龍王奇譚 第二章 陽炎恋哀
10月猫っこ
序
薄闇の中、勢いよく布地が引き裂かれる音がする。
一瞬、何が起きたか分からなかった少女だが、状況を理解すると大きく瞳を見開き、狂ったように暴れ出した。
声を上げたかったが、口の中に突っ込まれた制服のネクタイが邪魔をして、唸るような声しか上げることが出来ない。
必死になって抵抗する少女に、馬乗りになっている男が小さく舌を打ち付けた。
「おい!ちゃんと押さえておけよ!」
苛立ったような声を上げた男が、手の中のブラウスであった布をそこらに放り投げると少女の首筋に顔を埋めた。
生暖かな息と、嫌悪感しか浮かばない唇の動き。そして何よりもぞっとするのは、自分の身体を辿るようにして動いていた手が、胸の大きさを図るようにつかみ上げた時だ。
くぐもった悲鳴に、周囲の男達は下卑た笑みを浮かべて獲物を見つめる。
どうして?
少女の頭には、その言葉だけがぐるぐると渦を巻く。
何事も、ないと思っていた。
何時もと変わることがないと、思っていた。
否。なかったはずなのだ。
なのに、こうして非現実なことが今起きてしまっていることに心が追いつかず、忌まわしいまでの現実がつきつけられてくる。
少女は、何時ものように、帰途についていただけだ。
なのに、突然薄暗がりから現れた男達に引きずられ、いきなり殴られたあげくにこんな寂れた工場跡に連れ込まれた。
少女の瞳から、怒りと羞恥と憎悪に染まった涙がこぼれ落ちる。
今だに、自身の身に起こったことが信じられない。
けれど、殴られた場所がじんじんと痛み、これは現実なのだと教えている。
人気の無い道だと分かってはいた。けれども、そこしか家に帰るまでの道がなかっただけだ。だから、そこを通った。
ただ、何時ものように家路に辿ろうとしていたのに。
運が悪かった。
他人はそれで片付けてしまうだろう。
けれど、そんな言葉で今の現実を受け入れることなど、被害者となった者には受け入れることは出来ない。
飢えた獣のように血走った目と、嫌らしいまでの笑みを張り付かせた男達は、少女を『玩具』として扱っている。
少女が躍起になって自分を押さえつける男達をどかそうと身を動かすが、四人がかりで押さえつけられてしまえばそれさえもままならない。
「早くしろよ!」
「待てって。久しぶりなんだぜ、女犯すの」
耳に入り込むのはまだ年若い男だと分かるが、そんな事はどうでもいい。ただ、その声さえも出来ることならば消してしまいたい。
―助けて……誰か……お願い!
心の中で絶叫を上げた時だった。
明確すぎる声が、少女の頭の中に響き渡る。
『助ケテホシイカ?』
―だれ?
幾分か笑みを含んだその声の主を探すべく、少女は目線だけを周囲に巡らせる。
けれど、自分と青年達以外、この寂れた工場に姿はいない。
そんな行動など意味など無いというように、声の主は再度疑問を投げかけた。
『助ケテ、欲シイカ?』
もう一度、同じ言葉をかけられる。
その言葉は、この状況を打破することが出来るのだと、直感的に少女は理解する。
だからこそ、少女は絶叫する。
―お願い!あたしを助けて!この人達をどうにかして!
