第五章

 放課後を知らせる鐘の音とともに、勇一と那美はそろって立ち上がる。

 どこか嬉しそうな那美の様子に、勇一は不思議に思い那美へと尋ねる言葉を放った。

「なんかいい事でもあったのか?」

「内緒」

 にこりと笑って人差し指を唇に当てた那美は、今にも鼻歌を歌い出しそうな雰囲気を放っており勇一は首をかしげながらも、それ以上の追求はやめて大きく息を吐き出した。

 とりあえず今は、机に入っていたあの手紙の主を相手にしなければならないのだ。思わず眉根を険しくしてしまうが、すぐにそれを引っ込めてチラリと那美を見やった。

 それを見とがめられたなら、那美は心配を露わに問いかけただろう。だが、それは杞憂だったようだ。那美は時計を見つめ、小さな頷きを一つすると鞄をとって勇一へと視線を向けた。

「勇一?」

「んでもねぇ。にしても、なんか用事があるのか?」

「まぁ、ね。だから悪いんだけど、今日は一緒に帰れないから」

「あ、あぁ」

 那美の口調の明るさに押され、勇一はたじろぎながらもそう返事する。

 そういえば、と、朝の光景を思い出し、勇一は苦笑で那美に尋ねた。

「須田の件か?」

「そ」

 軽く頷いた那美は、同じく今朝の勇一の態度に違和感を感じたのか、小首を傾けて声をかけてくる。

「そういえば、勇一は誰に呼び出されたの?」

 核心をついた疑問に、勇一は一瞬身体を硬くする。だが、すぐにそれを消してしまい、安心させるように勇一は言を綴ろうとするのだが、その前に那美が口を開いた。

「大丈夫?」

「多分、な」

「なんだか、その答えってはぐらかされてる気がするんだけど」

「んなことねぇよ」

 僅かに眉根を寄せて那美は、勇一の真意を探るような視線を向ける。

 それを黙って受け止め、勇一は口の端を僅かにあげるだけにとどめて、その先を閉ざすように目線で促した。

 しばらくの間じっと勇一を見ているが、やがて小さく吐息をついて那美は諦めたように肩を落とした。

「無茶しないでよ」

「分かってる」

 その答えに納得できなかっただろう。那美は顔をくしゃりとしかめるが、それ以上は何も言わずに鞄を持ち上げた。

 追求がないことにほっとしつつ、勇一は手紙の件を思い返して眉間に険しさを滲ませると、那美同様に鞄へと手を伸ばした。



 トントン、と爪先と靴を合わせるように動かした後、那美は小さな笑みをこぼしたつつも、ふっと深呼吸を繰り返していることに気付き、慌ててそれを消し去ると昇降口を後にした。

 忍の相談事など、昨日の件を見れば明らかな事だ。もちろんそれはもう一方の当事者も同じ事のために、嬉しいことと言えるだろう。だが、真由美に対してはどうしても消えない違和感が那美の心の中に根付いているために、真由美本人を前にしてそれを指摘できるか不安が残ってしまう。

「さて、っと……」

 思ってもいなかった呟きを耳にした那美は、思わずそれに対して瞬きを繰り返してしまうと、僅かな失笑を口の端に刻み込んだ。

 今一番に考えることは、忍の懸案だ。それに、真由美の豹変ともいえる態度を口にしたところで、忍が困ってしまう事は明白な事実だろう。

 とはいえ、二人の思いは分かっているつもりだ。だからこそ、忍の相談事に対しては嬉しさもあるし、それ故に自分を頼ってくれたと思っていいのだろう。

 そう思い至るのだが、ゆっくりと那美の唇をついて出た吐息に混ざるのは、いろいろな色をした感情だ。

 その中でも一番強いのは、考えたくはないが不安という色合い。

 自分の思い違いかもしれない、と言いきかせつつも、どこかで自分自身の勘を信用すべきだ、との声も聞こえてくる。

 苦いものを飲み下したような表情を浮かべていることに気付き、那美はフルリと頭を横に振った。

 なんとか気持ちを切り替えねばと考えつつ、那美はゆったりとした歩調で指定された場所へと向かう。

 下校時間とあって人混みはそれなりにあったはずだが、目指す方向からは人の気配が漂ってくることはない。

 元々不人気な場所でもあるため、さしてその事に気を留めずに那美はチラリと右手首にはめられた腕時計に目を落とした。

 時刻を四時としていていたことに思い至ったが、律儀な後輩の性格を考えれば時間前にその姿を現すだろう。そう判断してしまえば、気持ち的にも余裕というものが生まれてくる。

 降り注ぐ日光に眼を細め、那美は平和とさえいえる景色に身を委ねる。こうしているのは、いつ以来のことだろうか。そんな考えを抱いてしまうのは、この場合仕方のないことなのかもしれない。

 勇一の身の回りで起きていること。そして、自分がその先端をつついてしまったことを思い返せば、こうやって暢気ともとれる相談に乗るというのは、今までの当たり前を想起させるには十分すぎる事柄だ。

 ふぅ、と身体から緊張感が抜け落ち、とりとめのないことがつらつらと頭の中を駆け巡る。

 自分は、勝手に忍達の心をかき回してもよいのだろうか。

 忍はともかくとしても、真由美の心情は一体どこを指しているのだろうか。

 いろいろな事を考えながら、ゆったりとした足取りで前へと進む那美が、近づく気配に足を止めた。

「先輩!」

 案の定、と言うべきか。背後からあがった元気な声に、那美はそちらに視線を向けると、小走りによってくる忍の姿を視界に収める。

 まだ指定場所までは距離があるが、それでも急ぎ足で近づく忍の行動は、まるで子犬のような態度に見え、微量の安堵を乗せて那美は忍を出迎えた。

 那美と忍は第三東屋の中間地点で立ち止まったのは、もしかしたら他人がいるかもしれない予測にしたからだ。

 あの場所に通じる道は二カ所あるが、那美や忍が選んだ道筋、第二通路ははやや入り組んだ作りのために、生徒達からは敬遠されている場所でもある。そのため、他人の耳に入れたくない事柄を話すには最適な場所といえるが、どこかで誰かが聞いているとも限らない。

