第四章
小さく生あくびを殺した那美の様子に、勇一は珍しいものを見けたようにその顔をまじまじと見つめた。
「どうかしたのか?」
「昨日、ちょっと考え事してたの。それで、寝不足」
そう言って、那美は軽く肩をすくめる。
どちらかといえば、ここのところ勇一の方が寝不足気味であるというのに、那美がそんなことに陥るなど不思議なことといっても良い。
希なこともあるものだと考えながら、勇一は那美の歩調に合わせて通学路を進む。
眠たげに眼を瞬かせながらも、那美は勇一の心配を払うように笑みを浮かべてみせる。
何かを言いたげに口元を動かしつつも、勇一は那美の行動に押されるようにして小さく溜息をつき、それ以上の詮索をやめてしまった。
那美の行動パターンはよく分かっている。自分が大丈夫だといった以上は、頑としてそれを曲げることはないのだ。だからこそ、これ以上の言葉は無用だと那美の態度は語っていた。
思わずといったように息を吐き出し、勇一は那美の様子を見ながら、まるで何事もなかったかのように声をかけた。
「眠ったら言えよ。ノートぐらいなら何時でも貸せるからな」
「ありがと。そうなったら頼むかも」
苦笑を見せながら、那美は感謝の言葉を口にする。
だが、すぐに難しげな表情で那美はアスファルトへと視線を向けた。
昨日の電話が引っかかっているのは、那美だけが知っていることだ。これ以上勇一に心配かけさせまいと思っても、心の奥底で渦巻く言葉は那美の心を緩く縛る。
そんな二人向けて、突如元気すぎる声がかけられた。
「おはようございます、先輩方!」
「おっす、須田」
「おはよう、須田君」
顔だけ動かして姿を確認し、二人はめいめい朝の挨拶を交わす。
駆け寄った忍だが、不思議そうに那美の顔を見つめると、軽く首を傾げて那美に問いかけた。
「どうかしたんですか、天野先輩?顔色悪いですよ」
「そうかな?」
「そうですよ」
忍の言葉に、那美は僅かに苦笑を口の端に刻んでしまう。
本人に自覚がなくとも、他の人間がみればそれなりに顔色が悪いのだと指摘されてしまうのだから、正直なところ心配をかけさすまいという心持ちになる。
「心配してくれて、ありがと。でも、大丈夫だから」
「そうですか?」
それでもなにか言いたげな忍ではあったが、本人がそう断言する以上はそこから先を進めることも出来ず、軽く息を吐き出して常と変わらぬ態度で二人の背中を追いかけた。
何時もならばそこそこの会話が交わされるはずなのだが、今日に限っては珍しくも静かな道行きに、三人は居心地の悪さを感じながらも、それでもそれを払拭するためにどうにか話題を探すように視線を迷わせた。
だから、だったのだろうか。
一人の少女の背中を見つけ、三人の視線はそれに集中する。
友人と談笑しながら登校するのは、成瀬真由美だ。勇一は道場の側で見た姿を、那美はあのときの会話を、そして忍は……。
ガチリと硬直した雰囲気に、勇一が不思議そうに忍を見やる。
同じように忍に目線を向けた那美が、僅かに口元をほころばせて忍ぶから真由美へと視線を移した。
こちらに気がついていないのだろう。柔らかな笑みを浮かべ、友人と話している姿をみていると、ふと昨日の真由美の態度を思い返してしまい、那美は小さな、だが、はっきりとした違和感を感じ取った。
「天野先輩?」
「ん?」
「成瀬さん、何かあったんですか?」
那美の様子に何か感づいたのか、忍が不安そうに問いかける。
少しばかり驚いたように、那美は忍の顔を見つめた。よく気がついたな、というのが本音だが、それをもう少しばかり発展させてくれれば、という気持ちがないわけでもない。
