VARES

孔雀 凌

青と白群のグラディエントから生まれる、向日葵の花。


「落とし物ですよ」

薄汚れた黒い衣を羽織り、片手に子猫を抱えた一人の熟年男性が、青年の背後に向かって呟いた。

嗄れた声に気付いた男は振り返り、テナントビルの玄関口に薄べりを敷いて座り込む中年男を一瞥する。

紛れもなく、浮浪者だった。

無宿の彼とは対称的に、小綺麗な衣服に身体を収め、極めて端整な容姿をもつ青年の諸腕からは仄かな香水が空に漂っている。

──資産家。

誰もが一見してわかる、雅な佇まいだった。









「あんた、玉川学園近郊の邸宅の息子だろ」

黒ずくめの男は青年の返答を待たずにして、言葉を続けた。

そうして何か言いたげな表情を浮かべたまま、小さな猫を自身の膝の上に移すと、薄べりに置かれたいくつかの食品から一つのパンを取り上げる。

青年は煩わしそうに眺めていたが、ようやく口を開いた。

「落とし物じゃない。そいつは捨てたんだ」

「そうか。俺の名はクロウ。あんたは?」

「クロウ? ああ、要はカラスか。他人の御下がりばかりを頂いて、命を繋いでいるみたいだしな」

熟年男を軽く嘲笑うように言った後、青年は自分の姓を「皇(すめらぎ)」 と名乗った。

周囲は古色蒼然とした建物で溢れている。

廃屋と化したテナントビルの数々、主を失って寂れた店舗。

それを理解した上で、皇はこの地を訪れていた。

「皇。今まで手に入らなかった物はあるか」

「不躾な質問だな。想像にまかせるよ」

クロウは薄べりの奥に並べていた複数の缶の中から一つを掴むと、皇の手元を目掛けて無造作に放った。

「ラッカースプレーか。なあ。この辺り一体の落書きって、まさか」

陳腐化した建物の全ての窓ガラスは、種々の鮮やかな色で装飾されている。

それは、非生命的な街並みが息吹を取り戻そうとしているかの様にも想えた。









言いたくないなら、描け。と、クロウは意味深な言葉を小さく吐いて皇の行動を煽った。

「いくら無人の廃ビルだからって、好き放題に落書きなんかしてお咎めを受けないのかよ」

皇は訝しげな表情で繰り言をこぼしながらも、塗料スプレーの蓋を指先で器用に弾く。

狙いを定め、僅かに残された石灰ガラスの空白に向かって、引き金を牽いた。

霧化された美しい瑠璃の色が、無機質な透明板を染め上げていく。

それは、まさに皇が欲している色だった。

クロウの問いかけが、自分の心を揺さぶるのを皇は確かに感じていた。

けれども敢えて応えはせず、ただ黙って描きたい物を探し求めている。

クロウの描く世界はどこか荒唐無稽で意図が掴めないのに、大胆かつ優れていた。

青と白群のグラディエントから生まれる、向日葵の花。

倒立世界を描いた、眩惑を呼び起こす、斬新な構図。

そのどれもに、皇は魅了されてしまう。

自分の傍らにいる皇の姿を視界に捉えたクロウは、ゆっくりと語り始める。









「俺は遥か昔、ある家の使用人として雇われていたんだ。そこには、小さな坊主がいてな」

「クロウ。次、白のスプレー貸して。──それで?」

皇はクロウの話に興味を示し始めている。

対極的な環境に身を置く二人が共に過ごす時間は、稀有な光景だった。

「坊主はこれ以上ないって位に幸福な家庭の中にいたのに、どうしても叶えられない物があると言ったんだ」

クロウはくたびれた鞄の底から、ある物を取り出す。

その指先は最も大切な物に触れる時にしか見せない様な、繊細な動きだった。

色褪せた小振りの箱に収められていたのは、年月による脆さを隠しきれないクレヨン。

「スタイラスペンを使って、パソコン上で絵が描けるこの御時世にクレヨンかよ。大事な物なのか?」

軽く笑って、皇は本能に委ねたまま、塗料による虚構の世界を創り上げていく。

今度は鮮やかな橙色を手に取って、垂直にガラスに吹き付けた。









「ああ、勿論。坊主が俺に託したんだ。宝の様に育てられていたんだろう。ろくに外出もさせて貰えなかったみたいでな。外の世界を代わりに描いて見せてくれって」

クロウの言葉に、皇の指先が塗料の引き金を牽くのを躊躇する。

自身の胸の鼓動が波打つのを皇は聴き逃さなかった。

「俺は二年後に使用人を解雇され、次に再会した時には五歳児の坊主は高校生になってた。俺のことを覚えている様子もなく、彼は荒廃したこの地に猫を放置しに来たんだ。でも、俺の記憶は鮮明だった。こうして、また坊主に出逢えた。あんたのことだよ、皇」

「クロウ。初対面じゃなかったのか……」









未だ見ぬ世界に至純なまでの憧れを抱いていた、幼少期の記憶が皇の中で想起されていく。

満たされた環境下で自覚のない落とし物も存在したはずだった。

欲しいと想う物は全てが与えられ、執着することもなくなった。

気付くと手放したはずの猫が、切なそうな声で主の姿を求めている。

華奢な仔猫の身体を、皇は愛しそうに抱き上げた。

「大事にしてやりな。まだ、飼い主の温もりが恋しいんだよ」

「クロウ。感謝してる」

皇の想いにクロウの横顔が自慢気に笑った。





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