第8話『檻から思い出を取り戻していこう』


 魔術は、たとえ地脈にあっても用を為さない。アリシアの可能性を徹して、純然たる彼女の力でなくしては、シロエを害し得ない。

 それが物語の強度だからだ。

 話の面白さの前において、都合のよい設定や悪い設定の尽くが無視される。

 それを敏感に察したガーランドも、さすがといえる。己が肉体に宿したアリシアの精気を以てシロエを仕留めんと、貴重な力を使おうとしている。ガーランドもまた、予想し得なかった彼女という闖入者に対して、後がない状況に追い込まれているのだ。


「これほんとに君の分身クロエが作った話? それともあの悪魔の残滓がそれだけ有能だってこと?」

「どっちにしろ業腹だな。……まあしかし、負ける気はしない」

「同感だ。……では適度に苦戦して勝利を取るぞ。そうでなければ物語が納得しないだろう」

「よしきた」


 獣。

 ガーランドの動きは、洗練された獣のそれだった。

 野生溢れる、仕留めるための動き。

 相手の重心より下から一足飛びに襲いかかる悪魔。それを彼女は真っ正面から打ち下ろしの拳で迎え撃つ。

 大きく踏み鳴らす軸足から繰り出された平拳が悪魔の左鎖骨に突き刺さる。数百キロ――瞬間的に数トンに及ぶ衝撃が悪魔の体内に突き刺さり、撃ち込んだ彼女への衝撃はその足下から大地に逃がされる。