「別に何もないわよ」
「そう、ですか……」
納得したわけではないのだろうが、それでも心配そうに那美を見た後、忍は真由美に視線を向け、那美が感じた何かを探すようにその背中を見つめた。
そんな忍の様子に、那美は少し困ったように眉尻を下げ、安心させるための言葉を探すが、自分の内心の考えが上手くまとまらずに小さく息をつくだけで終わってしまう。
結局会話らしい会話を交わすことなく、三人は校門をくぐり校舎へと向かった。
終業の鐘が鳴り終わるか否かで、勇一は勢いよく立ち上がると、さっさと鞄に教科書類を詰めていく。
何時もならばゆっくりと支度をする勇一なのだが、あまりも性急に用意していることが珍しかったのか、那美は何かあったのかと不安をあらわに勇一を見上げた。
そんな那美に向け、勇一は不機嫌そうに答えを口にする。
「今日は、阿修羅との特訓なんだよ。先帰っていいぞ」
「あ、うん」
特訓、というより、厳しい修練が待ち構えていることが明白なのは、一度那美もそれを見るためについて行ったときだ。
阿修羅にいいようにあしらわれ、泥だけになりながらも勇一が阿修羅に向かっていく様は、力量差から言ってもまだまだ阿修羅の足下に及ばないことを明示していた。
ついて行ってもよいのだろうが、修練の邪魔になるだけなの知っている那美は曖昧な返事とともにその背中を見送った。
今日もまたドロドロになって帰ってくるだろう勇一の姿を思い返し、那美はクスリと笑みを漏らす。
とりあえず阿修羅がいれば安心は保証される。ここのところ張り詰めたような空気を放つ勇一の姿を見ているため、那美はそっとと息をついて勇一の席を見つめた。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるようにそう呟き、那美は自分も帰るための支度を始めた。
そんな那美の姿を見てだろう。友人の一人が声をかけてきた。
「那美ー、今日帰りヒマー?」
「まぁ、暇って言えば暇だけど。なに?」
「駅前に、新しいクレープ屋が出来たの。一緒に行かない?」
「うーん」
友人の提案に、那美は考え込むような声を漏らす。とはいえ、それは一瞬のことだ。すぐに苦笑を浮かべ、近づく友人達の姿を見ると立ち上がった。
「駅前にそんなので来てたんだ」
「そ」
「おいしいかどうか、試しに行ってみるってとこ?」
「まぁね」
「興味あるし、一緒に行くわ」
「よっしっ!」
「ほんと、高橋がいない時って、那美のこと誘いやすいのよねー」
人の悪い笑みを浮かべてそう語る友人達に、那美は一瞬きょとんと目を見開く。
だが、その意味を理解した途端、那美は憮然とした表情で友人達を見やった。
「なによ、それ」
「いやー、あんた達って、ラブラブじゃん。仲を引き裂いたら悪いと思って」
「ちょ」
「アツアツをみせられてるこっちの身にもなってほしいわよね」
あまりの言い草に、思わず那美はパクパクと口を開閉させる。
と同時に、真由美の言葉を思い出していた。
『嘘つきですね』
鋭いトゲのように那美の心に突き刺さったそれは、否定することが出来なかった自分の本心。それを見透かしたような真由美は、本当はあの時どんな表情をしていたのだろう。
それを隠し、那美は大仰な溜息をついてみせる。
「あのねぇ、あたしと勇一は単なる幼なじみ」
「って、思ってるのは、那美達だけでしょ」
「そうそう。実は高橋も那美のこと好きみたいだし」
「あたし達は、そんな関係じゃないって」
