ドラゴンノベルストーリー 竜述物語 文士が取り戻す竜の夢

西紀貫之

ドラゴンノベルストーリー

第1話『とある小説家を招喚しましょう』

 僕は、俺は――いや、私はもうすぐ死ぬだろう。

 大病からも回復しつつ、こうして長い生涯の幾ばくかを小説家として生きられただけでも幸せなのに、息子や孫の住む自宅で息を引き取ることができるのは僥倖だ。

 今は深夜だろうか。

 目を閉じたときに、今宵自分の命が消えるのを予感できた。

 悔いはない。

 最後の小説はもう二年ほど前に完結させたし、死んだら早世した妻にも会えるというものだ。こうして思い出すのは、それでも自分が書いてきた物語の数々で、売れた物もあれば売れなかった物もある。しかしどれも面白いものばかりだったと胸を張ることができる。

 未完だった物は一作もない。総て完結させてきた。それが誇りだったし、物語への、子供への礼儀と思ったからだ。

 そんなことを思い出すばかりで、しかし、ちっとも作品の内容などは思い出せない。思考が千々に乱れる。

 ああ、耳も聞こえない。そしてなんだろう。人が死すときには瞳孔が開くから、僅かな光りでも強く感じることができるという。この目の前に広がる光りも、窓辺から差し込む街灯の仄明かりなのだろうか。


執風しっぷうハヤテさん」


 それは幼いような、綺麗な女の子の声だった。

 はて? お呼びが掛かる――あの世から声が掛かるとは聞いていたが、本当に声をかけられるとは思わなかった。天国というモノが本当にあるのだろうかと思った矢先、ふと意識が明瞭さを帯びてくる。


「それはペンネームですよ。私の名前は神宮寺はやてといいます」

「ぺんねーむ。そうでしたか」


 幼い声は頭を下げたような気がした。


「ではハヤテさん、あなたにお願いがございます」

「お願いですか? 私はもう死んでしまう身でして。その、どなたか存じませんが、私が力をお貸しできることは何もないでしょう。天国へのお招きと思いましたが、どちら様でしょうか。こう眩しくては何も見えずで」

「失礼しました。お話だけでも聞いて頂ければと思いましたが」


 残念そうに肩をすくめたような気がした。

 声からすると、孫と同じくらいの年齢だろうか。子供の困った顔は、好きじゃないんだ。それが自分のせいだとあっては心苦しい。

 自分は今どのような状態なのだろう。少なくとも、喪失していくような、意識がなくなっていくような感覚は消え去っている。

 手足の感覚も何故かはっきりしている。

 どのような格好をしているかは分からないが、おそらく普段着だと思う。寝間着だったはずだが、今はたぶん普段着だ。


「お嬢さんでいいのかな? お名前はなんというのですか? 私は神宮寺颯、昔はサラリーマン、今は――今さっきまでは年金暮らしの兼業小説家です」

「ごめんなさい、名前も名乗らずに。私の名前はシロエと申します。生まれ落ち、最初の世界を初めて看取った幼き見守りドラゴン一匹ひとりでございます」


 おやおや、ドラゴンときましたか。

 この執風ハヤテ、ファンタジー作品も唸るほど書いてきましたが、今際の際でこのようなゆめまぼろしを見るとは。


「ドラゴンですか、見守り竜とはどのような? いえ、差し障りがあるようでしたら答えて頂かなくとも。そうですか、最初の世界を看取りましたか。私はひとりで死んだようです。まあ、朝には家族が見つけてくれるでしょうが、そのあとは少し大変でしょうなあ」


