第07話 名前で呼んでくれたのに
「人間の世であるからこその仕組みがあり、すべきことがあるのだよ。果たせるか、果たせぬか、果たそうともせぬか、ただ、それだけのこと」
笑うでも、怒るでもなく、理の当然といった様子で、淀みなく舌を動かすグレースーツの男、
その饒舌に勝てなかろうとも、なにか一言は浴びせてやろう、と思うアサキであるが、実際に口を開いたのは、彼女の足元で息絶え絶え横たわっている、
「ただ、お、泳がせ、とった、だけ、のくせに、偉そ、うに」
かすれた声で、言葉ぶつ切りに。
一言発するたび激痛が襲うのか、顔がぐちゃぐちゃである。
「気持ちのいいくらい、思っていた通りに泳いでくれたね。メンシュヴェルトの持つ、異空やヴァイスタのデータを盗もうとしたのは、意外だったけど」
先ほど、戦っている最中に、応芽がアサキに話していたことだ。
「その件が起きたことで、色々とシナリオを思い付いてね。そこからはまた、びっくりするくらい、こちらの考えている通りにことが進んだよ。慶賀雲音を救うためには、やはり超ヴァイスタを作る以外にないのだ、と思わせるために、リヒト側の持っている情報を教えてあげて、そこからは、一本道の筋書きだ」
グレーのスーツのしわを直して、ひと呼吸すると、また言葉を続ける。
「メンシュヴェルトでやらかしたことの、お咎めがないどころか欲しい情報まで貰えて、違和感を覚えたよね? この研究施設に、簡単に侵入出来るなんて、おかしいと思っていたよね? 最新の魔道着を簡単に奪えるなんて、おかしいと思ったよね? 思っていても、妹のためやらないわけにはいかなかったんだよね?」
嬉しそうに喋る、所長。
絶望を操作していることを、あえて主張して、応芽の心をより追い込もうとしているのだろう。
そう思ったからこその、次の、応芽の言葉なのだろう。
「あたし、なんかを、ヴァイスタ、にしても、しゃあ、ないで。多少、ひねくれとるだけの、地味な、のが、一匹、生まれるだけや」
「謙遜。きみも
所長、
「Cクラス、やろ、あたしは」
「ああ、きみには教えてなかったんだった。劣等感の中で、どう育つか、成績を操作していたからね。きみ、特とまではいわずとも、Aには余裕で入れる魔法力を持っているよ。令堂和咲専用の魔道着を、少しの間とはいえ、使いこなしたのがその証拠。通常は、着た瞬間に魔力を吸い尽くされて、全身を疲労と激痛が襲って動けなくなるよ。特Aに近いAだ」
「ははっ、それは、嬉しいなあ。もう、どうでも、ええけどな」
「ここで戦いになることも、令堂和咲がお得意の甘っちょろい戯れ言を吐いて、きみの罪悪感を揺り動かすことも、予想通りだったよ。特Aの令堂和咲が
にやり、リヒト所長はいやらしく唇を釣り上げた。
あらためて、雲音は決して蘇らないことを、応芽の心に叩き付けているのであろう。
だが、
予期せぬことが起きた、ということか、
ぴくりと、引きつっていた。
「絶望、なんか……せえへんよ」
笑顔を浮かべて、立ち上がろうとしているのである。
応芽が。
胸から、しゅうしゅうと黒色の煙を噴き出しながら、苦痛に顔をぐしゃぐしゃにしながらも、幸せそうに、笑みを浮かべて。
「ウメちゃん。無理しないで!」
アサキが悲痛な顔で、肩を押さえ付けた。
応芽の、ミイラよりやつれきったガリガリの身体の、どこに力が残っているのか。応芽は、制すアサキの腕を、むしろ掴んで支えにしながら、全身をぶるぶる震わせながら、立ち上がっていた。
「あたし、絶望なんか、せえへんよ」
その目は、すっかり濁っているばかりか、乾いてヒビすら入っている。
もう、いかなる光も感じてはいないだろう。
だけと、その目は、真っ直ぐと、リヒト所長、
「へえ」
受けた所長は、澄ました表情で、また唇を釣り上げて見せる。
だが、少し引きつった、ぎこちのない笑みであった。
「雲音、を助け、る方法、必ず、ある、と信じ、とるから。せやから、あたし、絶望なん、て、しない」
濁りきった目を、正面へと向けて、はあはあ、肩を大きく上下させている。
「せやろ。……だって、あたしがヴァイスタに、なったら、雲音を、抱き締め、られへんや、ないか。お帰りな、さいって、いえへんやないか。二人で、過去を笑えない、やないか。未来、を、笑えないや、ないか。……でも、残念、やな、未来も、なに、も、あたしの、この、生命は、もう、おしまいみたいや」
苦笑を浮かべた。
がくりと崩れて、地に両膝を着いた。
「ウメちゃん!」
慌て自分も屈み、介抱しようとするアサキであるが、びくり肩が震え、その目が驚きに見開かれた。
体内でなにが爆発したのか、応芽の胸から、これまでないくらい濁った、粘度のある、黒紫の煙が、噴出したのだ。
「があああああ!」
応芽の悲鳴。