 空間そのものが紫電に震えるように音にならない悲鳴をあげる。


「ぐっ!」

「ぬぅ!」


 どれがどちらの呻きか。

 双方口腔から体液を噴きだし、弾かれるように間合いを離す。


「打撃か」

「組み討ちばかりが能じゃないから喃。ふふ、剣を使うと思ったか?」


 悪魔の笑みに、竜娘も応える。


「だが正直、ここまで本気で戦ったのはガーランド、お前が久しぶりだ」

「ほう、久しぶりか。久しぶりか。そうか、ふふふ、貴様も天魔の類か」


 彼女は「竜だよ」と血の混じった唾液を吐き捨て「いまはただの容れ物だがな」と、誘うように手を招く。


「ほざけ」


 ミシリと、悪魔の肉体が鳴る。

 骨格と筋肉が変貌し、異なる威容へと姿を変える。

 その姿は、人の形をしたそれから、四足獣のそれへと変わりつつあった。

 ああ、これは狼だ。神を喰らうという悪魔の狼だ。

 これが彼の本当の姿なのか。


「人に用いる格闘術、果たして獣に通じるか?」

「悪魔らしい。そいつが本来の姿か?」


 古い伝承にあるであろう、雄々しくも禍々しい狼の姿。

 その口腔はひと飲みで神をも……竜をも喰らうほど大きい。


「神を喰らう狼もかくや……か」


 それ以上の言葉は無かった。

 身構えた彼女は、いちどアリシアの顔を見る。腐肉の魔女。その名が似合う墜ち振りだった。

 視線を戻すと、魔狼をじっと見据える。

 もはや紫電を纏った魔狼のあぎとは、獲物に食らいつく意気に満ちている。

 殺意ではなく、捕食する幸喜に満ちた意だった。

 ガーランドが神速を以て地を蹴り、顎に掛けんと肉薄する。

 ――瞬刹。

 交錯の瞬間に軸足を残したシロエが、右足を大きく左後方へと引く。

 狼の顎を回避し、その顔、右側面に体を躱した形となる。

 抜き手。

 人差し指と中指を立てた右の一撃が、狼の口唇の脇からその顎部の噛み合わせに突き立った。

 人で言う側頭部と下顎部を交接する軟骨もろとも、拳があたるを幸いにと粉微塵に砕く。

 肉と軟骨、骨を砕いた瞬間、体液にまみれた右腕を引き抜きつつ、シロエは魔狼の右前足を蹴り間合いを離し、その鼻先へと着地する。

 噛み合わせを砕かれ、骨と肉をその間に食んだ顎は、開くも閉じるもままならない。左右の合わせが崩れたこともあり、開けたままであったとしても、激痛が苛むのだ。


「番い砕き。顎砕の類いは獣によく効く」


 もはや口中にシグレを捉えたとしても、噛み砕くことすらできない。無理をすれば顎そのものが筋肉に破壊される。

 くぐもった呻きを盛らす魔狼。その姿になったゆえに、命の危険に達する負傷を被ったことを信じられぬ思いで感じている。

 その意識が戦意に繋がる前に、シロエは魔狼の下顎先に足を掛けると、上顎に手を掛けて、まるで万歳をするように、全身の筋肉を存分に使い大きく開く。

 あれは惨い。

 声にならぬ叫びを上げガーランドは砕かれた顎を左右共々完全に破壊され、だらしなく開いた口から唾液を流しながらのたうち回る。

 一度変えた肉体はすぐには戻せないのだろう。

 器用にしがみついたシロエは、自ら狼に飲まれるようにその口の中へと飛び込む。

 あり得ぬシロエの行動に、ガーランドの余裕は一瞬にして霧散した。

 大きく足を開き下顎の牙内に足を掛け、上顎の牙内に左手を添えて体を固定するシグレ。

 異物を排除せんと暴れる舌も、彼女のいる奥までは届かない。

 拳を突き上げるように構えるシロエ。

 そこはもう、魔狼ガーランドの脳髄の真下だ。ずいぶんとえげつない殺し方を思いつくものだ。


「不死の戦士シグレが技、劈天穿ち」


 考えたの僕だった。

 ――終いだった。

 その一撃は、最も柔らかく最も薄く、脳という急所へ最も近い場所から侵入し、存分に破壊せしめる威力を叩き込む。

 打撃の振動で一瞬にかき混ぜられた脳髄が機能を失い、ガーランドの眼球がその勢いでボンと飛び出す。

 ドウと倒れ伏す狼の巨体から飛び出したシロエぼくらは、変貌した悪魔の核がその脳核ただひとつであると看て取った。


「その姿にならなかったら、まだ勝ちの目はあったかもしれないな」

「いや、この程度でハヤテのキャラは負けんよ。上乗せする土台がなんてったってこの私だからな。ドラゴンぞ、ドラゴン」


 とはいえ、さすがに気力を使ったのか、肩で息をつく。額から脂汗が一気に噴き出る。


「しかし死ぬかと思った」

「本気になったのは久しぶりだと言っておきながら、実は戦うの初めてなんじゃないか? 見守り看取りの竜は、戦いの竜ではないんだろう?」


 自分で言っておいて冗談以上の何物でもないと感じたが、苦笑も浮かばない。図星を付いて困らせるのは大人のすることじゃない。

 彼女はたぶん、現実のこのときも、戦う力がなかったのだろう。救う力がなかった未熟な竜だったのだろう。


「よくがんばった」


 僕はシロエの肩に手を置く。

 その肩は震えていた。怖くないわけないじゃないか。ここは、物語であってもリアルなんだ。そこが、作者とキャラの違い。

 僕はこういう形でしか支えられない。


「ともあれ、気が晴れたぞ。ふん、たいしたことはないな」

「魔族の力そのものよりも、入念に張り巡らせた計画そのものがこの世界を終わらせてしまったんだろうな。どういう設定なのか知りたいところだが、それはやめておこう。ほら、シロエ」


 塵となるガーランドの骸。あそこまで脳を破壊しては、情報も得にあるまいと捨て置く。朽ちるままだ。


「さて。……


 聞こえている。見えているであろうと、シロエは声を掛ける。

 既に生きた者の反応を示さない少女に語りかける。


「兵士長と、カーシャ。ふたりに会ったよ」


 ――反応はない。


「今から、この地脈の力を使って、君を滅ぼす。スイッチを切り替えるように、一瞬で朽ちるだろう。そうすれば、動力を失ったこの機構は障気も毒も吸い上げない。君の中に宿りつつある魔も産まれない。……あのふたりも死なないだろう」