「またまたー」
何を言っても無駄なことであり、自分の窮地を変えることが出来ないと悟った那美は、軽く肩をすくめると話題を誘われた理由に戻した。
「で、そのクレープ屋には、いつ行くのよ。行って休みだった、てことにはならないんでしょうね」
「あぁ、それなら大丈夫。静香がそこら辺はチェックしてたから」
「じゃ、早く行かないとね」
そう言うと、那美は自分の鞄の蓋を閉める。
めいめいが自分の鞄を持って教室を出ると、話題はとりとめのないものへと変わっていく。
昨日のドラマの話しや、本日出された宿題のこと。ごくごく普通の会話を交わす事に、那美はどことなく居心地の悪い思いを抱く。以前ならばそんな感情は抱かないはずだというのに、勇一が覚醒してからの怒濤のような日々の変化は、那美の日常を変えるのには十分すぎた。
小さな、けれども誰にも気付かれない吐息を吐き出し、那美はふと窓の外に広がる景色に眼を向けた。
特別棟に続く廊下と、緑に満ちあふれた中庭は、珍しいことに人影というものが見えない。それ故に、だろう。見知った姿を見つけ、思わず那美は立ち止まってしまう。
「須田君?」
あまり人の来ない場所に佇んでいる忍と、もう一人、その影に隠れるように小さな身体を持つ少女、真由美の様子に、那美は軽く首を傾けた。
距離はあるが、忍と真由美の二人の姿は、はっきりと那美の視界に入ってくる。
どうしたのかと思いながらも、必死さが伝わる真由美の様子に、あぁ、と那美は納得したように頷いた。
「那美?」
「あ、ごめん」
不思議そうに友人に呼ばれ、那美は慌てて離れていた友人達に近づく。
頑張れ、と心の中でのみ放たれた言葉は、祝福の色を帯びたものであり、きっとあの二人の関係が発展するだろうと断定したものだった。
顔を朱色に染めた眼の前の少女に、忍は同じように顔を赤くさせながらその姿を見つめていた。
その視線に耐えきれなかったのか。少女、成瀬真由美は、ぺこりと頭を下げると、その場を駆けるような足取りで後にする。
その行動に、身体を硬直させて見送ってしまった忍は、思わずその背中に右手を伸ばしていた。だが、声をかけようにも、何を言ってよいかも分からず、忍の指先は僅かに宙を引っ掻くだけで終わり、真由美の去った方向へと目線を向けるだけで精一杯だった。
「……成瀬さん」
自分の声が耳に届いた途端、忍の顔がさらに赤くなる。
「うわぁー」
漏れた声は、忍の混乱した心情を如実に表しており、誰にも見られていない事をいいことに、忍はその場にしゃがみ込んで頭を抱えてしまう。
あの場で即返事が出来ていればよかったのだろうが、混乱に混乱を重ねた心が事実を認識するのに時間がかかってしまったのだ。
返事はいつでもよいと言われたが、自分の心はすでに決まっている。というのに、それを口にすることが出来なかった。
後から後からわいてくる後悔に、忍はがくりと肩を落とす。
内心で自分を罵倒しつつ、忍はゆっくりとした動作で立ち上がった。
「どうしたらよかったんだろう……」
思わずこぼれた呟きは存外自分の耳に大きく響き、熱を帯びて赤くなった顔で忍は再び頭を抱え込んだ。
本当に、こんな時はどうすればよいのだろうか。
誰かに相談すると言っても、いったい誰に相談すべきなのか。
口が堅く、自分の性格をよく知り、信用できる人間。
ぱっと頭に浮かんだのは、勇一の顔だ。だが、この手の話を同性に聞かせるとなると、からかわれるか、のろけるな、とバッサリ断ち切られるかのどちらかだろう。
だとすれば……。