少女は声の主にすがる思いで、悲痛な叫び声を上げる。
それを聞いた途端、声の主はクツクツと嗤いながらまるで試すような問いを発する。
『ナラバ、私ニソノ身を与エヨ。
サスレバ、ソノ者達ヲドウニデモデキヨウゾ』
一瞬だが、警鐘が少女の頭の芯を鳴らす。だが、それは目の前で下卑た笑みを浮かべる青年達を見てかき消えた。
迷うことなく、少女は声の主に向かってはっきりと答えを下す。
―いいわ。
刹那、少女の身体を押さえつけていた男達が、不可思議な何かによってはじき飛ばされた。
「やはり、覚醒したか」
目の前で膝をつき、頭を垂れる者達の姿を見つめた後、側にあった巨大な水晶球から離れた男は、このことを予見していたこのように言葉を放った。
ゆったりとした歩調で歩きつつ、男はふと思い立ったように疑問を口にする。
「羅刹天はどうした」
「
「彼奴に期待した我らが愚かでございました」
静かに言葉を放ったのは、漆黒の髪を瞳を持った男性であり、その後に続いて言葉を発したのは赤銅色の髪と赤みがかった瞳を持つ偉丈夫だ。
苛立たしさを隠すことのない赤銅色の男性の雰囲気に、僅かに男は苦笑を見せる。
「期待なぞ初めからしてはいなかったが、こうも呆気ないとはな」
「恐れながら、羅刹天程度では覚醒した沙羯羅龍王に勝機は無かったと」
「そうであろうな。少々買い被っておった、と、言いたい訳か、毘沙門天」
「恐れながら、奴は修羅界でも下位の神族。我らが捕縛していたものの中でもそれほどの神力はなかったかと」
「なるほどな。
まぁよい。下がれ」
命令を下すことになれきった声に従い、男達は深々と頭を垂れた後その場を後にした。
カツンカツンと、静かな廊下に靴音を響かせながら、群青色の髪を持つ男性が深々としたため息をつく。
「さすが、と評すべきかな。あぁもあっさりと羅刹天を倒すとは」
「何を悠長なことを言っておるのだ、持国天!」
「落ち着け、増長天」
噛みつきそうな勢いでくってかかる赤銅色の髪を持つ増長天の姿に、白銀の髪をした男性が宥めるような視線を送る。
それに気付き、増長天は苦々しげな表情で口をつぐんだ。
「まだ覚醒して日が過ぎておらぬ。奴程度の力の持ち主だ、いっそ阿修羅王から引き離してしまい、我ら側に手名付けてしまってはどうだ」
「馬鹿も休み休み言え、広目天!」
一瞬呆気にとられた増長天だが、怒りの眼差しで広目天をにらみ据えた。
この四人の中で、最も血気盛んな神は増長天だ。その感情は、この天界を守るためのものであり、それ故に忠義心も最も強いと言っても良いだろう。
その感情を爆発させ、増長天は更に広目天に詰め寄った。
「奴らは邪神ぞ!たとえ記憶が戻らずとも、その存在自体が我らに徒なす者だ!」
「少しは落ち着いたらどうだ、増長天」
淡々とした口調をあげた青年の背中を見、増長天はそれ以上の言葉を放つのは止めてしまう。
この事態に対して、苛立ちや焦りを全く見せない青年へと、増長天は些か語気を鋭めにして言葉を放った。
「お主は何とも思わんのか、毘沙門天」
それに対し、青年、毘沙門天は小さく溜息をつき、背後の増長天へと視線を向ける。
ただそれだけの事だが、増長天は射すくめられたように唇を引き結んだ。
「あ奴らが覚醒するのは分かりきっていた事だ。だが、それに対して我らが心乱すような事があれば、他の者達にも伝播するぞ」
正論すぎる言葉は、他の三人を冷静にさせるのには十分すぎた。それを肌で確認し、毘沙門天は更に言を綴る。
「覚醒した以上は、そう簡単にあ奴らを殺す事は出来ん。
それに、忘れたか?覚者であった者、覚者としての兆しを見せていた者達でさえ、あの世界とともに奴らが信じた道に殉じたのだからな」
「邪悪の根源だと、言わぬのか?」
「さて、な」
皮肉げな増長天の言葉をあっさりと交わした毘沙門天に、他の三人は何とも言えない表情でその背中を見つめた。
今のところ、この件を知っているのは限られた神々だけだ。その中から彼らに匹敵するだけの力を持ち、更には事を拡大させないための最小限の指示を出さねばならないというのは、かなりの労力を要する事になる。
「人界に封じてあるアヤカシ共をぶつけるにしても、それらを上手く扱うもの、か」
「その大役、私に任せてはいただけませぬか」
急にかけられた声に、咄嗟に毘沙門天以外の三人が太刀の柄に手を伸ばした。
それを見てだろう。柱の影から小さな笑い声が上がる。
「摩利支天か」
冷え冷えとした毘沙門天の雰囲気を悟ったらしく、声をかけた人物はゆっくりと柱の間から姿を現す。
男とも女とも見分けのつかない体躯を持ち、美しい容姿に合わせるかのように緩く唇に弧を描いた摩利支天の姿に、広目天は小さく嘆息した。
「相も変わらず、掴みにくい気配を持っているな」
「……お主が人界に行くというのか?」
まるで何事もなかったかのように、冷静なままで毘沙門天は尋ねる。
その疑問に、まるで当然の事のように摩利支天は口の端に侮蔑の笑みを刻んだ。
「ここ久しく戦もありませぬから、それを知らぬ者達には少々荷が重いのではないでしょうか。
それに、私の神力を使えば事は簡単に運び、絶好の機会になるかと」
「あまりあ奴らを見くびるな。相手は沙羯羅王と阿修羅王なのだからな」
「分かっております。ですので、私も少々策をひねりまして」
「策、だと」
「えぇ。人界にて封じられたヤカシを使おうかと」
「それだけか?」
毘沙門天の問いに、摩利支天は先程とは違った笑みを表情に表す。
にたり、と言う表情が摩利支天の面に現れる。自分の勝利を確信しているその笑みに、毘沙門天は冷ややかな声をかけた。
「あ奴らの首、必ず持ち帰るのだな」
「御意」
「面白い。ならばお主が人界へと赴くがいい」
「有り難き幸せ」
妖艶な微笑みを浮かべ、摩利支天は軽く頭を下げてその場を後にする。
残った四天王のうち、増長天と広目天はその背中を見送りながらも、苦々しい表情で毘沙門天に向けて口を開いた。
「よいのか?」
「あやつ程度で手間取るようでは、これから先の戦いは我らの勝ちとなるだろうな」
そう嘯いた毘沙門天に、持国天達は何とも言えない表情で摩利支天の背中を見つめていた。
ずちゃ、という気味の悪い感触と顔にかかった生ぬるい液体。
その感覚に、少女は夢から現実へと意識を取り戻した。
「え?」
目の前には、苦悶の表情を浮かべていた男の一人が、胸を押さえたままゆっくりと後ろに倒れていく。
「え…なに……」
何が起きたか分からない少女は、自分の腕が濡れている事に気付き、慌ててそれを目の前に差し出す。
肘まで朱色に染まり、身体中のあちこちに返り血を浴びている事に気付き、胃の腑からせり上がってきた吐き気に少女は身体を折り曲げてそれらを吐き出した。
理性など、とっくに失われている。ただ分かるのは、自分をこの場所に連れ込んだ男達が、あたりに血の池を作って倒れているだけだ。
「あ……うっ……」
意味のない呻き声を上げ、少女は自分が殺したであろう男達の姿に、何度も頭を横に振り現実を否定しようとする。
『何ヲ恐レル?コレハオ前ガ願イ、ソシテオ前ガ望ンダ事ダロウ』
「違う!助けてくれって言ったけど、こんな事望んだわけじゃない!」
少女は姿の見えない相手に向かって怒鳴りつける。だが、その様子をクツクツと嗤い声をあげて、それは言を綴った。
『さて、それはどうかな』
侮蔑と嘲笑のこもったその声に、少女は半狂乱で頭を横に振る。
自分の身体を見れば、この男達を殺したのは間違えなく自分自身が行ったことだと理解できる。だが、それでも、殺人を行ったという実感が全くないのだ。泣きながらそれを否定しようとする中、ふと自分以外の誰も居ない事に気付く。
「どこに居るの!姿を見せてよ!」
涙で顔をぐちゃぐたにし、そう叫んだ少女の頭に、ふと自分以外の誰かはその場にいるというのにその存在感がないことに気がつく。
いったいどこに、と辺りを見回しても、それらしき影は全くない。ぞっとするような空気の中で、少女の頭に直接声がかけられた。
『ここだよ、ここ……お前の中だよ』
少女のか頭が一瞬真っ白になり、ついで驚愕したように身体を強ばらせた。
確かに、今生きているのは自分だけだ。それに、自分の頭だけに響く声は、この薄暗い倉庫の中で反響する事はない。
震える身体で、少女は抑揚のない声を上げた。
「あなた、誰?」
『私か?そうさな教えてやっても良い。なにせ我々は一心同体と言っても良いからな』
尊大な態度は、聞くものを苛つかせる。だが、今の少女にとっては、そんな些末事項に思考を奪われてはいけないのだ。
『我が名は摩利支天』
そう名乗った声の主、摩利支天の名は、少女の頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。
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