第三章
暗闇の中を、勇一は走り続けていた。
左手に持つ剣の刃には、すでに乾きかけた血がべとりと貼り付き、何時もよりさらに重さを増しているような錯覚を起こさせる。
そんな勇一を置き去りにしたように、もぞもぞと勇一の右側の闇が蠢く。
瞬間的に、勇一はそちらに向けて剣を一閃させた。
確かな手応えと、短い断末魔。そしてドサリと大地に何かが倒れ込む音が、聴覚を刺激する。
途端に、周囲を覆っていた闇がかき消えていく事を確認し、勇一は詰めていた息を吐き出した。
「沙羯羅龍王」
呼ばれた名前に、勇一、いや、今は沙羯羅龍王と名乗った方がふさわしいだろう存在は、不敵な笑みを浮かべて声のした方向へと顔を向けた。
「遅かったな、阿修羅王」
「思っていた以上に雑事が多くてな。
しかし、相も変わらずお前への攻撃は苛烈なものだな」
そう評され、沙羯羅龍王は苦い笑みを浮かべてしまう。
自分の周囲に転がっているのは、ほとんどが天界と呼ばれる場所から来た天人達の亡骸だ。様々な攻撃を駆使し、何とか自分達を屠ろうと息巻いていただろう天人達は、逆に沙羯羅龍王や阿修羅王の剣劇から逃げることすら出来ず、他界であるこの修羅界で逝き果てていた。
そんな者達の最後の姿を眺めながら、阿修羅王は沙羯羅龍王へと難しげな顔を浮かべて近寄った。
「東はどうだった?」
剣を鞘に戻しながら、沙羯羅龍王はそう尋ねる。
始めから良い答えは期待してはいないが、それでも一縷の望みをかけてそう言葉を発してしまう。
その問いに、阿修羅王は軽く首を横に振り、苦々しげに言葉を紡いだ。
「酷いものだ。奴ら、何の神力もない女、子供までも殺している。早々に何とかしなくてはならんな」
「……奴らにしてみれば、この世界に残った天人達は、邪悪な心を持った者だと思って扱っているのだからな。闘うすべを知らぬ者達を殺すことなど躊躇いがないし、この世界の滅亡も決定事項なのだろう」
「確かに。
奴らはこの世界に滅びをと唱えている。それでも、やはり、な。せめて闘うことの出来ぬ者を殺す事は、罪悪感を持ってほしいものだと思うのだが」
勝手なことだな、そう呟き、阿修羅王は軽く唇を引き結ぶ。その動作に、沙羯羅龍王も同じ意見を示すために首を縦に振った。
そんな二人に向け、突如聞き慣れぬ声が耳朶を打ち付けた。
「これ程の神力を持ちながら、滅びは免れぬとほざくのか」
耳に届いた瞬間に剣を引き抜いた二人が、鋭い視線で声の上がった方向へと身体を向ける。
逆光で顔までは見えないが、声からしてまだ若い男だと分かる。少しばかり小高い丘の岩上に座り、悠然と二人を見下ろしている姿は、敵意など全く見せずにいるため二人は僅かに眉をしかめた。
「何者だ?」
「さて、な。名乗るほどの者ではない。そう答えた方が面白かろう」
くつくつとおかしそうに笑う青年に、二人は険しい視線を向ける。
それだけで射殺されそうなほど強いその目線だが、青年はそれをひょうひょうと受け流して緩く肩をすくめてみせた。
「いやはや、お前達に武運があるかどうか、見に来ただけだが、期待外れの言葉を聞くとは思ってはいなかったぞ。
多少は骨のある神だと思ってはいたが、そこまで弱腰になるとはな」
「貴様……」
「まぁ、お前達の神力は見せてもらった。それだけでも重畳と言うことではあるがな」
「言いたいことを言ってくれるな」
剣の切っ先と、隠すことのない殺意めいた怒りの波動を向けているというのに、青年はそれに対して臆するどころか、楽しそうな空気をその身にまとう。
敵、と言うには、余りにもこの場には異質な存在だ。その為に、どう対処すべきかの判断が鈍ってしまう。
言葉尻を捉えれば、青年が天界の神であることは間違いがない。だが、自分達に敵意も殺気もないという存在は、天界では異端であり、考えを持つ神も少数派の存在だ。
