第5話 魔物

「これは……緊急を知らせる鐘……!? 村で何かあったんだわ!」


 アロアの顔色が、サッと変わったのが解った。目は大きく見開かれ、きっと無意識なんだろう、両手はアンジェラ神のシンボルを固く握り締めている。


「アロアはここにいて! まだそんなに歩いてないから、僕一人でも様子を調べに戻れると思う」

「でも……」

「大丈夫、危なそうならすぐに戻るから!」


 僕はアロアにそう言い残すと、きびすを返して今来た方向に獣道を駆け出した。何度も木の根に足を取られかけながら、心臓は不安にドクドクと鳴り響き、理性はこのままアロアと共に森に留まるべきだと叫ぶ。

 けれど僕は足を止めなかった。道を逸れないようしっかりと前を見つめ、辺りを包む鐘の音に急かされるように、全力で足を前に動かし続けた。

 決して長いとは言えない、村で過ごした日々が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。神父様やダナンさん、村の皆にもし何かあったら。

 自分に何が出来るかなんて解らない。それでも、理性を、アロアを振り切ってでも僕は走り出さずにはいられなかった。

 間も無く木々の群れが途切れ、村が確認出来る位置まで辿り着く。そこに見えたものに、僕は言葉を失った。

 村が、燃えていた。離れていても解るその大きな炎ともうもうと上がる黒い煙が、今村で起こっている火災の大きさを告げていた。


「これは……何で、こんな」

「リトちゃん!」


 僕が呆然と立ち竦んでいると、村から何人かがこちらに向かって駆け出し、僕の名を呼んだ。その声に我に返り駆け寄ると、それはダナンさんの奥さんを始めとした村の女の人達だった。


「一人なのかい!? アロアちゃんは!?」

「森にいます。僕だけ様子を見に戻ってきたんです……一体何が!?」


 僕の問いに、皆の青い顔が強く歪んだ。そして、悲鳴にも似た悲痛な声が上がる。


「魔物よ!」

「魔物……!?」


 思わず、耳を疑った。そういう存在がいる事自体は、以前神父様から聞いていた。けれどその時の話では、もうここ何十年も人里には現れていないという事だった。それなのに。


「黒い犬よ……火を吐く大きな黒い犬が、いきなり村に!」

「男衆は、あたし達を逃がす為に魔物に向かっていって……うう……」

「リトちゃんも一緒に森へ逃げましょう! アロアちゃんも連れて、森に身を隠しながら麓まで逃げるんだよ!」


 皆は、涙声を混じらせながら口々に僕にそう言う。それを聞いていた僕の胸に、一つのある感情が生まれていた。


「……皆さん。アロアをお願いします」

「え?」


 そう言い残し、僕はその感情のままに走り出した。――赤き炎に包まれ、黒煙を上げ続ける村の方へと。


「リトちゃん!?」


 呼び止める声が、背中に聞こえた気がした。けれど、僕は立ち止まらなかった。

 許せなかった。得体の知れない僕を優しく受け入れてくれた人々。心のどこかで、ずっとこの時が続けばいいと思っていた生活。

 その総てを、今、奪い去ろうとしているまだ見ぬ魔物が。


 そう――僕は今、怒りのままに行動していた。


 アロアと森に入ってからまだ大して時間が経っていないのに、すっかり変わり果ててしまった村の入口を駆け抜ける。熱気と、何が焼けたのかももう解らない焦げた臭いが僕の体にあっという間にまとわりつく。


 よくも、よくも。――よくも皆を、村を!


 その感情に突き動かされるまま、少しずつ息を切らしながら全力で走っていると間も無く村の中央広場へと辿り着いた。鐘の音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。聞こえるのは今や、ぱちぱちと爆ぜる火花の音だけ。

 辺りを見回せば、映るのは幾つもの人の形をした真っ黒な何か。煙か、悔しさか、両方か……瞳が、自然と潤むのが解った。


(どこだ……どこにいるんだ!)


 黒い塊をなるべく見ないようにして、なおも辺りを見回す。すると、炎の蹂躙に耐え切れなくなった家が一つ、崩れ落ちていくのが見えた。


「……!」


 その時、僕は見た。崩れ落ちた家の向こう側を、ゆっくりと横切っていく大きな黒い影。

 それは、犬だった。けれどその体は、人間の大人よりも大きい。更にその口の端では、真っ赤な炎が息の代わりのようにちろちろと燃え盛っていた。


「あれが……魔物?」


 さっきまで心と体を支配していた怒りが、少しずつ薄れていくのを感じた。代わりに沸き上がり始めたのは、焦りと恐怖感。

 僕は……何をしようとしてたんだ。武器になるような物も、何も持っていないのに。あんなものに、本当に勝つ気だった?

 逃げなければ、理性はそう叫ぶ。けれど完全に消える事なく今も燻る怒りは、僕の目を魔物に釘付けにしたままだ。

 逃げるんだ。けど、本当にそれでいいのか。本当に僕には何も出来ないのか……。

 そう、僕が考えた瞬間。


 魔物が足を止めてこちらを振り返り、僕をその視界に入れた。

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