動揺した声。


 フミとは治奈の妹、ふみのことだ。


「うーん、いいねえ。この追い込んでいる実感。いいねえ。でも一人、なんだか幸せそうにニヤけちゃってたのもいるけどねえ」


 ふふうっ、と画面の中の至垂徳柳が、笑いながらアサキを見た。


 その笑いに、言葉に、さあっとアサキの顔が青ざめていた。


 わたしのことをいっているんだ。

 でも何故、それを知っている?

 っと、それは後回しだ。それよりも、


「治奈ちゃん! フミちゃんが、どうかしたの?」


 至垂徳柳によって繋げられた回線の、向こう側にいる治奈へと、呼び掛けた。


「アサキちゃん? ……フミが、フミがっ、部屋からいなくなったんじゃ。ほじゃけど出掛けた形跡もなくて。こんな冬の夜じゃゆうのに、部屋着のまま黙っていなくなるはずもないじゃろ!」


 治奈の、慌てた、動揺した、いまにも泣き出しそうな、激しく震えた声。


「ほんとかそれ治奈っ! おい、クソ至垂、なんか知ってんだろ! 答えろよ、クソ野郎!」


 カズミの怒声、テーブルを叩いているだろう音に、至垂徳柳の表情は揺らぐどころか、ますます楽しげな笑みを強めた。

 ぷっ、と吹き出した。


「知っているもなにも……」


 画面の中で、至垂がすっと横へ、軽く身体をどかした。


 信じられない光景に、アサキの全身は、血も肉も凍り付いたかのように、固まっていた。


 おそらく、同じ画面を見ている治奈も、カズミもだろう。


 至垂の後ろに映っているのは、

 口にさるぐつわをされ、後ろ手に縛られている、よく知る少女の姿だったのである。

 目に涙を浮かべ、懇願の表情で、画面越しにこちらを見ているのは、


 明木史奈であった。


 その隣には、魔道着姿の、ナイフを持った女子が立っている。

 笑みこそ浮かんではいないが、冷淡な顔で、涙目で怯えている少女の頬に刃をそっと当てている。


 姉である治奈の、断末魔の絶叫にも似た、凄まじい悲鳴が聞こえた。

 小さなスピーカーから、バリバリと割れた音質で。


「フミ! フミ!」


 狂乱の中、妹の名を叫ぶ治奈。


「至垂! てめええええっ!」


 カズミの、怒鳴り声、壁か机か、なにかを激しく蹴る音。


 アサキは、すっかり頭が真っ白になって、なにも考えらなくなっていた。

 手が震え、身体が震え。

 なんにも出来ず、考えられず、ただ、そのスピーカーからの音を、叫びを聞いている。


 沸騰、しそうだ。

 全身の血管が、破れそうだ。


 荒い呼吸で、立ち上がる。

 画面の中で笑っている至垂徳柳を、睨み付けた。


 視線や態度に気が付いたようで、至垂は、どうもという感じに軽く頭を下げた。


 アサキは、自分の胸へとそっと手を当てた。


 どっ、

 どっ、

 心臓が、内側から胸を突き破りそうだ。


「きみたちさあ、こんな遅い時間だけど、もしも暇なら……」


 至垂は笑みを深め、ひと呼吸、そして、


「遊ぼうか」


 甘い声。

 顔には喜悦。


 背後には、魔法使いにナイフを突き付けられている史奈の、脅え切った姿。


「うああああああああああああああああああ!」


 アサキは、叫んでいた。

 こんなことをして、楽しげな顔でいられる、至垂への不快感、ドス黒い怒りの感情に。


 部屋着姿のまま、部屋を飛び出した。


「どうしたの? アサキちゃん、凄い声で……」


 居間のソファから直美が声を掛けるが、アサキは脇目も振らず真っ直ぐ玄関へ。

 運動靴を履き、マンション通路へ。


 階段を駆け下り、外へ出た。


 月夜の下を、走り出した。

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