一体誰だ、と言う思考を読んではいるのだろうが、青年はそれに答えを出すつもりはないらしく、ただ笑みを含ませた声音で言を綴った。
「今後どこまでやれるのか、しっかと見せてもらいたいものだが、果たしてお前達の弱腰でどこまで出来るのか、だな」
そう言うと、青年はゆっくりと立ち上がり、二人に背を向けて歩き出す。
今だに敵意や殺意はない。だからこそ沙羯羅龍王も阿修羅王も何もせず、その姿が消えるのを確認するだけしか出来なかった。
ふっと青年の気配が消えると同時に、二人はそろって顔を見合わせた。
「いったい何者だったのだろうな」
「我々の行動を見るだけが目的だとすると、そう数は多くないはずだ。
しかし、今はあの男のことよりも、重大な案件がある。いちいち知らぬ男にこだわる暇はない」
「そう、だな」
苦い気持ちを持て余しながらも、沙羯羅龍王は青年の消えた方へと視線を向ける。
武運、と青年は言った。
そんなものに頼ることは、今の状態で考えることは出来ない。むしろ、武運など始めから無いと言ってもいいのだから。
「ふざけた男だな」
呟きは、阿修羅王の耳には届かなかったようだ。
だがすぐに青年の存在など消し去るように、沙羯羅龍王はゆるりと頭を横に振る。
とにかく、今は目の前にある事柄を消去していくことだけを考えなければならない。
小さく吐息をつき、沙羯羅龍王は剣を鞘へと戻した。
はっと目を覚まし、勇一は見慣れた天井が視界いっぱいに広がっていることを確認すると、詰めていた息を安堵するために大きく吐き出した。
時折見る前世の夢は、今は掌からこぼれ落ちることなど無く、はっきりと脳裏に刻まれている。
それがよいのかどうかは別として、少しずつ思い出す事柄は、余り気持ちのよいものではない。持て余し気味の夢の残滓に振り回されそうで、勇一は一度強く瞼を閉じると、勢いよくそれを開いた。
「よし」
自分自身に言い聞かせるようそう言うと、勇一はベッドから起き上がり、近くにおいてあった時計に目線を向ける。何時もより早い時間を示しているため、アラーム音が鳴る前にと勇一は手を伸ばしてそれを切ってしまう。
近頃は不快な汗をかくこともなく起き上がれるため、側に置いてあるタオルは不要なものになりつつある。折り目正しく畳まれたその存在に、思わず苦笑を浮かべながらもそれを手に取り、勇一はパジャマ姿のまま階下に降りた。
台所から上がる音に耳を傾け、勇一は洗面所に足を向ける。
ようやく母の心も落ち着いたようだが、何かの拍子につけて死んだ父のことを思い出すのだろう。時々遠い目をしてリビングに飾れた写真立てを見つめている姿を、勇一は何度も目にしていた。
今だまだ、心の整理がついていない母の姿に、勇一は心が軋むような感覚を覚えてしまう。
父が死んだのは、間違いなく自分が原因だ。とはいえ、真実を告げたところで、突飛な発想として母、高橋ゆかりは苦笑でそれを切り捨てるか、眦をあげて怒るだろう事は予想せずとも分かりきっている。
何も出来ない自分が嫌になりながらも、勇一は今日一日を始めるべく洗面所の扉を開けた。
生暖かな水で顔を洗い、勇一は鏡に映る自分の表情を確かめる。
何時もと変わらぬ顔だと安心し、勇一は肩にかけていたタオルで顔を拭くと、今度は着替えるために自室に戻り、壁に掛けてある制服に手を伸ばした。
ふと、今朝の夢のことを思い出す。
いったい、あの青年は何者だったのだろう。
遠い記憶であり、自分は転生し、人界へと生まれてきた。そのために、あの青年のことなどどうでもよい些末事項ではある。だが、それでも気になってしまうのは、仕方の無いことだろう。
「あいつは、いったい……」
阿修羅にでも尋ねようかとちらりと考えるが、阿修羅とて明確な答えを持っているとは思えない。
