僕だけが知る軌跡

孔雀 凌

僕より後から生まれた君が、この心だけが知る、美しい曲に出逢えるだろうか。


正午過ぎ。

直進する、まばゆいくらいの光を僕の身体が遮り、地上に暗褐色の塊を生み出した。

この足元から伸びた影は、肢体を自由に操りながら、僕の意識とはまったくの別物として、動き始める。

つまり。

自分の中にもう一人、違う人格を持つ人間が存在する、そんな奇妙な光景を目の当たりにしているのだ。

幻なんかじゃない。

いつの頃からか、僕だけが認識できるフシギな現象と化していたんだ。

そう。

おそらく、三年前の事故がきっかけで。






あの日、目にした、照りつける陽射しを覆い隠すように、突如現れた厚い雲。

明暗の境域を浮きあがらせるような、不気味な予兆を匂わせる空の下で、悲劇は訪れた。

列車が脱線事故を起こし、僕の両親は命を奪われてしまったんだ。

事実を受け入れられないまま、時間だけが過ぎていく。

自分の立ち位置も探し出せないままで。

ただ、この半年ほどは、意味もなく自宅と図書館の往復を繰り返す日々を送っている。

規則正しく並ぶ活字を目で追うことで、よけいなことを考えなくてもいいからだ。

閉館までの間、羅列する言葉の集まりを脳裏に叩き込む。

心に何かが蔓延る隙をあたえないためだけにする行動は、無意味なものに他ならなかった。

ただ、そうでもしなければ、自分を保てなかったんだ。

閑かな館内で決まった時刻に訪れる、アナウンス。

あと、十分もすれば、全ての人が本棚で埋め尽くされた、この場所から離れていく。

僕はいつも、受付嬢に声をかけられるまで、残り続けていた。






盛夏の夕暮れは想う以上に明るい。

空を仰いでいたわけでもなく、ひたすらに自分の足元を見据えて歩く先に映る影の姿が、ぼんやりと白昼の名残りを理解させていた。

影は相変わらず、自由に動きを放っている。

この意思とは真逆に。

両手を力なくうなだれている僕に対して、足元で身振りをする影は楽しそうにさえ見えた。

暗色に染まる、その指先が遥か上空を指差している。

だけど、僕は影が何をしようとしているのか、考えはしなかった。

考えたいとは想わなかった。






突然、意識が覚醒する。

誰かが背に触れた気がしたんだ。

振り返ると、知人の姿があった。

「久しぶり。五年振りくらいだな。どうした? そんな顔して。まさか、俺のこと、忘れたわけじゃないだろ」

知人が、僕の顔を深く覗き込むようにして尋ねる。

忘れるわけがない。

大学を一緒に過ごした仲間の一人だ。

けれど、脱線事故以来、他人との接点をも失ってしまっていた自分にとっては、驚く出来事だった。

「実は、大学卒業してから、語学を磨くために海外に行っててさ。また、こっちに戻って来たんだ。そっちはどう。元気でやっているのか」

嬉しそうに話す彼は、おそらく痛ましい事故の真実を知らない。

僕は、重く沈んでいた首を持ち上げて、渋々と胸の内を話し始める。

彼は、しばらく言葉を失ったものの、溢れ出す感情を黙って聞き入れてくれていた。






「ごめん。暗い話になっちゃって」

知人の心にそっと、詫びの想いを示す。

「何、言ってんだよ。一人で大丈夫なのか? 困っていることがあるなら、言ってくれよ。出来る限り、協力するから。友達だろ、俺達」

友達……。

長い間、人付き合いには一線を置いてきた僕にとって、知人から零れた言葉は意外な贈り物だった。

彼は携帯を取り出すと、アドレスの交換を求める。

「今日は、もう帰らないと。連絡待ってるから」

知人は後ろ手を振って、歩き出したかと想うと、再び立ち止まった。

「あ、それから」

今までに目にしたことのないような、優しい視線がこちらに向けられる。






「たまには、空を見上げてみるのも、悪くはないと想うぞ」

「え?」

「ずっと、俯いてばかりいただろ。ま、気持ちは分かるけどね」

知人は地面を指差し、申し訳なさそうに微笑んでから、姿を消した。






――空を。

この足元で動く、自分という名の影が、変わらず遥か彼方を指差している。

何かを訴えようとしていたのか。

僕は、初めて身近な怪現象の意図を知りたいと願った。

流されるままに、導かれる上空を仰ぐ。

そこには、ただ空があるだけだった。

当然のように存在する、美しい夕暮れが街を包んでいたんだ。

袂に宿る空気は、これまで感じた物より、清み切っている気がした。

自分はどうして、ここにいるのだろうと、違う時の中で生まれていたなら、悲惨な事故に巻き込まれずにすんだのだろうか。

誰を恨めばいいのか。

何を憎めばいいのか、この先も決して記憶は報われることなどない。

けれど、自身しか得ることの出来ない喜びもある。

僕より後から生まれた君が、この心だけが知る、美しい曲に出逢えるだろうか。

君は生涯かけても、耳にすることは出来ないかも知れない。

慰め事を想わずにはいられないほど、失った物が過大でも、僕は未だ気落ちなんてしていられないんだ。

友情と、優しい大気と、暖かく照らす光がある限り。




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