第4話 破られし平穏

「おうい、リト坊、そろそろ昼飯にしようや」

「あ、はい、ダナンさん」


 雑草を抜くのに熱中しているところにそう声をかけられ、僕は顔を上げた。ずっとしゃがんでいたせいか、少しだけ足が痛い。

 視線を声のした方に向けると、恰幅のいいちょび髭の中年男性が首にかけた赤いタオルで汗を拭いていた。僕も同じように、首に下げていた少し土に汚れた白いタオルで顔の汗を拭く。

 この人の名前はダナンさん。教会前にある畑の持ち主で、いつも採れたての野菜を教会に分けてくれる気のいい人だ。


 僕が目覚めてから、およそ一ヶ月の時が過ぎた。


 記憶は未だ戻る気配はない。蒼い月の伝承について調べてくれた神父様も、やはり自分の知っている以上の事は解らなかったと言っていた。

 記憶が戻るまで教会で生活したらいいと、そう言ってくれたのは神父様だった。一瞬、まさか年頃の女の子と同じ屋根の下に、と焦ったけど、アロアは通いで教会に来ているらしく住まいは別という事だった。……安心した反面、ちょっとだけがっかりしたのは、きっと男なら仕方のない事だと思う。……多分。

 最初の一週間ほどは、体調を整える意味合いも兼ねて教会で神父様やアロアの手伝いをしていた。手伝い、と言っても教会の掃除くらいだけど、最初はそれさえも十分に出来ない自分に落胆したりもした。

 きっと記憶を失う前の僕は、掃除はあまりしなかったのだろう。そう確信するぐらい、体調が万全でない事を差し引いても僕の手際は良くなかった。

 それでも一週間も経てば少しずつ手慣れてきて。それと同時、もう体力が十分に戻っただろう、というお墨付きが神父様から出た頃、その時にはもう顔見知りになっていたダナンさんが畑仕事を手伝って欲しいと言ってきた。

 それを承諾し、その後もダナンさんを通じて他の村の人も仕事を手伝って欲しいと言ってきて……今僕は、色んな村の人の手伝いをしながら日々を過ごしている。


「しかし、リト坊が来てくれて助かってるよ。若い衆は村での生活を嫌がって、皆麓の町に行っちまってるからな。出稼ぎだから、忙しいから……そう言ってろくに帰って来やしない。アロアちゃんぐらいだよ。進んでこの村に残ってるのは」

「僕は、好きです。この村。皆優しくて、穏やかで……」

「ははっ、ありがとうよ」


 僕の言葉に、ダナンさんが照れたように鼻の頭を掻く。そして昼食の入った包みが置かれたうねまで行くその後に、僕も続いた。

 僕が目覚めたこの村は、山の中腹より少し上の方にあるらしい。季節は夏になろうとしているところのようで、眩しい日射しに時折吹き抜ける爽やかな風がとても心地好い。

 村ではこうして畑の作物を収穫したり、僕が倒れていたという近くの森で狩りをしたりして生活しているらしい。七日間に一度くらいの頻度で行商人が訪れる以外に、村を訪問する人はいないみたいだった。


「リト坊は、明日は森に行くんだったかい」


 畝に腰掛け、自分の昼食の包みを開きながらダナンさんが問い掛ける。結婚してもうすぐ二十年になるという奥さんが用意した兎肉の燻製のサンドイッチは、見ていてとても美味しそうだ。


「はい、アロアとアルカ草を摘みに」

「おう、そうか、もうそんな時期か。アルカ草は今の時期でないと生えてないからなぁ」


 僕も自分の卵サンドの入った包みを広げ、一口かじりながらダナンさんに頷き返す。アルカ草というのは解熱に使う薬草で、今の時期に摘んだものを乾燥させて一年間使うらしい。


「いい子だろう、アロアちゃんは」


 不意に、まるで自分の娘を自慢するみたいに、誇らしげにダナンさんが言う。僕は口いっぱいに卵サンドを頬張りながら、ただそれに頷いた。

 どこの誰かも解らない、得体の知れない僕みたいな存在の世話を甲斐甲斐しく焼いてくれるアロア。この卵サンドだって、朝早くにアロアが作って持たせてくれたものだ。

 そんな、彼女に世話を焼かれる日常は、ありがたくて、申し訳なくて……ほんの少し、くすぐったかった。


「手、出すなよ?」

「ごふ!?」


 けれど、そんな心を見透かされたようにそう続けられたダナンさんの言葉に、僕は思い切り口の中身を噴き出す事になったのだった。



 翌日、いつものようにアロアの作ってくれた朝食を食べた僕は、アロアに連れられ初めて村の外に出た。まだ空の色は白に近く、早朝の少しだけ冷たい空気が寝起きの気だるい気持ちを引き締めてくれた。

 辺りを見回すと、村から見て日が昇る方の右に向こう側の見えない程の木々の群れが見えた。きっと、あれがこれから行く森だろう。


「獣道は絶対に逸れちゃ駄目よ。深い森じゃないけど、迷ったら大変だから」

「うん、解った」


 アロアの注意に頷き返し、僕はアロアと一緒に森へ向けて歩き出す。途中で自分がこの辺りに倒れていた事を思い出して、何か記憶に引っ掛からないかと頭の中を探ってみたけれどやっぱりと言うか、何も頭に浮かんでくる事はなかった。

 森を分け入り、足元の獣道を確認しながら進む。アロアはいつものシスター姿なのに、驚くほど身軽に森を歩いていく。僕はと言えば歩く速度は問題なかったが、初めて入る森という事もあってアロアを見失わないようにするのに一生懸命だった。


「村での生活には慣れた?」


 不意にアロアが、足を止めないまま言った。僕はうん、と小さく頷き返す。


「良かった。体の方も、もうすっかり大丈夫みたいね」

「アロアや神父様、ダナンさんや他にも色んな人達がよくしてくれたお陰だよ」

「ふふ、ありがとう。でもリトもこの一ヶ月、凄くよく頑張ったと思うわ。リトが色々手伝ってくれて、皆助かってるって」

「僕はただ、お世話になってるお礼をしてるだけだよ」

「リトは真面目ね。私もよくそう言われるけど、私以上かも」


 そう言って、アロアがクスクスと笑う。僕は何だか気恥ずかしくて、じんわりと熱を持った頬を掻いた。


「……ねぇ」


 と、突然アロアの声のトーンが変わる。どうしたのだろうと、僕は思わず首を傾げる。


「もし……もしも。リトの記憶がずっと戻らなかったら、その時はこのまま……」


 その言葉は、最後まで告げられる事はなかった。

 最後まで告げられる前に――激しい鐘の音が、森全体に響き渡った。

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