たった一時あっただけの、通りすがりのような行動を取った青年のことなど、阿修羅とて忘れている可能性が高いのだから、尋ねるだけ無駄のような気持ちがある。何故今思い出したのかは疑問だが、それでも忘れてしまえと考えた勇一は勢いよく頬を両手で叩いた。
いつも通り、型どおりの授業を受けて終わり、勇一は放課後のチャイムを耳にすると、大きな息を吐き出した。
昨日武道館に顔を出した際、しっかりと斉藤が釘を刺すように本日も出頭するように注文をつけてきたのを思い出したのだ。
「どうしたの?」
勇一の表情を見てだろう。那美が不思議そうに尋ねてくる。
「今日も行かなきゃなんねぇんだよ」
「先輩に言われて?」
「あぁ」
「じゃぁ、途中まで一緒ね」
「お前も部活出るのか?」
「あ、酷い言いぐさ。
これでも、槍術部では強いほうなんだからね」
少しばかり拗ねたような光をな那美は瞳に浮かべたが、すぐにそれをかき消してどこか不安そうに勇一を見つめた。
不思議そうに那美を見返し、勇一は那美の言葉の先を促すような視線を送りつける。
それを受け取り、那美は少しばかり顔をしかめて勇一に尋ねてきた。
「勇一、本当に大丈夫?」
「何がだ?」
「何だか、ぴりぴりしてるんだもの。そんな体調で行っても、あんまりいい結果が出ないと思うんだけど」
少しばかり驚いたように、勇一は那美を見つめる。
自分では気付かなかったことを言わると、幼なじみの存在はありがたいものといえるだろう。短く吐息をつき、勇一は那美を安心させるように笑ってみせた。
それでも、心配そうに那美は勇一を見つめるが、やがて諦めたように首を緩く振った。
「ほんと、あたしの周りにいる男の子はどうしてこう察しが悪いのかな」
「どういう意味だ?」
「言葉通りの意味に聞こえなかった?」
意味を掴み損ねた勇一だが、すぐにそれを頭の隅に追いやると、勢いよく立ち上がりちらりと教室の後ろの扉に視線を向けた。
思った通りの光景に、勇一は軽い頭痛を覚える。
勇一の様子に、那美も扉に視線を向けて、小さな笑い声を上げる。
「おい」
「だって、よっぽど信用がないんだな、って思って」
「あのなぁ」
「先輩!」
勇一の声を遮るように元気よく呼んだのは、後部の扉に現れた忍である。
わざわざ迎えによこさずとも、今日道場に行かなければ大将戦が確実だからだ。
軽く溜息をつき、勇一は机の横に引っかけてあった鞄を取り上げる。幾分か乱暴に教科書類を鞄に突っ込み、勇一は小さく息を吐き出して那美を見つめた。
「行くぞ」
「ちょ、待ってよ」
慌てて那美も鞄に教科書を入れると、勇一の背中を追いかけるように立ち上がり、その後を追った。
安堵の表情を浮かべる忍の近くによると、勇一は憮然とした表情を後輩に向ける。
「わざわざ来なくても、今日は道場に顔を出すつもりだったんだけどな」
「でも、一応、迎えに行けと言われてましたんで」
「俺はそんなに信用ねぇのかよ」
「そういうわけじゃありません。
単に、逃げないように僕が先輩のところに使わされただけですから」
けろりとした顔でそう言われ、勇一は頭痛をこらえるように額を押さえ込んだ。
「おまたせ」
二人に近づいた那美が、勇一と忍の間に流れる空気にきょとんと眼を見開く。
だが、呆れたような表情を浮かべた後、那美は勇一の背中を軽く叩きつけた。
「ほら、さっさと行くわよ」
「あれ?那美先輩も道場に?」
「たまには部活に顔出ししとかないと、除籍されちゃうからね」
「あぁ、そういえば、槍術部は今度の合同試合、出ないんですよね」
「そう。だから、あたしは今回ギャラリーとして勇一の試合を見ることになるわね」
クスクスと笑いながら、那美はそう肯定しつつ、ちらりと勇一を見やった。
苦虫を噛み潰したように渋い顔と雰囲気は、部活が終了した後も続くのは明確なことだろう。そんな勇一の態度を子供っぽいと評するべきかと悩みかけるが、たまにはこのような空気も悪くないと思い返し、那美は口の端に僅かな苦笑を浮かべて思考を打ち切った。
