クローズド・クレイドル

古月むじな

障碍者福祉施設へボランティアに行った時のことだ。

「私、生まれてから一度も歩いたことないんですよお」

 そこで知り合った内海さんという女性は、身体の一部が動かない、という障碍のある女性だった。

 詳細は伏せるが、以前事故に遭ったことにより脳に障害が残り、そのため手足が思うように動かせなくなったのだという。彼女の快活な笑顔に惹かれ、ボランティア活動が終了した後、私は個人的に彼女から話を聞くことにした。若い女性で、普段の姿を一見するだけではどこに障碍があるのかもわからない。

「生まれつき身体が弱かったんです。だから、物心ついたときからずっと、車椅子に乗せられてました」

 そう言って笑う内海さんは今も車椅子に腰かけている。とはいえ、動かずにこうして会話をしている分には彼女は至ってだ。

「あれ、しかし……」

「はい、身体がこうなったのは三年前からですね。でも、もっと前から歩けなかったんです」

 内海さんの発言は素人からしても明らかに食い違っているように思えた。生まれつきの障碍と、後天的な脳障害を別個に発症したということだろうか?

「もう自分ではほとんど覚えてないんですけど、赤ちゃんの頃に難病にかかっていたって母から聞きました。それで、普通の子よりも身体の発育が遅くて。病気自体は寛解したんですけど、背も小さくて、ちゃんと歩けないまま小学生になったんです」

「それは……」

 こういう話にはどういうリアクションが最適解なのだろうか。同情しすぎるのも失礼に当たるだろうが、全く共感しないとなるとそれはそれで不快にさせてしまうだろう。返答に困った私を、内海さんは「昔の話ですから」と笑顔でフォローしてくれる。優しい人なのだ。

「それで、車椅子に?」

「お母さんが押してくれてたんです。今だったら自分で少しは動かせるし、電動とかもあるんですけど、まだ小さいうちだったから。思えば多分、お母さんも大変だったんですよ。全然身体が動かない子供を、ほとんど一人で介助してたんですから」

 内海さんが自身の母を尊敬されているのは口ぶりから察することができた。しかし……内海さんのベッドサイドにはお母さんと思しき女性の写真と位牌が置いてある。

 内海さんの母は、三年前の事故で亡くなっているのだ。

「多分生きてたら、まだ家でお母さんと生活してたと思うんですけどね。でも、お母さんももう歳だったからなあ」

 確かに、写真に写る女性はまだ幼い頃の内海さんと比べると、(失礼ながら)お歳を召されているように見えた。父親の存在は写真からも内海さんの話からも全く垣間見ることができない。ひとり親で障碍を持つ子を育てるのはどれだけ大変なことか。きっと、相当に苦労をされた人だったのだろう。

「なんでもしてくれたんですよ。ご飯とか、お風呂や着替えもトイレも、お母さんの手がないとできなかったし。学校も通えなかったから、お母さんに教えてもらってたんです。お母さん漢字が苦手だったから、私もちょっと間違えて覚えちゃったんですけど」

 内海さんは楽しそうに母親との思い出を語っている。彼女がここまで明るい女性に育ったのは、ひとえにお母さんの尽力によるものなのだろう、と思った。それだけに、三年前の事故が彼女にとってどれだけ辛い出来事だったのか想像できない。

「大変だったんでしょうね」

「ええ。でも、お母さんがもう苦労せずに済むようになったから良かった。ずっと私がどうなるかって心配してたみたいなんです。『お母さんが死んだら、私だけ残されたら』って口癖みたいに言ってて。一緒に死んでたら、天国でもお母さんに介助してもらってたのかなあ」

「……えっ?」

「あの頃はまだよくわかってなくて、お母さんが悩んでることなんて全然知らなかったんです。まさか、ガス栓が開いてるのも気づかないくらい悩んでるなんて」

 彼女の話に感じた違和感は、彼女があまりにも淡々と事実を話したことだろうか。それとも――その状況があまりに不自然であることだろうか。

「お昼くらいだったかな。おやつを食べて、ちょっとお昼寝してたら、変な臭いがして目が覚めたんですよ。そしたらお母さんは寝ちゃったまま起きないし、空気が臭くて気持ち悪くなってくるし。声をかけても起きないから、とりあえずなんとかしなきゃって思って、車椅子から降りて外に出ようとしました」

 それは、本当に事故だったのだろうか。

「そういえば、その時だけ、生まれて初めて自分の足で立つことができたんですよ。すぐバランス崩して倒れちゃったんですけど……。それでもなんとか這い這いで外に出て、近所の人に助けを求めたんです。その時に転んだのと、ガスを吸ったせいで酸欠になっちゃったのがまずかったみたいで、それが残っちゃったわけです」

 自分の頭を触るようなそぶりを見せながら内海さんが語るのを聞きながら、私は恐ろしい想像をしていた。

 障碍を抱えた子を育てる親の一番の悩みは、親自身の老後だという。「このまま自分達が老いたら、子供よりも先に死んでしまったら、この子はどうなるのだろう」――福祉制度の整備が進んでいる昨今においても、その課題を完全に解決できる家庭はなかなか少ない。

 加えて、内海さんの家庭は母子家庭だ。内海さんの母親が急な不幸に見舞われたら、内海さんを守れる人はいなくなってしまう。親戚がいたとしても、受け入れてくれるとは限らないし、施設やサービスを頼るにしても資金や手続きなどハードルは多い。

 だからいっそこの手で――あるいは一緒に――と考えてしまう人は、そう少なくはないようだ。

 また、これは私の勝手な憶測なのだが、内海さんの母は少しすぎるきらいがあったのではないかと思う。今現在の内海さんの障碍が、脳の損傷が原因だというのなら、それまで内海さんはだったのではないだろうか? 発育が遅れていたにしても、何年もずっと車椅子から降りれないというのは不自然である。内海さんは二十代、三年前でも充分自分の意思で行動できる年齢のはずだ。それが……まるでたった一度も立ち、歩く訓練もしないままに過ごすものなのだろうか。

 引っ込みがつかなかったのか。加減がわからなかったのか。責任を感じすぎていたのか。学ぶ機会がなかったのか。真相はわからない。

「でも、今こうして暮らせてるのも、お母さんが遺してくれたお金のお陰ですから。私って全然、親離れできない子なんですよねえ」

 彼女は相変わらず快活に笑っている。しかし私は自分の勝手な邪推に酔い、先程までと同じように感じることができない。彼女の明るさは、きっと幼い子が持つ無邪気さ、無垢さによるものであると思えてならない。

 内海さんの座る車椅子が、まるで大きなベビーカーのように見えた。

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クローズド・クレイドル 古月むじな @riku_ten

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