「天野先輩、かな、やっぱり」
勇一の次に信頼できるのは、那美ぐらいのものだ。
彼女ならば、自分の話しを真剣に聞いてくれるだろうし、何よりも真由美とも顔なじみであり、それとなく真由美の感情を理解している気もするのだ。
「よし」
バチンと己の両頬を叩き、忍は鼓舞するように声を放つと、勢いよく立ち上がる。
下校の時間のため、那美が教室にいるとは限らない。ならば、明日の放課後に那美を捕まえて、相談に乗ってもらうのが良策だろう。
大きく息を吸い込んだ忍は、茜色に染まりつつある空を見上げる。
その瞬間、何かが忍の中を走り抜けた。
広がるのは、あちこちから上がる黒煙と、嗅ぎなれてしまった鮮血の匂い。
知らないはずの場所だというのに、そこは自分がよく知っている場所だと断定できしまう。
けれど……。
視たことなどない。
少なくとも、現在の自分が知っていれば、その場所は特定できたはずだ。なのに、その場の名前すらもが、頭の中で靄のかかったように出てくることなどなく、ひどく焦燥感をかき立てられる。
思い出せ、と、どこかで声が聞こえてくる。けれど、何を思い出せばよいのかが分からない。
その事実がひどくもどかしく、そして同時に、思い出してはいけないと激しく警鐘が鳴り響く。
「……っ」
ズキリ、と頭の奥が痛みを放った。
瞬間、誰かが自分に手を差し伸べている姿が視えた。
それを見上げる形になってしまったのは、自分が疲れこんで座っていたためだ。
『どうした?』
心配そうにそう問われ、思わず苦笑を浮かべてしまう。
自分の何倍もの敵を相手にしていたというのに、『彼』は微塵もその疲労を感じさせない声音をあげている。まだまだだな、と考えながらその手を握りしめると、軽いかけ声とともに立ち上がることに成功した。
見渡せば、周囲は敵味方の区別のなど全くない屍が転がっている。無論、敵であった者の死体を作り出したのは、間違いなく自分と『彼』が圧倒的に多いだろう。
そして生き残った味方の軍勢は、この戦いが始まった時よりも圧倒的に数が減っているだけではなく、誰もが傷だらけになっている。だが、それを気にする余裕など残されてもおらず、彼らはその損害を確かめるために奔走していた。
「酷いですね、やっぱり」
『仕方ないだろ。俺達は所詮奴らにとっては、滅ぼすべきものだからな』
「確かに、そうなんですけど……」
それでもやはり、どうしてもやりきれなさが心の奥底にたまっていく。
それを感じ取ったのか。『彼』は小さな吐息を吐き出し、戦場へと視線を向けた。
『奴らも、必死なんだろうさ。
自分達の考えを押しつけ、それが受け入れられないと知って、こうやって戦を仕方て掛けてきたんだからな』
「……そう、ですね。
あぁそういえば、他の皆は?」
『安心しろ。俺達がそう簡単にくたばると思うのか』
「それを言われると、なかなか簡単には皆くたばるわけはないですね」
『仲間達』がそう簡単にやられる事などないというのは、重々承知している。だが、それでも尋ねてしまうのは、やはり多少なりとも心配があってのことだ。
それを分かっているためか。『彼』は、僅かに笑みを込めた口調で語りかけてきた。
『たとえ何があっても、俺達が負けるわけにはいかないからな』
「えぇ」
忍もつられて笑みをこぼす。
たとえどれだけ傷つこうとも、自分達が膝をつくわけにはいかないのだ。その理由も、その覚悟も、自分達誰もが持ち得る矜持であり、勤めなのだから。
そこまで思い出し、次の瞬間、忍は愕然とする。
今のは、何だ?
自分は、一体何を考えていた?
