第22話『そっと背中を押してあげよう』

 この舞台に上がる登場人物はふたりです。


 住み始めたときは建てたばかりのこの家が、まるで自分の家という気がしなかったのを彼は良く覚えています。それまでは生き抜くこと、剣で身を立てることしかできなかった男が、生まれてまだ間もないであろう子供を育てることになった奮戦のあとがそこかしこに残っていることでしょう。


 柱の傷はおととしの――とはこちらの言葉うたですが、この家にもありますよ。歩き始めた子供がぶつからないように、ぶつかっても怪我をしないように丁寧に丸く削られた家具の角とか。悪戯娘がおもちゃにしないように武器や防具を仕舞っておいた収納棚には、いまは使わなくなった彼女のおもちゃがはいっています。捨てられなかったんでしょうね。


 炊事場からの湯気、煙が、換気煙突から外に。内の煤だけ、食事を作ってきたのでしょう。見上げる彼の目はその数を朧気に数えるようでした。


「美味しそうな香りがしてるだろう?」


 彼の名はバラン。

 アリシアを育てた、元冒険者で名うての剣士。


「私が作るといってるのに、時間があるときはかならず自分が作るわよね、お義父さん」


 彼女の名はアリシア。

 バランに育てられた、文武に秀でた美しい娘。

 成人を迎える大事な収穫祭前のあの日、義父と共にした夕食のとき、彼の前で子供として振る舞っていたこの場所。

 この日、このとき、この場所こそが、彼女が本当にやり直す場所。


「同じような物しか作れないけどね」

「お義父さんの鳥のシチュー、好きよ」

「外れがないからだろう?」

「あたり」


 ふたりは笑います。

 席に腰掛け、熱い鍋から取り分けるのは娘のする大事な『お手伝い』だった。上手くよそえるようになったのはいつだったかなと、彼は思い出そうとします。しかし、そのときの彼女の姿こそ覚えてはいるものの、何歳の何月何日のことだったかは記憶の彼方。


「はい、どうぞ」


 お皿がふたり分用意され、ときにはお酒なんかも出されたりする食卓。その用意が調うと、娘はいつも義父に「はい、どうぞ」と促すのでした。


「では、いただきます」


 食事の前の祈りや挨拶は、ここも同じような感じなのですね。

 改めて彼らは食器に向かいます。

 私はここで、舞台が整ったことを感じました。

 魔筆ナグルファルに込められたすべての想いを、アリシアと――バランお義父さんに注ぎ込んでいきます。


 ああ、呼び水のようなインクの迸りよ。たとえ我が身が朽ちようとも、このシーンは書き上げたい。我が命が塵芥と燃え尽きようとも、このふたりの言葉を紡がせたい。

 老骨の命、まさにこのために長らえたのだと確信する。


 もしもあのひあのときあのばしょで。

 走馬灯にフィクションがあってもいいではないか。

 これは叶えられなかった少女の夢、奪われた竜の夢。


 すべての思いが、食事をする彼と彼女に注ぎ込まれていく。

 演技指導? それは単なる促し。僕がやるのはこれだけ。

 物語の改編? 書き換え? キャラの上乗せ?

 それはもはや無粋だ。

 この物語は、このふたりのものだ。


 からっぽになった魔筆を、俺は二、三度振ってキャップを閉める。あのときは重く感じたナグルファルが、いまは役目を終えた道具のように軽い。

 あとはふたりに任せよう。なにせこれだけのキャラだ、この状況を与えられたらあとは勝手に動くさ。


 僕は観客席へと引っ込む。

 物語を終わらせるのは、いつだってキャラクターの力だ。


「――……」

「――……」


 食卓のふたりが、はたと手を止める。

 何をしたかって?

 たとえばものすごく後悔していたとする。あの日あのときあの場所に戻れたらきっとこうするのに! と、夜中ベッドの中で悶えたりした経験はないだろうか。

 僕は彼ら、彼女らに想いのすべてを注いだ。


『もし戻れたら――』


 その瞬間に戻した。

 現在は確かに成人前の収穫祭前夜。

 しかし、その魂の記憶は、滅びを迎えるまでの自分たちの記憶を夢のように覚えているんだ。不思議な気持ちだろう。心臓を掴まれるような切なさを覚えてるだろう。


「執風先生、なにをしたの?」

「なぜ、このシーンを……?」

「ふたりとも不思議かい? でもね、僕は確信してる。ほんとうのもしもはここにあるよ。たったふたりの登場人物、小さい家の中だけど、これで充分なんだ。もしかしたら、机も椅子も家もいらないかもしれない。彼女と彼がそこにいてもいい理由せっていにすぎないんだから」


 そう。

 ただ言葉があればいい。

 ただ想いがあればいい。


「シロエも、クロエも、これから大きくなって行くにつれて――いくつもの生と死を繰り返して成長して行くにつれて、きっと分かるようになると思うよ。そして、いままで楽しんできた作品を、もっともっと楽しめるように、あるいは楽しめなくなるはずさ。作品はその人がすでに持っている感動を思い出させる引き金といっていた創作者がいたが、それは的を射てる表現だと思う」