 自宅でなくなった場合は、警察などの手が入りますからね。

 すこし迷惑をかけてしまうのが心苦しい。


「お話を聞いて頂けるのでしょうか」

「お困りだとか? ううむ、私に力になれることでしたらいいのですがねえ。なにぶん、年寄りなものでして」

「そんな! 『陽炎の戦士たち』『名探偵 平安名光太郎』『やがて炎となる花嫁』『神仙境の四姉妹』の作者であるハヤテさんにしか、先生にしか相談できません!」


 私のデビュー作と、あまり世に出ていない習作と、お気に入りの作品シリーズの名前を挙げられ、さすがに面食らった。

 その……ドラゴンが私の作品を? いかんいかん、これは本格的に夢だ――そう思ったのだが、彼女の続く言葉に私は「いや、そうではない」と確信した。


「世界を看取った私は、新しい夢を、物語を――世界を産まなければならないのです。しかし、それが奪われてしまったのです」

「物語を奪われた?」


 作家としての勘であったように思う。

 いや、矜持であったのかもしれない。

 自分が書くべき物語を奪われた少女が、死に瀕したロートルの引退小説家に助けを求めているのだ。


「お話を聞いて頂けるのでしたら、光りの中へ。そのままあなたの命の終焉と安らぎを求めるのでしたら、目を閉じてください」


 竜の――少女の、縋るような言葉。

 思えば私は、このときにした選択をついぞ後悔することはなかったように思う。かの有名な偉人が最期に言った言葉として伝わる、「もっと光りを」という文言。何故かあれが、脳裏によぎった。

 私の答えは決まった。


「人生死ぬまで好奇心がモットーでしてね。どれ、こちらに進めばよろしいのかな?」


 意識した瞬間さくさくと歩みが進むように、私は竜が作った魔方陣によって異世界へと召喚されたのである。




***




 そこは、真っ白な世界だった。

 雪ではない、これは灰だと私は直感した。何かが命燃え尽き、抜け殻となった遺骸。白い骸だと。

 続いて感じたのは清浄な空気だった。やや冷たく感じるが心地好い。

 魔方陣の中央で白のワイシャツに茶のベスト、黒ベルトにベージュのスラックス――足下はブーツタイプのトレッキングシューズ。そんな姿の私、俺――いや僕は取り戻されてきた五感に思わず眼鏡を直しながら「ここはどこだ?」と声に出していた。


「召喚に応じて頂き感謝します、先生」


 気がつけばその女性は目の前に立っていた。気がつかなかったのは茫っとしていたからではない。その少女が、女性が、この世界に溶け込むような存在だったからだと直感できた。直感できてしまった。


「僕を呼んだのは、あなたですか。ええと、シロエさん?」

「はい」


 名前の通り、白い女性だ。

 髪は長く背中、いや、腰まであるストレートヘア。凜とした眼差しこそ切れ長で鋭く赤いが、肌も、着物らしき衣装も、抜けるような白だった。


「竜と、仰った?」

「はい」


 彼女は首肯した。

 そっと、首をかしげるように右耳の後ろを見せる。

 ――そこには、珊瑚のような形の漆黒の角が伺えた。広げたてのひらのような、小振りなものだが、僕にはそれが情念のように強い力を持っていることがよく分かってしまう。怨念といってもいいだろう。


「左耳の後ろにももうひとつの角がございましたが、奪われてしまいました。私が紡ぐはずだった物語が、次の世界が奪われてしまったのです」

「相談したいというのは、そのことでしょうか」


 シロエさんは頷くが、警察などの仕事のようにも思える。こう見えても、若いときはそこそこ運動はしていたが、荒事とは無縁の生活だった。物語の主人公たちにさせていたような無茶は、自分にはできない。


「この世界は終焉を迎えました」


 蒼空と、白き地平――ここは山頂だが、雲もなく、白い大地が一望できる。地平線も霞まぬ、澄み切った、死に絶えた世界だ。


「命が芽吹き栄えた、よい世界でした」

「諸行無常。僕のいた世界も、最期はこのように冷えていくのでしょう」


 何故かそれがよく分かる。


「我が神殿のある山頂も、総てのいきもの物質が死に絶え、灰となりました。私は世界を看取りました。原初さいしょから、最期さいごまで」

「見守る竜とは、そういうものなのですね。そして、代謝――いや、新しい世界を作るための存在でもあると」

「左様です。そのために力を蓄えた角を用いるのですが、それが奪われてしまったのです」

「何もかもが死に絶えたこの世界で? 奪われたとは――誰にですか」


 シロエは目を伏せる。

 この冷えた世界でもなお、このような表情を浮かべねばならぬ心境と配下ほどのものか想像もできない。


「クロエ。私の中の滅びを認めぬ心、もうひとりの私にです」

「なるほど、自分の影、ですね」


 クロエとはよくいったものだ。シロエと対となれば、合点もいく。

 なるほど、


「いま、面白いと思いましたね?」

「いや、それは」


 取り繕おうとしたが、どうやら責められている感じはしなかったので僕は「まあ」と頭を掻いてごまかすにとどめる。

 すると彼女はほんのりと笑い、ひとつ、頷く。


「それでこそ、先生です。シロとクロと聞いて、素直に対である、面白いと思える、その魂こそ力なのです」

「相談の内容を伺いましょう」


 シロエは遠く南を指さし、地平線の向こう、まだ向こうへと、もしかしたらこの星の裏側にまで指先を向けながら僕の視線を促す。


「この星の、いきものの、人間たちの命を諦めたくないクロエは、角の力でこの世界の元気であった頃の姿を描き続けています。ひどく歪で、無理のある、都合のよい物語を描いています。命はゆがみ、心までも侵略された、死ぬべきときに滅びることができなかったキャラクターが悲鳴を上げています」