分からない。だが、確かなことは、それが実体験に基づいた記憶の再構成だったということだ。
「あれは、一体……」
ズキズキと頭の奥が痛むと同時に、泡のような何かが心の中で弾ける。
掬い取ろうにも、余りにも儚いその何かは、ひどい苛立ちすらも覚えてしまうもの。
心の奥底に眠り、そしてそれが醒めていく感触はあるのだが、けれどもまだ自分には早いのだと、なんとかその蓋をしようとしてしまう。
ギシリ、といつの間にか奥歯を噛みしめていた。
そうでもしていないと、今の自分が立っている場所を失いそうになってしまうから。
不意に思う。
自分は一体何者なのか、と。
答えなど、今の忍には見つかるはずもない。それだけは、確として分かる事実だ。
「僕は……」
漏れ出た呟きは、宵闇に覆われた空に薄くたなびくようにして消えていった。
「須田君?」
朝一番で忍に向けてかけられた声は、不思議そうなものだった。
それも当然であろう。強制的に朝練に繰り出された勇一の事情を知っていれば、練習熱心な忍が教室前で自分を待ち構えていること自体が、那美にとっては驚きに値することなのだから。
小首を傾けて近づいてきた那美に向け、忍は何かを言いづらそうに視線をあちこちにさまよわせる。
その様子に、何かを察したのか。那美は柔らかな微笑を浮かべて先を促した。
「あの、先輩……」
「ん?」
「今日の放課後、お時間ありますか?」
「あるけど、どうかしたの?」
「その……相談に、乗ってほしくて」
最後の方はやや小声になってしまったが、忍の言葉に那美は嫌な顔を浮かべることなく頷いた。
ほっとしたように忍が胸を撫で下ろす様子に、那美は小さく口元を綻ばせた。
「もしかして、昨日何かあった?」
「えっ!」
ボッと顔を赤くさせた忍の様子を見れば、一目瞭然だろう。
というよりも、昨日見えた光景を考えれば、何があったかなど考えるまでもない、というのが那美の心情だ。
だが、ふと心を過った不安の塊は、真由美の言動の不一致差をみてしまったからであろうか。
自分と対峙した時に見せた、傲岸不遜な態度。そして、忍のことを話す時に見せる、おとなしさとか弱さを内包した雰囲気。
いったい、どちらが彼女の素顔なのだろうか。
「先輩?」
「あ、ごめんね。何でもない」
「そうですか?なんだか怒っているのかと思いまして」
そんなに険しい顔をしていたのだろうか。
少し表情を緩め、那美は苦笑に近い笑みを浮かべてみせる。
その微笑みに、忍はほっとしたように肩を撫で下ろした。
「じゃぁ、先輩、放課後第二通路を通って、第三東屋に来てもらえませんか」
「いいわよ」
武道場や本校舎、そして部活棟からも少しばかり遠く、人の出入りがあまりない場所と言われれば、まず真っ先にその場所があがるのは当然のことだ。
聞かれたくはない話しや、人目を避けるための話し合いなどを行うにはうってつけの場所といえるため、そこを選んだ忍の真意はすぐに察することが出来た。
忍の提案に対して軽い調子で答えた那美は、茶目っ気を乗せた口調で忍に意地の悪い質問を投げつける。
「で、今日の朝練、そのために休んだの?」
「あ、っと……」
今更ながらにそのことに思い出したのだろう。忍は呆けたように口を開き、次いでバツの悪そうな色を顔に滲ませた。
「……先輩、趣味が悪いですよ、その質問」
「そうかな?」
「そうですよ」
「ま、不機嫌全開の勇一の相手は、須田君ぐらいにしか務まらないから、今頃道場に行ってるみんなは、腰が引けてるかもしれないけど」
「……確かに、そうですね」
つい想像をしてしまい、忍は困ったように眉尻を下げた。
昨夜からずっと那美を捕まえることだけを考え続けていたため、布団に入ってもなかなか寝付けずにいたためなのだろうか。朝起き抜けに頭が下した判断は、この相談事をするためだけに、真っ先に那美の行動と放課後の時間を確保する事だけだった。
そのため、忍の頭の中からはすっぽりと朝練のことが忘れ落ちており、指摘されるまで今日も朝練があったことを忘れていたのだ。
