第16話 学校の怪談 そのに

 あきかずが、モップを両手に持って、薄暗い校舎の廊下をワックス掛けしている。

 嫌々やっているのが一キロ先からでも分かりそうな、わたし不満そうでしょ気だるそうでしょといった、ダレにダレた態度で。


「くそ、飽きてきたなあ。……だいたいなんだって、こんなことしなきゃいけねえんだよ。……あああぁっ、あっなたの心に飛んで行ければあ♪」


 飽きや不満を、演歌を歌って紛らわそうとするカズミであったが、なんの効果もなく、結局すぐに忍耐が限界を迎えたようで、


「テクマヨテクマヨッシャランラーーー!」


 魔女っ子モグタンの呪文を叫びながら、モップの柄を真ん中で持って、ワックス飛び散るのも構わずくるくるぶんぶん振り回し、


「アチョーーーッ!」


 怪鳥のような雄叫びを上げた。


 ガッ、ゴッ!


「うお、やばっ!」


 消化器に柄尻を当てて、倒してしまったのだ。


 破裂したり噴き出したりしなかったことに、安堵のため息を吐いていると、背中から、


「カズミちゃん」


 不意に声を受けて、びくっと肩を震わせた。

 そっと振り向くと、声の主はTシャツにショートパンツ姿のあきらはるであった。


「なーんだ、治奈かよ」

「こがいなとこで、なにしとるん?」


 治奈は前髪をいじりながら、不思議そうな顔で問い掛けた。


「いや、モップ掛けだけど……」

「何故? ウメちゃんは見付かったん? というか、あれ、アサキちゃんたちは? ウメちゃん探しに行って、なんで廊下にワックスなんか掛けとるんよ。カズミちゃん一人だけで。意味が分からんけえね」

「いやあ、はははっ、これには聞くも涙、語るも涙なお話がありましてえ」

「はあ」


 笑っとるじゃろが。

 と小声でぼそり。


「途中まではさ、三人で真面目にウメを探してたのな。でさ、トイレに行くとか、アサキがいうからさあ。ほら、やっぱりそうなったら、姿を隠して怖がらせてやろうと普通は思うじゃん?」

「思わん」

「そんなわけで、多目的室の隅っこに隠れようとしたら、書道具をぶち落として床を墨で汚しちゃってさあ」

「どこにおっても、やらかすのう。しかし何故、そがいなことがきっかけで、そこから離れておるこの廊下を、掃除することになるんよ?」


 治奈は訝しげな表情で、小首を傾げた。


「誰かがやったことにすればいいやと思って、こっそり立ち去ろうとしたら、須黒センセに見付かっちゃってさ。ゲンコツ食らってさ。二発もだぜ」

「たったそれだけで済んで、運がよかったの」

「いやいや、慌ててささっと簡単に掃除して、そんじゃサイナラって去ろうとしたら、てめえ反省してねえなって、シャイニングウィザードも食らってさ。『今のもう一回受けるかあ、廊下のワックス掛けをやるかあ、先生優しいから選ばせてやんよお』って顔を寄せて、凄んでくっからさあ」

「で、モップを持っておると」


 脱力のあまり、Tシャツの肩が片方、ずり落ちそうになっている治奈へ、カズミはこっくん頷いた。


「確かこのフロアさあ、須黒センセの手違いで期末の大掃除ん時にワックスやってねえんだよ。だから、どうでもいいことで因縁つけてさ、こうしてやらせてるんだよ多分きっと絶対。ほんと、かわいいてめんとこの生徒をなんだと思ってんだよなあ。んな性格だから、結婚出来ねえどころか彼氏も出来ねえんだよ」

「なんかいった?」


 その声を背に受けて、びっくーーーーーん、とカズミの肩が飛びそうなほどに震えた。


 噂をすればなんとやら、ぐろさと先生の登場である。


 カズミは錆びたブリキ人形みたいに、ギリギリキリキリ振り返ると、強張った笑顔を先生へと向けた。


「い、いや、なんにもお。さっき見せて貰った先生の魔道着の写真を、治奈と羨ましがってたんすよお。あれチョーゼツかわいかったなあ、って。ブロマイドとか写真集あったら、買うよなあって」

