第一章

 ボールを蹴る音と、ゴールキーパー役の生徒が大声で指示を出している。

 それをぼんやりと眺めながら、高橋勇一は何もするでも無くただ空を見上げるようにして座り込んでいた。

『―三千大世界を破滅に導くつもりか!』

 どこからか聞こえてきた声は、今は遠い、遠すぎる記憶で聞いたもの。目をつむれば、今の記憶と過去の記憶とが交差する。

 荒涼とした大地。

 本来は緑にあふれ、その恩恵を受けた人々が笑顔で暮らしていた場所は、もはや目覚める事のない永遠の眠りについた者達の身体によって、大地に血を捧げるようにして横たわっていた。

『―何故、邪神と呼ばれる事を選ぶ』

 鈍く、何かを切り裂く感触が腕に伝わる。目の前の敵が胸を裂かれた衝撃で、数歩後ろに下がりそのまま膝から崩れ落ちた。

『―邪悪な力を持っている。やはり貴様達はこの場所で死するべきだな』

 邪悪の根源、とまでいわれた。否定しようにも、天界の神々はこちらの言う事に耳を貸すわけはない。天界の意思に背き、戦になる事を覚悟していた以上、彼らが自分達を邪神というのは分かりきっていた事だ。

 無論それは、修羅界という場所にいたからだろう。闘神と呼ばれる者達が暮らすこの世界は、和睦を結ぶ前までは邪神の巣窟だと唾棄されていたのだ。

 何をもって善神とし、どうやって邪神と認定していたのか。それは、天界の考えに反してその意思を沿わなというたったそれだけの事だ。

 ―俺達が、邪悪な力を持っている、か。

 移り変わる光景の中で、天界の兵士達は皆帝釈天の意に沿うために、自分達へと太刀を振り下ろしてきた。

 躊躇を一瞬でも持ってしまえば、そこには死という選択肢しかない。何を言われようとも、何と罵倒されようとも、自分達は自分達の考えを貫き、それを行動に移していただけだ。

 帝釈天の考えが間違っていたのか。それとも自分達が間違っていたのか。

 戦いに敗れた時、天界の者達は自分達が正しかったのだと歓喜したに違いないだろう。だが、帝釈天の意思が本当に正しいのかと反芻した者は、天界に本当に存在していなかったのだろうか。

 自分達は修羅界にいたからこそ、修羅界の住人は帝釈天の考えに眉をひそめ、それに反した言葉を放った。

 たったそれだけの事だというのに、その思想は邪悪な事と定義された。

「どうしてだろうな……」

「あ?なんか言ったか、勇一」

 知らずに漏れた言葉は、それほど大きくはなかったはずだ。けれど、近くに居たクラスメイトの耳には届いたのだろう。

 不審げに眉をひそめて声をかけた友人に、勇一は弾かれたように顔を上げた後苦い笑みを浮かべて何でもないと手を振った。

 納得はしていないのだろうが、それでもそんな事を気にする事はないと思い直したらしく、友人は人の悪い笑顔で勇一に猫なで声で話しかけてきた。

「んだよ。つれねぇな」

「うるせぇよ」

「あぁ、そういや、この間の試合の話し先に進めたからな」

「んだって!遠野!」

「約束は約束だろうが。もう決まった事に対してぐちゃぐちゃ言うなよ」

「ってめぇ……」

 覚醒する前に友人、遠野秀樹と交わした約束は、近く行われる三校同時開催、矢沢学園、聖山高校、籐華学園との対抗戦に出場する事だ。しかし、覚醒直後にそれを辞退する意を口にしていたのだが、どうやらそれはすでに遅かったという事だろう。

 エントリー表を今から組み直すのは手間だと感じたのか、それとも元剣道部員の腕を買っていたのか。

 余り嬉しくない言葉に苦々しい息を吐き出し、勇一は己の掌に目を落とした。

 普通の『人間』では持ち得ない、強大な神力。

 戦う上では欠かせない神力だということは理解している。だが、それでもこの平穏な時間の中では、それは忌むべき神力でしかない。

 けれどこの神力は、多くの者達を犠牲にして呼び戻した神力だ。

 それを否定する事は、死んでいった者達の思いを踏みにじる行為でしかないということであり、彼等を全面的に否定することだと充分に理解している。

 そしてそれは、前世の、そして現世の父親の思いを、真っ向から逆らうことになる事に他ならない。

「……父さん」

 自分を守るために死んだ父達。

 何時も温かく、時には厳しく自分を育てた父達に、自分は報いることが出来るのだろうか。

 握りしめている拳が白くなる。

 自分は本当に、死んでいった者達の期待に応えられるのだろうか。

 いや、応えなければならない。

 だが、不安と焦りとが心の中でせめぎ合う。早く神力を完全に使いこなせるようにならなければ、自分は彼らの思いすらも踏みにじってしまうことになるのだと分かりきっているために。

 思考に没頭していたせいだろう。ホイッスルの音も聞き逃していた勇一の側に座っていた遠野が、重い腰を上げるようにして立ち上がる。

「おい勇一、次俺達だぜ」

「あ、あぁ」

 慌てて頭の中にあった考えを一時やめ、勇一は溜息とともに立ち上がる。

 心中で重い石がどかりと存在感を示しながらも、勇一はそれから目を反らすようにピッチへ向かってゆっくりと歩き出した。


「じゃぁなー!勇一、ばっくれたりするんじゃねぇぞー!」

「うるせぇ、ってか、俺は出ねぇぞ」

 不機嫌そうに遠野の言葉を弾き飛ばし、勇一は頭痛を堪えるように頭を横に振った。

 その様子に、右斜め横に座っていた天野那美が不思議そうに勇一を見遣る。どうしたのかと問いかける表情を無視し、勇一は椅子から立ち上がると昇降口へと向かって歩き出した。

 慌てて那美も席から立ち上がり、勇一の後を追う。

 足早に校舎から離れる勇一の背中に、那美は降参とばかりに声をかけた。

「もう、何怒ってるのよ」

「別に怒ってねぇよ」

「そう見えないから聞いてるの。

 どうせ、遠野に何か頼まれたんでしょ」

 ぴたり、と勇一の足が止まり、隣に到着した那美の顔を見下ろした。

 図星を指されてしまえば、違う、とはもう言えない。幼い頃から一緒にいた仲だ。小さな機微を見逃すことのない那美の洞察力は、勇一としては舌を巻くしかないほど鋭いものといえるだろう。

 じっと瞳を見つめられ、勇一は溜息とともに不機嫌の理由を口にした。

「なんか知らんが、試合に引っ張り込まれそうになってる」

「試合って、今度の三校合同の練習試合?」

「あぁ」

 そこで言葉を切り、勇一は今気付いたように那美に問いかける。

「お前は出ないのか?」

「槍術部以外から出ないかって聞かれたけど、忙しいからってパスさせてもらった」

「んだよ、それ」

 しれっとした那美の答えに、勇一は悔しそうな表情を浮かべてみせる。そんな勇一の仕草にぷっと吹き出し、那美は勇一よりも一歩ほど先に歩き出した。

 まるで子供をあやすような那美の姿に、勇一は小さく舌を打ち付けたが、あえて何も言わずその後を追いかけようする。

 だが、ふと何かに気が付いたように足を止め、勇一は後ろを振り返った。

「勇一?」

 不思議そうにそう尋ねた那美もまた、同じように勇一と同じ方向を見る。

 程なくして、二人の耳に大きな声が響き渡った。

「せんぱいっ-!」

 突進、と言う言葉がぴたりと当てはまる早さで近づき、二人の前に立った少年は肩で息を切らしつつ、ぎっ、と鋭い目で勇一を見つめた。

 その眼光の鋭さに、勇一が一瞬だがたじろいでしまうが、少年の剣幕の強さに疑問を持ったのか、那美が少年に声をかけた。

須田すだ君、いったい何があったの?」

「何があったの、じゃないですよ!天野先輩も聞いてください!」

 普段は温厚な須田忍の尋常ではない様子に、那美は何度か瞬きを繰り返しつつその先を促すように首をかしげた。

「高橋先輩、剣道部をやめたんですよ!」

「え?」

 忍の口から出た情報は初耳だったらしい。那美は小さく驚いたような声を上げた後、ちらりと勇一へと視線を送る。

 それに肯定の意で頷くと、那美はそうなんだ、と小さな声を上げた後、まさか、との思いで忍に疑問を投げつけた。

「もしかして、それで勇一を探してたの?」

「はい!是非とも納得する答えを聞きたかったんです!」

 きっぱりと断言した忍の様子は、勇一から答えを引き出すまで食い下がる事はないと語っている。

 思わず頭上を見上げた勇一だが、ふと何かに気付いたように視線を忍から自分の左側へと移動させた。

「勇一?」

 今自分達がいるのは、校舎から離れ部活棟へと続いている林道だ。

 林、と言うからにはそれなりに木々が生い茂り、視界をふさぐような適度な間隔で樹木が立っている。だからこそ、何か悪さをするにはちょうど良い環境だといってもよいだろう。

「那美」

 注意を促すように呼びかければ、その声の硬さから何かを感じ取った那美は黙って勇一の視線を追いかけた。

 別段変わった所はないように見える。だが、ちらりと視界の端に映った人影に、那美はそちらへと顔を向けた。

 いかにも、と言う雰囲気を醸し出している男子生徒が数名。一本の木を囲むように佇んでいる。その奥には、一人の女生徒が恐怖の表情を浮かべて彼等を見、逃げ場を探すようにあちこちに視線を向けていた。

「あいつら!」

 同じようにそれを見とがめた忍が、憤った声でその場から駆け出そうとする。だが、それは力強く肩を捕まれた為に、忍は蹈鞴を踏んでその場にとどまった。

「先輩!」

「お前が出て行ったらやばいだろ」

「でも!」

 もしも忍が事を起こし、その行動が対外的にまずいことになればどうなるか。剣道部にまで支障を来す恐れがあるのは、考えるまでもない。

 それに対し、すでに退部届を出し、正式に届け出が受理されている勇一が彼等の間に入った所で、この件がばれたとしても反省文を書くだけにとどまるだけだ。

 ちらりと那美を見遣れば心得たように頷き、女生徒を助ける為にそちらへと走り出そうとする。

 だが……。

「何してんのよ!」

 勢いのよすぎる少女の声が、少年達がいる別の場所から上がった。

 驚きに思わず三人の視線がそちらへと向けられてしまう。無論勇一達は、この現場に自分達以外に介入する者がいないと考えていたからだ。

 第三者として介入してきたのは、長い黒髪を頭上できっちりと三つ編みに結い上げ、白磁の肌と大きく元気そうな瞳の少女だ。

 少年達の事など恐れていないのだろう。その証拠に、少女はまっすぐに少年達を睨み付け、何があっても退く気は無いのだと雄弁にその瞳が語っている。

 その様子に、勇一達が感心したのはほんの一瞬のことだ。

「やだ!中等部の娘じゃない!」

 驚愕した那美の言葉に、勇一と忍も少女がどこに属するかを知る為に視線を一点に集中させた。制服は高等部と同じ造りをしている為に、どこの学部に所属しているかを明らかにするのは胸元のリボンかタイでしか確認できない。

 それは、少年達も同じだったようだ。

 勇一達同様に驚いた顔をした少年達だが、臙脂色のリボンを見て明らかに優位を確信したのだろう。下卑た笑いとともに少女を排除しようと口を開いた。

「おい、ガキ。ここは高等部の敷地だぜ。ガキの来る所じゃ」

「ガキって言うけど、あんた達はガキじゃないって言うの。そんな低レベルら事やってる所見ると、幼等部に戻ってきちんとやり直してきた方がいいんじゃないの」

 少年の言葉を最後まで言わせることをよしとしないかのように、少女はバッサリと少年の声を弾くような勢いでそう言ってのける。

 あまりといえばあまりのことに、その場にいた全員は呆気にとられたように、ぽかんと口を開いてしまう。

 少年達の間抜け面を鼻先で笑い飛ばし、少女は更なる毒舌を発揮すべく小馬鹿にしたように言を綴った。

「やっていいことと悪いことが分からないなら、ガキ以下って事じゃない。っていうか、あたしをガキって言うんなら、あんた達が違うって証拠出しなさいよ。それとも、そんな簡単なことも出来ないわけ?

 まぁもっとも、ガキ以下のことどころか、こんな単純な事も分からないんだったら、幼等部にもいられないでしょうけどね」

 余りにもはっきりとした断言に、その場の空気が凍り付く。

 可愛らしい少女から飛び出すとは考えづらい言葉の数々だ。それ故に、その衝撃の高さは常識外といえるだろう。

「すごい……」

 那美が思わずと言ったように呟く。

 その意見には勇一も忍も同意するが、はっきり言えば火に油どころか、燃えさかる炎にガソリンをぶちまけたようなものだ。

 あまりの言いぐさに呆然としていた少年達だが、少女に言われた言葉の意味を脳に染み渡れば、激怒の域に達するには十分すぎる物と言えた。

 その証拠に、怒りに顔を赤くした少年達は木に背を向けると、少女との間合いを詰めていく。

 その様を見るなり走り出していたのは、勇一と那美だ。

 小柄な少女が頭一つ二つ高い少年達に勝てるとは思えない。呆けていた忍も、慌てて勇一達の後を追いかけた。

「おい!」

 まさかこれ以上の第三者が介入するとは思っていなかったのだろう。

 少年達は駆け寄る勇一達の姿に、苛立たしさを隠さぬ表情で睨み付けつつ中等部の少女と勇一達を交互に見遣る。

 関係性を探っているのだろうが、あいにくと勇一達も彼女とは初対面だ。

 展開の早さについて行けず、きょとん、と少年達に追い込まれていた高等部の少女は呆けたようにその場に立ち尽くす。

 そんな少女の腕を、那美が優しく引き寄せその背に庇った。

「なんだてめぇら!」

「感心できねぇからな。こんなことは」

「んだと……」

「止めておけよ」

 どこか面倒そうに勇一が、少年達を見回してそう言い渡した。

 高等部の制服を着くずした少年達の格好に、まさか校内にこんな不良じみたことをする生徒がいるとは思わなかった、というのが正直な気持ちだ。

 それは那美も同じだったのだろう。顔をしかめて少年達を見回し、小さく溜息を吐き出している。

 そんな二人の態度に、少年達の闘争本能が刺激するには十分な行動といえた。

 じりじりと勇一と那美に近づく少年達に、勇一は疲れたように長い息を吐き出して少年達を見回す。

 自分達の方が数の多さで有利だと考えていることが、勇一や那美には手に取るように分かるのだが、その力の差は赤子と大人ほどの差があると言っていいだろう。

 だからこそ、忠告じみた言葉が勇一の口をつく。

「止めとけ。お前らじゃ、相手になんからねぇんから」

「んだと!」

「須田。二人を連れて、早く向こうに行け」

「あ、はい」

 勇一の言葉の鋭さに、忍は慌てて少女達を守るために、明らかに不良と断言できる少年達から距離をとり、彼らの背後に回り込む。

 中等部の少女は多少の不満を顔に浮かべるが、それを無視して忍は彼女にこの場所を離れるように視線を送りつける。そして、背後の樹に身をもたれかけていた少女は、怯えて動けなくなっていたのだろう。今更のようにカタカタと身体を震わせて、一歩も足を踏み出せないでいる様子を見、忍は安心させるような笑みを浮かべてその手を取って歩き出した。

 それを見送り、勇一と那美は軽く拳を握り締めて一歩足を後ろに下げる。何時でも動けるように身体を沈めた二人を見て、少年達は足早に二人を囲む。その様子に、那美が勇一の背後に回り込み、背中合わせの状態を作り出した。

「やっちまえ!」

 お決まりの台詞を吐き出し、少年の一人が勇一に向かって突っ込んでくる。

 あまりにも単調な動きに、勇一は呆れたような吐息を吐き出し、少年の拳をするりと抜けて、逆に少年の腹に拳を入れる。

 ぐっ、と詰まったような声を上げ、少年はバタリと地面に倒れ伏す。それを見た仲間達が、一瞬眼を丸く開いたが、すぐに怒りに駆られたように二人に向かって距離を縮めた。

 はぁ、と二人が同時に溜息をつく。この人数だけならば、それほど時間も関わらずに地面に倒れさせることは簡単だ。だが,勇一の懸念は、別のところにある。

 力加減が出来ない。

 覚醒した結果なのだろう。今まで出来た事が、上手くいかずにいくことが多くなってきている。そんな状態を那美は見抜いており、勇一を綺麗にフォローするだけではなく、まるで何事もなかったように場を取り繕ってくれる。

 ありがたく思う一方で、那美に迷惑をかけているという自覚はある。それに対して礼を言えば、当たり前じゃない、と言う言葉が返ってきた。驚いたように那美を見れば、苦笑を浮かべ那美はコツンと勇一の額を叩いた。

 勇一は、今のままでいいのよ。

 その言葉に、勇一は瞬きを繰り返し、その言葉を頭の中で反芻する。今まで緊張していた心が、それによって解れていくのを感じ取り、勇一は長い吐息を吐き出していた。

 ありがとうという言葉を遮るように、那美は言葉を紡ぐ。

 勇一が何をしようと、あたしはかまわないのよ。だって、勇一は勇一でしょ。だから、気負うことはないわよ。

 柔らかな笑みを込めてそう断言した那美の姿に、ジワリと目頭が熱くなったのことは勇一の中では秘密の事柄だ。

 そんな事を思い出しながら、勇一は少年達の姿に溜息をこぼした。

「めんどくせ」

「何言ってるのよ。煽ったのは勇一でしょ」

 勇一の言葉に、呆れたように那美が応じる。

 そんなやり取りなど耳に入っていないのか、少年達は数任せで二人に迫ってきた。

 単調な攻撃の仕方に、勇一は呆れを込めて短く息を吐き出す。

 お粗末とさえいえる攻撃だ。この程度ならば、いつも以上に楽に勝てるだろう。

 何故そんな結論が下せるのか。

 理由は簡単だ。

 どういうわけか、勇一も那美も因縁を付けられやすいらしく、絡まれた後に喧嘩沙汰へと発展する確率が高い。そのために、これくらいの雑魚と言ってよい少年達の動きを見ていれば、勇一も那美もその動きを見切れるだけではなく、短時間で決着がつくだろうということは簡単に計算できた。

 徐々に数を減らされていく少年達は、この喧嘩を始める前と違い、明らかな焦りと苛立ちに満ちた表情を浮かべ、ようやく自分達が無謀な喧嘩に走ったかを知ることになった。

「おい、こいつら」

「高橋と天野か!」

「何だ、今頃気がついたのか?」

 人の悪い笑みを見せ、勇一はそう嘯く。さらに煽るような勇一の言葉に、那美は頭痛を抑えるように頭を振ってみせる。

 そんな那美の様子に、好機と見取ったのだろう。一人の少年が腰を低くして那美に突進してきた。

 僅かに、那美が驚いたように動きを止める。

「那美!」

 その様子に、勇一は息をのみこんだ。

 体格だけが取り柄といえそうな少年だ。よけるタイミングを取り損ねた那美の身体は、簡単に吹き飛ばされることは確定事項といえる。

 させるものか。

 その強い思いは、あってはならない事態を引き起こした。

 少年が、見えない力で吹き飛ばされる。

「だめ!勇一!」

 悲鳴のような声が那美の喉を通り抜け、それによって勇一は現実へと意識を切り替えした。

 呻き声を上げ、額を伝う赤い色に、勇一は息を止める。

 今、自分は何をした。

 そう自分に問いかけたのは、自分に宿った神力が暴走しかけたことを認めたくなかったからだ。

 血を流す少年の様子に怖じ気づいたのだろう。少年達は顔色を変えて傷ついた少年を抱きかかえてその場を走り去る。

「おれ……は……」

「勇一」

 駆け寄る那美の姿さえどこか遠くに感じられ、勇一は呆然としたようにその場に立ち尽くす。

 ぎこちなく持ち上げた右手を見下ろた瞬間、真っ赤なものがそこに付着している感覚に陥る。思わず息が止まりかけ、勇一はなんとかこみ上げてくる感情を抑えつけるために唇を強く引き結んだ。

 そんな勇一の姿に那美は何かを言いかけるが、かける言葉が分からず視線をさまよわせてそのまま地面へと眼を落とした。

「なんとか踏みとどまったな、沙羯羅龍王」

 聞こえてきた声に、勇一は弾かれたようにそちらに視線を向ける。

 今まで気配を殺していたのか。近くの樹に身体をも垂れかけていたのは、今は秋山修と名乗っている、阿修羅王の姿だ。

 呆れを多分に含んだ視線を受け、勇一は仏頂面で近づく阿修羅を睨み付けた。

「手加減、と言う言葉を覚えろ。

 今のままでは、単なる人間は死簡単に死に至るぞ」

「うるせぇよ。それぐらいは、分かってる。

 それより、俺には高橋勇一って立派な名前があるんだよ」

「そうだったな」

 軽く笑みを漏らした阿修羅に、少しばかり拗ねたような声がかけられる。

「阿修羅も見てたら少しは手伝ってくれてもよかったんじゃない」

「私も勇一と同じで、力加減が面倒なくちだからな。

 最も、あの程度の連中なならば簡単に蹴散らせるだろう?

 それにしても、だ」

 言葉を切り、阿修羅は感心したように那美を見つめる。

「那美、おまえも強いな。相当場数を踏んだとみてよいのか?」

「ご想像にお任せします」

 肩を竦めてみせる那美の態度に、阿修羅は気を悪くする風でもなく微笑でその姿を見つめた。

 その様子に、那美は疲れたように吐息をつく。

 阿修羅にしてみれば、こんな事態は傍観を決め込んで自分達の様子を観察するだけなのだ。勇一が今だに神力のコントロールが出来ないでいるのだから、もしも暴走するような気配があれば、すぐにでもそれを納めに割り入れて、その神力の力の向きを変えるだろう。現にこうやって自分達のそばにいると言う事は、自分達の力の及ばない事に対しての対策でしかないという事が分かってしまう。

 再度小さく息を吐き出した那美のそれに重なるように、大きな声が被さった。

「先輩!」

 逃げ去った少年達に代わり、やや小走りに近い速度で忍が勇一達に近づいてくる。

 一瞬ではあったが、阿修羅の姿に驚きの色を見せて軽く頭を下げると、忍は周囲を見回して不良集団がいない事を確認する。

 どうやら、少女達をこの場から隔離し、自分も助っ人に入ろうと考えたのだろう。彼らの態度に怒りを覚えた忍らしい行動だ。咎めようにも、それは自分達を思っての事だと理解できるため、勇一は小さな笑みを口の端に刻みつけた。

「あいつら、どうしたんです?」

「丁重にお帰りいただいた。

 で、後ろの二人はどうしているんだ?」

 勇一の言葉に、忍はきょとんと目を見開き、自分の背後に視線を向けて何度か瞬きをくり返した。

 そこには、先程助けた少女達が近寄ってきており、忍はしまったと言わんばかりの表情を浮かべる。

 軽い足取りで近づいてきた中等部の少女は、好奇心いっぱいの視線で勇一達を見、その表情通りの声を発した。

「あいつら、どうしたんです?」

「逃げた」

 簡潔な勇一の言葉に、ふーん、と、中等部の少女は周囲の様子を伺いながら、ふと気がついたようにぺこんと頭を下げる。

「さっきはありがとうございます。

 中等部の、瀬尾野せおのめぐみといいます」

「瀬尾野?」

 どこかで聞き覚えのある名前に、勇一は記憶の中でその名を探そうとするが、それよりも前に瀬尾野めぐみと名乗った少女は、不適な笑みを浮かべて勇一達を見つめた。

「でも、あれくらいの連中なら、あたし一人でも何とかなりました」

「いらんお世話だったと言いたいのか?」

「いえ。出来れば手伝わせてもらいたかっただけです。

 高等部の有名コンビがどんな動きをするのか知りたかったので」

 悪びれた風もなく瀬尾野はそう言い切ると、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべてみせる。

 血の気が盛んと言わんばかりの少女の様子に、勇一達は呆れたよう瀬尾野の姿を眺めてしまうが、そんな視線は何時もの事とばかりの態度を見ると、どうやらそれなりに腕に自信があるのだと理解させられてしまう。

 そしてもう一人。カタカタと今だに収まらぬ震えを何とか押し殺す風情の少女は、深々と頭を下げると、どうにかという形で口を開いて見せた。

「ありがとう、ございます」

「怪我はなかったか?」

 心からの謝意で礼を言う少女に、勇一はその姿を頭から爪先まで眺めながらそう問いかけた。

「はい」

「そうか。で、えっと……」

「成瀬です。成瀬なるせ真由美と言います、一年三組の」

 そう言って、成瀬真由美と名乗った少女は強ばった笑みを浮かべる。

 あんな連中に絡まれた後だ。恐怖心が残っていないという方がおかしいだろう。

「ほんとに、大丈夫?」

「はい」

「気分が落ち着かないなら、保健室に行く?」

「いえ、大丈夫です。」

 那美が心配そうに訪ねると、真由美はぎこちない自分を落ち着かせるように息をすき込み、ほっとしたように息を吐き出すと全身から力を抜いた。

 小作りと言える顔立ちは、可愛らしいと言って差し支えのない少女だ。どこにでもいそうで、それでいてどこにもいないと言える雰囲気を持つ少女は、不良集団にとって格好の獲物だったのだろう。

 再度少女の身体を眺めて、勇一はどこにも怪我らしいものはないと理解する。どうやら不良達は、傷を負わせずに真由美を脅していただけのようだ。

 勇一と那美が安堵の表情を作ると、真由美は再度頭を下げた後、現場から離れたそうにそわそわと身体を動かした。

「もう大丈夫だと思うけど、何かあったら大きな声を出していいわよ。すぐに助けに行くから」

「ありがとうございます」

 那美の茶目っ気めいた言葉に、真由美はふんわりとした笑みを浮かべた。

 その様子を見ていた忍の顔面が瞬く間に赤くなり、僅かに身体を震わせながら真由美の姿をを見つめる。

 それを横目で見ながら、勇一は忍の様子に首を傾ける。何か彼女の行動に不自然な事があったのだろうか、と疑問に思いながらも、今までの行動でそんな様子がなかったという結論に至る。

 再度頭を下げると、真由美はその場を離れるために小走りで先程まで勇一達がいた部室棟につながる道へと駆けだした。

 それを見送り、ふと何かに気付いたように忍が阿修羅に視線を向ける。

「秋山先輩、いつの間にいたんですか?」

「つい先程だ」

「そうなんですか」

 どこか納得できないと言いたげな雰囲気を醸しながらも、忍は側にいた瀬尾野に気付くと不思議そうな感想を漏らした。

「君は、どこに行く予定だったんだい?」

「高等部の職員室です。音楽の飯田先生に呼ばれたもので。

 で、すいませんけど、高等部の職員室ってどこですか?」

 少しばかりばつの悪そうな顔で、瀬尾野はそう訪ねる。

 それを好機ととり、勇一はここぞとばかりに忍にごり押しの形で言葉を紡いだ。

「須田、案内してやれ」

「え?」

 きょとんと眼を瞬かせた後、忍はぶすりとした表情で勇一を見やる。

 まだ用件は終わっていないのだと言いたげな忍の顔面を綺麗に無視し、勇一はのんびりとしながらも勇一と忍の会話を聞き耳を立てている瀬尾野をちらりと見やる。どこか面白そうな目線で、けれども隠しきれない好奇心を押さえつける事無く、瀬尾野は勇一の態度を見つめているその姿に溜息をつきたくなった。

「わりぃ、俺用事があるんだわ」

「先輩」

「そ、そうそう。だから、ごめんね、須田君。あたし達、これからその用件済ませなきゃいけないから」

「天野先輩もですか?」

「そう」

「じゃぁ」

「すまんが、私もそうだ」

 阿修羅もまた、それに便乗するように言葉を放つと、くるりと背を向けて歩き出した。

 それに続くように、勇一と那美もその後に続く。

 悔しそうに三人の背中を見送る忍だが、溜息を一つ吐き出し、瀬尾野の案内のために高等部の校舎に向かって歩み出した。



 忍達の気配が遠のくのを感じ取り、勇一は安心したように歩みの速度を落として、ほっとしたようにその場に立ち止まった。

「勇一!」

 その後を追いかけていた那美が、荒い息を何度かつきつつ勇一に近づくと、軽く勇一を睨み付ける。

 その視線に、勇一はは軽く疑問の色を顔面に乗せた。

「いくら須田君から離れたかったからって、歩くの早すぎ!」

「わ、わりぃ」

 そんなに速く歩いていたとは思っていなかったが、忍から離れたい一心だった事に気付かされ、勇一はばつの悪そうな顔でそう謝った。

 はぁ、と、大きく深呼吸をする那美を見ながら、勇一はふと先程の少年達の姿を思い起こす。

「あいつら……」

「あいつらって、さっきの連中の事?」

「あぁ。

 なんつうか、その、な」

「操られた節がある、と言いたいのだろう」

 勇一の言葉を説明するかのように、ゆったりとした足取りで近づき、那美の側で立ち止まったまま阿修羅は言を放つ。

 ことりと不思議そうに首を傾けた那美が、先程の少年達の動きを頭の中で反復しつつ、難しそうな顔で阿修羅に尋ねた。

「そうかな?あたしはそう思わなかったんだけど」

「俺だって、やっているうちに気がついたんだけどな……軽く暗示をかけられてるような眼をしてた。

 たぶん、目が覚めりゃ、自分達が何をしていたのか忘れているはずだ」

「え?それじゃ、成瀬さんは、関係なく巻き込まれたって事?」

「だろうな」

 どこか納得できないながらも、勇一は那美の言葉に相づちを打つ。

 気難しげな勇一の雰囲気に、那美は何かを言いかけて口を噤む。

 そんな勇一の姿に、阿修羅は当然のような言葉を放った。

「思い出してきているのだな」

「……断片的に、な」

 ここで嘘を並べたところで、何の意味も無い。

 勇一は嫌々ながらも、阿修羅の言葉に同意する吐き捨てるようにそう言い捨てた。

 心配そうに那美は勇一を見つめ、恐る恐る疑問を投げかける。

「どんなこと?」

「……戦場で、俺は何時も誰かと戦っている」

 血しぶきを上げて大地に伏す敵兵の返り血を浴び、周囲の敵を屠るために剣を振るう自分の姿しか、今は思い出す事が出来ない。

 どこか遠くを見つめながらそう告げた勇一が、阿修羅に視線を向けると真剣な瞳で問いかけた。

「俺は、いったい何のために闘ってんたんだ?」

「私が説明するよりも、自分で思い出した方がよかろう。

 私が言ったところで、疑いを覚える可能性があるのだからな」

「確かに、な……けど、あんな血生臭い、思い出したくもない記憶は、正直、気が滅入る」

「だろう、な……」

「勇一」

 阿修羅の瞳に浮かんだ深い悲しみと、心配そうな那美の表情を見、勇一は一瞬苦い表情をその顔に浮かべる。

 話すべきではなかったかもしれないと考えながらも、それでも口にせざる得ない自分の中の記憶は、余りにも鮮明で、自分の過去に何があったのかを知りたいと思ってしまう。

 だからこそ、勇一はまっすぐに阿修羅に視線を固定させ、はっきりとした口調で阿修羅に問いかけた。

「お前なら、知ってるんだろ。なにがあったのか。

 頼む、少しだけでもいいから、話してくれないか?」

「本当にいいのか?おまえ自身が思い出さなければ、それはあくまでも伝え聞いた事になってしまうのだぞ」

「かまわねぇ」

「そう、か……」

 勇一のはっきりとした意思に、阿修羅は一つ溜息をつくと、過去を思い起こすために遠い目をする。

 そこには、様々な感情が彩り、自分達が転生するまでの長い時を一人で過ごしてきた阿修羅の悲しみがうかがえた。

「……あの戦で、我らは大敗した。奴らは、戦えぬものすらも殺し、修羅界を荒涼とした大地に変えた」

「それって……地獄じゃない」

 那美が、眉を顰めてそう言い放つ。

 それにゆっくりとした肯定を示すように頷き、阿修羅は言を綴った。

「そうだ……地獄と言っても過言ではなかった」

「何が原因だったんだ?」

「簡単に言ってしまえば、人界、いや、人間は滅亡するべきだと主張する神々と、それを阻み、人間を生かそうする神々の戦いだ」

「俺達は、生かそうとする側だったのか?」

「そう急くな。順を追って話す」

 僅かな苦笑を言葉に乗せ、阿修羅はゆっくりと噛んで含めるように二人に話し出した。

「何時の頃だったか、全ての世界を含む三千大世界に、小さな、だが、全ての世界を破滅に導くには十分な『歪み」が生まれた。その原因は、人界にあると六道界の中心であった天界はみなし、人間達の殲滅をと言う声が上がった。だが、それを鵜呑みに出来ず、異を唱える者達が存在した。

 お前や、私を含む者達の事だがな」

 小さく吐息をつき、阿修羅は少しばかりの苦笑を浮かべて勇一を見やる。

 どこか安堵の色をたたえた勇一の瞳とかち合った阿修羅だが、疑問を提示した那美の言葉に意識をそちらに向けた。

「でも、人間を滅ぼしたとしても、その『歪み』が消える保証ってあったの?」

「ないな」

「それって、理不尽じゃない」

「そうだ。

 だからこそ、戦いが起きたといってもよい」

 教師が話すかのように、阿修羅は二人に向けて噛み続けるようにして話しを続けた。

「人間達の中には二つの心がある。すなわち『邪心』と『善心』だ。常ならば、それらは一定の釣合を保ちながら世界を保持し続けている。だが、それらが少しずつだが傾きを見せ、いつの間にか『歪み』が生じた。

 そう我らに説いたのは、天界の神、すなわち『覚者』と呼ばれる神達だ。

 だが、その心根は我らにも当てはまる。我ら神族も、昔から幾度となく戦を、己の中の『邪心』をむき出しにして闘ってきたのだからな。

 そうして、天界に反旗を翻したのは、人間達から『鬼神』や『邪神』と呼ばれ、恐れられている神々が多かった。

 やがて、その考えに賛同した神々は、八代龍王の長にして、修羅界の王である難陀龍王の元へと集まった。少数ではあったが、かなりの精鋭部隊や我ら八部衆が全力を持って修羅界を守るために闘った」

「そこまでする必要があったのかよ」

「あった、と言うべきだろうな。

 奴らは数にものを言わせ、我らを倒し、はじめから全てを根絶やしにするつもりだったのだから」

「どうして、人間界は戦に巻き込まれなかったの?」

 素朴な疑問を口にし、那美はじっと阿修羅の瞳を見据えてその答えを待っていた。

 強い視線は、勇一に通じるものがある。それは、どこかで見た事があるのだが、記憶の底を調べるには今はまだいいだろうと結論をだし、阿修羅は幾分か眼を細めて晴れ渡った青空を見上げる。

「隣接する世界ではないということもあったが、何より『歪み』の最たる原因ということもあったからな」

「それじゃぁ、人間界、ううん、人間は……」

「彼らは放っておいても自らの力によって滅亡する種だ。何も奴らが手を下す必要は無いと判断された。

 しかし、様々意味で、人間界は見放されている。物質面でも、精神面でも」

「どういうことだ?」

「物質面という点ならば、その昔に施した悪しきものの封印が解けつつあるということだな」

 その言葉を渋い顔で聞いていた勇一だが、ふと何かに気付いたように鋭い視線とともに振り返る。

 勇一の行動に、きょとんと眼を瞬かせた那美だが、林の中の一点を見つめるその表情を見て取り、すっと勇一から数歩後ろに下がった。

「視えるのか?」

「おかげさんでな。

 ……げっ、五匹もいやがる」

 心底嫌そうに勇一は息を吐き出し、僅かに眼を細めてくっと拳を握りしめた。

 それを合図にしたかのように、低い呻り声が空気を振るわせる。

 姿の見えないそれに、那美は表情を凍らせながらも、勇一達の邪魔にならぬ位置を探すように視線を周囲に走らせた。

「来る」

 その呟きが聞こえたのか。ぶわりと空気が膨れあがり、空間を切り裂くようにして巨大な獣が現れた。

ぬえ、か?」

「そうだ」

 満足そうな成分を含ませ、阿修羅は勇一の答えを肯定する。

 鵺と呼ばれたそれは、潰れた顔と薄汚れた茶色の体毛を全身に纏い、獣というには余りにも大きな体躯を持ち合わせ、蛇の尾をバタリバタリと地面に叩きつけている。不快感を見る者に与えるそれに、那美は軽く息を飲み込む。

「これが、封じられたものなの?」

「そうだ」

 消そうにも消せない嫌悪感を押さえ、那美は阿修羅に尋ねる。

 それに答えた阿修羅といえば、見慣れた獣だという雰囲気でそれを見やり、苦々しげに溜息をついた。

「この程度のものならば、おまえ一人でも何とかなるだろう」

「はぁ!」

「まぁ、お手並み拝見と行こうか」

「てめっ」

 その会話を聞き終えたというわけではなかろう。鵺の一匹が鋭い爪を表しながら、勇一へと襲いかかった。

 不意の攻撃ではあったが、軽々と勇一はその爪をよけると、逆にその鼻面に拳をたたき込む。

 耳障りな悲鳴を上げ、鵺は怒りに燃えた瞳を勇一に向ける。

 それを眺めながら、阿修羅は那美を庇うように佇むと、その右手に一振りの太刀を出現させる。

 それを視た、勇一は真剣な口調で阿修羅に問いかけた。

「どうやった。今のそれ」

「自分で思い出せ。出なければ、殺られるぞ」

 小さく舌打ちをし、勇一はぼんやりと頭の中で浮かび上がる形を必死にかき集める。

 阿修羅に出来たことだ。自分も出来るはずだと信じると、勇一は鵺達の行動に注意を払いつつも、朧気なそれを必死になってかき集めた。

 左手が、酷く熱い。

 ぽう、とともった淡い光が、勇一の掌に集まる。それを何とか形にすべく、記憶の底に眠っている自分の太刀の姿を思い起こし、勇一はカチリと鳴り響いた音と同時に、その光を握りつぶした。

 聞きにくい声とともに飛びかかってきた鵺を、勇一ははっきりとした形をとった太刀を迷うことなく振るう。

 ばっと、気味の悪い色の体液が空中に踊り落ちる。切り裂かれた鵺は断末魔の声すら上げることも出来ず、ドサリと重い音を立てて地面に転がった。

 仲間の死に様を見てだろう。鵺達は警戒しつつ間合いをとり、何時でも勇一に襲いかかるためにがりがりと大地をかきむしる。

 ―あれが、沙羯羅龍王だと。

 物陰から気配を消し、その様子を眺めていた存在は、小馬鹿にしたような声を心中で上げた。

 妖艶な笑みを浮かべるが、侮蔑の色が濃いその微笑は、見る者がいたならばそれでも見ほれずにいられら無いほどの色気は放たれている。

「恐れずに足りぬ、といったところか。それにしても……」

 くっと喉の奥をならし、それは自信に満ちた声を漏らした。

「あれならば、簡単に殺せるな」

 その確認だけのために、あれほど低級な獣を操ったのだ。少しばかり物足りなくはあるが、大切な駒をここで減らすこともあるまい。

 戻れ。そう簡潔に命を下せば、鵺達は不満げな空気を纏う。だが、それを押さえつけるように再度命令を鵺達の頭に送りつけた。

 渋々、というよりは、本能的に自分達を簡単に消せる存在のことを思い起こしたのか。じりじりと勇一達から離れ、鵺達は姿を消した。

「修羅界最強の闘神と名高い者達だ。どのような死に様をさらすのかな?

