第9話 霧中の道行き

何年も前、仕事先からの帰宅途中の出来事です。


駅の出口を出てほんの十数歩歩いた程度、駅前の薄暗い広場にさしかかったあたりで、突然、誰かが腕にしがみついてきました。

どうやら、若くはない男の人のようですが、くりかえし何かを言っています。

荷物を引ったくろうという感じでもなく、変なところに触ろうという感じでもありません。

すがりつく、といった雰囲気です。

急なことなので少しびっくりしましたが、危ない感じではなかったので、耳を寄せて何を言っているのか聞きとろうとしました。


「駅に連れていってください!駅に連れていってください!」

「え、駅ですか?駅って……」


(駅なら今出てきたところだけど、さすがに他の駅のことかしら。乗り換えとかがわからないのかな?ただ駅と言われても、どの駅だかわからないから、名前を言ってもらわないと……それに、行き方を教えるだけじゃなくて、連れていかないといけないのかな……)


言われている意味がよくわからず、混乱して少し考えていると、


「大丈夫ですかっ!」


近くにいた警備員さんがすっ飛んできました。


一人で歩いていた小柄な女性に、突然男が抱きついたわけなので、はた目には襲われているように見えたでしょう。

警備員さんが男性をひきはがそうとしているところへ、急いで

「駅に連れて行ってください、だそうです」

と伝えると、警備員さんは、了解したといったように会釈しつつ、男性を連れて詰所の方へ去って行きました。


(はて、さっきのできごとはなんだったんだろう……)


二人の背中を見送ったあと、突然起きたオチがわからないままのことについて、駅から自宅への道すがらにつらつらと考えました。


『駅に』というのは、やはり、目の前にあった駅のことなのでしょう。

駅の名前を言わないのは、遠くのどこかではなく、すぐそこにある駅だからです。

つまり、すぐそこにあることは知っている、ということになります。

では、出入り口がわかりにくいのかというと、普通に考えればそんなことはありません。

夜で暗いとはいえ、明かりがついているので見ればすぐにわかります。

また仮に、出入り口がわからないとしても、教われば済むはずです。


駅がすぐそこにあることはわかっていても、『連れていって』もらわなければたどり着くことができない状況……


(視覚障害者の人かな)


しかし、そう考えるには、ひとつ疑問が残ります。

駅前まではたどり着いたのに、急に駅への行き方がわからなくなった、という点です。

ただ、これには思いあたることがありました。

駅の改装にともなって、少し前から出入り口の場所が変わっていたのです。


実は私も、この数日前に、いつもの出入り口がなくなっていて、ドッキリするという経験をしていました。

以前の出入り口は、階段を下りて地下の改札を通り、階段を上がってホームに出る構造になっていました。

ちょっとぼーっとしていた私は、駅への入り口に入るつもりで、地上部で階段を囲むコの字状の壁の間に入っていきました。

ところが、足を踏み出しても下り階段がなく、違和感に気づいて顔を上げると、囲いの壁だけを残して、地下への入り口は埋められていたのでした。

そこにはただの壁と地面しかないので、付近には人がいません。

慌てて周囲を見まわすと、少し離れたところに、地下ではなく上に上がるようになった新しい出入り口がありました。


もし、目が見えないとしたら、あのときどう感じたのでしょう。

生まれつき目が見えない人でも、音や空気感で周囲の様子がわかるような超感覚を持っているわけではないと聞いたことがあります。

一人で出歩くとしても、結局はなんども道を通って記憶してから、その記憶を頼りにするのだとか。


いつものように出かけていって、いつものように駅前に着き、いつものように改札に向かおうと階段を下りようとする……ところが、下りることができる階段がない。

足先に感じるのは、平坦に続く地面ばかり。

そのさきにあるはずの改札、上り階段、ホーム……頭の中にあった地図が、突如として崩壊する。

ある、と思っていたものが、ない、という事が示す不確かさは、そこに至るまでの道のりにまで及ぶ。

自分は正しい道を歩いてきたか?

ここは、自分が知っている場所なのか?

本当に、そこに駅はあるのか?


目が見えないとしたら、記憶の中の地図と周囲の情報とを照らし合わせて、状況を確認するのは難しいでしょう。

たったひとり、見知らぬ場所に放り出されたと感じて、パニックになるかもしれません。


だからこそあの男性は、行こうとしていた駅がどこにあるのか知りたくて、必死で人を捕まえようとしていたのでしょうか。

音を頼りにするしかないなら、ぐわっと摑みかからざるを得ないのも納得です。

結局、本当のことはわかりませんが、困っていたであろうあの男性が、助けを得られたなら良かったな、と思っています。

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