加えて言うならば、昨日の告白が頭の中いっぱいに詰め込まれていたため、部活のことなどすっかり忘れきっていた忍の混乱ぶりは、よほどの事態なのだと周囲に教え込んでいるのも同然だ。
そういえば、今朝顔を合わせた家族が、心ここにあらずの忍の態度に不可解そうな視線を向けていたのを思い出す。家に戻れば確実に何かを尋ねられるだろうが、今はそこまで深く考えることが出来ずにおり、忍は小さく溜息を吐き出してそれらを追い払った。
「須田君、大丈夫?」
「え、えぇ、はい」
心配そうに忍の顔を見つめて問いかけてきた那美に向け、忍は慌てて肯定のために首を縦に振ると、半笑いの表情を浮かべて安心させようと心がけた。
その様子に、那美は柔らかな笑みを浮かべる。
「それにしても、須田君にとっては、いい事だったみたいね」
「……そう、なんでしょうか」
那美の言葉に、忍は思わず声が詰まってしまった。
引っかかってしまうのは、どうしても昨日見た白昼夢じみた光景のせいだろう。
あんなことは、今までなかった。それどころか、あの『夢』は本来ならばもっと早くに思い出していなければならないことだというのに、自分はこの平穏を壊したくはないがためにそれを拒絶しようとし始めている。
振り返った瞬間に思い知った事実は、頭を横殴りされたような衝撃を忍の身体を走り抜けさせるには十分すぎた。
自分は、このまま平和を享受し続けることは出来ない。
それは、自分がこの世界に生まれ落ちた時から決まっていたことなのだ。
だと言うのに……。
いつの間にか唇は引き結ばれ、忍は硬く拳を握りしめる。
「……先輩、僕、本当は、やらなきゃならないことがあるんです」
苦渋に満ちた忍の呟きに、那美はきょとんと眼を見開き、まじまじと忍の顔を見つめてしまった。
いったいどうしたのかと問いかける前に、忍から流れる空気に触れた那美は心の中で疑問を浮かべる。
この空気は、那美はよく知っている。
それは、最近ごく間近で感じられるようになったものと同一のものだ。
まさか、という思いもあるが、それでも間違いようのない代物に、那美は僅かに息を飲み込む。
あれから、那美もネットや図書館などでいろいろと調べた。そこから分かった事は、『彼ら』はこちらの世界では仏法守護を司っているということと、『八人』の鬼人からなる集団だということ。
「須田君……」
「っ!」
那美の困惑が隠せぬ声に弾かれたよう、忍ははっとしたように現実に立ち戻る。
「あれ、僕……」
自分でも思ってもいなかったのか。己の唇をついて出た言葉に、忍は数度瞬きを繰り返し、自分の中にある何かを探るような視線を宙に向けた。
「今、僕、何を……」
途方に暮れたような、迷子のような不安を見せる忍だが、どう声をかけたものか思案する那美の様子に、慌ててそれを引っ込めた。
間の悪い沈黙が、その場に落ちる。居心地の悪いその空気に、二人は身動ぐ事も出来ずに互いの顔を見つめていた。
だが、それはかけられた声によって打破され、二人は同時に小さく息を吐き出した。
「おまえら、んなとこで、何やってんだ?」
「勇一」
怪訝、よりも、呆れたような光を瞳に乗せ、勇一はゆったりとした歩調で二人へと近づいてきた。
機嫌はどこかまだ悪そうだが、朝のざわめきにあふれた廊下や教室によってなのか。どうにかその感情を蹴散らし、勇一は苦笑ともなんともいえない顔をする那美と忍とを交互に見やる。
「おはようございます、先輩」
「あ?あぁ」
「どうだったの?朝練?」
「変わんねぇよ」
那美の疑問に、勇一は仏頂面でそう答えた後、本来ならば別フロアーにいるはずの後輩の姿に、勇一は僅かに首を横へと傾けた。
そんな勇一をおいて、那美は確認するための言葉を忍へと放つ。
「じゃぁ、須田君。今日の放課後、何時がいい?」
「あ、すいませんが、四時でお願いできますか」
「ん、分かった」
その返答を耳にすると、忍は軽く頭を下げて二人の前から下がっていく。それを見送りつつ、勇一は不思議そうに那美を見つめ、何があったか説明をしろと視線に載せるが、那美はにこりと笑うだけで答えを返そうとはしない。
