第07話 名前で呼んでくれたのに

「人間の世であるからこその仕組みがあり、すべきことがあるのだよ。果たせるか、果たせぬか、果たそうともせぬか、ただ、それだけのこと」


 笑うでも、怒るでもなく、理の当然といった様子で、淀みなく舌を動かすグレースーツの男、だれとくゆう


 その饒舌に勝てなかろうとも、なにか一言は浴びせてやろう、と思うアサキであるが、実際に口を開いたのは、彼女の足元で息絶え絶え横たわっている、みちおうであった。


「ただ、お、泳がせ、とった、だけ、のくせに、偉そ、うに」


 かすれた声で、言葉ぶつ切りに。

 一言発するたび激痛が襲うのか、顔がぐちゃぐちゃである。


 だれとくゆうは、応芽のその言葉に、恥じらうどころか満足げな笑みを浮かべた。


「気持ちのいいくらい、思っていた通りに泳いでくれたね。メンシュヴェルトの持つ、異空やヴァイスタのデータを盗もうとしたのは、意外だったけど」


 先ほど、戦っている最中に、応芽がアサキに話していたことだ。

 しましように阻止されたものの、結局、樋口校長はデータを見せてくれた、と。


「その件が起きたことで、色々とシナリオを思い付いてね。そこからはまた、びっくりするくらい、こちらの考えている通りにことが進んだよ。慶賀雲音を救うためには、やはり超ヴァイスタを作る以外にないのだ、と思わせるために、リヒト側の持っている情報を教えてあげて、そこからは、一本道の筋書きだ」


 グレーのスーツのしわを直して、ひと呼吸すると、また言葉を続ける。


「メンシュヴェルトでやらかしたことの、お咎めがないどころか欲しい情報まで貰えて、違和感を覚えたよね? この研究施設に、簡単に侵入出来るなんて、おかしいと思っていたよね? 最新の魔道着を簡単に奪えるなんて、おかしいと思ったよね? 思っていても、妹のためやらないわけにはいかなかったんだよね?」


 嬉しそうに喋る、所長。


 絶望を操作していることを、あえて主張して、応芽の心をより追い込もうとしているのだろう。

 そう思ったからこその、次の、応芽の言葉なのだろう。


「あたし、なんかを、ヴァイスタ、にしても、しゃあ、ないで。多少、ひねくれとるだけの、地味な、のが、一匹、生まれるだけや」

「謙遜。きみもオルトヴァイスタの素質はあるんだよ」


 所長、だれとくゆうは、腕を組みながら苦笑を顔に浮かべた。


「Cクラス、やろ、あたしは」

「ああ、きみには教えてなかったんだった。劣等感の中で、どう育つか、成績を操作していたからね。きみ、特とまではいわずとも、Aには余裕で入れる魔法力を持っているよ。令堂和咲専用の魔道着を、少しの間とはいえ、使いこなしたのがその証拠。通常は、着た瞬間に魔力を吸い尽くされて、全身を疲労と激痛が襲って動けなくなるよ。特Aに近いAだ」

「ははっ、それは、嬉しいなあ。もう、どうでも、ええけどな」

「ここで戦いになることも、令堂和咲がお得意の甘っちょろい戯れ言を吐いて、きみの罪悪感を揺り動かすことも、予想通りだったよ。特Aの令堂和咲がオルトヴァイスタになっていたなら、それが一番だったが、高望みだからね。まずはきみでいい。もう、未練もないだろう? もしも絶対世界に行けたところで、滅んだ魂は蘇らないんだから。そのためだけに生きてきたきみにとっては、絶望、だよねえ」