「無駄口を叩いてないでいいから。廊下、まだ半分も終わってないじゃない!」

「はい! これからターボエンジンを始動させるところであります!」

「しっかりね」


 さらりそうというと須黒先生は、視線を隣の治奈へと移動させ、微笑みながら、


「ああ、明木さん、いいところにいた。シーツを宿直室に運ぶの手伝って欲しいんだけど、いいかしら?」

「シーツ?」

「寝るのに使うでしょ」

「ああ、分かりました。……ほじゃけど、罰じゃゆうのなら、カズミちゃんにやらせた方がええんじゃ」

「おい!」


 カズミは、狛犬のような、いまにも噛み付きそうな、ぐじゃっとした顔を、治奈へと近付けた。


「じゃけえ、交換条件で掃除を許して貰った方がええじゃろ」

「ああなるほど」


 カズミは、治奈の耳打ちにぽんと手を打った。が、校舎が静かなため、はっきりと聞こえてしまっていたようで、


「だめよ、昭刃さんにシーツなんか扱わせたら、絶対に汚しちゃう」

「がくーっ」


 袈裟掛けの一太刀に、カズミはずるり前のめりになった。


「集団食中毒になるとかいって、夕食の料理担当をいの一番の真っ先に除外されるし、みなさんの中のあたし像って、どーんななーんすかねーっ」

「まあまあ。適材適所ゆう言葉があるじゃろ。きっとカズミちゃんにしか出来ないこともある」


 夜間の廊下ワックス掛けとか。


「ほいじゃカズミちゃん、うち先生の手伝いせにゃいけんから行くね。ワックス掛け、頑張ってね」

「他人事だと思いやがって……」

「手を抜いたら分かるんだからね! 分かった? それじゃ、あとでチェックにくるから、しっかりね。よろしく」

「はあい」


 治奈と須黒先生は、揃って手を振りながら、階段のところを折れて、姿を消した。


 一人残ったカズミは、モップを持ったまま、ぽつんと立っていたが、しばらくすると舌打ちしてダンと踵を踏み鳴らした。


「ふんだ。くそ、薄情な奴らめ。……手を抜いたら分かるんだからねっ!」


 特に意味はないが、先生の真似をしてみる。


「あまり似てねえな」


 あまりどころか、まったく似てない。

 声かすれてるし。


「屁をこいたら分かるんだからねっ!」


 似てる似てない以前に、そもそも先生そんなこといってないが。


「手を抜いたら、グレートカブキの毒霧だからねっ! 手を抜いたら、一瞬で日本人ファンの記憶から消えたパトリオットの、フルネルソンバスターなんだからねっ! ブルーザーブロディの鎖で、首を締めるんだからねっ! ブロディといえば、移民の歌なんだからねっ! あぁあっあーーあーっ♪ ……それからそれから、ええと、ダニースパイビーの……」


 しょーもないことをいい続けながら、モップしゃかしゃか廊下を擦るカズミ。

 しかし、そんな言葉ごときで掃除が楽しくなるはずもなく、むしろあっという間に面倒さマックス、忍耐大限界、モップを投げ捨ててしまう。


「あとで、アサキのバカにも手伝わせよっと。そうだよ、あいつを怖がらせてあげようと隠れていたせいで、こうなっちゃったんだからな。いい迷惑だよ、あのアホ毛」


 無茶苦茶な思考回路である。


「つうか、おしっこに何分かかってんだよ、あいつは。……ま、まさか、じゃない方もしようとしてて、予期せぬ量で便器を詰まらせて悪戦苦闘してんじゃねえのか?」


 わははははははははははははは。

 想像するとおかしくなって、意味もなく自分のお腹をばんばん叩いて笑ってしまう。

 わははははははははははははは。


「バカでえい、アサキい。便器を詰まらせてやんのおお!」


 わははははははは。

 わははははははは。

 ははははは。

 はは。

 ……はあ……


「なんか……」


 一人でバカなこといって喜んでんのが、虚しくなってきた。


 虚しく、そして、寂しい。


 シーツを取りに行ったきりの、治奈のオカチメンコと、行かず後家の二人も、いればムカつくけど、いないと寂しいもんだよなあ。


 と、とかなんとか考えていたらっ、こ、こんな暗い校舎内に、こうして一人でいることが、急速に不安になってきたあああああ!


「アサキーーーーーーーっ!

 赤毛のクソ女ーーーーーーっ!

 赤毛でアホ毛でベチャパイの鼻水女あ!

 おおーーい!

 それと、成葉あーーーーーっ!

 生きてたら返事しろおーーーーっ!

 あたしはここだぞーーーーっ!

 ここだそーーっ!

 だぞーーっ

 だぞーーっ」


 ヤッホー叫んだあとみたいに、耳に手を当ててみるが、返るは静寂ばかり。


「反応なしかよ。……しかし、こうした気持ちになってから、あらためて思うと、夜の学校って案外怖いもんだな。アサキがビビるのも、ちょっと分かるわ」


 さっきあいつがトイレから「カズミちゃんいるーっ?」て必死に叫んでたけど、無視してくすくす笑ってて、悪いことしちゃったな。


 まあ、アサキのことなんか別にどーでもいいや。


 しっかし治奈たちも遅えなあ。

 たかがシーツを取りに行くのに、なあに難儀してんだか。


 成葉もさあ、階段で合流なんだから、とっくに会ってておかしくないだろ。


 はっ、


 まさか……


 ひょっとして、アサキの発案とかなんとかで、みんなしてあたしのことを怖がらせようとしているとか……


 ぶるっと身体を震わせると、カズミは、手をぎゅうっと強く握った。


「怖くない。怖くない。……誰か隠れてんのかあ! あたしを怖がらせようってんなら無駄だぞお! いいやもう、掃除なんかやーめた! ぜーーーんぶ、あとで、アサキのバカにやらせよおっと。あたしは宿直室に戻るぞお!」


