青女と夢幻が起こす奇跡

孔雀 凌

水漉しされた透明度の高い記憶だけを手繰り寄せて、まるで泡沫の夢のような、究竟の現実に身を預けている。

「なあ。あれ、銀じゃね?」

人の気配に気付いた都が地から上半身を起こし、彼方に目を遣った。

長い髪を空に靡かせ、無邪気に笑う純真無垢な姿は、紛れもなく僕達が良く知る少女だ。

「本当だ。でも、一体どうやってこんな遠い場所まで……」

「今日は黎と二人だけで過ごしたいから、ガキは家で大人しく寝てろって言ったのに」

ふて腐れた表情で底意を露にする都を宥めてから、僕は彼女の方へと視線を移した。そうして、右掌を軽く差し出す。

「おいで、銀花」




何気ない動きで理解出来たのだろう。

愛くるしい彼女の笑顔が更に輝きを増すと、華奢な脚が僕達を目指して歩み出す。

「レイ。お花の冠、作って」

銀花が両手で輪を形作り、僕に軽く催促をする。

「蔦で繋いで完成させるやつだね。作ってあげたいけど、ここの花は観賞用で全て市で管理されているから、勝手に摘むことが出来ないんだよ」

「そうなの? じゃあ、ちょっと待ってて。大丈夫なお花、貰って来るから」

「え? 銀花……」

銀花はスカートの裾の葉を手早く払うと、嬉しそうにこちらを見てから、走り去ってしまった。

「銀のやつ、あんな風に言ってたけど。俺等に内緒でこっそり隠れて摘んでくるつもりなんじゃねーの。それ用の花なんて、貰えるはずもないしな」

「見て、綺麗でしょ。沢山持って行ってもいいって渡してくれたの」

それはまるで、天空の楽園に誇り咲く、フロストフラワーを想起させるかの様な美しい花弁の集まりだった。

「見たことのない植物だな。白い……花ね。ふーん」

都が訝しげな表情で、少し離れた場所から銀花を覗き込む。

彼女が嬉しそうに籠に敷き詰められた花を僕に渡し、お願いごとをする。

「手先はあまり、器用な方じゃないんだけど」

蔦を残す清澄感のある白い花弁を一つ一つ丁寧に解きながら、僕は繋ぎ始めた。

姉や妹もいない家庭で育った僕にとって、こんな場面は馴染みが少なく、僅かな戸惑いを覚えてしまう。女性が喜ぶもの、興味を示すもの、そういったことに関心を抱く機会などなかったから。