 だからこそ、忍はこの場所を指定したのだろうが、それは杞憂に終わっており、今の所那美と忍以外の姿は見つからない。

 周囲を見回した後、忍はぺこりと頭を下げた。

「すいません、遅くなって」

「別に待ってないから、大丈夫よ」

 すまなそうに謝罪する忍だが、那美の返答にほっとしたように微笑を浮かべる。

 そんな忍の態度に、思わずといった様子で那美は苦笑を浮かべる。その表情を見た忍は安堵から一転、落ち着かないようにあちこちに視線を巡らせた。

「その……先輩……あの、ですね……」

「ん?」

 徐々に顔を赤らめながら、忍は話しの切り口をどうにか見つけようと口を何度も開閉させる。

 言いたいことは分かっているが、それでも忍の唇から素直な気持ちを引き出さし、その気持ちを確かめなくては、この先の進展は危ういものとなるだろう。

 黙って先を待つ那美の姿に、忍は何かを決意したような真顔となり、ゴクリと息を飲み込んだ。

「僕、成瀬さんから告白を受けたんです」

 まかり間違えばそれはのろけにしかならないが、忍の真剣な顔を見ればそうではないということがよく分かる。

 だからこそ、直球で那美は問いかけることが出来たのだ。

「須田君は、成瀬さんのことどう思ってるの?」

「ぼ、僕、ですか?」

「そう。須田君の気持ち」

 じっと視線を固定させられれば、嘘や誤魔化しを許されない空気が流れる。それ故に、忍は緊張した面持ちで那美の視線を受け止めた。

 自分の気持ちは決まっている。だが、それを口にしてしまえば、記憶の底に封じ込められている『何か』を裏切ってしまうことにもなる。それ故に、自分の気持ちを前面に出すことを自分自身が許せなくなり、忍は唇を引き結んでどう答えるべきか思案するために眼を細める。

「僕も、成瀬さんが……好き、です。でも……」

「でも?」

「その好意を、受け止めちゃ、いけないんです」

 絞り出すようなその声に、那美は驚いたように忍を見つめた。

 既視感に、那美は襲われる。

 忍が身に纏う空気は、あの時と似通った雰囲気放っている。それは、那美が肌で知っているものと同質といえるだろう。それ故、那美は忍に対して探るような眼を向けてしまった。

 今朝話している時に感じた空気と、眼の前に立つ忍の身の内から湧き出しているもの。それは、記憶を取り戻した時の勇一と同一のものだ。まさか、と言う気持ちが強いが、それでも間違えることのないそれに、那美は己を落ち着かせるために深く息を吸い込んだ。

「どうして、って聞いてもいい?」

「それ、は……」

 問われた忍が、自分の心を上手く言い表せない不安と焦燥に、難しげに大地を睨み付けた。

 訳の分からない自分の心を整理しようとするのだが、それが上手くいかない。それどころか、それを那美に話してもよいものか、と言う疑惑がふつふつと沸き起こってくる。

 笑われるだろうか。それとも、心配をかけてしまうだろうか。

 圧倒的に後者のような気もするが、これは自分の問題だと頭を切り替え、忍は当たり障りのない言葉を探すように那美に視線を戻した。

「僕には、そんな資格ないんです」

「資格って……そんな風に考えたら、自分の気持ちに嘘をつくことになるわよ」

「分かってます。でも……巻き込みたく、ないんです」

 口をついて出た言葉に、あぁ、そうか、と忍は納得する。

 自分は、自分の周囲で起きるだろう未来に、大切な者を作りたくはないのだ。

 もしかしたら、自分のせいで彼女が傷つくかもしれない。その可能性の大きさに、忍は二の足を踏んでいたのだと、改めて気がつく。

 困ったように眉根を寄せる那美だが、忍の心の内にあるしっかりとした意志の強さをみては、軽く答えを返してよいはずもなくどうすべきかと思案に暮れるしかない。

 だが、ふいに何かに気付いたように、那美は周囲を見回した。

 おかしい、と思ったのは、直感めいたものだ。

 人がいないのは当たり前としても、何かが心の中で騒ぎ出す。

 何に対してか、と考え、那美は肌で感じるそれに身体をこわばらせた。

 空気が、緊迫に満ちている。

 その中に流れる僅かな殺気を感じ取り、那美は不安にかきたてられた。

 まさかとは思うが、勇一もまた第三東屋に呼び出されたのではないだろろうか。

 その思考に至り、那美は真剣な表情で忍に話しかけた。

「須田君。突然だけど、ごめんね。三年の秋山先輩、知ってる?」

「え、えぇ」

 那美の尋常ならざる雰囲気に飲まれたように、忍は眼を瞬かせて頷いた。

 何故その名が出たのか疑問に思うが、それでもそれを問いかけることが出来ずに、忍は僅かに首を傾けて那美の次の言葉を待つ。

「悪いんだけど、阿修羅、じゃなくて、秋山先輩呼びに行ってくれないかな」

 那美の唇からついて出た名前に、忍の背に電流が流れたように一瞬硬直してしまう。

 阿修羅。

 その名前なら、寺の息子である忍もよく知っている。だが、今感じたのは、その名は奥底の記憶を刺激するほど大切な名前だと分かったためだ。

「須田君」

 だがそれはほんの一瞬の出来事だった。焦りを煮詰めたような表情を浮かべる那美の姿とそれ以上に焦燥を帯びた声音に、何か大変な出来事が起こっていることは想像に難くない。

 だからこそ、忍は力強く頷き、校舎に向かって駆けだした。

 その背を見送った後、那美は第三東屋に向けて射るような視線を送りつける。

「勇一……」

 きゅっと唇を噛みしめ、那美は第三東屋に向けて歩き出した。



 緊張を身体に巡らせながら、勇一は第三東屋に向かう一つ目のルート、第一通路を使用しつつ慎重に歩を進ませていた。

 元から不人気の場所のため、他の誰かと会うということもない。だが、いつも以上に人気を失ったかのような静けさは、不自然を通り越して故意に他人を寄せ付けない雰囲気に満ちあふれているといってよいだろう。