三人そろって廊下を歩き出し、階段を途中まで降りた時だ。
「あ」
小さな声を上げ、那美が柔らかな笑みを浮かべた。
階下にいた人物も、三人の姿を認めると、ぱっと顔を赤らめた後小さく頭を下げる。
「成瀬さん」
「天野先輩、この間は、すいませんでした」
そう言って再度頭を下げた真由美の視線が、忍の方へとちらりと向けられる。何故ここに、という疑問より、那美達と一緒にいることの方に安堵したようだ。
「どうかしたの?」
「あ、先生に呼ばれて……その」
「そっか。大変ね」
「いえ、そんな」
肩の力を抜いた真由美が、小さく眉尻を下げる。たったそれだけのことではあったが、忍の身体に緊張が走るのを勇一は肌で感じた。
「どうした?」
「な、なんでも、ありません」
片言でそう告げた忍が、とってつけたように勇一に声をかけてくる。
「せ、先輩。そろそろ行かないと」
「あ、あぁ、そうだな」
せっつくような忍の言葉に、勇一は驚きを隠さずにそう答え、階下に降りるためにゆっくりと階段に足を乗せた。
呆れたように那美が忍と勇一を眺めていたためだろう。
勇一が真由美の側を通りかかった瞬間、彼女の身体が刹那だけ強ばったのを見過ごしたのは。
ゆっくりと那美も真由美へ近づき、浮かべるその表情を観察するように真由美を見つめる。
その様子を見ることなく、勇一は渋々といった歩調で歩きながら、当然のように那美に言葉をかけた。
「那美、先に行ってるからな」
「分かった。後で、また、ね」
「あぁ」
そう答え、勇一と忍はそろって昇降口を出て行く。
二人を見送り、那美は真由美へと疑問をぶつけた。
「よかったの?あれで?」
「え?」
意味を掴み損ねたのは一瞬だ。真由美の顔が瞬く間に真っ赤に染まり、僅かに唇をとがらせると、少々いじけたように声を上げた。
「先輩は、お見通しなんですね」
「そりゃ、あれだけ分かりやすくしてれば、ね」
那美の言葉に、真由美は小さく肩を落とす。
落胆ぶりを見てだろう。那美は吐息をついて、言を綴った。
「須田君、あれで鈍いから、自分の気持ちも成瀬さんの気持ちも分かってはいないと思うんだけど」
「そ、それでいいんです。須田君は、あのままでいてくれれば、いいんです」
「そう?」
それ以上突っ込むことは野暮だと感じたのか、那美は何かを言いたげに唇を動かす真由美の様子に、先を促すような視線を向けた。
「天野先輩は、須田君のこと、よく知ってらっしゃるんですか」
「うーん、よくは知らない、かな。勇一と同じ部活で、勇一を慕っている、って事ぐらいしか思い浮かばないんだけど。
安心した?」
茶目っ気を含んだ那美の言葉に、真由美は顔を伏せてその表情を隠してしまう。
「けっこう須田君もてるから、大変よ」
「分かってます。でも、やっぱり……」
「好き、なんだ」
「はい……」
今にも消え入りそうな声でそう答え、真由美は意趣返しとばかりに那美に疑問を投げつけた。
「天野先輩は、高橋先輩にどう告白されたんですか?」
「へ?」
頓狂な声を上げ、那美は真由美を見つめる。
少しばかり呆けたような那美の表情に、真由美は当然のように笑みを込めて言葉を放った。
「端から見ても、お似合いですよ」
「何で、そうなるのかな?」
「だって、ただの幼なじみにしては、天野先輩、高橋先輩の面倒見ているし、何時だって先輩方一緒だから」
「そ、それは、単なる腐れ縁で」
「じゃぁ、天野先輩から告白はしてないんですか?どう見たって、天野先輩は高橋先輩のこと特別視してるから」
「してないわよ」
間髪入れずにそう答えた後、那美はしまったとばかりにバツの悪い表情を浮かべた。
その顔に、真由美はくすりとおかしそうな笑みを漏らす。
喉の奥で含んだようなそれに、那美は一瞬ぞわりと背筋が凍るような感覚を味わう。何時だったか感じたその笑いは、つい最近自分が感じ取ったものと同質のものだと頭の隅で考えながらも、何故真由美がそんなものを漏らすのかが分からず、那美は知らず知らずのうちに真由美の名前を呼んでいた。