「どういうこと?」

「ハヤテの作品も、大きくなったらホントはつまらなかったってことに気付くってこと?」

「そうじゃねえよッ! ……あ、どうかな」


 そのあたりまで自信を持っている作家はどれだけいるだろうか。

 ともあれ、劇場ではお静かに。


「ほら、ふたりが我に返る。ここからは、見てるだけ」

「見てるだけ?」

「ほんとにこれで?」


 いいの。

 たとえこの話が涙で終わろうとも、笑顔で終わろうとも。

 それでいいと思う。

 バッドエンドは、悲劇ではない。物語が閉じずに尻切れになる状況をいうんだ。

 これは閉じなかった彼女の物語。

 これは閉じられなかった彼の夢。


「さて、筆者としてはキャラがどう動いてくれるかだ」


 僕の左右には、白と黒の竜娘。

 手を握ってきたので握り返す。

 そして開幕。

 話は動き出す。




***



 手が止まっていることに気がついたが、そのときにはすでに食事を終えているのにも気がつく始末だった。夢中で食べていたのだろうか。

 違う。

 アリシアは胸を突き上げる心に、涙がにじんできているのを覚えた。ふと、義父を見る。彼もまた、穏やかな表情ではあったが、不思議な面持ちで自分の手と娘の顔を何度も見ている始末だ。


「大人になったら、独り暮らしを始めるのかい?」

「ん……。どうしようかなって」


 決断の日まで僅かという時分。

 いや、なんの決断だったのかしら――とアリシアははっとした。


「そうか。……しかし、君がきてから俺の人生は一変した。聞いてくれるかい? アリシア」

「お義父さん? ……はい。聞かせてください」


 大人になる娘に。巣立つ前に語りたい様々なこと。親なら、旅立とうとする子にはなむけとして色々あるものなのだろう。

 彼は、万感の思いを込め、彼女を育ててきた記憶とこれから起きるであろう甚大な不安を胸に、いっしゅん言葉を詰まらせる。


「私は自分が嫌いだった。できることといえば、師から受け継いだ殺人の技での傭兵暮らし。奪った命の数だけ生きながらえてきたようなものだ。しかしアリシア、君を助け出したとき、『この子を育てれば嫌いな自分から逃げられるかもしれない』と思ったんだ」

「上手く逃げられた?」

「いや、向き合うことになった。それでもね、子育ては、命を育み育てることは戦闘以上に過酷な戦いだったよ。命を奪って話を終わらせることの、なんと単純で簡単で残酷なことか思い知った。――アリシア」

「はい」

「私は君を育てることで、やっと人間に戻れた気がする。ありがとう」


 娘への感謝だった。

 育ってくれた事への祈りだった。


「お義父さんが泣いてるところ、久しぶりに見たわ」

「なんか、歳なのかな。ちっちゃかった君が大きくなるのを思い出していくとね。こんなに温かい気持ちになれるなんて思わなかった。大事な娘だ。……大きくなった。綺麗になったね、アリシア」