むっとしながらも、那美が何も言わないのにはそれなりの理由があってのことだと分かっているため、勇一はそれ以上の詮索はやめて溜息を一つ落とすと教室へと足を踏み入れる。
その後を追いながら、那美は心に感じている一抹の不安を振り払うように頭を緩く横に振り、忍の姿を思い出してクスリと笑みを漏らした。
どんな表情で話してくれるのだろう。
少しばかり意地の悪いからかいを口にしてしまうかもしれないが、かわいい後輩のためだ。協力の方は惜しまないし、なんとかしてその気持ちを成就させようという思いもある。
温かな気持ちを抱きながら那美は自席に鞄を置くや、友人の一人が那美へと近づいてきた。
「ねぇ那美ー。数学の宿題やってある?」
「やったに決まってるでしょ。
でも、ノートは貸さないからね」
「えー。んなこと言わないでよ」
両手を合わせて拝み倒す様子に、勇一は何時もと変わらぬ日常風景に僅かに口の端をほころばせる。
こんな日々が続けばいい。
それがもはや叶わぬ願いだということは、勇一自身が痛感している事実だ。
誰にも知られぬように溜息を吐き出した勇一だが、ふと机の中から覗いている手紙の存在に気付き、不思議に思いながらそれを開けた。
『今日の放課後、大切なお話しがあるので第三東屋にお越しください』
差出人の名前はなく、単に事務的な内容の手紙は、ラブレターとはほど遠いものだ。
それに……。
紙面から流れる不穏な空気は酷くかんに障り、勇一は紙面に穴が開くのではないかというほどそれを見つめる。
「勇一?」
「……何でもねぇ」
ぐしゃりとそれを握りつぶし、勇一は那美を安心させるように何時もと変わらぬ笑みを浮かべる。
それが態とらく、そう簡単に何があったのかを知らせないのだと理解した那美は、僅かに渋面を浮かべて勇一に語りかけた。
「無茶しないでよ」
「あ、あぁ」
もっと突っ込んで尋ねられるかと思ったが、那美はその言葉だけでほかは何事もなかったかのように授業の準備を始める。
肩すかしを食らった気分だが、幼なじみの心遣いに感謝し、勇一は握りしめている手紙に視線を落とした。
誰だかは分からないが、字面から感じ取れた殺意の波動は、チリチリと勇一の首筋につき刺さる。
「誰だ……一体」
呟きは、誰にも届かなかったらしいが、慌てて勇一は周辺に視線を走らせた。
刺客、だろうとは思う。だが、こんな回りくどい手を使う神の心当たりなどないと言ってもよい。加えていうならば、本来ならば自分に絡みつくような視線を向けて、隙を伺うのが定石なのではないだろうかと勇一は思うのだが、律儀に自分を指名するとはなんともなめられたものだ。
阿修羅に相談すべきだと一瞬考えるが、相手もそれなりの手段を講じてくるのは目に見えている。阿修羅を足止めするために何をしでかすか分からないどころか、人間を完全に見下した連中が相手のために、関係のない人間を巻き込みかねない事態に発展する可能性も思慮しなければならない。
小さく吐息を吐き出し、勇一はポケットに突っ込んでいる携帯を無意識のうちにとりだしかける。が、すぐに阿修羅に連絡を取れないことを思い出す。
文明の利器である携帯電話だが、阿修羅にとってはその機器事態を操作することが苦手らしく、今だにそれを持つことはない。不便ではあるが、敵を察知することにかけては勇一よりも上だ。何かあれれば、すぐに駆けつけてくるだろう。
もう一度溜息をついた時、始業のチャイムが鳴り響く。おのおのの机に生徒達が座りはするが、雑談に興じる者が大多数だ。
「おい勇一」
「あ?」
「今度の試合、必ず勝てよ」
「んだよ急に」
「俺、お前が勝つ方にかけてんだよ。負けたら大損だから、勝てっての」
「あのなぁ」
気さくに話しかける友人の言葉に、勇一は渋面を浮かべてその顔を見る。
ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべる友人、小野寺は、まだ話し足りないとばかりに口を開く。
その様子と蕩々と語る内容を耳にしながら、勇一は呆れはてたように息を吐き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます