第二章

 それからしばらくは、何事もなく平穏な日々が過ぎていった。

 襲う気配を見せない敵の様子に、始めの頃は神経を張り詰めていた勇一達だが、この頃の日々は警戒心に神経をすり減らすことをやめていた。安堵するのはまだ早いのだが、それでも気の緩んでしまうのは仕方の無いことだろう。

「おーい、勇一。わりぃけど、今日武道館に顔出してくれや」

 大きくのびをした勇一の背後で、不穏な言葉がかけられる。

 がくりと力のぬけた身体が、声を放った遠野へと向けられた。

「あのなぁ、俺はもう剣道部を退部してるし、この間の件は断っただろうが」

 その発言に、耳をそばだてていたクラスメートの身体から殺気めいたものが立ち上る。それを綺麗に無視し、勇一はじとりとした視線を遠野を向けた。

 だが、そんな事で、神経の太い遠野が恐れる事などない。

「でもよ、今、おまえ、フリーだろ」

「……まぁ、な」

 一言一言を区切るようにいわれ、勇一は嫌な予感に駆られながらも、事実を認めた。

「なら、助っ人に入れるだろっ!なっ!」

「は?」

 ここぞとばかりに大きな声を出し、ずかずかと勇一の前に来ると、遠野は拝むようにして手を合わせた。

 大げさな仕草に、勇一は椅子から転げ落ちそうになりながらも、呆れと恨みがましい目線で遠野を見やる。

 その様子を見届けていた那美が、苦笑を浮かべて話しぐらいは聞いてみるべきだと瞳の奥でそう語りかける。

 どうやら、もはや遠野の言うことは決定しているのだと言いたげな仕草、で勇一の眼の前で遠野は両手を合わせている。そんな態度に、勇一は憮然としてしまう。

 小さな溜息をつきつつも、勇一は素っ気ない声で遠野の言葉来切り捨てた。

「さっきも断るっつただろうが」

「そこを曲げて、頼んでるんだ」

「嫌だっつてんだよ。俺は」

「だってよー、エントリー表もう提出しちまったし、お前、剣道部の大将に任命されてんだぜ」

「……冗談だろ?」

「ここで冗談言ってどうするんだよ」

「ちょ!まて!誰がそんな事決めたんだ!」

「剣道部の主将に決まってんだろ」

 あっさりと種を明かされ、勇一は剣道部の主将である斉藤の腹黒い笑顔を思い浮かべると、苦々しい気持ちとともに遠野の朗らかな笑みに殺気を覚えてしまう。

 そんな勇一をおいて、遠野は通学鞄からぺらりとホチキスで留められている数枚の紙を取り出し、それを勇一に押しつけた。

 そこには今回の合同練習に参加する部がずらりと並んでおり、剣道部の欄に視線を走らせれば、確かに勇一の名前が書かれている。

 思わず勇一は穴が開くほどそれを見つめ、ぐしゃりと紙の端を握りしめた。

 確かに、剣道部大将の欄に、勇一の名前が書かれている。もはや逃げ道すらも塞がれた状態に、勇一は乱暴に頭をかき回した。

「な」

「俺は、どうあっても出なきゃならないってか?」

「そうなるな」

「てめぇー!」

 勇一の怒りを真っ向から受け止めながらも、遠野は図太い神経を駆使して猫立て声をあげて勇一ににじり寄った。

「もう決まってるんだ。観念して、出てくれるよな」

「こっちにも拒否権ってもんがあんだろうが」

「そんなものはない」

 きっぱりと言い切られ、勇一は遠野にエントリー表を押しつけ、忌々しげに舌を打ち付けた。

「ったく、わぁったよ。道場にいきゃいいんだろ」

「そういうことだ。んじゃ、後よろしくな」

 ひらひらと手を振りながら、遠野は勇一から遠ざかっていく。

 そのやりとりを眺めていた那美が、苦笑と嘆息混ざった声を放つ。

「なんか、遠野のいいように引きずり混まれたわね」

「くそ」

 悪態をつきつつも、勇一は立ち上がると鞄に手を伸ばした。

 そんな勇一の姿を眺め、那美は僅かに口の端に笑みを刻みつつ、のんびりとした調子で問いかけた。

「いくの?」

「行かなきゃ行かないで、後が怖いだろうが」

「まぁ、確かに」

 それに、一言斉藤につのらなければ、勇一としてはやっていられるか、という気持ちが大きく膨れあがっている。

 同じように立ち上がった那美に向け、勇一は不機嫌を隠そうともせずに那美に話しかけた。

「那美、先に帰ってろ」

「え?でも……」

「大丈夫だ。そんなに時間もかかんねぇだろうし、自分の身ぐらいは自分で守るさ」

「ん……」

 那美の心配は、先日事を思い出してだろう。足手纏いになるのは分かっているが、それでも心配はつきることがない。

 それを振り払うように那美は軽く頭を横に振ると、少しだけ強ばった笑みで勇一に視線を向け、何かを言いかける。だが、言葉が見つからなかったのだろう。軽く口を開け閉めし、那美はきゅっと唇をかみしめた。

 そんな那美の頭を軽く撫で付け、勇一は道場に行くべく足を踏み出そうとする。

 だが、それは一歩進んだだけで、その歩みを止められた。

「あれ?」

 那美が不思議そうな声を上げ、教室の後ろにつけられているドアを見つめる。

 そこには、一人の少女が不安そうな顔で中を見つめ、那美と視線がかち合うとほっとしたように肩を下ろした。

 那美が椅子から立ち上がり、そちらに向かう。

「成瀬さん、だったわよね?」

「はい」

 ほっとしたように少女、成瀬真由美は、安心したように顔面の筋肉を笑みの形に作り上げる。

 違和感を感じながらも、那美は黙って真由美に先を促すように柔らかな目線でその顔を見つめた。

「この前は、ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げた真由美の態度に、慌てて那美が彼女の肩を叩く。

「そんな事気にしないで。

 それより、どうかしたの?」

 近づいてきた勇一も、真由美の様子に軽く首をかしげる。勇一としては、違和感よりも、彼女の態度に疑問を抱いたようだ。

「あの……」

 二人の顔を交互に見やり、真由美は大きく息を吸い込んだ後、意を決したように話し出した。

「すいません……あの、今日、須田君のところに行くんでしたら、一緒に、行きたいんですけど」

「須田君?」

「はい」

 心持ち顔を赤らめた真由美の様子に、那美はなるほどと苦笑を浮かべた。

 意味を掴み損ねている勇一をおいて、那美は真由美に気さくにそれを請け負った。

「今日武道館に行くから、一緒に行く?」

「はい!」

「お、おい、那美」

 軽く確約した那美の言葉に、勇一は慌てたように那美の肩を叩く。

 不思議そうに勇一を見た那美だが、少しだけ可笑しそうな色をを浮かべて勇一を見上げている。その表情に浮かんだ色は、分からないのか、と雄弁に語っているのだが、勇一は何が何だか分からずに首を傾けた。

 真由美の言葉と態度に、勇一は忍が何をやったか思い返してみるのだが、何か事を起こしたわけではない、と、結論を下した。

 ほっとしたように小さな息を吐き出した真由美に向けて、那美は微笑みを浮かべて言葉を続けた。

「昇降口で落ち合う、でいいかな?」

「はい!」

「じゃぁ、鞄取ってきて、一緒に行きましょ」

「分かりました」

 そう返事をすると、真由美はぺこりと頭を下げて、やや早足で自分のクラスへと向かった。

 それを見送った勇一が、今だに真由美の行動が分からないどころか、那美の簡単な返事すらもが理解できずに、怪訝な声で問いを放った。

「どういうことだ?」

 その疑問に、那美が呆れたようなと息をつく。

「ほんとに、分からないの?」

「あぁ」

「……まったく、これだから男の子は」

 はぁ、と小さく溜息をつき、那美は真由美の走り去った方向へと眼を向けると、くすりと苦笑めいた笑みをこぼした。

 ますます訳が分からないという勇一の雰囲気を無視し、那美はばしんとその背中を叩いた。

「とにかく、武道館に行きましょ」

「あ、あぁ……」

 その言葉に押されるようにして、勇一は一度席に戻って机の横に引っかけてある鞄を取ると、ゆったりした動作で教室を出る為に歩き出す。廊下に出た途端に視界に入ってきたのは、一斉に出てきた生徒達の姿だ。帰宅組や部活に出るために急ぎ足で廊下を進む生徒達に、勇一は眼を細める。

 そんな中に混ざりながら、先ほどの那美と真由美の会話を思い返す。何というか、女心は謎だらけだ。そんな事をつらつらと考えながら、勇一は幾分かゆっくりとした歩調を保ったまま昇降口に向かった。



 明かり取りから入る西日の強さを感じながら、勇一は所在なげに佇んでいる成瀬真由美の姿を見つけると、ちらりと隣の那美に視線を送る。

 その視線に、茶目っ気をたたえた光を浮かべた那美だが、背後から聞こえた声に二人そろってそちらに顔を動かした。

「高橋先輩!武道館に行くんですか!」

 開口一番にそう言われ、勇一は渋い顔で忍の顔を眺める。

「何でお前はそう嬉しそうなんだ?」

「だって、大将を引き受けてくれたんですよね!そうでなきゃ、武道館に行く用事が無いじゃないですか!」

「あのなぁ。俺はそれを了承したわけじゃねぇぞ」

「そうですか?もしそうであったら、ここまで先輩来なかったでしょうし、天野先輩も一緒だから、間違いなく武道館に行くもんだと」

「待て。何で那美とセットだとそういう思考に行き着くんだ?」

「天野先輩がいれば、高橋先輩は自動的に武道館に行くこと決定じゃないですか」

 天然気味の忍の発言は、ぐさりぐさりと勇一の心に突き刺さる。これが悪意で言われているのならば、まだ相手に向かって牙をむくことが出来るのだが、忍の場合はこれが素なのだから、何を言っても無駄な結果になるのは目に見えている。

 おもわず溜息をついた勇一だが、ふと忍が自分達ではなく、昇降口の入り口に立つ少女に視線を釘付けにしていることに気がつく。

 真由美も忍の存在に気がついたのだろう。慌てて頭を下げるが、耳元まで真っ赤になった真由美の姿に、勇一は軽く首を傾けて疑問符を身体中から飛ばしてしまう。

 その様子に那美が軽く吐息をこぼし、那美は真由美のそばに近寄った。

「ごめんね、待たせちゃった?」

「い、いえ。

 あの、その……」

 もごもごと口の中で何かを呟く真由美が、突然那美へと頭を下げた。

「よ、用事を思い出したので、その……また一今度緒に行ってください!」

「い、いいけど。本当に今日は行かなくていいの?」

「はい!」

 勢いよくそう言うと、真由美は再び頭を下げて足早に那美や勇一達の横を通り過ぎていった。

 一瞬だが、真由美が忍に対して、熱い眼差しを向ける。

 同じように、忍も真由美の姿を視界に入れると、ぱっと顔を赤らめて視線をさまよわせた。

 その様子を見、那美は小さな溜息をつく。

「二人とも、素直になればいいのに……」

 呆れたような、それでも意味深な那美の言葉に、勇一は不思議そうに走り去った真由美の背中と、不可思議な行動を取る忍の姿を見やった。

 そんな様子を振り払うように、那美が軽く手を叩く。

「さ、武道館に行きましょ」

「あ、あぁ」

「そうですね」

 男達二人の返事に、那美は小さく笑みを顔面に貼り付け、勇一の背中をばしりと叩いて武道館に向かうべく、くるりと踵を返して歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る