「………………」


 自分のために書かれる物語に、本来、罪など在ろうはずがない。

 だが、その姿が歪で歪んでおり、何らかの面白くない状況なれば……話は別だろう。すなわち――。


「シロエさん、もうひとりのあなたクロエが作る世界ものがたりを、あなたはと思ってる。だから、僭越ながら文筆の先達であるこの僕に、面白い物語を作るための助言を求めていると、そういうことでしょうか」

「はい、はい! 左様です、先生!」


 熱を帯びた眼差しで、ぎゅっと手が握られる。

 温かい。

 そして力強い。

 なにより、心細さにそれでも震えているではないか。

 ここで助けなければ、臭い台詞の三つや四つを吐けずして、なにが文士か。


「僕を雇うのは高いですよ」

「雇ってる期間は、いつも腹いっぱいの米の飯、ですね!」

「……これは、また。ははは」


 有名な映画、その主人公たちに与えられた報酬だ。

 そんなことまで知ってるのか、この竜は。


「竜は次の世界を作るために、他の異世界の創作物を読むことが多いのです。時間はたっぷりありますから。……執風ハヤテ先生のファンでよかった。先生が影響された作品も総て読みました。ふふ、きっと助けてくださると信じておりました」

「ともあれ、荒事は無理ですよ? 僕は何もできないのですから」

「それなのですが――」


 と、彼女はズイと僕に顔を寄せてきて……って近い近い。すごくいい匂いがする。ああ、忘れてたな、こういうの。かえって新鮮だわ。


「こちらをお使いください」


 と、彼女は右耳に残った情念の角に手をかけると、その枝をひとつ手折るや僕に恭しく差し出す。

 やにわにその角の枝は、一本の万年筆へと姿を変えていくではないか。

 情念――その様子から紛うことなき呪いの類いを感じずにはいられない。しかし、何故か僕にはその筆がとても温かい物に見えたのだ。


「私の角を以て作った軸に、私の牙のペン先を誂えてあります。この筆を用いれば、作者が書く誤った物語せかいを、べつの作者である先生が書き直すことが可能でしょう。未熟なシロエでは、未熟なクロエの物語を正しくは書き換えられません。先生、お力をお貸しください」


 なるほど、な。

 そういうことかと、合点がいく。

 僕はその筆を受け取りながら、それだけではあるまいと問い返す。


「筆には、インクが必要です。それはどこから?」


 シロエは、ふふふと笑う。ああ、これは竜だなと思うような、人ではない心を垣間見たような、面白い笑顔だった。


「創作魂が、インクです。どうぞ先生、溢れんばかりの作家魂を以てして間違った物語を糺してくださいませ」

「よござんす、お引き受けいたしましょう」

「ほえ!?」


 あっさりと引き受ける僕に、シロエが演技の殻を脱いで目を丸くする。僕のファンだったら、これくらい安請け合いする作者だってことは知っていて欲しかったがなあ。


「悪鬼幽鬼の爪ではなく、竜の牙の筆、さしずめ名付けるならば『ナグルファル』。魂のインクで、この執風ハヤテ、最期の大仕事を請け負おうじゃありませんか。ねえ、シロエさん」

「よろしいのですか!? だって、魂ですよ!? 死んじゃうんですよ!?」

「なにを仰います、もう死んでますよ僕は」


 ふふ。最期の夢にしては、なかなかに面白い。

 この筆を持った瞬間から、「ああ、できるな」という気もしてきた。


「どうせならこの物語、面白く完結させて見せようじゃないですか。ね」

「あぅ……ありがとうございます……うう。ほんとうに……」


 こうして始まった、僕の最期の執筆。

 そして彼女が画く最初の執筆。

 どのような完結を迎えるのか、読者諸氏よ、もしいるのならば最期までお付き合いのほどをよろしくお願い申し上げます。



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