「成瀬さん」
「先輩、嘘つきですね」
「え?」
「自分の心に嘘ついてるじゃないですか」
断言に近いその言葉に、那美は軽く息を飲み込む。
「本当は、天野先輩、高橋先輩のこと、好きなんじゃありませんか?」
固まった那美よりも数穂先に歩いた真由美が、クルリと那美の方へと身体を向ける。
真由美の姿が、昇降口の窓から入る光によって逆行になってしまい、そこに浮かんでいるであろう顔立ちが分からず、那美はぎゅっ唇をを引き結ぶ。
真由美に指摘されずとも、那美は心のどこかでそれを感じていた。自分が勇一の側に一番近くにいて、その心情をいち早く察することが出来、当たり前のように横にいることが赦されている存在なのだと、どこかで優越感を持っていたことは否めない。
だが、今はどうだろう。
勇一は、自分が置かれた立場に翻弄され、眼の前が見えない状態だ。そんな勇一の負担にならないように気をつけてはいるが、もしかしたら自分が離れた方が勇一にとってよいことではないだろうか。そんな気持ちすらもが浮かんでいるのが現状だ。
「……分からない、かな。
あんまり近くにいすぎたから、そんな事考えないようにしてたのは事実ね。もしも『好き』って感情が、勇一の邪魔になるなら、それを抑えて捨てる覚悟も出来てるつもりなんだけど」
「好きだから、ですか?」
「分からない、っていうのが一番かな。一般的な好きと、恋愛感情の好きって、違うと思うから。
けど、あたしは勇一が好きなことは変わらない。恋人とか、友人とか、そういうレベルの話しじゃなくて……たぶん、本質が同じだったんだと思うの。心の一部、かな。そういうところで同じようなものを感じるから、きっと今の関係になってるんだろ思うの」
自分でもとりとめの無い言葉でまとめたものだ、と、那美は思う。通じるかどうかは分からないが、それでもそれが今の那美の偽らざる気持ちだ。
真由美が、小首をかしげてそれを聞いていたが、やがて羨ましそうな声を上げた。
「先輩らしい答えですね」
「でしょうね。自分でも、何言っていいか分からないから」
僅かに苦みを帯びた声でそう答え、那美は今までの会話を振り切るように緩く頭を振った。
そして、そういえば、と真由美とここで鉢合わせたことをも出す。
「先生のところ、行かなくていいの?」
「あ、そうでした」
会話に夢中になっていたのだろう。真由美はその事をようやく思い出したと言わんばかりの口調でそう言い、ぺこりと那美に頭を下げる。
「すいません。いろいろ聞いちゃって」
「別にいいわよ」
どうせ、ここだけの話しだ。誰に聞かれているわけではなかったことに安堵しているのは、那美だけではなく真由美も同じだろう。
すいません、と一言おき、真由美は急ぎ足で職員室に向かうべく小走りのその場を後にする。
その背中を見送りつつ、那美は深く息を吐き出した。
「嘘つき、か……」
確かに、そうかもしれない。
今の勇一に、自分の心を気付かせるわけにはいかない。ただでさえ環境が激変しているのだ。そんな中で、自分の気持ちを押しつけることなど出来ないし、これ以上の足手纏いはごめんだというのが、那美の偽らざる気持ちなのだ。
今までの会話を忘れるように、那美は小さく息を吐き出す。
だが、心の隅では、真由美の言葉が小さくとげのようにして残っており、苦い表情だけが那美の顔に浮かんでいた。
ぼんやりと、那美は自室の窓に腰掛けながら空を見つめていた。
真っ赤な夕日がその姿を消し、宵闇の色合いが空を塗りつぶしていくのを見るともなしに見つめていたが、それが奇妙に現実とかけ離れた事のように思い起こされて仕方が無かった。
「嫌な、感じ……」
ぽつりとそう呟き、那美はクシャリと顔を歪めた。