顔が苦悶に満ちて、ぐちゃぐちゃである。
果たして、どれだけの激痛に襲われているのか。
ずっと、尽きぬ瘴気を吹き出し続けていた胸の傷であるが、どろどろ溶け広がって、ぽっかりと大きな穴が空いていた。
背中の、向こうが見えていた。
アサキが頭を抱えて、金切り声の悲鳴を張り上げた。
胸の傷だけではない。
指の先端も、肉が溶けて、骨が見えていた。
その骨すらも、液状化が始まって、ぐちゅぐちゅとゼリー状になっていた。
「状況的に『絶望しかない』こと、理解していないはずがない。本来なら、ヴァイスタ化しているはずだが。それを魂で抗おうとすると、このようになるのか。これはこれで、面白い」
グレースーツの男、
計算通りにいかなかった苛立ちよりも、新たな事実を知ることが出来た興奮が勝るのか、とても嬉しそうな表情で。
「令堂……」
応芽の、身体全体が、じくじくと、着ている物までが溶かされて、ただの、粘液の塊になりつつあった。
そんな状態で、アサキへと顔を向け、アサキを呼んだ。
ただ顔を向けたというだけで、もうその目は、いかなる光も感じてはいないのだろうが。
「楽し、かった。一生、忘れ、へんよ。まあ、その一生も、もう、しまいや、ねんけど、な」
「そんなこと、いわないでよ! お願いだから! ダメだよ。死んじゃ、ダメだよ! 治すから、わたしが治すからっ! だ、だからっ、ウメちゃんっ!」
ぼろぼろ涙をこぼしながら、青白く輝く魔法の手を、応芽のあちらこちらへと翳すアサキであるが、その必死な思いが、いかなる奇跡を起こすことも、なかった。
応芽の肉体は、どろどろと、溶け続けていった。
「
「お、お前、なにしょいこんでんだよ。なんで、話してくれなかったんだよ。な、なか、仲間とかさっ、いっといてよ、一人でしょいこんでんじゃねえよ!」
いつ泣き出してもおかしくない顔で、カズミは、怒鳴り声を張り上げた。
拳を握り、踵を踏み降ろした。
「堪忍な」
もう痛みも感じないのか、どろどろと皮膚が半分溶けた顔で、応芽は、優しく微笑んだ。
「祥子。こいつらのこと、任すわ」
少し首を傾げて、嘉嶋祥子へと、ぐちゃぐちゃになった顔を向けた。
いつも薄笑いを浮かべている祥子であるが、いま彼女は真顔、表情を押し殺して、微かに身体を震わせている。
「リヒトの任務と相対しないところでならば。わたくしのところでは、ウメの親友として接することを、約束するよ」
リヒト所長もおり、それが精一杯の友情の表現だったのだろう。
「それで……ええわ」
小さく頷くと、また、アサキの方へと向き直る。
「とこ、ろで、令堂、自転車に、乗れない、って、ホンマか?」
不意打ちの質問に、ぼろぼろ涙をこぼしながらも、面食らった顔で、アサキは、黙って頷いた。
応芽の目が見えていないことを思い出して、
「ほ、本当。恥ずかしいけどね」
慌てて、声を付け足した。
「そん、くらい、乗れるよう、なっとけや」
「練習する。……乗れるようになる」
笑った。
大粒の、混じりけのない涙を輝きこぼしながら、アサキは、優しく笑った。
「
「……なあに。ウメちゃん。……わたしのこと、名前で呼んでくれたね」
「恥ずかしいけどな」
「嬉しいよ。それで、なあに?」
「ああ、覚えとったらで、ええから、なんかの、ついで、でも、ええから。雲音、妹、を……。あたしは、笑って、待って、いるから……」
「うん」
頷いた。
ぼろぼろ涙をこぼしながら、優しい笑みを浮かべながら、アサキは、こくこくと、小さく首を振った。
「……あたしは、希望、を捨てて、いない。絶望なんか、せえへん。……ああ、そうや、これ、は、お前、のや、アサキ」
ぜいはあ息を切らせながら、応芽は、弱々しい動作で、左腕に着けている真っ赤なリストフォンを取り外し、アサキへと差し出した。
両手をそっと差し出して、アサキは、それを包み込み、受け取った。
「ほんの、数ヶ月、付き合い、やったけど、楽し、かった、なあ。……あたしは、天王台、第三中学校、
どろどろと、
醜く焼けただれ、溶けながらも、
美しく、笑う、
彼女の姿、
は、もう、そこにはなかった。
存在の痕跡を残すものは、なにも。
アサキは、両腕で空気を抱いていた。
消失感に、ふわり前のめりになると、あらためて、起きた現実を認識した。
認識したからといって、冷静に受け止められるわけではなかった。
受け止められるはずがなかった。
「う……くっ」
微かな呻き声を発し、身体をぶるぶるっと震わせると、
「うああああああああああああ!」
天を見上げ、口が張り裂けんばかりの絶叫を放っていた。
これまでに見せたことのない、心の底、魂が震える、叫びを。
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