 不安な気持ちになっているのを、自分でも認めたくなくて、声を荒らげモップを放り投げ、くるり踵を返したその時である、


 声が、聞こえてきた。


 遠くから。


 遠いから大きくないけれど、それは、断末魔の、といっても過言ではない、腹の底から恐怖を絞り出すかのような、絶叫であった。


 びくん、と痙攣しながら、背筋を立て顔を起こしたカズミは、目を見開いたまま、ぶるぶるっと首を振った。


「な、なんだ? い、今の声……アサキ?」


 間違いない。

 あのアホ声は、アサキのアホ声だ。

 あいつに、なんかあったのか……


 暗い校舎内は、またしんとした状態に戻っている。

 その静寂に耐えられなくなって、カズミは再び叫んだ。


「アサキーーっ! どうかしたのかあ? コケたのかあ? 便器にパンツ流しちゃったかあ? 女子しかいねえから、下半身素っ裸でも大丈夫だぞーっ!」


 アサキを心配しているとも、自分が怖がっているとも、思われたくなくて、冗談ぽくいってみるが、いずれにしても、どこから誰からの返事もなかった。


 だが、返事ではないが、

 またもや、凄まじい絶叫が聞こえてきた。

 しかも、今度はなんだか、とても、近くからだ。


 カズミの絶叫の、残響に重なって、ぐごおおおおおっ、と巨大な石を布でくるんで擦ったかのような音、そして同様な、床からの振動。


 カズミの全身に、鳥肌が立っていた。


 なにかが、こっちへと向かってくるのである。

 床を滑り、疾り、

 こちらへと、

 なにかが……


 ぶわあああああああああああんんん!


 ベージュの布にくるまれた、岩のように大きな物が、廊下の向こう、暗闇にうっすら浮かび上がったかと思うと、滑りながら、一瞬にしてカズミの眼前へと迫っていた。


 布にくるまれた、なんだかもぞっとした塊が、這い、近寄ってくる。


 カズミの脳裏に、先ほどアサキに話した、病院のウソ話が、よぎっていた。そして、無意識に大きな口を開け、声を張り上げていた。


「うわああああああああ! でで出たああああああああ! ゆ、幽霊っ、赤ちゃんの幽霊だあああああああ!」


 布を被った、小さな岩といった感じの塊は、そのままついーーーっと滑ってきて、カズミは、両足をすくわれて転んでしまった。


「あいてっ!」

「あいたっ!」


 布の中からも、くぐもった声で悲鳴が上がるが、カズミはまったく気付いていない。絡み付いた布に恐怖して、それどころではないのだ。


「うわあ、ま、迷わず成仏してくださあい! 赤ちゃん様あ! 地獄に連れてかないでえええ!」

「え、えっ、ど、どこおっ、ささ、さ、さっき話してたっ、赤ちゃんのっ……なななにも見えないよお! 怖いよお! 怖いよおおおお!」

「はあ?」


 シーツの中から聞こえてくる、アサキの情けない声に、一瞬で冷静になったカズミであるが、冷静になると、色々と腹が立ってきた。

 心の、別のバロメーターが、ぐいいいいんと急上昇していく。


 床に絡み合ったまま、力任せにシーツを剥ぎ取ると、やはり中身はアサキであった。


 幽霊といわれて驚き怯えているアサキの胸倉を、がっと掴んだカズミは、鬼のごとく激怒した表情を眼前へぐおっと近付けて、怒鳴っていた。


「地獄へ引きずり込むぞてめえ!」

「ああああああああああああ! やあめえてえええええええ! やあああだああああああああ!」


 狂乱し切ったアサキの叫びが、夜の廊下を隅々にまで反響した。


「令堂さん! どうかしたの?」

「アサキちゃん!」


 遠くから、ぐろ先生とはるの声が聞こえた。


 そんなこんな、少し時間が経って少しだけ怒りの収まったカズミは、床に絡み合っているアサキの顔を睨み付けながら、舌打ちすると、胸ぐらから手を離して、


「バカアサキ、こんなとこでシーツなんか被ってなにを遊んで……ん?」


 下半身に違和感を覚えたカズミは、暗い中、視線を落とす。

 下半身、というより、倒れて床に触れている部分が、なにやら、とても熱く、なんだか、濡れているような……


 え、ええっ?


「うわあああああ! アサキイイイイイ! てめえ、なにしてやがんだああああああああ!」


 カズミは、校舎の窓ガラスを全部割りそうなくらいの大声を叫びながら、絡まっているアサキを突き飛ばし、立ち上がっていた。


 カズミ、というよりもその足元にいるアサキを中心として、床にじょわああああああああああっと熱い海が広がっていく。


「だ、だって、だって、こ、こわ、怖かったんだ、もん! 幽霊とか、とかっ、い、いうからあ! 怖かったんだもん!」


 怖さのためなのか、失禁の恥ずかしさのためなのか、アサキはシーツにくるまったまま、天井を見上げて、うわああああああん、と大口開いて、泣き声を張り上げた。

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