第2話『灰色の世界に物語を書こう』
山頂の朽ちた神殿の祭壇から降ろされた僕は、シロエに促されるままに山肌に沿って建てられた彼女の住処へと案内されている途中だ。
空気はどこまでも清く、空は青く、雲もなく、眼下には死骸の灰色がどこまでも続いているのが見える。ほんとうに世界が終わったのだろう。この後、大地や空も熱を失っていくのかと思うと、看取ったというシロエの心中はいかばかりかと思わずにはいられない。
「あれが、今残っている最後の建造物です。とはいえ、もう私の住んでいる建屋だけが残った城です」
「城壁も何もかもが崩れ去っている」
「世界が終わると、崩壊が始まるんです。辺り一面は、もう完全に白に染まっていますわ」
なるほどなあと、僕は頷く。
「しかし看取りの竜って、面白い設定ですね」
「設定いわないでくださいよ」
くるりと振り返り頬を膨らませるシロエ。彼女は久しぶりにそんな表情を浮かべた自分にビックリした様子で口元に手をやってコホンと咳払い。
「竜の子供は、親竜が画いた世界を受け継いで、世界を物語る力を蓄えながらこれを見守るんです。見守りの竜、看取りの竜なんです」
「そのあたりはもう聞いたっけ? ドラゴンて悪の化身とか強大なモンスターとか、そういうのばかりと思ってたよ」
「高い知識を持つ強大な存在という点なら変わりないですよ。この世界では、竜は世界の代謝を司る存在なんですよ」
えっへんと胸を張るシロエ。ううむ、なかなかのものをお持ちで。
ん? なんということだ、孫ほどの見た目の娘になんということを……。ん? おや? あれ?
「どうしたんですか? 先生」
「いや、なんか手がさ……」
「手が?」
「しわしわじゃないんだよ」
張りがある。
そういえば、白のワイシャツに茶のベスト、黒ベルトにベージュのスラックス。履いてるのはブーツタイプのトレッキングシューズ? これって、若い頃によく着ていた服だったと思う。
「腕、筋肉がある。お腹……出ていない! ……シロエさん、鏡ある?」
「私の部屋にありますよ」
「ちょ、もしかしてもしかして」
僕はシロエを促しながらせっせせっせと道を急ぐ。
ああ凄い足が沈む。灰ってこんなに柔らかいんだなあ。
扉もなくなったアーチだけの入り口をくぐり、たったかたったかと階段を駆け上がると、そこは――魔窟だった。
「なんだこれは! こんだけ走ってきても疲れてないからきっと若い姿で召喚されたんだろうなって思ったけどそんなことどうでもいいくらいにびっくりだよ。シロエさん、あんたこの部屋の有様はなんなんスか」
「私の部屋です」
「すげー本が散らかってるんですけど」
「あのあたりに先生の本がいっぱい在りますよ」
「あホントだ! あの背表紙と帯、デビュー作の初版だ」
すごいな。
いやいや。あ、でも凄い読み込んだあとがある嬉しいな。いやいや。
「異世界なのにこうして本が」
「竜に不可能はないのです。竜は皆、世界を作る技術をこう培っているのです。竜が知識を司る伝承も、あながち嘘ではないのですよ」
「ともあれ何万冊あるのか。何万で足りるのか? 本の平積みは倒壊のもとだぞ」
「本棚はこの世界のものなので朽ちてしまったのですよ」
「本は?」
「異世界のものですからこの世界の崩壊にはあまり影響されないんです」
……そういうものなのか。
ともあれ、僕は
「若返ってるね」
「全盛期という文言の捉え方にもよりますが、先生がいちばん脂がのっていたのが恐らくそのくらいの頃だったという事情があるのでしょう」
「……『陽炎の戦士たち』書いてた頃かな」
「大ファンです!!」
喰い気味に手を握られる。
嬉しいんだけど、どうもね。そうか、僕がいちばん脂がのっていた時期と解釈したか。いやいや、この時分は「いくらでも徹夜ができた」し「いくらでも書きたい話が思いついた」、あの頃の僕だ。
ただ、僕の中にはその後に培ったいろいろな経験が残っている。
「この体を作っているのは?」
「
「そうか、物語――世界を作る竜の力ってすごいんだなあ」
気のせいか、シロエ……さんにも気軽な口をきくようになってきたような。いやいや。ん?