心の中で浮かべないようにしているのは、真由美に指摘されたことだ。
何故あんなことを話したのか。那美にもよくは分からないのだが、それでも誘導尋問のように促され、自分の心情を吐露することになるとは思わなかったというのが、正直な感想といえる。
深く溜息をつき、那美は隣家へと視線を向けた。
まだ勇一は帰っていないのか。部屋の明かりはついていないが、ゆかりが在宅していることは漂う夕飯の臭いで分かってしまう。
「あんまり、無茶しないでほしいんだけどな」
そうこぼしたのは、勇一の学校内での別れ際の態度からだ。
出るんじゃなかったといきり立つのは眼に見えているが、それでも退部した部に対しての責任はきちんと果たしているのだから、そこは褒めるべきところなのだろう。
考えに没頭していたためだろうか。突然声をかけられ、那美はびくりと肩を上方に動かした。
「おい那美」
「お兄ちゃん、ノックぐらいしてよ」
突如部屋に乱入してきた兄に対して、那美は幾分か険しい顔でそう告げるが、兄、
兄とは言え、男だ。女性の部屋に対するデリカシーぐらいは弁えてほしいのだが、それくらい分かっていれば、部屋をノックして顔を出すぐらいで済ませてくれるだろう。
もっとも、それを兄に求めたところで、妹に対してそんな必要性はないだろう、と返してくるのがおちだろうが。
「で、何?」
「親父が帰ってきたから、夕飯だとよ」
「分かった」
そう言って、那美は腰掛けていた窓から降りると、ピタリとそれを閉め切ってしまう。 そんな那美の行動を眺めながら、翔也は隣の家の明かりに気がついたらしく、顔をしかめて那美へと言葉をかけた。
「勇一の奴、まだ帰ってないのか?」
「もうすぐ合同練習試合があるんだけど、それにかり出されて道場に顔を出すように言われてたから」
「退部してないのか?」
「退部届は出したみたいだけど、それ無視して大将になってくれって言われたから、遅いんじゃないかな」
「ふーん」
生返事を返し、翔也は那美の部屋から出て行く。
その背中は、さっさとしろ、と書かれており、那美は溜息を吐き出して兄の背中を追いかけた。
リビングに入れば、疲れ切った顔をした父親がダイニングテーブルの定位置に座っており、ここの所の激しい忙しさをその雰囲気から察せることが出来た。
「お帰りなさい、父さん」
「あぁ、ただいま」
態度同様に、口調もまた何時もの快活さが全く見えない。健太郎の研究室で起きた爆発事故の原因が分からず、捜査に行き詰まっているのは明白だが、それだけではない疲れが父を襲っていることが分かる。
父、天野
「父さん。
身体、大丈夫?」
「……あぁ」
そう返事した後、茂人は那美に視線を合わせ、どこか言いにくそうに疑問を提示した。
「……那美、矢沢学園の高等部の一年生は、タイの色が何色だ?」
「緑だけど。なんで?」
不思議そうな表情を眺めながら、茂人は冷えたビールをコップに移して一気にそれを飲み干した。
コップに次のビールを入れた茂人は、そこで弾ける泡を見つめて眉根を寄せた。
「もしかして、町外れの廃屋工場で見つかった死体の件か、親父?」
翔也からその言葉を吐き出されると、茂人の顔が一気に渋面を浮かべた。
どうやらそれは当たりだったらしい。翔也は興味深そうな顔で、父親の様子を観察し始めた。
そんな兄の言葉に、那美は新聞の地方欄にその情報が載っていた事を思い出す。どうやら、父は健太郎の件から、そちらの事件に移動になったのだろう。
そんな二人を横目で見ながら、那美は母親を手伝うべく台所に足を向ける。
「……酷いもんだからな」
「ひどい?」
夕飯を運んでいた那美が、不思議そうに首を傾ける。
廃工場で死体が見つかった、という程度にしか認識していなかったが、どうやら新聞に書かれている以上の何かがあったらしい。