 その事に小さく舌を打ち付け、勇一は苛立たしげに辺りを見回す。

 自分以外、誰の姿もない。

 いったい何者なのだろうかという疑問はつきない。

 だが、その答えはいずれ分かることだ。

 その姿を引きずり出し、決着をつければすむだけのこと。

 そう言い聞かせ、勇一は歩調を少しずつ緩めていく。

 やがて、第三東屋が視界に入ってきた。そこに手紙の主はまだ姿を見いだせず、勇一は僅かに詰めていた吐息を少しばかり吐き出した。

 僅かではあるが、身体の緊張が和らぐ。

 だがその瞬間、明確な殺意が勇一に突き刺さった。

 咄嗟のことに身構える暇もなく、突如現れた巨大な影の一つが勇一の左腕に喰らいついた。

「っ!」

 痛みに顔が歪み、勇一は乱暴な動きで腕を振る。と同時に、自分を襲った相手が何なのかを理解した。

「鵺かよ……」

 呟いたと後に、またしても遠隔操作で鵺達を操る刺客の小狡さを、勇一は怒りの余り奥歯を噛みしめた。

 叫びだしたい衝動を抑え、勇一は右手に意識を集中させる。

 思い出せ、と強く自分の中に呼びかける。それに呼応するかのように、右手に熱が集まっていくのが分かる。そう感じた途端、燃え上がるような熱さを握りしめるや、銀色の閃光が宙を切り裂いた。

 躍りかかってきた鵺の一匹の断末魔が、勇一の耳朶を打ち付ける。

 ドサリと重い音を立て、身体の半分を切り裂かれた鵺の死体に、他の鵺達は威嚇と警戒の呻り声をあげながらも、すぐにも勇一に飛びかかれるような位置をとりつつガサガサと前足で大地を蹴りつけた。

 残り二匹。それを片付ければ、刺客の姿を引きずり出すことは出来るだろう。

 ペロリと唇を舐めた勇一は、龍牙刀の柄を強く握りしめる。

 そんな勇一の姿に、幾分か恐れを抱いたように鵺達は距離を取るべく足を動かした。

 だが、すぐにそれをやめた鵺達は、逆に何かに急き立てられるようにして勇一との間合いを詰めてくる。その瞳に宿った狂気と焦燥に、勇一は一瞬疑惑に駆られるが、すぐにそれを消し去るとじりじりと爪先を鵺達に向ける。

 トン、と、同時に両者が軽く大地を蹴りつける。真っ向から向かい合ったのは、刹那の時間と言えるだろう。鵺の一匹の胴体を二つに裂き、そのまま返す刃でもう一匹の頭を切り落とす。

 ざっと砂に帰った鵺の姿を眺め、勇一は辺りに視線を巡らせた。

 緊迫感に満ちた空気がその場に落ちる。だが、それはすぐにクスクス、という嗤い声によって破られた。

「誰だ!」

 ユラリ、と眼の前の空気が揺れる。

 あからさまな殺気を感じ取った瞬間、何かが勇一に向かって飛来する。それをなんなく切り捨て、勇一は嗤い声の上がった方向へと目線を向けた。

「なるほど、鵺や私の遠距離攻撃では、簡単には死なぬか」

「……出てこい。それとも、怖くて出れねぇのか」

「ほう、一丁前に挑発は出来る、というところか」

 感心したようにそう返し、相手は今まで消していた気配を解き放つと、ゆっくりとその姿を露わにする。

 その姿に、勇一は驚いたように目を見張った。

 自分の前に現れたのは、勇一もよく知っている人物だ。だが、その身に纏う雰囲気も、浮かべる表情も何もかもが違う。

「てめぇ、誰だ」

「そうか。私に合うのは、初めてだったな」

 ククッと喉を震わせるその姿は妖艶な色を帯び、その姿からは信じがたいものを感じ取る。

「成瀬、お前……」

「死すべき者に名乗るほどの名はないのでな。

 ここで死んでもらうぞ、沙羯羅龍王!」

 残忍さを隠すことなくそう叫び、成瀬真由美の姿をした『何か』はパチンと指を鳴らしてその背後から鵺を呼び出し、まっすぐにその白い指先を勇一に向けた。



 拳を握りしめ、那美は眼の前の何もない空間を睨み付けていた。

 何度目かは分からないが、それでもなんとか中に入るために那美は手を伸ばす。だが、それはバチンという拒絶の音ともに、鈍い痺れを身体に伝えてきた。

「どうして……」

 結界が張られていることは、それだけで理解させられる。

 何も出来ない。それが不甲斐なさと悔しさを那美に与え、ぎゅっと強く那美は唇を噛みしめた。

「那美!」

 背後から聞こえた声に、那美は勢いよくそちらに身体を向ける。

 ほっとしたように、那美はこちらに駆け寄る阿修羅の姿を視界に入れる。

 これで、現状は動く。その事に安堵を覚え、那美は今まで見つめていた空間に視線を戻す。

「勇一は中か?」

「そうみたい。

 やっぱり、刺客の仕業よね」

「あぁ」

 簡潔に答え、阿修羅は眼の前に張られた結界に舌を打ち付けた。

「かなりの結界だな。普通の人間ならば、ここに近寄ることもないだろうな」

「そんなにすごかったの」

 瞬きを繰り返し、呆然としたようにそう呟いた那美の姿に、阿修羅は一瞬だが苦笑を浮かべる。

「お前の場合、勇一が絡むと普通以上に勘が働くらしいな」

 きょとんと阿修羅の言葉を聞いた那美だが、すぐにむっとしたように眉間を寄せた。

 何かを反論すべきだと感じ口を開きかけるのだが、それは阿修羅の制止するような行動でそれを閉ざした。

 阿修羅の視線が、今来た方向へと向けられている。訝しげにそちらへと目線を向けた那美だが、現れた人物に驚いたような声を上げた。

「須田君!」

「那美先輩、ここにいたんですね」

「どうしてここに……」

 驚いた表情を浮かべる那美の姿に、忍はきょとんと眼を見開いた。

 自分がいては何か不都合でもあるのだろうかと考え込んでいるのは、忍の顔を見れば理解できるのだが、先ほどの阿修羅の言葉を信じるならば忍がここに来られるはずはないのだ。