 シロエは呪術印を結ぶ。

 両手を組み、手指を絡め、地脈の流れへと自分の意識を接続する。


「思い出は蘇る」


 僕は紫電を纏いながら、アリシアを見上げ、その容れ物すがたに魔筆の先を当てると、念を込める。


「ここに封じられたキャラクターは、無念は、僕の筆が届くものとは限らない」


 地脈の根幹に意識を沈め瞑目する前に、一度、僕はシロエをゆっくりと見つめる。そして、今し方アリシアに当てた魔筆の先を彼女の額に触れさせる。


「頑張れよ」


 僕は瞑目し、そしてシロエは地脈の流れを魔の領域から一気に切り離す。ブツンという音と共に、――この世界ものがたりの意識そのものに幕を下りる。

 後に残るのは、ぼんやりとした、淡い、赤い色だった。

 その茫洋とした赤い光の中に、船に乗るあの兵士長とカーシャの姿を見たような気がして、僕も、シロエも、世界も、遠く向こう側へと旅立つのであった。




***




 そこは、灰色の小島だった。

 降り立ったときは小高い丘だったが、今は城も街も雲も森も山もなく、差し渡し数キロの灰の浜が広がる小島だ。ただただ、物語の強い残滓が残っている。


「物語が完結したんだな」


 どんな形であれ、キャラクターは容れ物から解放された。


「……ともだちだったんだ」


 嗚咽が聞こえてきた。

 シロエのものだ。

 彼女がうずくまるように泣いていたのはしっていたが、目を向けないようにしていた。彼女もまた物語を終え、不死の戦士ではなくもとのドレス姿のシロエだ。


「思い出した。いや、ハヤテが取り戻してくれたんだ」


 魔筆からアリシアさんの設定を読み取り、その情報をシロエに返した。呼び水になったのか、補完したのか、彼女の中に大事な大事な思い出の一部が蘇ったのだろう。


「話せる人間は何人もいたが、友達はアリシアひとりだった。魔道国の私の神殿まで遊びに来るような娘で、恐れも畏れもせずにこの私と話してくれる可愛い子だった。……そんな彼女が人類の敵となり、魔を生み、最後はその魔が世界を滅ぼしたんだ」

「思い出せたかい?」

「全部ではないな」


 鼻を啜りシロエは立ち上がる。


「まだまだ、思い出が欠けている」

「そうか」


 つまりは、まだまだアリシア含め、多くのキャラクターが解放されていないのだろう。ここに合ったのは、残滓、一部、残り香のようなものか。


「やはりクロエのところにあるのだろうか」

「僕だったらそうするね。手元で動かし、入念に設定を組みプロットを並べ、動かすはずだ」

「では往かねばならんな」


 ああ。僕は頷く。

 頷き、魔筆ナグルファルのキャップを抜き、虚空に踊らせる。

 重く苦しい波が、そのペン先へと吸い込まれていく。この島に根付いていた無念や後悔、愛憎怨怒喜哀楽、感情というリソースの塊だ。


「事件を、物語を終わらせ、そのリソースを回収し、力とする。ある程度回収すれば、相手側が組んだ設定も分かるだろう。その総てが、新しい物語を生む力となる。僕の力だ」

「それを以て、いちばん近しいキャラクターであるこのシロエに設定ちからを与え、クロエの物語を完結させる戦いの力を生むんだな?」

「そういうこと。創作は一日にしてならず。読み解き噛み砕き、そして実践と実戦あるのみだ。……いけるか?」

「応よ」


 シロエは大切な物語を取り戻すために。

 僕は彼女を手伝うため、その先にあるものを得るために。

 どんな結末を迎えるか知らないが、これだけはいえる。


「僕はね、ハッピーエンドしか書いたことがないんだ」

「知ってる。ご都合主義満載だけど、そこは好きだった。……そこが、大好きだったんだ」

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