 にやり、リヒト所長はいやらしく唇を釣り上げた。


 あらためて、雲音は決して蘇らないことを、応芽の心に叩き付けているのであろう。

 絶対世界ヴアールハイトへと繋がる扉を開く、その足掛かりとなる、一歩を踏み出すために。


 だが、

 予期せぬことが起きた、ということか、

 ぴくりと、引きつっていた。

 だれとくゆうの、頬が。


「絶望、なんか……せえへんよ」


 笑顔を浮かべて、立ち上がろうとしているのである。

 応芽が。

 胸から、しゅうしゅうと黒色の煙を噴き出しながら、苦痛に顔をぐしゃぐしゃにしながらも、幸せそうに、笑みを浮かべて。


「ウメちゃん。無理しないで!」


 アサキが悲痛な顔で、肩を押さえ付けた。


 応芽の、ミイラよりやつれきったガリガリの身体の、どこに力が残っているのか。応芽は、制すアサキの腕を、むしろ掴んで支えにしながら、全身をぶるぶる震わせながら、立ち上がっていた。


「あたし、絶望なんか、せえへんよ」


 その目は、すっかり濁っているばかりか、乾いてヒビすら入っている。

 もう、いかなる光も感じてはいないだろう。

 だけと、その目は、真っ直ぐと、リヒト所長、だれとくゆうへと、燦然とした意思を向けていた。


「へえ」


 受けた所長は、澄ました表情で、また唇を釣り上げて見せる。

 だが、少し引きつった、ぎこちのない笑みであった。


「雲音、を助け、る方法、必ず、ある、と信じ、とるから。せやから、あたし、絶望なん、て、しない」


 濁りきった目を、正面へと向けて、はあはあ、肩を大きく上下させている。


「せやろ。……だって、あたしがヴァイスタに、なったら、雲音を、抱き締め、られへんや、ないか。お帰りな、さいって、いえへんやないか。二人で、過去を笑えない、やないか。未来、を、笑えないや、ないか。……でも、残念、やな、未来も、なに、も、あたしの、この、生命は、もう、おしまいみたいや」


 苦笑を浮かべた。

 がくりと崩れて、地に両膝を着いた。


「ウメちゃん!」


 慌て自分も屈み、介抱しようとするアサキであるが、びくり肩が震え、その目が驚きに見開かれた。


 体内でなにが爆発したのか、応芽の胸から、これまでないくらい濁った、粘度のある、黒紫の煙が、噴出したのだ。


「があああああ!」


 応芽の悲鳴。

 顔が苦悶に満ちて、ぐちゃぐちゃである。

 果たして、どれだけの激痛に襲われているのか。


 ずっと、尽きぬ瘴気を吹き出し続けていた胸の傷であるが、どろどろ溶け広がって、ぽっかりと大きな穴が空いていた。


 背中の、向こうが見えていた。


 アサキが頭を抱えて、金切り声の悲鳴を張り上げた。


 胸の傷だけではない。

 指の先端も、肉が溶けて、骨が見えていた。

 その骨すらも、液状化が始まって、ぐちゅぐちゅとゼリー状になっていた。


「状況的に『絶望しかない』こと、理解していないはずがない。本来なら、ヴァイスタ化しているはずだが。それを魂で抗おうとすると、このようになるのか。これはこれで、面白い」


 グレースーツの男、だれとくゆうが腕を組んで、楽しげに状況を見守っている。

 計算通りにいかなかった苛立ちよりも、新たな事実を知ることが出来た興奮が勝るのか、とても嬉しそうな表情で。


「令堂……」


 応芽の、身体全体が、じくじくと、着ている物までが溶かされて、ただの、粘液の塊になりつつあった。


 そんな状態で、アサキへと顔を向け、アサキを呼んだ。

 ただ顔を向けたというだけで、もうその目は、いかなる光も感じてはいないのだろうが。


「楽し、かった。一生、忘れ、へんよ。まあ、その一生も、もう、しまいや、ねんけど、な」

「そんなこと、いわないでよ! お願いだから! ダメだよ。死んじゃ、ダメだよ! 治すから、わたしが治すからっ! だ、だからっ、ウメちゃんっ!」


 ぼろぼろ涙をこぼしながら、青白く輝く魔法の手を、応芽のあちらこちらへと翳すアサキであるが、その必死な思いが、いかなる奇跡を起こすことも、なかった。


 応芽の肉体は、どろどろと、溶け続けていった。


あき、おるんやろ? 堪忍、な。おおとりと、へいが、死んだ、のは、あたしのせいや。守ろうとは、思ったんよ。だって、大切、な、大好きな、仲間やもん。せやけど、力が、足りへんかった。堪忍な」