「あの、ここに来たらまずかったですか?」

「えっと、その、そうじゃなくて」

 思わず助けを求めるように阿修羅に視線を送るのだが、阿修羅の雰囲気には僅かに息を飲み込むだけで何も言わことはなく、那美は忍と阿修羅を交互に見やってしまう。

 厳しい表情を浮かべて忍の姿を視る阿修羅は、何かを思案するようにその瞳を細めるだけで、明確な答えを示そうとはしない。

「阿修羅……」

 小声で那美がそう呼びかけると、現実に引き戻されたかのように阿修羅は細く息を吐き出した。

 どうするの、と目線だけで問いかける那美に向け、阿修羅はかまわないと言いたげに頭を横に振り、すぐに眼の前の結界に目線を戻した。

「壊すぞ」

「壊せるの?」

「当たり前だ」

 苦笑でそう切り返し、阿修羅は厳しい表情を浮かべる。それを見届け、那美は忍が佇む場所まで後退するのを確認すると、阿修羅は軽く目を閉じて呼吸を整えだした。

 一分の隙もない自然体に、忍は感嘆したような吐息を漏らす。

「先輩」

「しっ!」

 何かを尋ねようとする忍を制し、那美は鋭い声でそれを遮る。何が起きているのか分からないが、それでも那美達の雰囲気に飲まれたように忍は口を閉ざした。

 ユラリ、と阿修羅の周囲の空間が歪む。

 それに反発するかのように、バチバチと空気が弾くような音を立てる。

 一際大きな音を聞くや、阿修羅は瞼を開けると同時に修羅刀を取り出すと、それを真横に振り払った。

 その瞬間、甲高いガラスが割れるような音が響き渡り、突風と化した空気が三人の身体を叩きつけた。

「阿修羅!」

 荒く肩で息をつき、黄金色の瞳となった阿修羅の姿をみるや、那美がすぐさま駆けよると、心配そうにその顔を見つめた。

「大丈夫だ。それよりも」

 流れてくる凄まじい闘気に、阿修羅は険しい表情でその先に目線を固定させた。



 鋭い爪が、勇一の鼻先を掠める。

「くそっ!」

 悪態をつきつつも、勇一は鵺の攻撃をすべて紙一重でかわしていた。

 その様子を愉悦に満ちた表情で眺める少女は、己の勝利に酔ったように高らかな声を放った。

「その程度の神力しか使えぬとは、昔とは比べものにならぬ。

 その剣すらも使えぬ貴様など、我等にとっては取るに足らぬ存在よの」

 侮蔑と揶揄をその顔面に張り付かせ、少女は悠然と眼の前で繰り広げられている戦いを眺める。

 だが、ふと何かに気付いたように舌を打ち付けた。

「結界を破壊したのか。厄介と言うべきか、存外早かったと言うべきか」

 呟いた言葉とは裏腹に、少女の口調はどこか楽しそうな響きが籠もっている。

 ここで邪魔者を消し去ってしまえば、自分の地位は今以上に高くなるのは確定したも同然だ。多少手こずるであろうが、自分には奥の手がある。それがある限り、阿修羅王とて手出しは鈍るはずだ。

「勇一!」

「来るな!」

 駆けつけた那美の驚いた声が耳に届いた瞬間、勇一はためらいなくそう叫んだ。

 それがつけいる隙となったのか。鵺が勇一の腕に噛み付く。

 牙が食い込み、ドロリとした血が腕に伝い落ちる。それに顔をしかめながらも、勇一は無理矢理その鼻面に拳を叩きつけ、鵺の身体を引き剥がすとそのまま龍牙刀を振り下ろした。

 チラリと声が聞こえた方向へと視線を向ければ、阿修羅は那美の肩を掴んで冷静な視線で戦場の様子を見つめていた。

「ちっ。やはり下級のアヤカシか」

 その声を聞いた那美が、驚きも露わにそちらに目線を向ける。

「成瀬さん……」

 茫然とした声が那美達の背後から上がる。

 はっとしたように那美がそちらに顔を向ければ、この事態について行けずにいる忍の姿が視界に入る。

 よろよろとした足取りで真由美に近づこうとする忍に、阿修羅が鋭い制止の声を上げてその足取りを止めた。

「やめろ!死にたいか!」

 阿修羅の口調の荒さに、真由美はにっと口の端を引き上げる。

 忍の知る真由美ではあり得ない笑みに、忍は凍り付いたようにその場に立ち尽くす。

「久しいな、阿修羅王」

「摩利支天か」

「いかにも」

 酷薄すぎる薄い笑みを浮かべ、真由美、いや、摩利支天は傲然とその場に佇む。

 その様子に、勇一は摩利支天を睨み付けた。

「てめぇだったのか。あいつらを操って自分自身を襲わせ、俺の実力を視るためだけに鵺をたきつけたのも、あの視線も、全部てめぇか!」

「いかにも。

 人間の器を使えば、いかなる神力の持ち主とて探知しだすことは出来ぬゆえな。なかなか面白かったぞ。貴様がのこのこ私を助ける様は。貴様の今の神力も十分に見せてもらったことだしな」

「このっ!」

「やめろ勇一!その娘を傷つけても、奴は傷一つおうことはない!」

「どういうこと?」

 余りの事態について行くことが出来なかった那美だが、阿修羅の言葉に青ざめた顔でそう問いかけた。

「さすがは阿修羅王。一目で見破ったか」

 くくっと喉を震わせ、摩利支天は嘲るように勇一達を見回した。

「この娘が望んだことを、私が叶えてやったまでのことだ。

 助けてくれと、こう望み、私はそれに応えた。その代償として、私はこの娘の『肉体』を器として使っているだけのこと。『器』である以上、私はこの娘と同化したわけではないからな。なればこそ、分かるであろう?

 貴様らがこの娘を傷つけ、私を殺そうとするならばそれはそれでよい。私は迷わずこの身体を捨て、『外』へと出ればよいだけのこと。

 さぁ、どうする。沙羯羅龍王」

「何で……何で助けを望んだの!」

 那美の血を吐くような叫びが、辺りに響き渡る。

「応えて!お願い!」

 阿修羅の手を振りほどき、那美はまっすぐに摩利支天へと問いかける。

 いや、摩利支天にではない。摩利支天の中にいる成瀬真由美自身へだ。

「無駄だ。この娘に何を言ってもな。

 この娘はな、下卑た者達に身体を暴かれようとしていたのだ。それが女にとってどれほどの屈辱か分かるであろう。だからこそ、助けを求めた。もっとも、そやつらを殺したのは、この娘の肉体を使い、私がやったことだかな。もっとも、自分の手が血に染まっていると知ったこの娘は、心を閉ざしてしまったがな。しかし、意識を閉ざされてはこちらが不都合になる。故に適当なところで記憶を消してやり、それを忘れさせて普段通りの生活をさせていた。

 もっとも、今はその記憶の封印を無理矢理壊してしまったがな。おかげで、娘の心も砕けたぞ」

「なっ!」

 勇一と那美、そして忍が息をのむ。

 酷いと一言で終わらせることが出来ないその所業に、勇一達は怒りに身を震わせた。

「あんたにそんなことする権利はないわよ!そんな、自分勝手に人の心を踏み台にするなんて……あんた達の方が、よっぽどじゃ邪神じゃないの!」

 那美のその言葉に、摩利支天は不機嫌も露わに顔を歪めた。

「小五月蠅い小娘が。貴様のような下賤な存在に、その様な事を言われる筋合いなどない!

 まずは貴様から殺してくれるわ!」

 摩利支天の指先に、小さな炎が灯る。

 すいっとその指先を那美に向け、摩利支天は傲然と笑った。

「死ね!」

 真紅の炎の舌が、那美に向かって伸びていく。その様に息を飲み込み、那美はその場に立ちすくんでしまう。

「那美!」

 ほんの僅かに離れていた阿修羅が、那美に向かって駆け寄ろうとする。

 だが、再び摩利支天が鵺を呼び出し、その動きを封じるために阿修羅に向けて攻撃するよう命じた。

「邪魔だ!」

 そう叫び、阿修羅は空中で修羅刀を一閃させる。苦悶の悲鳴を上げることも出来ず、鵺は呆気なくその身体を砂塵に変えてしまう。

 その様子をただただ茫然と眺めていた忍が、呻くような声を上げる。

「僕は……」

 あの姿は、見覚えがある。

 記憶の奥底に眠っていた何かが、少しずつ思い出されていく。

 今までは、指先から流れ落ちる砂のようなものであったそれが、ゆっくりと忍の中で明確な形となり、まるでパズルのピースのように填まっていく。

「那美ー!」

 勇一の悲鳴にも似た声が、忍を現実へと引き戻した。

 あと少しで炎が那美を焼き尽くそうとした瞬間、勇一は力の限りを込めて龍牙刀を振り下ろした。

 太刀から放たれた神力が、あっさりと炎を打ち砕く。

「馬鹿な……」

 摩利支天の口から呆けたような声が漏れ、驚愕したように勇一を見つめる。

 勇一の持つ太刀に視線を釘付けにし、忍はそれをつぶさに観察する。

 二匹の龍が絡み合うように形取られた柄。その先は、ぽっかりと穿つ穴が開いており、今だ不完全なことを示している。それは紛れもなく八部衆の一人、沙羯羅龍王が持っている龍牙刀りゅうがとうだ。

「何で、完全じゃないんだろう?」

 現実離れした『現実』についていけず、忍は真っ白になった頭でそう呟く。

 あれは、あの柄の先には、沙羯羅龍王の瞳と同じく深緑の宝珠が組み込まれていたはずだ。

「終わりだな、摩利支天」

 那美を庇うようにして立つ阿修羅が、冷ややかに摩利支天を見つめる。

 ぎりり、と歯をかみ合わせ、摩利支天は憎悪に染まった視線を阿修羅と勇一に向けた。

「人間の肉体に入っている以上、本来の神力は使えぬ。貴様の負けだ」

 断言され、一瞬摩利支天は怒りに身体を震わせる。

 だが、何かに気付いたように、摩利支天は狂ったように笑い出した。

「何がおかしい」

「残された道はある、と言うことだ。

 このまま引き下がるとでも思うたか!阿修羅王、貴様はどうか知らぬがな、沙羯羅龍王はこの娘は殺せぬ。

 一つ教えてやろう。確かに、この小娘の心は砕けた。だが、砕けただけだ!この娘の心は今だ消えてはおらぬ!完全にはな!」

 その言葉に、勇一と阿修羅は動きを止める。

 阿修羅でさえためらうであろう事を、摩利支天は最後の切り札として振りかざしたその言葉は、勇一と阿修羅の行動を止めるには十分すぎた。

 手にしていた細身の剣を勇一に向け、摩利支天は試すように口を開く。

「さぁ、どうする?この小娘を殺し、私も殺すか?」

「汚ねぇぞ……」

「やはり、殺せぬか?ならば、この娘の身体で戦わせてもらおう!」

 ふわり、と、舞うように摩利支天が動き、一気に勇一へと走り寄った。

 ギン!と、甲高く重々しい音が響き渡る。

 なんとか真由美の身体に傷をつけずに済まそうとするために、防戦一方にまわらざる得なくなった勇一は、それでも摩利支天の太刀をなんとか捌きながらその隙を見つけようと必死に頭を回転させていた。

「や……やめるんだ!成瀬さん!」

 忍の絶叫が、辺りの空気を震わせる。

 ぴくん、と、その声に摩利支天が反応する。

 それを見逃すことなく、勇一が摩利支天の剣を力任せに押し返した。

 なんとかその動きを読んだ摩利支天が、一気に勇一との間合いを取るように背後に下がる。

「くっ……」

 一体何が、と思う勇一達の前で、摩利支天は震える右腕を左手で押さえつけ、呻くような声を上げた。

「小娘が……」

 眉根を寄せて苛立たしげに呟くが、己の意思など関係なく摩利支天は声の上がった方向へと顔を向けていた。

 それに驚愕したのは、摩利支天だ。

 砕けたはずなのだ。

 心など、残っているはずがない。それほど完膚なきまでに叩き壊したはずだ。なのに……。

「馬鹿な……」

 苦しそうに呟き、摩利支天は激痛に身体を折り曲げそうになる。

 真由美の意識の中で、二つの意識がせめぎ合っていた。

 一体何が起きたのか分からず、勇一や阿修羅達はじっと真由美を見つめていた。

 他を圧するような純粋な力が、少女の身体から迸る。

「……め……」

 やがて、その唇から、かすれた声が漏れ出た。

「だめ……やめて……お願い……あの人達を、殺さないで……」

「成瀬さん」

 忍が一歩前に進む。それを察知した真由美が、泣き笑いに似た表情を浮かべて忍へと視線を向けた。

 その表情を視た忍が、僅かに息を飲み込み歩みを止める。

 透き通った真由美の笑みは、誰もが動くことが出来なくなるほどの力が籠もったものだからだ。

「ごめん、なさい……この身体は、彼女、いえ、彼の、ものなんです……あたしが、望んでしまったから……たった一つ、望んでしまったから……助けて、ほしかったんです……でも、それ以上に、あいつらの死を、望んだから……」

 真由美の瞳から、幾筋もの涙がこぼれ落ちる。

 壊れたはずの真由美の心が、忍の声によって引き戻されたのだろうか。忍を見つめる真由美の瞳は確固たる意思に満ちあふれ、何かをしようとしていることを如実に三人に伝えていた。

 ―やめろ!小娘!何を考えておる!

 摩利支天の焦りに満ちた声が、勇一達の脳裏に響く。

 真由美の行動をなんとか止めようと慌てふためく摩利支天の口調は、真由美の思考を全て理解しているためだろう。

 だが、そんな摩利支天を逃がすまいと、真由美は身体を丸めて苦悶に顔を歪める。

 そして、最後の力を振り絞るかのように、真由美は忍に目線を合わせた。

「須田君、ごめんなさい……好きでした……」

「成瀬さん」

「この気持ちだけは、本当なんです……本当に、好きでした……」

 ふわり、と、悲しいまでの微笑。

 それを視た者達が、察知する。真由美が何をしようとしているのか。

「だめだ!やめるんだ!」

 忍が、真由美に向かって走り出す。

「ごめんなさい……本当にごめんなさい。

 さよなら」

 ―やめろ!貴様!

 摩利支天の声に、真由美は優しさすらも籠もった儚い視線で自分が握っている太刀を見やると、くるりとその刃を自分に向ける。

「だめ、逃がさない……だから……」

「だめだ……成瀬さん、止めろー!」

 一緒に、逝って。

 須田の絶叫と、それに重なるような真由美の囁き。

 そして次の瞬間、真由美はまっすぐに自分の胸に太刀の刃を自身の身体に刺し貫いた。



 全てが、凍り付く。

 那美が声にならない悲鳴を上げ、くずおれていく真由美の姿を見つめる。

 勇一や阿修羅もまた、真由美の取った行動を信じられずに驚愕を顔に貼り付けていた。

 真由美の胸から、深紅の花が散っていくように血が噴き出し、大地に伏すと同時にその場へと広がっていく。

「成瀬さん……」

 茫然としていた忍が、よろよろと真由美に向かって歩き出す。

 だがそれは、不意に聞こえた声によって遮られた。

「おのれ……小娘が……」

 苦痛に混じり、苛立たしげな声があがる。

 頭上から聞こえた声に、勇一達は視線をあげて声の主を睨み付けた。

 男性とも女性ともとれる優美な顔立ちが、今は凄まじい憎悪と屈辱に染まっている。

 その身に纏った甲冑の胸の中央には盛大なひびが入っており、それが一体何によって出来上がったのかは一目瞭然といえるだろう。

「てめぇ……」

 真由美の身体を一瞬早く捨てさり、その場に実体として現れた摩利支天へと、勇一は今までから考えられないほど桁違いな闘気と怒りをその身体から立ち上らせた。

 それを受け止め、摩利支天は忌々しげに言葉を吐き捨てた。

「そこな小娘が意識を取り戻さねば、貴様らを簡単に殺せたものを」

 ギリギリと悔しさに奥歯を噛みしめ、摩利支天は阿修羅を鋭い眼で見下ろした。

「貴様としては、都合がよかろうな、阿修羅王。

 沙羯羅龍王が覚醒した以上、他の邪神共、あの八部衆がこの地で覚醒し、またぞろ結束するのは眼に見えておる。そして、修羅界を復活させ、天界へと攻め込むであろうよ!

 だが、そんなことはさせぬ!断じて、断じてだ!あの時も……貴様らが……難陀なんだ龍王が反旗を翻さず、帝釈天様のお言葉を信じておれば、このようなことにならずにすんだ!