「『陽炎の戦士たち』かあ。五巻完結。懐かしいなあ」
「書いた頃は続きが書けるとは思ってなかったなあ。でも、思えば遠くにきたもんだ。まさか異世界に召喚されるとはなあ」
「そういうお話も書いてましたよね」
「書くのと演るのとは、ちがいますねえ」
僕は姿見の若い自分、いや、今の自分を見るとひとつ納得する。胸のポケットに差し込まれた、赤黒い軸の万年筆。
「僕自身も、シロエのつくった物語?」
「借り物の、二次創作みたいなものですよ。
「そっか。……ふむ」
僕は魔筆ナグルファルのキャップを外す。ああ、これがシロエの牙か。
「ちょっと匂い嗅がないでくださいって!」
「嗅いでない嗅いでない! ちょっと綺麗だなって見てただけだよ。……この筆で、物語を書き換えられるんだよね?」
「ええ。魂をインクに、他の作者の作った物語を書き換えられます」
「なるほど」
僕は念を込める。
牙の先端がぴしりと割れ、どす黒い何かがにじみ出てくる。――こいつは、なかなかにきついな。これが魂をインクに変える、か。
「魂というか、創作意欲というか、ハヤテ先生の情念が力になるんです。ところで、さっそくアイテムを使おうとしてますが、何をしようとしてるんです?」
「創作意欲か。ああ、なるほど、きついはずだ。自分をもう少しかっこよく書き直そうかなっておもっただけなんだ。なるほどなあ、創作モチベーションがコストに影響してくるのか。ホンっとーにそのあたり仕事と変わらないんだなあ」
「ムラなくこなす仕事人ってイメージがありましたけど、ハヤテ先生も気乗りする仕事と気乗りしない仕事があったんです?」
「思い出したくないなあ……」
「ああ……なんかすみません」
色々あるのだ。色々あったんだ。うん。
だがそれも昔の話。死んだ今ならもうすでに笑い話。
だといいなあ……。
「ともあれ、そうだな。……よっと」
僕は虚空に魔筆を翻す。
「こんな感じかな?」
「
「うん、うまくいったか」
「あれ、口調が……?」
「シロエ、無理してたようだからね。ほんとはそういう口調なんだろう? それに、その姿も――」
僕はもういっかい筆を振るう。
瞬間、白い女性は白い少女へと姿を変える。年の頃は中学生くらいだろうか。シロエは竜としての人の姿、年相応のそれに変化する。
「にゃー! なんだこれは! ハヤテ、私を書き換えたな!?」
「こうも上手くいくとは。いやいや、書き換えたというか、シロエ……ホントはそんななんだろう?」
「うぐ! なんという漢よ、さすがは執風ハヤテといったところか。被った猫が剥がされてしまった。せっかく竜の女神然とした威厳に満ちた格好をしたのに、これではなにもかも無駄だったではないか」
「初めて世界を看取った幼い竜で、しかも自分が半分になり、角を手折ってまで僕に力を与えた竜があんな格好だとしたら無理がある。こっちのほうが面白いよ」
「面白いいうな! ……ぐぬう、しかしなんという説得力。いやもともと私はこうだったのだが、面白いといわれるのは業腹だ」
「なるほどこの筆、さすがに凄い力だな。……やっぱり、自然なままがいちばんだよ。シロエ、君には夢がある。次に作りたい世界がある。それを取り戻すために、もうひとりの君から力を取り戻すんだろう?」
あ、ほっぺ膨らませて上目遣いで睨んでくる。身長も一五〇くらいまでに縮んでるし、可愛いといったら可愛いな。
ともあれ僕はペン先にキャップを被せ直し胸ポケットに差し込む。
「この部屋には小説だけじゃない。漫画もあれば百科事典もあるし、ずいぶん勉強したんだな、シロエ」
「いつの間にか呼び捨てだし。竜ぞ、我。竜ぞ?」
「エゲつないスケベ本もいっぱい在――」
「あー! あー! あー! あああああー!!」
これ以上触れないのは、仁義だ。
……さて。
「ざっと背表紙を見ても、ホントにいろいろ見て、勉強したんだな。……クロエは、死んだこの世界の『もっとこうしてたら長く続いただろう未来』を思い描き、死した
「左様だ。……この灰色の世界に、新しい世界に割くリソースが注ぎ込まれている。無理が出ているにも拘わらず、クロエはやめようとしない」
「そっか」
僕はテラスから見下ろす灰色の世界に目を落とす。
かつては生きるものが多かった大地。
「ほんとうにこの世界が好きだったんだね、シロエ」
だからこそ、ふたつに分かれてしまうほど無念を抱えたんだろう。
「図星を突いて女の子を恥ずかしがらせるなんて、大人としてどうなんだそれは!」
「年齢はシロエのが上なんじゃないか?」
「竜は世界をひとつ作るたびにひとつ歳を取るんだ! まだ数えで一歳なの!」
「赤ちゃんだったか……」
思いのほか、他種族って凄いなって。
隣に並ぶようにシロエがやってくる。
「真っ白な世界、か。ここにクロエは自分の世界を画いたと」
「幸せだった頃の世界の先、滅びの道を歩まなかったバランスの取れた世界。調和という名のご都合主義の物語」
なるほど。この世はまさに原稿用紙か。
「ともあれ、クロエが何を考えて自分の世界を作ろうとしたのかはともかく、この白い世界を見てどう思ったのかはなんとなく分かる」
「……その心は?」
僕はシロエの耳元に口を寄せて、正直に吐露する。
「真っ白な原稿用紙を前にした作家が何を思うか、シロエには想像つくかい?」
「……ここに何をどれだけ書いてもいいなあ、とか?」
首をかしげて答えるシロエに、僕は曖昧に笑っておく。
そのあたりは、ご想像にお任せしよう。うん!
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