 綺麗になった。

 その言葉が嬉しかった。

 アリシアが怪我したり病気になるたびに泣いていた義父。優しく厳しい義父。最後まで剣を教えることをためらっていた義父。


「もう。お義父さんはまだまだ若いでしょう」

「四十の老骨さ」


 言葉にできない苦労もあったろう。愛憎喜怒哀楽、娘に抱いた気持ちはそれでも愛が大きく勝っていた。


「お父さんが私に剣を教えてくれたのは、なんで? 嫌っていた技術なんでしょう?」

「……遺したかった、からだな」


 その問いに、しかしすぐに応えは返ってきた。


「君の中に、私の何かを遺しておきたかった。伝えておきたかった」

「お義父さん」

「たとえそれが、私のだとしても」


 正直な吐露。

 負い目であっても、彼は彼女に自分を遺したかったのだと。


「私が使う剣技は、王国騎士団のものではなく、流浪の剣士バランの剣技です。……騎士には泥臭くて、カーシャにはよく注意を受けますが」

「ふふ。まあ、騎士には不向きなものかもな」


 笑い合う。

 笑い合えている。

 いい家族だったんだな。


「お義父さん」

「ん?」

「私からも――」


 彼女が、父への感謝を口にしようと居住まいを正す。


「――……」


 そして、アリシアは大きく息を飲む。

 あまりにも胸が一杯で、何から話したらいいのか。この瞬間までは、育ててくれた感謝を口にしたいと、言葉にして想いを返したいと思っていただけのはずだった。

 しかし、そうじゃない。

 そうじゃないんだ。


「お義父さん、これからも私と……私と……親子で…………」


 言葉が、出てこない。

 伝えたい想いが出てこない。続けられない。


「お義父さん……お義父さん……」


 胸の前で握った手がフルフルと震え、滲んだ涙がはらりと落ちる。切ない。何故こんなに切ないのだろうか。


「わたし、わたし!」


 バランは、胸に迫る娘が見せる落涙に、静かに背を正して促す。

 彼には分かるのだろう。

 彼も分かっていたのだろう。

 今の彼には痛いほど感じ入ることだろう。


「わたし………………」


 優しく撫でてくれたお義父さん。

 一緒に星を見たお義父さん。

 悲しいことも楽しいことも嬉しいことも聞いてくれたお義父さん。

 いつも背中を押してくれたお義父さん。

 命を賭けて育ててくれたお義父さん。

 武者修業時代に何度もこっそりついてきて見守ってくれたお義父さん。

 生活を共にしてきて、思春期には喧嘩もしたし、お母さんがいないと泣いたときにさせた悲しい顔を私は忘れていない。それでも引け目を感じても負い目を感じずに前を歩き手を引いてくれ、後ろからそっと背中を押して見守ってきてくれた、大事な大事なお義父さん。


「私は、となりにいたい」


 自分ははしたないことを言おうとしてしまっている、アリシアは自覚した。そして、ようやくその一言を言ったとき、ぐっと嗚咽が喉を突き、零れるままだった涙をようやく拭うと、『ここならまだ、今ならまだ』と、そっと退こうと――。


「……!」


 しかし、その背を、肩を、ふたりの竜娘がそっと支えている。

 舞台にはふたりだけだといってたのに。まあ、見守りの竜だからな。


「勇気を出してアリシア」

「いつだって、切りのない後悔が今を作るんだ」


 そしてそっと押すと、白と黒はかき消えるように座席へと戻る。

 舞台のふたりには、彼女たちの存在は感じられなかっただろう。ただただ、神様に背中を押されたように、そして声を受けたかのように感じるだけだ。


「前を――」


 アリシアは静かに続ける。


「前を歩いて子供の私の手を引いてくれたお義父さん。少女のときは後ろから背中を押してくれたお義父さん。――おとうさん、私はこれから、あなたのとなりで生きていきたいと思っています」


 言い切った。

 アリシアは、自分の言えなかった気持ちを言葉に載せた。


「おとうさん、私の旦那さんになってください」

「アリシア」


 バランは、静かに口を開く。

 拒絶の言葉だろうか。そうに違いない。彼女は身構える。じっと彼の瞳を見つめているが、自信なさげに伏せられようとしたそのとき。


「君がはじめて剣を執ったときのことを覚えてるよ」


 微笑みながら、彼は身を乗り出し、娘の手を取った。

 震えるその手を、緊張を解すように優しく撫でる。小さいときから、お化けが出ないように安心させてくれたあのときから変わらない、やさしいゴツゴツした手だ。

 いまの自分も、彼と同じように戦う者の手をしている。急に女として恥ずかしくなって引っ込めようとするが、彼はそれを優しい強さで引き留める。


「君に私の剣を継いで貰えると思い、嬉しかった。いい師匠ではなかったかもしれないが、私以上に強くなった君を見たとき、本当の意味で解放された気がした」


 彼は、照れるように笑う。


「綺麗だな、って思った。こんな綺麗な子が僕の娘だと、信じられなかった。そして、義理だからなと納得したときに改めて気がついたんだ」


 いおういおうとする気持ち。

 これは、彼の戦いだ。


「文官長との話が持ち上がったとき、実はいってやった言葉かあるんだ」

「お、おとうさ…………」

「娘が欲しくば俺を斃して見ろ、とね」


 これは彼の他にはガーランドしか知り得ない言葉だったろう。そしてその言葉は、父親のそれだけではなかったのだろう。だからこそあの悪魔は彼女に彼を殺させたのだ。

 最後の絶望のために。

 しってやがったんだ。


「彼は笑って退いたが、諦めてはいない顔だった。そこではっきり分かったよ。アリシア――」

「はい」

「家族になろう」


 しっかりと、その手に力が込められる。


「義理の親子だったが、家族になろう。誰もが羨む家族に」


 その手の温かさがなかったら、涙が勢いを増していただろう。

 そしてアリシアは、その彼の手を引き寄せて額を寄せる。


「嬉しい。嬉しい。……おとうさん」

「そうだな、いずれは君や子供から『お父さん』って呼ばれるようにはなりたいと思う。いいのか? これでも自他共に認めるおじさんだぞ?」

「いいの。いいの。……ありがとう」


 この歳になるまで浮いた噂がなかったふたり。

 何故と考えるのも、こうだと掘り下げるのも蛇足。


「ありがとう。ありがとう」


 ありがとうドラゴンさん。


 そんな声が、聞こえた気がした。

 僕は魔筆に手を添えて、この物語を観客席から切り離す。

 あとはもう、あのふたりの、そして皆の物語だ。

 見るのは無粋。

 僕はふたりを促してもとの白い世界へと…………。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る