 結果的に、そこな小娘が死んだのは貴様らのせいだ!」

「黙れ!己の所業を我等の咎にすり替えるな!やはり、貴様らは腐りきった者達と言えるだろうな。

 我等は己の信じた道を進んできただけのこと。それを貴様如きにとやかく言われる筋はないと思え!」

「貴様……!」

 阿修羅の言に、摩利支天は一瞬にして般若のような顔付きとなり、顔面を主に染め上げた。

「減らず口を叩きおって……ならば、その口を塞いでくれる!」

 ゆらり、と摩利支天の周囲の空間が揺らめく。

 陽炎と言えるそれが、白い焔へと刹那にして色を変えた。

「まずは手始めに、そこな二人を殺してくれる……さんざ私の邪魔をしたのだからな!」

 そう叫ぶと同時に、阿修羅の背後に立つ那美と、動きを止めていた忍に向けて焔はまっすぐに放たれた。

「そこな小娘共々我が焔に焼かれて死ぬがよいわ!」

「那美!須田!」

 勇一の位置からは僅かに遠く、そして阿修羅の背後といっても少しばかり離れた場所に立つ那美と、真由美のすぐ近くに立つ忍に向け、勇一は焦りに満ちあふれた声をあげる。

 那美だけならば、阿修羅の力はすぐに対応できる。だが、忍への支援はどうしても間に合わない。

 ―賭けるか。

 ギリギリで那美への結界は間に合う。だが、忍に対してその措置がとれない。

 だか、何かが阿修羅の中で芽生えている。それが確固たるものとするために、阿修羅はあえて忍に対しては何の対策もせず、その姿に視線を固定させた。

 上手くいってくれ、と、どこかで願う。

 そして、それは、その場にいる者達の眼に結果として表れた。

 勝利を確信し、喜悦に顔を歪ませた摩利支天だが、一瞬にしてその表情が消え去ると同時に顔面の血の気が瞬く間に失せていった。



 全ての時は止まっていた。

 茫然と、忍は大地に伏した少女を見つめ、ふらりと足を動かす。

 今まで眼の前で生きていた少女は、信じられぬほどに呆気なくその動きを止め、じわじわと地面に深紅の水溜まりを作っていく。

『この気持ちだけは、本当なんです……本当に、好きでした……』

 悲しい、悲しすぎる微笑。

 少女の、最後の告白。

 自分はまだ、何も答えていないというのに。まだ、自分の気持ちすらも、伝えていないのに。

 少女の顔が白さを増していく。まるで掌からこぼれ落ちる砂のように変わっていく顔には、うっすらと涙の筋が浮かんでいた。

 こんな終わりを、させるはずではなかった。

 ―何で、こんなに無力なんだ。

 自分が、許せなかった。

 荒れ狂う怒りと絶望が混然となり、忍の心を焼き尽くす。

 ―何時も……何時も自分の力が足りないせいで、大切な者が死んでいく。

 忍の中で、もう一人の自分がそう呟く。

 ―あの時も、そうだ……。

 その言葉に導かれるようにして、忍の中にいるもう一人の自分が、緩やかに同化を始めていく。

 眼の前を過る光景。

 これは、全て自分の中にある記憶だと実感する。

 眼の前に広がる平原。

 そこに、色取り取りの布地で染め上げられた幾百ものテントが密集している。

 笑いさざめき、幸せに暮らしていた、懐かしくも今はいない人々。

 ―守れなかった。あの時も……。

 焼けた家々。そこに横たわる血まみれの骸達。

 様々な思いが、怒濤のように押し寄せる。

 その中で、見知った者が二人。

 ―あれは……。

 一人は、高橋勇一。その昔、沙羯羅龍王と呼ばれ、難陀龍王の嫡子であり、忍の一番の友。

 一人は、秋山修。過去、そして現在も三千大世界最強の闘神であり、沙羯羅龍王とともに八部衆を束ね、たった一人大冥道をくぐらなかった人物。

 そして自分は……。

「那美!須田!」

 追憶にふけっていたのは、ほんの数秒のことだろう。勇一の声に、忍は我に返る。

 火炎が、自分に迫っている。

 それと同時に、那美の姿が眼に入る。

 守らなければならない。今感じる痛みと、あの時感じた痛み。同じ痛みを繰り返すことのないように。眼の前で死んだ少女のような悲劇を二度と繰り返さないために!