そんな現実が不慣れな指先にさらに拍車をかけて、要領の悪さを露にしてしまっていた。

「黎。お前、不器用すぎ。貸してみな。俺の方が上手く作れる自信がある」




僕の手際の悪さを見かねてか、都が横から花の敷き詰められた籠ごと奪う。

彼の慣熟した細い指先が、瞬く間に花冠の八割ほどを作り上げてしまった。

この眼が追う微速よりも、遥かに流れの良さを感じるくらいだ。

柔く可憐な曲を描く花弁から覗く、繊細な緑茎を両端からそっと手繰り寄せた都は、丁寧に最後の仕上げへとかかる。

辺りは緩やかな大気に包まれ、風の指頭が彼の仕草を爪繰ることはない。

都の滑らかな動きを見せる指先が、その裡面で儚げな女性のたおやかさを生み出すほどに柔らかな趣で溢れている。

優しい手付きが人を想う暖かさとも相重なって、朧げな居心地の良さの中で、僕は深く見入っていた。



風の囁き、馥郁とした花の馨りに大地の息衝く姿。

今、この瞬間に最も惹かれているものは何かと問われたなら、迷いもなく親友の指先だと答えるだろう。

「みやこ、びっくり。 お花、すごく綺麗。そんな才能があったなんて。でも、何だか違う人みたい」

「だろ? こう見えて器用なんだよ、俺は。つか、銀。お前は一言よけいだ。ほら、頭出せ」

都はそう言うと、満足げに微笑む銀花の頭頂に完成したばかりの美しい花冠を、両手で静かに乗せた。

「レイ、見て。 お花、素敵でしょ。私、似合う?」

愛らしい姿に、僕は暫し言葉を失ってしまう。

花は女性の象徴としてよく例えられる物だけど、正にその通りだと想う。

銀花の場合、まだ熟れない幼気さの残る可愛らしい雰囲気が、さらに可憐な裸花葉を際立たせている気もした。

「似合うよ。とても」




偽りのない素直な心で語り掛けると、銀花はこれ以上ないというくらいの喜色満面を僕に返してくれる。

「まあ、銀の場合、猫に小判って感じだな。黎、お前にも作ってやろうか。飛び切り、乙女チックな奴を」

「馬鹿言うなよ。都」

冗談で返さない僕の言動が面白くなかったのか、都は詰まらなさそうな表情を露にしたまま、再び地に寝転ぶ体勢を取ってしまった。

都の意外な一面も、ふて腐れた様相も、今はただ尊いものとして感じている。

秀蔵さんの死を見届けて以来、僕の中では明らかに変化したものがあった。

時間に対する存意だとか、人の細やかな動きに情趣を覚えるのも、ここに在る一切の物を感受していたいからだ。

暖かい陽射しの袂で、今この場所にいられる自分達が愛おしい。

追想による至福の余韻ではなく、瞬刻の喜びだ。

水漉しされた透明度の高い記憶だけを手繰り寄せて、まるで泡沫の夢のような、究竟の現実に身を預けている。

毒されない世界が描き出す映像美は、厭世的な感情など初うから存在しなかったかの様に在り続けている。



銀花はずっと眼を閉じて、心地良さそうに風の囁きを聴いている。

空を見上げることが好きな様だ。

「ねえ、二人とも。あの雲を見て。ほら、あの左端の。おじいさんがよく作ってくれたピザの形に似ていない? 美味しそう」

銀花が指差す行方を追って対象物を捉えると、それは僕の脳裏で彼女の煽る通りの物へと姿を露にする。

弧を描き、脆弱で不揃いな雲の塊が、素地や具材までもを表現している造形芸術に見えてくるから不思議だ。

「銀。お前、食い意地張りすぎ。つか、ピザに見えなくもないけど……」

転寝したままの都が、眼だけを細めて言う。

僕は透かさず、ある食べ物の名を口にした。

「フォカッチャの様にも見えるね」

「黎、それな」

「どう、違うの?」

銀花が頭上の花冠を両手で押さえながら、首を傾げている。

物知りたげな等身大の少女の姿が僕の瞳に映った。

「うーん。形状は同じなんだけど、発酵の為に生地を寝かす時間の違いかな。確か、フォカッチャの方が長かったと想うけど。ごめん、難しいよね。銀花が今までピザだと想って食べていた物の中にも、フォカッチャがあったはずだよ」

八尋さんの調理の手伝いをしていた過去を想起しながら、曖昧な記憶を頼りに銀花に話していると、都が横から彼女を説き伏せる。

「要はピザもフォカッチャもほぼ一緒だってこと、だ。俺等は飽くまでフォカッチャが好きだけどな。この微妙な違いを理解できるのが、大人の証」

子供扱いをされていると感じたのか、小さく頰を膨らませた銀花が拗ねた表情で僕の方へと寄り添って来たので、彼女の頭を優しく撫でた。

妹がいたらきっとこんな感じなのだろうと、ふと想う。

「それにしても。秀蔵ちゃんの手料理、本当に旨かったなあ。何れも申し分ないクオリティだった。毎日の様に炊事の手伝いをしてた黎の料理の腕前が、秀蔵ちゃんに近付けばいいって想ってた頃もあるけど、黎の私製はまた一味違うんだよな」

八尋さんの温かさを懐かしく想う、親友の言葉に僕も記憶を辿らせてみる。

クリスマスのピタサンド、馨りと風味を生かした自家焙煎の珈琲。都会では味わう機会の少ない、趣向を凝らした海鮮料理。

八尋さんの手料理に触れる期間が短い物だったにも拘らず強く差響かれるのは、紛れもない逸品だからなのだろう。

不意に心を留めてみれば、僕自身の中で時刻盤の針がゆっくりと遡行していることに気付く。過去へと歩みを進めているのに、真新しい世界を目の当たりにしている様な瑞々しい感覚に包まれている。

「秀蔵ちゃんのことを想い出していたらさ。俺の中で時間がさらに巻き戻されてくの。記憶の去来って一気に溢れることもあるんだな」

「ああ、都。僕もだよ」

都が問う。

自分達の旅の始まりは、どの瞬間だったのかと。

「皇居外苑内にある和田倉の噴水で、都がカメラを手にしていた瞬間かな。僕はまだ都心を離れる決意が出来なくて。でも、凛とした都の立ち姿が揺るぎない意思を象徴しているように想えたから。それにあの頃から、自覚がないだけで僕の心も動かされ始めていたのかも知れない」