 まぁ、こちらを楽しませてくれれば、重畳と言うところだが」

 クツクツと喉を小刻みに動かし、それは優雅な動きでその場を離れるために足を踏み出した。



 一瞬感じたのは、あからさまな敵意と殺気だ。

 それを敏感に感じ取った阿修羅は、太刀の切っ先をそちらに向ける。

「阿修羅?」

「どうかしたの?」

 突如というべき動きで鵺達が撤退したことに安堵の吐息をついた勇一だが、阿修羅の動きに不思議そうに声をかけた。

「……気のせいか」

 幾分か苦さが込められた呟きに、勇一は軽く目を見張る。

「何かいたってのか?」

「さて、な。気のせいということもある」

「ふーん」

 どこか納得できないようではあったが、それ以上のことは聞かずに勇一は手の中に現れた太刀、龍牙刀をしみじみと見やる。

 今回は上手くいったが、次に上手くいくとは限らない。何とかこれを瞬時に出せるよう訓練しなくては、勇一は拳だけで闘うこととなってしまう。それでは何の解決にもならないことは重々承知してる。課題にしては大きいが、自分の身を守るためには、修行しなくてはならないと 勇一は重い溜息を吐き出した。

 それの余りの大きさに、勇一は慌てて那美へと視線を転じる。いくら何でも、こんなことに巻き込まれた上、心配させるような色合いの息をついたのだ。那美が不安げに見つめてくることは十分なことだろう。

 だが、那美の視線は勇一ではなく、勇一の背後へと向けられていた。

 安心すると同時に、疑問が勇一の中に生まれ、それを押し殺すことなく勇一は那美へと声をかけた。

「那美?」

「え?」

「なんかあったか?」

「ううん。何でも無い」

 気のせいだろう、と那美は自身に言い聞かせる。

 一瞬ではあったが、風になびかせた制服のスカートが見えたきがしたのだ。とはいえ、それは視界の端に映ったものであり、目の錯覚であった可能性も否めない。

 これ以上勇一を困らせたくはなかった那美としては、気のせいかもしれない事柄まで口にすることはないだろうと考え、微妙な笑みを口の端に刻んで見せた。

「しっかし、何だったんだ。こりゃ」

 倒した鵺の死体が、さらさらとした砂状になり、風に乗って周囲に散らばっていく。それを苦々しい気持ちで眺めながら、勇一は顔をしかめてそう吐き出した。

「刺客、にしては、少し変に思えるんだけど」

「ってか、完全に遊ばれたような気がするんだけどな」

 前髪を掴み上げ、勇一はじっと考え込んでいる阿修羅に視線を転じた。

 難しげな顔は、今回のことを考えているのは一目瞭然のことではあり、意見を求める勇一と那美の表情に気付き、それを消し去るようにして阿修羅は細い息を吐き出して言を綴った。

「実力を試していた、と言うのが正しいだろうな」

「あ?」

「……ようするに、どれだけ勇一の神力が覚醒したのか知りたくて、あの化け物を使ってみせた、そういうことかな?」

 勇一などよりも格段に察しがよい答えを出した那美に、阿修羅は口の端に僅かな笑みを浮かべて軽く頷いてみせる。

「そうだろうな。あれほど低級なアヤカシを使ってきたのだ。どこからかこちらのことを観察していたのだろう」

「悪趣味だな」

 切って捨てるようにそう吐き出した勇一は、自分が倒した鵺達がいた場所へと視線を向ける。

 風に乗って塵芥とかした鵺の身体は、以前倒した羅刹天と同じような末路を辿り、この世界を害することなく消えていく。それが正しいのかどうか分からずに、勇一は難しい顔付きでその場を見つめた。

「でも、あれくらいなら、勇一も平気で倒せることを実証したって訳よね」

「確かにな。本人がこちらを襲うつもりならば、もう少し策を練ってくるだろう」

「けど、あれも刺客だったんじゃ」

 軽く頭を上下に振った阿修羅の姿に、那美は気遣わしげに勇一を見つめる。

 それに気づき、勇一は安心させるために那美へと笑って見せた。

「勇一ばかり狙っていたのだから、そうみるべきだろう……だが、安心しろ、この程度でやられることは無いと証明された。そう心配することもあるまいよ」

 複雑な表情でそれを聞いているな那美の頭を、阿修羅はくしゃりと撫で付ける。

 それを受けて、那美は視線を阿修羅に転じる。阿修羅の顔面に浮かんでいるのは、不敵な表情がだった。

「けど、いったい誰だろうな。鵺はそう簡単に操れるもんじゃねぇだろ」

「まぁそうだ。だが、今はそれを考えたところで仕方あるまい」

「わぁってるよ。けど……」

 何かを言いかけ、勇一は苦々しげに鵺達の消えた方向へと目線を転じる。

 いったい誰が、との疑問に答えるすべはなく、勇一は奥歯を軽く噛みしめた。

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