好奇心を丸出しにしている翔也が、先を促すように茂人を見つめる。そんな息子の姿に溜息をつきつつも、茂人は疲れ切った様子で天井を見上げた。
「ここだけの話し、殺された連中は札付きのワルでな。警察沙汰を何度も起こしている連中だった。
そいつらが、生きたまま手足をもぎ取られたり心臓を潰されていた。人間の仕業じゃないってのが、上や俺達の見解だ」
「でも、何でうちの学校が出てくるの?」
「現場に、壊れた校章と引き裂かれたタイが見つかってな」
「それが、うちの学校のだったってこと?」
「そうだ」
茂人の答えに、那美が僅かに唇を噛みしめる。
まるで、あの時と同じようだ。
自分が神力を願ったばかりに、勇一を殺そうとしてしまったことと。
「全く、ここのところおかしな事件ばかり続いてやがる。
高橋さんの家のことといい、今回のことといい……」
そう締めくくると、茂人はついであったビールを速いペースで開けていく。
そんな父の姿に心配そうな視線を送れば、茂人は口の端に笑みを浮かべて安心させるように那美に声をかけた。
「すまんな、飯前にこんな話しをして」
「平気。それより、身体に気をつけてね」
「分かってるさ」
本当か、と問いただしたくなるが、滅多に弱音を吐かない父がこうして話しをしてくれたのは、考えが相当行き詰まっているからだろう。
なんと声をかけるべきかと考えていた那美だが、突如鳴り出した携帯電話に慌てて着信者の名前を確認してみる。
着信者の名前は表示されていないが、何となくそれに出なければならない気がしてしまい、那美は廊下に出ると受話器のボタンをタップした。
「はい」
『天野、先輩』
ぼそりと遠くから聞こえてくる少女の声に、那美は気味悪げにその声の主が誰であるのかを考える。
だが、全く心当たりなどなく、那美は幾分か眉根を潜めた。
「どなたです?」
『お願いが、あります』
いささかきつい口調でそう問いかけるが、相手はそれに頓着せずに感情の籠もらぬ声で淡々と言葉をつなげた。
『当分、高橋先輩と行動するの、やめてください……お願いします』
「え?」
意味を掴み損ねた那美が、スマートフォンを握る手に力を入れる。
いったい何を言っているのだろう。勇一に近づくなと、わざわざ警告を入れる人物などまるっきり思いがつかない。
『お願い、します』
再度そう念を押し、相手は一方的に通話を切ってしまう。
こちらが何かを問いかけることすら許さず、ぶつりと切られてしまったスマートフォンの画面を、那美は険しい眼で見つめる。そこに何かがあるというわけではないが、奥底の知れない相手の言葉は苛立ちを覚えるには十分すぎるものだ。
「いったい、何なのよ……」
相手は、明らかに普通ではなかった。
それぐらいは、理解できる。理解できるが、理性と感情は別のものだ。
感情的になるな、と、頭の中では言い聞かせてはみるものの、それでも苛立ちが募ってしまうのは仕方のないことだろう。
ふと、先日真由美を襲っていた生徒達のことを思い出す。
あれは操られていた、と阿修羅も勇一も断定していた。そうなれば、この通話も陰に隠れている存在が、誰かに糸をつけてこんなふうに電話を入れさせたものなのだろうか。
勇一か、阿修羅に言うべきだろうか。
そう考え、那美はばっさりとその考えを切り捨てる。
もし話してしまえば、それは二人の負担になってしまう。阿修羅はともかくとしても、勇一にはまだ荷が重すぎる命題でしかないのだし、天界からの刺客がどこかで聞いていないとも限らないのだ。
あれこれと考えれば考えるほど、思考は泥沼の中でかき回されるように重苦しく那美を包む。
「那美?どうした?」
「あ、なんでもない」
不思議そうに廊下に顔を出した兄の声に、那美は慌ててそう告げるとリビングに戻るべくドアをくぐり抜けた。
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