「黎にとっての出発点はそこなんだ。感覚的なんだな。まあ、分かるけど。そう、俺等の旅は始まった。目的は丹頂と触れ合って、最高の写真を撮り収めるために旅路を走破すること」

誰も言わない。

この旅の末路に控えているはずの真実を決して。

銀花も僕も、都本人も、互いが暗黙の了解のように今だけは触れずにいようと封印をしている。

だけど、それでいい。

都は持参していた鞄の中から素早く何かを取り出した。

体勢を変えて地に俯せになる彼は羨むほどに放縦で、嬉々としている。

出てきた物は、目に馴染みのある小型のアルバムだ。

「知らない間に随分と撮り溜めしていたんだな、都。軽く百枚近くはあるんじゃないか」

「正確な枚数は把握してないけど、それ位はあるかもな。俺が一人で撮りに行ってた時の写真、まだ見てないだろ。見るか?」

僕は頷きアルバムを引き寄せると、自分の方へと向きを変えた。

一度は眼にしたことのある写真にも手を止めて見る。

飛行機を降りてすぐに、眼前に拡がる雪景色をカメラに収めていた都。

今でも良く覚えている。

まるで子供の様に素直な喜びを目元に曝け出していた。

聖域だと感じた白銀の大地は褪せることもなく、切り取られた枠の中で息衝いている。

更に頁の前半を捲っていくと、ある箇所を境にして新鮮な時間の断片と出逢う。

美しい静止画を瞳の奥に刻みながら、都の辿った軌跡に魅入っていた。

彼の視軸は変わらず、丹頂だけを躡い続けている。

その一途さがこの先、完遂された総集を創り上げていくのかと想うと、何とも言えない感情に駆られてしまう。

「色々なアングルで丹頂を撮って来たけど、未だ足りないな。赤い息を吐く鶴の姿も撮れていないし、欲しいと想う絵姿が幾つか存在する」

現状には満足し切れていないといった面持ちで、都が唸る。

「そもそも丹頂を撮りたいと想ったのは、写真家の塩里さんの影響なんだろ。もし、塩里さんの作品に出逢ってなかったら、今頃は何の被写体を追いかけていたと想う? 都」

「そうだなあ。風景もいいけど、やっぱり生き物かな。自然の中で戯れる姿がいい。とにかく、人間以外のな」

「都らしいね」

相変わらずな彼の様子に、僕の頰は緩んでしまう。

すると、僕達の遣り取りを何気なく眺めていた銀花が突然割り入ってきた。

「二人だけで楽しそうに話して、ずるい! 私も混ぜて」

「何だよ、銀。いきなり。だーめ。今、黎との旅話に浸ってるから。最も銀が丹頂に優る美の被写体でも知ってるなら、仲間に入れてもいいけど」

「生き物じゃなくてもいいの?」

「ああ」

銀花は両手に抱えていた籠の中に残る少量の花弁を覗き込むと、想い出した様に呟いた。

「フロストフラワーはどう。別名『霧の花』って呼ばれていて、色々な条件をクリアしないと見ることが出来ない珍しい光景なの。真冬で湖が凍るとその花が現われるんだけど、簡単にはいかないみたい」』

「フロストフラワー……。知ってたか? 黎」

都の視線がこちらへと注がれる。

耳にしたことのない名の響きに、僕は首を横に振った。

「それって、要は風の向きだとか、微妙な温度差で拝める確率が左右されるっていうレア物か。稀少さは丹頂の赤い息と同等の物を感じるし、カメラに収めれば粋美な作品になることは間違いなさそうだ。ふーん。良い話、聞かせてくれるじゃん。見直したぜ、銀」

知り尽くすには壮大な北海道の美観を、人を通じて得られる現実を嬉しく想う。

幻の花は、僕達にどの様な表情を見せてくれるのだろう。

逸る気持ちを抑えて、美しい姿色を束の間にただ黙想している。

「霜の花ってことなのかな。厳冬期にしか出逢えない幻想的な風景はいいね。僕は是非見てみたい。都もその眼から窺う限り、撮りに行く気でいるんだな」

「当然」




【現在執筆中の長編小説 500枚より抜粋】

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