「お、お前、なにしょいこんでんだよ。なんで、話してくれなかったんだよ。な、なか、仲間とかさっ、いっといてよ、一人でしょいこんでんじゃねえよ!」


 いつ泣き出してもおかしくない顔で、カズミは、怒鳴り声を張り上げた。

 拳を握り、踵を踏み降ろした。


「堪忍な」


 もう痛みも感じないのか、どろどろと皮膚が半分溶けた顔で、応芽は、優しく微笑んだ。


「祥子。こいつらのこと、任すわ」


 少し首を傾げて、嘉嶋祥子へと、ぐちゃぐちゃになった顔を向けた。


 いつも薄笑いを浮かべている祥子であるが、いま彼女は真顔、表情を押し殺して、微かに身体を震わせている。


「リヒトの任務と相対しないところでならば。わたくしのところでは、ウメの親友として接することを、約束するよ」


 リヒト所長もおり、それが精一杯の友情の表現だったのだろう。


「それで……ええわ」


 小さく頷くと、また、アサキの方へと向き直る。


「とこ、ろで、令堂、自転車に、乗れない、って、ホンマか?」


 不意打ちの質問に、ぼろぼろ涙をこぼしながらも、面食らった顔で、アサキは、黙って頷いた。

 応芽の目が見えていないことを思い出して、


「ほ、本当。恥ずかしいけどね」


 慌てて、声を付け足した。


「そん、くらい、乗れるよう、なっとけや」

「練習する。……乗れるようになる」


 笑った。

 大粒の、混じりけのない涙を輝きこぼしながら、アサキは、優しく笑った。


りよう、いや……アサキ」

「……なあに。ウメちゃん。……わたしのこと、名前で呼んでくれたね」

「恥ずかしいけどな」

「嬉しいよ。それで、なあに?」

「ああ、覚えとったらで、ええから、なんかの、ついで、でも、ええから。雲音、妹、を……。あたしは、笑って、待って、いるから……」

「うん」


 頷いた。

 ぼろぼろ涙をこぼしながら、優しい笑みを浮かべながら、アサキは、こくこくと、小さく首を振った。


「……あたしは、希望、を捨てて、いない。絶望なんか、せえへん。……ああ、そうや、これ、は、お前、のや、アサキ」


 ぜいはあ息を切らせながら、応芽は、弱々しい動作で、左腕に着けている真っ赤なリストフォンを取り外し、アサキへと差し出した。


 両手をそっと差し出して、アサキは、それを包み込み、受け取った。


「ほんの、数ヶ月、付き合い、やったけど、楽し、かった、なあ。……あたしは、天王台、第三中学校、魔法使いマギマイスターみちおうや。心は……心、は、いつも、みんなと……」


 どろどろと、

 醜く焼けただれ、溶けながらも、

 美しく、笑う、

 彼女の姿、


 は、もう、そこにはなかった。

 存在の痕跡を残すものは、なにも。


 アサキは、両腕で空気を抱いていた。

 消失感に、ふわり前のめりになると、あらためて、起きた現実を認識した。


 認識したからといって、冷静に受け止められるわけではなかった。

 受け止められるはずがなかった。


「う……くっ」


 微かな呻き声を発し、身体をぶるぶるっと震わせると、


「うああああああああああああ!」


 天を見上げ、口が張り裂けんばかりの絶叫を放っていた。

 これまでに見せたことのない、心の底、魂が震える、叫びを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る