 忍の中で眠りついていた神力が、目覚めの刻をむかえた。

 身体中の力が、右手に集まる。

 その神力が現実的なものへと変化して現れることにより、忍の中にあるもう一人の自分が完全なる同化をはたした。

 今ならば、理解る。

 自分が何者なのか。

 そして、自分のなすべき事がなんなのか。

 右手に現れたのは両刃の太刀を握りしめ、忍は自分に向かってくる焔を一刀両断する。

「目覚めたか……」

 不敵すぎる呟きが、阿修羅の唇をついて出る。

 鳶色の瞳を持つ少年。それが誰であるか、阿修羅も勇一も瞬時に思い出す。

「天王……須田が、天王!」

 忍が手にする太刀、破皇刀はおうとうとその瞳の色を持つ者は、勇一の中では一人しかいない。

 驚いたような勇一とは対照的に、摩利支天は現実の展開について行くことが出来ずに、全身を驚愕に縛られたように立ち尽くす。

「そんな……馬鹿な……」

 摩利支天のうつろな声が、内心の恐怖を如実に物語る。

 それを耳にした忍が、ゆっくりと摩利支天に視線を合わせた。

「摩利支天……お前だけは、許さない」

 静かな、凪いだような口調でそう告げ、忍は視線に鋭さを乗せて殺気を放つ。

 何時もは温和な光をたたえる瞳は、その奥に怒りの焔を燃え上がらせ、摩利支天を圧倒するような光を帯びている。

 その迫力に押され、摩利支天の額から玉のような汗が浮かび上がった。

 逃げなければ、と言う本能が摩利支天の頭を占める。

 だが、それを許すことなく、忍は破皇刀を頭上に掲げると、裂帛した気合いとともにそれを振り下ろした。

 解放された神力が、摩利支天めがけて走り寄る。

「くっ!」

 結界を張ったにもかかわらず、それは紙切れのように易々と破られて、摩利支天の左肩を切り裂いた。

 状況の不利を悟り、摩利支天は一瞬にしてその場から逃れるために急いで姿を消し、静寂が辺りを支配した。




 今まで戦闘があったとは思えないほど、普段と変わりのない空気がその場に流れる。

 力が抜けきったように、忍はふらふらと真由美に近づくとその場に膝をついた。恐る恐る真由美の身体に触れるために、忍は指先を伸ばす。

 触れるか触れないかまで伸びた指だが、真由美の身体が砂のように崩れてしまったことにより、それは空を引っ掻くだけで終わってしまう。

 人間が、あれだけ強大な神力を行使させられていたためなのだろう。肉体の限界は、すでに超えていたため、その身は呆気ないほど簡単に崩壊してしまったのだ。

 那美が、真由美の最後に小さく視線をずらす。

「須田……」

 ためらいがちの言葉が、勇一の唇から押し出される。

 何を言ってよいかが分からない。

 眼の前であんな光景を見てしまったことに対して。そして、自分が覚醒した時の那美の行動を思い返し、勇一は自分がどれほど運に恵まれていたかを痛感してしまったが為に。

 勇一の声に、忍がびくりと大きく肩を揺らす。

 やがて、小さな、まるで囁くような声音が、忍から流れ出た。

「こんな……こんなことに、なるなんて……こんな最後……もう少し、もう少しだけ早く記憶が戻ってたら……神力ちからがあれば、成瀬さんは、死なずにすんだのに……」

「須田君……」

「何時も……守りたい人がいても、守り切れなくて……」

 ガツン、という音が、周囲に響く。

 忍の拳が大地に叩きつけらる音は、幾度も繰り返される。

 そのうちに拳の皮膚が破け、血が飛び散る。だが、それに気がつかないのか。忍は痛みすらもが感じていないかのように、ただただ拳を叩きつけ続けた。

「須田君!」

 那美の声に、弾かれたように忍は顔を上げた。

 泣いてもいいのだ、と那美の視線が語っている。と同時に、那美の眦からも幾筋もの涙が流れているのを見、忍はくしゃりと顔を歪めた。

「僕は……僕、は……」

 嗚咽が、忍の喉を震わせる。

 流れる涙が拳に落ち、涙と血が合わさって大地に染み入っていく。

 何も言えずに、勇一と阿修羅はその背中を見つめていた。

 ふわり、とその場に風が流れる。

 まるで悲しみを包み込むように……。




 水晶球に映し出される映像を見つめ、青年は皮肉げに頬を歪めた。

「愚か者が。あれほど侮るなといったものを……」

 込められた皮肉と侮蔑は、当の本人には届くことはない。

 側に置いてある小さな卓台から杯と取り上げ、青年はゆっくりとそれを傾ける。

 喉を通り抜ける芳醇な酒の香りを楽しむこともなくそれを飲み干し、青年はチラリと背後に視線を向けた。

 何時からそこにいたのであろうか。

 幾重にも垂れ下がった布地を後ろにし、一人の女がその場に佇んでいた。

「何用だ?」

 冷淡な青年の言葉に何の表情も示さず、女は優美な動きで水晶球に近づいた。

 その奥底を見つめ、女は口を開く。

「摩利支天は、破られましたか」

 感情の見えない、独白めいた声音。

 別段青年に何かを求めているというわけではないのか。女は深紅の瞳を細めで吐息をついた。

「……何時まで続くのでしょうね、このような事は」

 唐突、とも言える内容に、青年は女の真意を測るかのようにその顔を見つめた。

「多くの者の血が流れ、多くの者が死んでいく。

 何時、終わるのでしょうね……このような事が、何時まで続くのでしょう……考えたことはございませんか、毘沙門天様」

 女の瞳の奥に、深い陰りが見え隠れする。

 その光に、毘沙門天と呼ばれた青年は僅かに眉を寄せ、やがて大仰に肩をすくめて見せた。

「その様なこと、考えるまでのまかろう。奴らが生きている以上戦いは続く。

 しかし、先ほどの言葉、愛染あいぜん明王、貴様の兄のことを言っているのではないのか?」

 半瞬、愛染明王は動きを止めるが、ゆっくりと頭を横に振り、苦笑じみた微笑を浮かべた。

「どう思われます?」

「さぁな」

「……今更、兄のことをとやかく言ったところで、何になるというのです?無用な血が流れるだけではありませぬか。すでに、兄のことは忘れました。貴公があの方のことを忘れたように」

 瞬間、毘沙門天が敵意や殺意と見紛うほどほどの眼光を愛染明王に向ける。

 しかし、それを受け流して、愛染明王は水晶球に手を伸ばした。

「私は、兄の代わりに明王一族を束ねる身。一族を守るためならば、どのような事でもいたしましょう。たとえあなた方が私を誹ろうとも……私は……」

 ふっと寂しげな笑みが愛染明王の顔からこぼれるが、すぐにそれは消え失せてしまう。

 ふいっと愛染明王は視線を毘沙門天に移し、何時もと変わらぬ凍てついたような微笑を浮かべる。

「今までの言葉、全てお忘れください。私ともあろうものが、どうかしておりました」

 そう言い置き、愛染明王は優美な動きで水晶球に背を向け、毘沙門天の横をすり抜けようとした。

「待て」

 珍しいこともあるものだといいたげに動きを止め、愛染明王は振り返ることなくその場に足を止める。

「城内の噂、聞いたことがあるか?」

「噂、ですか?」

「そうだ。貴様が、人界へと密偵を放ち、その行動を見定めておるとな」

「それはそれは」

「噂は噂だが、十分気をつけることだな」

「お言葉、肝に銘じておきましょう」

 それだけを残し、愛染明王はかすかな衣擦れの音と共にその場を後にする。

 それが完全に消え去ると、毘沙門天は緩く頭を横に振った。

 何故、あのようなことを口走ったのかと、自分自身に問いかけてみる。

「馬鹿なことを口走ったものだな……そう思わんか?」

 相手のいない問いかけは、薄暗い室内を微かに揺らす。

 自嘲じみたものを口の端に乗せ、毘沙門天は杯の中に残っている酒を緩い動きで掻き回すと、それをゆっくりと飲み干すべく口へと運んだ。

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